カゲロウの、ショクジ風景。

この店、で、料理、ガ、食べてみたいナ!
と、その程度、に、思っていただければ・・・。

クレメンティア

2012年03月28日 | 京都
「謎かけ、そして・・・すべて正解。」

仄かに誠実さ漂うように感じられるこの料理、その雰囲気が何なのか、それを漠然と考えてみると、それは、その風味が仄かに内包する野趣にあるのではないか、漠然とそう思えてくる。

良くも悪くも大雑把であるとか、大味であるとか、決してそういう類の素朴な料理ではない、それどころか並以上に繊細で丁寧なのは一見して明らかで、味わってみて、尚、納得する、そんな料理であるものの、しかしそれでも野趣と言っていい趣が、そこはかとなくそこに存在するように感じられる、それがこのクレメンティアの料理なのである。

三種が並べられた前菜の器には、それぞれに風味の違ったソースが添えられていて、しかしそれらは混ざり合わず、何なら自由な組み合わせで食べてみてくださいと、挑発的にナイフとフォークを持つ者を誘うかのようですらある。
そしてその謎かけのような提案に、ただ全面的に従わされている、それだけのことなのか、それはむしろ自発的興味によるものなのか、自分でもそこのところの区別がつかないままに、それぞれの組み合わせを試さずにはいられない。

シェフの意図と食べる者の興味、その戦いの様相さえ見せ始めるその一皿を尻目に、そんなことは素知らぬ振りで黙々と調理を続けるシェフとそのサポートは、席を空ける間もなく次なる挑発に取り掛かろうと、その準備に忙しい、そのようである。

そしてやはり、その前菜と称する料理たちというのは、待ち構え、期待した通りに、それぞれの風味が化学反応を起こし、単純に六種類の風味が組み合わさった、ただそれだけとは言い難い、ありきたりでない未知の風味を口中にて現出させる、そんな魔術的システムが、その料理には仕組まれている。
つまり、結局、その謎かけというのは、全ての組み合わせが正解でしかない、そういうことなのだ。
鶏には鶏の、魚には魚の、仄かに癖のある風味が相殺し合うことなく存在し、しかし何か、単体ではあり得ない別の高みにある風味、そのようなものを目指している、そんな感覚がそこには在る。

これまさにシェフの思うがまま、ただひたすら食べるだけ、そのような立場の者による認識可能な味覚の幅など、所詮、その掌の上でしかない。

次に供されるのは、粗く濾されたスープではあるが、それは無論意図的なものであって、そうすることで得られるメリットをあえてひとつ言うのであれば、ラジカル過ぎる観点ではあるものの、先ずは食べ応えというものが失われることがない、それもひとつの野趣であろうと、スプーンを持つ者に感じさせる。

そして生パスタの麺は、これもまた、他にはない食感を確実に宿していて、太く、縮れて、噛み応えはあるのだけれど、粘り気はなく、噛み切り難いというようなネガティブな感覚を咀嚼する者に抱かせることは先ずない。
何しろ他にない食感だけに、何かと比較できないのがもどかしいのではあるが、癖のある香りの強いチーズと、生に近い玉子の質感が独特の麺に絡まるこのカルボナーラというのは、一体どのような計算から割り出された組み合わせであるのだろうか、それもまた謎である。
しかし無論、この料理においても、出された答えは正解でしかない。

そのようにして、往々に言われるように、これらの料理は、足し算を優に超えた掛け算的効果を充分に発揮した逸品であるのは勿論なのだが、だがしかし、ただひたすらにそればかりの可能性を追い掛けるというのではなく、前菜の内の一品に仄かに感じた、単純な焼き魚の雰囲気というものは、和のテイストをも感じさせる、むしろ引き算的な美味しさであったようにそこはかとなく思え、終わりのない奥の深さを窺わせるこれらの料理、その可能性に対する期待というものが、後日、再び、我々を、このクレメンティアという店へと誘うことになる、そういうことなのだろう。

クレメンティアイタリアン / 丸太町駅(京都市営)烏丸御池駅京都市役所前駅
昼総合点★★★★ 4.5



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