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『人類の歴史を変えた8つのできごとⅡ』

民主主義・報道機関・産業革命・原子爆弾編

戦争技術の進化と原爆投下(1945年)

投下された原爆

第二次世界大戦の終結直前。一九四五年八月六日、広島。同九日、長崎。

アメリカ軍の投下した原子力爆弾が炸裂し、街が一瞬にして廃墟と化しました。

広島では、同じ年の一二月までに約一四万人ともいわれる人命が失われ、その後も多くの人が重い火傷や放射線障害に苦しみます。都市は破壊しつくされ、生活基盤を失った多数の人々は、日々の暮らしをつづけることにも困難をきたすようになりました。長崎も同様です。この様子を見た世界は、驚愕します。たった一発の原爆がひとつの都市を壊滅させることができるなら、原爆をたくさん持った国は、それらを使うだけで敵国を簡単に滅ぼせるではないか、と。ここにおいて、戦争に対する人々の見方が大きく変わっていったのです。

アメリカやソ連といった超大国も、危機感を持ったことではいっしょです。

第二次世界大戦が終わり、資本主義陣営と社会主義陣営の対立が表面化するようになると、両者はお互いを敵視するようになり、軍備競争が始まりました。

その中では、原爆の製造や、原爆を相手国に落とすための爆撃機やミサイル、敵国の近海で息を潜め、必要があれば相手国に核ミサイルを発射する潜水艦、といった兵器の開発にも拍車がかかります。さらに、核分裂を利用した原爆だけでなく、核融合を利用した水素爆弾という、より破壊力の大きな新型爆弾も開発されました。

そして最盛期には、米ソとも数万発ずつという大量の核戦力を持つまでになっています。二〇〇九年の数字で見ても、アメリカは五一一三発の、ソ連の核兵力を引き継いだロシアは三九〇九発の核弾頭を保有しています。

それだけではありません。アメリカをはじめとする大国は、今も巨額の国家予算を注ぎ込み、新たな兵器の開発に余念がないのです。そこではつねに、発明されたばかりの科学技術が投入され、より強力で、より効果の高い兵器が次々に生み出されています。

人類は、自らを滅ぼし尽くせるほどの核兵器を保有するだけでは飽きたらず、休むことなく最新兵器の開発をつづけているのです。

先史時代の戦争

核兵器をめぐる問題点などについては、本章の終盤でふたたび説明します。そこにいたる777前に、まずは人類の歴史をさかのぼり、戦争手法の変遷などについて見ていきましょう。

人類と戦争とは、その歴史の黎明期からすでに不可分の関係にありました。

たとえば、スペインにあるモレリヤ・ラ・ビリャ遺跡と呼ばれる、約一万二〇〇〇年前のものとされる先史時代の遺跡からは、戦争の情景を描いたと見られる壁画が発見されています。そこには、弓矢を持った三四人の兵士たちの戦う様子が描かれています。

第四章で、紀元前二万年くらいの時点で弓矢が登場していたことを紹介しました(一一五ページ参照)。当初、この弓矢は、狩猟用に使われていましたが、しだいに人間に対しても向けられるようになっていったのです。

さらに、戦争の被害を物語る遺物も発見されています。

スウェーデン南部にあるスケートホルム遺跡という紀元前五五〇〇年頃の遺跡で見つかった人骨が、その例です。そこでは、発見された人骨のうち、約五分の一に大きな損傷が発見されています。さらに、見つかった人骨の多くが男性のもので、とくにその頭部や腕の左側に激しい損傷があることもわかりました。おそらく彼らは、戦いの最中に、敵が右手でつかんだ棍棒などでたたかれ、命を失ったのでしょう(「気候文明史」)。

人類は、弓矢以外の兵器も、かなり早い時点から開発をしています。

たとえばそのひとつが、「アトラトゥル」と呼ばれる道具です。これは、矢や槍の後ろの部分をひっかける鉤状の突起をつけた、長さ七、八〇センチメートル程度の棒にすぎません。しかし、これを使って矢(この場合のものは通常の矢の二倍ほどの長さがありました)や槍を投げると、発射速度が大幅に増すので、狩猟の際にはとても強力な武器になりました。

発見された中で最古のアトラトゥルは、動物の枝角を使った紀元前一万五五〇〇年前後のものですが、その何千年も前から使われていたと見られています。世界各地の遺跡から発見されているので、その有用性は高かったのでしょう。

このアトラトゥルは、人間同士の戦いでも使われています。たとえば、時代が下った一六世紀中米のアステカ帝国と南米のインカ帝国を攻撃したスペインの兵士たちが、アトラトルで投げた矢によって、甲冑もろとも串刺しにされたケースが報告されています。

紀元前一万年頃になると、「携帯用投石機」(投石ひも)も発明されます。

原理はとても単純で、長いひもの真ん中に石をくるむ部分があります。兵士はそこに石をくるみ、片手でひもの両端を持ちます。そして腕を振り回し、タイミングを見て、ひもの片方を離すのです。熟練者なら、この方法を使って、石を四〇〇メートル以上も飛ばせたといいます。弓矢同様、当初は獲物を倒すために使われた、と考えられていますが、その後、敵を倒すためにも用いられるようになりました。

ちなみに石は、とても大きな殺傷力を持っています。そのため、のちの時代になっても主要な武器のひとつとして活用されています。

たとえば日本の戦国時代の記録にも、兵士たちが、戦闘のはじめに大量の石つぶてを投げ、敵方に混乱を引き起こしていたことが書かれています。また歴史研究者の鈴木眞哉氏によれば、戦国時代の戦いにおける負傷者一五七八人について、その負傷の原因を調べたところ、弓や鉄砲、石つぶてなど、広い意味での「飛び道具」によるものが、全体の七二パーセント以上だったといいます。さらに鈴木氏は、石つぶてによる負傷者の方が、刀で負傷した人よりはるかに多かったこと、も述べています(『戦国15大合戦の真相』)。

戦国時代の戦争を描いた映画やテレビドラマでは、よく斬り合いの場面が登場します。しかし実際には、そうした戦い方をする場面は意外と少なかったのです。戦国時代の兵士たちにとっても、敵と相対して斬り合うような戦いには、やはりひるむものがあったのでしょう。

より大規模化する戦争

人類が、一か所に住み続ける「定住」を始めたのは、紀元前一万二〇〇〇年前後のことだとされています。その後、こうした集団の規模は拡大していきます。

それは戦争を通じてのこともあったでしょうし、経済的な利益を求めてということもあったでしょう。紀元前三五〇〇年前後には、メソポタミアのウルクに都市文明が誕生します。それを契機として、各地に都市国家が生まれていきました。この過程で、人類の集団間で、戦争という事態が引き起こされるようになったのです。

初期の戦争は、たいがい近隣の部族同士で散発的におこなわれていたものでした。多くの場合、その規模も数人から数十人程度のものです。しかし各地に都市国家が誕生すると、戦争の規模や性質も変わっていきます。王族や官僚、司祭といった階級の人間たちが生まれる一方で、戦争をするための「戦士階級」が誕生したからです。

そこから、戦争はより大規模なものとなり、その手法もしだいに、より巧妙でより効果的なものへと変わっていきます。

この過程で、自軍の被害をできるだけ少なくし、敵軍の被害をできるだけ大きくすることで、敵方の戦意をくじく方法も編み出されていきます。それが、戦争の大方針を決める「戦略」であり、各局面での戦い方を決定する「戦術」です。

そうした戦略・戦術は、古代の時点ですでにかなり進歩したものとなっていました。中国には、後漢末(西暦では二世紀末)以降の混乱期における戦いを描いた『三国志演義』という有名な物語があります。そこでは、張飛や関羽、趙雲といった猛将が縦横無尽の活躍をし、ときにひとりで大軍の中に切り込んで相手の大将を討ち取ったり、ときにひとりが橋のたもとに立ちはだかって敵の軍勢を追い返したり、といった様子が描かれています。

しかし実際には、こうしたことはあり得ません。

『三国志演義』は、のちの時代になって、街角でおもしろおかしく話を聞かせる「講談」のために書かれた物語です。そこにはかなりの誇張があります。

実際にはその当時においても、戦争における戦闘法はかなり確立され、ひとりの兵士にできることはかぎられていました。どんなに勇猛な武将がいたとしても、ひとりで突撃すれば、弓矢、投げ槍、石つぶてなどを当てられ、敵に近づく前に倒されてしまったはずです。

ここからは、そうした戦争の手法について見ていきます。

具体的には、ヨーロッパ地域などを中心に、古代以降、少しずつ変化していった戦闘の仕方や兵器、戦略・戦術などについて紹介していきましょう。

勝敗が決まる状況

近世以前、戦場での勝ち負けが決まる状況は、ある面で似た要素がありました。それは、戦いの最中に戦場のどこかで、一方の側の兵士たちが劣勢となり、彼らが恐怖心に駆られて逃げ始めると、それが勝敗を分けるきっかけになる、ということです。

戦場の中のある場所で、一方の側の兵士たちが逃げ始めたとしましょう。すると、その近くにいた味方の兵士たちは、いっしょに戦っていた仲間が逃げ出し、自分たちの側面が無防備になったことに恐怖を感じます。そこでついには、彼らも逃げ出すことになるのです。

新たな援軍が来たり、別の場所で相手側が劣勢となったために目前の敵兵が逃げ出したり、といったことが起きないかぎり、この恐怖心は伝染し、ついには一方の側の全軍が逃げ始めます。そのとき、少しでも速く逃げなければ、敵に殺されてしまいますから、逃げる方は必死です。こうして一部が崩れ出した側は、瞬く間に全軍が崩れていくのです。

一方、追う側にとっては、敵が逃げているときほど戦果を上げやすいときはありません。相手が自分に背を向けて逃げていれば、これを倒すのは簡単です。

そのため、火砲が多く使われていなかった近世以前の戦争では、一方が逃げて隊列が崩れたときに、多くの犠牲者が出ることが一般的でした。逆に言えば、お互いが正面から互角に戦っているときには、そこまでの犠牲者は出ないのです。

いにしえの戦略家たちも、このことをきちんと理解していて、相手の弱点を見つけてそこをつき、相手軍の隊列を崩れさせるべく、戦い方を考えることが通常でした。

歩兵同士の戦い

古代における戦争の主役は、なんといっても歩兵です。

そこでは、敵と斬り合う白兵戦を演じる「急襲部隊」と、弓矢や投げ槍などを使って敵を倒す「投擲兵器部隊」がいました。

そして紀元前三〇〇〇年頃の段階では、メソポタミアの都市国家において、急襲部隊の兵士たちが、「ファランクス」と呼ばれる密集隊形を取りながら戦っていたこと、もわかっています。

彼らは、槍や盾を持ち、会戦においては、隣の兵士と文字通り肘や肩が触れるくらいの距離を保ちながら進みました。このとき隊列は、左右に広がるだけでなく、前後に何層もの厚みを持っています。そして、前方の兵士たちが「盾の壁」をつくりながら、ときには走り、ときにはゆっくり歩きながら、敵軍の部隊とぶつかったのです。

彼らは、盾の壁のすき間から槍や剣を突き出し、相手を攻撃します。

その際、相手の頭蓋骨をたたき割るために、斧が使われることもありました。急襲部隊の兵士たちは、初期の頃は青銅製の、後には鉄製の兜をかぶり、頭部を保護していました。彼らが、最初から鎧を着ていたかどうかはわかっていません。しかし、紀元前二五〇〇年前後の遺跡からは、青銅製の鎧が見つかっていますから、おそらくこの時期になると、鎧を着用する兵士も多くなっていたと思われます。

一方、投擲兵器部隊のほうは、より身軽な装備です。決戦の際に相手に打撃を与えるだけでなく、事前の偵察任務などもこなしていた、とされています。

彼らの戦いは、たとえば次のようなものです。

広い平原で、A国、B国、両国の急襲部隊が、前後左右に広がるファランクスの隊形を取りながら、少しずつ進んでいきます。

両国の投擲兵器部隊は、後方から、敵の急襲部隊に向けて大量の弓矢を浴びせかけます。しかしどちらのファランクスも、盾で壁をつくり、飛んでくる矢を跳ね返します。ときには矢に当たって倒れる兵士もいますが、ほかの兵士たちはそれを乗り越え、前進していきます。そしてついに、両軍の急襲部隊がぶつかります。しかし最初は、相互が入り乱れて戦う乱戦にはなりません。ファランクスの最前列の兵士同士が、盾をぶつけ合い、押し合いながら、盾のすき間から槍などを繰り出し、相手の兵士を倒そうとするからです。二列目以降の兵士たちも、槍を伸ばして攻撃に加わります。

その中で、戦況が一挙に動く事態が生じました。

A国の部隊の激しい攻撃によって、B国のファランクスの一部が崩れたのです。

そこでは、抵抗するB国の兵士の頭部をA国の兵士が斧で殴りつけたり、逃げようとするB国兵をA国兵が剣で刺したり、といった光景があちこちで繰り広げられています。

勢いに乗ったA国の部隊は、B国のファランクスが崩れた地点から、B国部隊の中へと殺到します。そうなると、B国の兵士たちの間に恐怖が広がります。「この戦いは負けるだろう」「早く逃げないと自分だけ置いていかれる」。そう感じたB国部隊の兵士たちは、つぎつぎに逃げ始めたのです。味方が逃げ始めたB国部隊では、隊列が急速に崩れていきます。すべての兵士がわれ先にと逃げ出すようになるまでに、長い時間はかかりませんでした。

そこからは、A国の兵士による「掃討戦」が始まります。戦意を失ったB国の兵士たちは、逃げる途中でつぎつぎに倒され、生きて戦場を離れられた者はわずかでした。

こうしたファランクスを活用した歩兵戦は、三〇〇〇年以上もの間、陸上における戦争の主要形態でした。紀元前四世紀に活躍したマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢も、その後、ヨーロッパ主要部を支配したローマ帝国の軍隊も、その例に漏れません。

使う武器は少しずつ改良され、個々の戦場における戦術は徐々に変わっていきましたが、ファランクスを基本とする急襲部隊を陸上戦力の中心としたこと、では変わりませんでした。ローマ帝国の軍隊が強かった背景には、さまざまな要素がありますが、そのひとつに、兵士たちがファランクスの隊列を乱さないよう、厳しい訓練を重ねたことが挙げられます。どんなに強力な敵軍が攻めてきても、けっして逃げ出さない。どんなときでも盾の壁を保ち、そのすき間から、槍を突き出して相手を刺したり、剣で敵の足を切り払ったりしつづける。そして敵軍が、耐えきれなくなって崩れ出すまで、同じ攻撃を継続する。

ローマ軍は、それを可能にするための技能と精神力を養うべく、日頃から兵士たちに厳しい訓練を課していたのです。

馬を戦場で使おう、という動きも早くから始まります。

記録によれば、その最初の形態は、馬に乗るのではなく、「戦車」を引かせるというものでした。紀元前二五〇〇年前後のシュメールの遺跡からは、この戦車を描いた絵が見つかっています。

当時の戦車は、現在のものとは違い、前面に敵の攻撃から身を守るための板を張った四輪または二輪の簡易な車両です。初期の戦車は、ウマ科のロバなどに引かせていました。

しかし紀元前二〇〇〇年以降、現在のトルコに当たる地域に野生の馬が戻ってくると、その飼育と活用が始まります。そして、戦車の引き手として、より調教しやすい馬が重用されるようになったのです。この時期の戦車は、二名の兵士が立って乗ることが一般的で、最高時速一五~二〇キロメートルほどで走ることができました。

ただしその程度では、全速力で走る人間にも及ばす、初期の戦車は小回りもききませんで

した。このため、その威力は限定的だったと考えられています。

その後、戦車は何度も改良を加えられ、軽量化と機動性の向上がはかられます。

戦車は、紀元前二〇〇〇年前後~同一〇〇〇年頃の時点で、ヨーロッパから中近東、北アフリカ、中央アジア、中国にいたる広い地域で使われるようになりました。

紀元前一〇〇〇年くらいになると、戦車部隊にかわって、より機動性の高い騎兵部隊が活躍するようになります。そこでは兵士たちが、馬に乗ったまま弓矢を放ったりすることで、敵に損害を与えるようになったのです。

これを見ると、人類は、戦争において馬を、乗る対象としてではなく戦車の引き手として、より早く使ったことがわかります。

それは当時、乗馬しながらの戦いがむずかしかったこと、が大きな理由です。

この時期、木の枠を使った鞍や、足をかけの鎧はまだ発明されていません。

鞍が発明されるのは紀元前二世紀から同一世紀くらいのこと。

鎧が発明されたのは、さらにあとのことです。ヨーロッパで、鐙が広く使われるようになったのは、中世に入ってからだといわれています。

それまでの時期、人は、裸馬か布を置いただけの馬の背に飛び乗らなければなりませんでした。さらに落馬しないよう、乗っている間中、馬の胴体を自分の太ももでぎゅっと締めつけつづける必要もあります。

この時期、乗馬に使われていた馬は、現在のサラブレッドなどとは比較にならないほど小さなものでした。しかしそれでも、馬上で戦うのはなかなかむずかしいことだったのです。

攻城兵器の開発

ヨーロッパや中国の古い都市を訪れたことのある人は、都市のまわりに堅固な城壁が築かれていることに気づくかもしれません。

ヨーロッパや中近東、中国などでは、伝統的に都市の周囲を高く頑丈な壁で囲んできました。人々は、頻繁に襲ってくる外敵から身を守るため、都市そのものに、城や要塞としての機能を持たせたのです。日本の戦国時代の城が、多くの場合、比較的狭い範囲だけを城壁で囲んでいたのとは対照的です。

都市をめぐる戦争では、攻撃側と守備側の間で、激しい攻防戦が繰り広げられました。

その中では、「攻城兵器」と呼ばれる当時の最新型の兵器も使われています。たとえば、紀元前一二世紀から同七世紀まで中近東を支配したアッシリア人たちは、「攻域塔」や「破城槌」といった攻城兵器を使っていたことが知られています。

前者は、下に車輪がついた可動式の高いやぐらで、上から弓矢を射かけたり、城壁を乗り越えたりするのに使われました。

後者は獣皮などで周囲を被った木製の台車に、先端を強化した太く長い木の棒の一端を固定したもので、木の棒を上から斜め下に打ち下ろすようにして、敵の城壁を壊しました。

さらに、てこの原理と綱などの弾力を利用することで、大きな石を遠方まで飛ばす仕掛け方式の「投石機」も、さまざまな種類のものが開発されています。こうした攻城兵器の多くは、古代のギリシャ・ローマ時代、その後の中世でもひきつづき使われました。

攻城塔や破城槌などの攻城兵器の開発は、現在の兵器開発競争とも重なって見えます。

古代以降の攻城兵器は、当時の最新技術を駆使してつくられました。

それと同様に、現代でも各国は、膨大な軍事予算を注ぎ込み、新兵器の開発に取り組んでいます。たとえば、第四章でも触れたとおり、コンピュータやGPS、インターネットなどは、アメリカの軍事研究から生まれた技術です。

人間はいつの時代も、自分たちの最新テクノロジーを注ぎ込んで兵器の開発を進めたがる生き物なのかもしれません。
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『人類の歴史を変えた8つのできごとⅠ』

 209シン『人類の歴史を変えた8つのできごとⅠ』言語・宗教・農耕・お金編

人間の心の奥深くに入り込んだ宗教

私たち日本人の多くは、ふだん宗教というものを意識せずに暮らしています。

宗教や宗教行事が身近だという家庭に育った人であれば違いますが、そうでなければ日常生活の中で宗教を強く感じる機会などあまりない、という人もたくさんいるでしょう。

しかしほとんどの人は、結婚や葬儀の際には、なんらかの宗教・宗派にのっとって式をおこないます。また人生の中で、試練を迎えたり、重大な決断に迫られたりしたとき、自分の幸運を祈る人も多いでしょう。

それらは、まさに私たちが、自分よりも大きな存在がどこかにいて、その存在がこの世界や自分の命運になんらかの影響力を持っている、と心の中で感じているからです。

私たちのこうしたあり方は、そのまま宗教につながっているといってもよいでしょう。さらに海外を見渡せば、宗教が社会的に大きな影響力を持っている地域が多数ありますたとえばイスラム諸国では、程度の差はありますが、イスラムの教々の生活の柱となり、ときにそれが国家を超える力を持つ場合もあります。

あるいはアメリカでは、国内にとても保守的なキリスト教徒がたくさんいて、彼らの政治力によって、学校で「進化論」の正当性を教えることができない地域もあるほどです。そうしたところでは、『旧約聖書』の「創世記」に書かれた生命と人類の誕生に関する記述は正しいものだ、とする教育が現在でもおこなわれています。

宗教は、二一世紀の今日でもなお、私たち人間の心の奥深くに入り込み、その行動や考え方に大きな影響を与えるだけの力を持っているのです。

宗教が芽生えたネアンデルタール人

人類の社会で、宗教に通じる現象が見られるようになったのは、私たち現生人類(ホモ・サピエンス)ではなく、その親戚ともいえるネアンデルタール人の時代にまでさかのぼることができます。

彼らが暮らしていた遺跡は、西アジアからヨーロッパ最西端にいたる広範囲の地域で見つかっています。そしてこうしたところでは、葬られたと見られる遺体がいくつも見つかっているのです。そこでは、体を伸ばして寝ているように葬られた「伸葬」と、体をかがめた姿勢で葬られている「屈葬」という、二種類の埋葬の仕方が見られます。

伸葬の例としては、男女の大人二名、子ども四名の合計六名の遺体が、東西の方向にならんで葬られていたケースが報告されています。一方、屈葬の例としては、一七歳前後と思われる青年の遺体が見つかっています。その青年の遺体は、ひざを額にくっつけ、手で顔をおおいながら、右脇を下にした姿勢で横向きにされていました。

どちらの場合も、周囲に石器や動物の骨などがあり、これらは遺体の副葬品だったのではないかと見られています。

ここで注目されるのは、ネアンデルタール人たちが、仲間などの死に際して、遺体をそのままにしなかったことです。六名の遺体が並べられていた方角が、日の出と日没との関連から東西に決まったのかどうかはわかりません。また、屈葬という埋葬法がおこなわれた理由が、生まれる前の胎児をイメージしたからなのか、あるいはこの青年の祟りのようなものを怖れたからなのか、などについてもはっきりしたことはいえません。

しかし彼らが、人間は死ねばすべて終わりになるとは考えず、死んだ後もなんらかの働きをしつづける、と考えていたことは間違いないでしょう。

また、六万年ほど前のネアンデルタール人の遺跡では、遺骨のあったところの土の中から、八種類の花粉が高密度で発見されています。彼らが花束をつくり、遺体とともに埋葬した可能性が高い、と考えられています。死者を悼む彼らの思いが伝わってきそうです。

これらの現象は、人類の宗教の黎明期ともいえる時期に、彼らが抱いた素朴かつ根源的な思いを表現する原始的な宗教行為だった、といってもよいように思えます。

クロマニヨン人の宗教

ネアンデルタール人が繁栄を謳歌していた時期、私たちに直接つながる現生人類、ホモ・サピエンスがしだいに勢力を伸ばし始めます。

もちろん彼らも、宗教行為に類することをおこなっていました。一万~四万年ほど前のヨーロッパで生きていた「クロマニヨン人」と呼ばれるホモ・サピエンスの墓地遺跡からは、赤く色を塗った遺骨や赤い土などが出てくるときがあります。これは、死者の埋葬時に、遺体の上に赤粘土をかけたためではないかと考えられています。さらに彼らの遺跡からは、円形に並べた小石の上に置かれた複数の頭蓋骨も見つかっています。これらの頭蓋骨が、敬愛する先祖のものなのか、強かった敵のものなのか、それとも神への犠牲なのか、その詳細はわかりません。ただ、遺体から頭部を切り取り、それらを円状に並べたという行為には、なんらかの宗教的な意味合いがあったはずです。

またクロマニヨン人たちは、女性をかたどった石灰石の彫像をいくつも残しています。たとえば、オーストリアで見つかった「ヴィレンドルフのヴィーナス」と呼ばれる一〇センチほどの彫像は、目鼻や手足などが省略されている一方で、胸やお腹、お尻などがとても誇張されていて、妊婦を表現していたのではないか、と考えられています。

こうした母親像は、ほかにもたくさん見つかっています。

彼らが母親像を彫った目的もはっきりしていませんが、彼らが生命の誕生という神秘に心を打たれ、そこに自分たちの家族や仲間の繁栄を願う気持ちをかけたのかもしれません。クロマニヨン人はまた、動物などを題材とした壁画も描いています。

南フランスから北スペインにかけての地

域で、七〇ほどの洞窟の遺跡から、一万~二万八〇〇〇年ほど前に描かれたと見られる壁画が見つかっています。その代表が、有名な「ラスコーの壁画」や「アルタミラの壁画」です。

これらの壁画は、クロマニヨン人がすみかとしていた洞窟の壁に描かれました。しかしその場所は、入り口近くの明るい場所ではなく、洞窟の奥深く、穴をくぐり、狭い道を通り抜けていった先、ということがほとんどです。彼らは、通るのもやっとという狭く真っ暗な道を、わずかな明かりだけを頼りに進み、その奥で壁画を描いたのです。

そのためこれらの壁画は、単にだれかの創作欲によって描かれた鑑賞用の絵ではない、と見られています。宗教的あるいは呪術的な意味があったのではないか、と研究者たちは考えているのです。

宗教はどのように誕生したのか

初期の宗教は、人類が、死や自然の驚異などと出会う中で少しずつ芽生えていきました。

その過程については、宗教民族学という分野から、いくつかの学説が出されています。

その一つめは、「アニミズム説」です。この説では、人間と死との出会いが大きな役割をはたしていたといいます。たとえば、つい先ほどまで元気にしていた仲間が、事故に遭って死んでしまうようなことは、彼らもしばしば経験していたはずです。このとき、元気だった仲間と、動かなくなった遺体とはなにが違うのか、彼らは疑問に思ったでしょう。そこから導き出されたのが、「生命の原理」であり、「魂」「精霊」という概念だったというのです。

そして彼らはしだいに、この魂・精霊は、人間だけではなく、動植物にも、あるいは生命のないものにも宿っている、と考えるようになります。そこから、「精霊崇拝」がおこなわれるようになり、やがて宗教が誕生したとするのが、このアニミズム説なのです。

二つめの説は、「プレアニミズム説」と呼ばれる、先ほどのアニミズム説を修正した学説です。それによれば、数万年前のいわゆる原始時代の人々が、家族や仲間の死というできごとに出会ったとき、精霊という人格的な存在を信じるようになるのではなく、自分たちには理解できない不可解な力が働いた、と感じるはずだというのです。

またこの説によれば、人間には、生きているものが霊魂を持つと考える前に、「もの自体が生きている」と感じる段階がある、ともいいます。要するに、当時の人々は、死などの現象に際して、人格のある精霊を考えるのではなく、不可解な力の存在を感じることで、そこから宗教が生まれたのではないかというのが、この説なのです。

三つめの説は、「原始一神教説」と呼ばれるものです。これは、アフリカや南アジア、北極圏などに住むいくつかの民族の文化を、発展段階の観点からもっとも原初的な「原文化圏」に属するとして、その宗教形態についての研究から打ち出された意見です。それによれば、彼らの文化圏では、世界と人間をつくり出した「至上神」が崇拝されており、人類の最初の宗教形態も、同じように至上神の崇拝から始まったのではないか、としています。ただしこの説には、異論もあります。世界と人間をつくり上げた存在を至上神と呼んでいるが、これはキリスト教の神である唯一神、絶対神の概念を、無理に当てはめたものだ。実際にはこの存在は、世界と人間を生み出した後、世界や人間たちに対してなにも影響を及ぼしていない。だから人々も、この存在に対して、祈ったり崇拝の儀式をおこなったりしないではないか。つまりこの存在は、至上神というよりも、世界が生み出された理由を説明するために考え出されたものにすぎない。そういう意見もあるのです。

宗教の起源については、これらのほかにも、前述の三つを統合した説、祖先崇拝説、自然崇拝説をはじめとする、さまざまな説が出されています。ただし、どれも一長一短があり、ひとつに確定することはなかなかむずかしい、といえるでしょう(『宗教学入門』)。

人間の「認知システム」が宗教を生む?

以上は伝統的な宗教学上の議論ですが、近年では、心理学や脳科学などを応用した認知科学の分野からも、意見が出されるようになってきました。たとえば、アメリカ・タフツ大学のダニエル・C.デネット教授は、人間の持ついくつかの「認知システム」が、宗教のようなものを生みだすきっかけになったのではないか、と述べています(『解明される宗教』)。

それによれば多くの生物は、なにかが動いたときに、それが生物によるものなのか、そうでないのかを識別する本能があるといいます。これによって、食料となる獲物を見つけたり、自分に襲いかかろうとしている生き物の存在を察知したりすることができるからです。人間

も同様です。デネット教授らは、これを「行為主体探知システム」と呼んでいます。

さらにこのとき、多くの生物は、自分が存在を察知した相手が、これからどのように動くかを予想するといいます。そこでは多くの生物が、相手も、周囲の世界に対する知識を持ち、自分自身の欲求や目的を知り、その知識と欲求などを考慮して合理的な行動を取る存在だ、と見なしているというのです。こうした認知のあり方は、「指向的構え」と呼ばれています。さらに人間の場合、自分の直感に反するようなできごとを、よく記憶するという特徴もあります。その中でもとくに、自分たちが好むジャンルのできごとであれば、よりよく記憶されるといいます。これが「記憶管理システム」です。

では、こうした複数の認知システムが結びつくとどうなるでしょうか。それが「物語」あるいは「空想」「仮説」「虚構」の誕生だと、デネット教授らは説明しています。

フィクション

こんな例があります。宗教が生まれる前の時期、近くでがさっと物音がしたのを聞いた人間がいた、としましょう。彼は考えます。「そこにいるのは誰だ?」「たぶん友人のサムだ」「いや、オオカミだ」「いや違う、枝が落ちてきたのだ」「その枝は歩けるのかもしれない」

「そうだ。今の物音は、歩ける木が立てた音なのだろう」。

こうして、物音を聞いたことで始まった行為主体の探知という行為から、「歩ける木がいる」という仮説が生まれた可能性もあるのです。

おそらく太古の時代の人類は、こうした仮説を無数に生み出したことでしょう。もちろんこれらの空想や仮説のほとんどは、すぐに消えてしまいます。彼らのそれまでの経験や周囲の状況などと、あまりにも合致しないからです。しかし、生き残り、時間とともに強化される観念もあります。

デネット教授によれば、「ある日あることが、しかるべき瞬間にしかるべき鮮明さを備えて生じ、一回や二回だけではなく何度も繰り返される場合」(「解明される宗教」阿部文彦・訳)には、宗教の下地となる「観念」が生じる可能性がある、といいます。

さらにこれらの観念は、宗教の創始者の心の中に何度も生じることによって、「自己複製」する力を持つこともあるのです。自己複製を始めた観念のうちのあるものは、その後、個人の心を離れ、人間社会の中で少しずつ広がり始めます。そこから、人間を超越した宗教というものが始まっていったのかもしれない、というのがデネット教授らの説明です。

もちろんこれは、まだ研究途上の学説であり、正しい説だと言い切ることはできません。しかし、納得できる側面もあります。

いずれにしても、厳しい生存環境の中で、病気や事故、戦い、気候の悪化や食料の欠乏、

そして死といった現象に直面していた原始時代の人類が、宗教を生み出すことで、それを、自分や家族、自分の属する集団の幸せを願う心のよりどころにしたことは、間違いないでしょう。

宗教とはなにか

ここで、宗教とはどのようなものなのか、その定義についても見てみましょう。

これに関して、一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて活躍した人類学者のジェームズ・G.フレイザー卿は、宗教を「自然および人間生活のコースを左右し支配すると信じられている人間以上の力に対する融和・慰撫」(「宗教学入門」)だと述べています。

つまりこの世には、人間よりも大きな力があり、それが自然や人間の生活を司っている。宗教は、その大きな力に祈ったりすることで、自分たちに不幸がおよばず、幸せがもたらされるよう、働きかけることだ、というのです。

これは、ある意味で納得させられる定義かもしれません。

多くの宗教では、神や精霊などに対して、祈ったり、犠牲をささげたりすることなどで、自分や家族、自分たちの集団を守ってもらえるよう、願いをかけるからです。

しかし、世界の宗教のあり様はさまざまで、この定義に該当しない宗教もあります。

たとえばあとで紹介するように、釈尊が開いた初期の仏教は、修行などを通していわゆる「悟り」を得ることを目的としています。そこでは、「縁起」(すべてが原因と結果の鎖でつながっているという関係性)というものがこの世を形づくっており、人間の側から働きかけることで人間を守ってくれる人格的な力、などというものはいっさい認めません。さらに、世界をつくった「創造主」の存在も明確に否定しています。

このように、世界の宗教は多様です。ひとまずはフレイザー卿の定義を、おおまかには正しそうだ、とした上で、そこに当てはまらない宗教もある、と考えるのがよさそうです。

記録に残った最古の宗教

その概念や制度などが記録に残された最古の宗教は、シュメール人たちのものです。

シュメールを含むメソポタミアは、現在のイラクなどを流れるティグリス川、ユーフラテス川にはさまれた地域を指しています。そもそもメソポタミアという言葉は、「川の間の土「地」を意味しているのです。そして、メソポタミアの中の北部地域を「アッシリア」、南部地域を「バビロニア」と呼び、さらにバビロニアの中の北部を「アッカド」、南部を「シュメール」といいます。そのシュメールで、古代文明が花開いたのです。

バビロニアに人々が定住を開始したのは、紀元前五〇〇〇年頃。その周辺にあるザグロス山脈の山麓地域では、すでにその三〇〇〇年ほど前から、雨水を使った農業が始まっています。そして灌漑技術の普及とともに、バビロニアの乾燥地帯でも農耕がおこなわれるようになったのです。さらに、農耕が始まったことで、この地に人が住みつづけることができるようになりました。

この地域には最初、小規模の町や村を中心とした「ウバイド文化」といわれる素朴な文化が誕生します。紀元前四〇〇〇年前後のウバイド文化期後期には、大きな町も建設させるようになり、人々の経済活動や交易なども、しだいに活発になっていきました。

その後、紀元前三五〇〇年頃になると、のちにシュメール人と呼ばれるようになった人々が侵入し、本格的な都市を建設するようになります。中でもウルクという都市が中心的な役割をはたしていたので、この時期を「ウルク文化期」と呼んでいます。

ウルクを中心に文化が栄えていた時期、人々の間では、支配階級や専門職人が登場するなど、社会階層が分化していきます。そこでは、第Ⅲ章でも紹介するように、川から農業用水を引いてくるための灌漑設備が建設されるなど、大規模な土木工事もおこなわれました。

こうした工事の一環として、「ジグラト」と呼ばれる巨大な神殿がいくつも建てられます。これが旧約聖書に登場する「バベルの塔」のモデルになった、という説もあるのです。

この説には賛否両論ありますが、ジグラトの復元図などを見ると、モデルになった可能性がある、という意見にもうなずかされます。

さらにウルクでは、第Ⅰ章でも紹介したように、それまで記録手段として使われていた「トークン」などに替わって、「文字」が誕生しました(五八ページ参照)。

文字が誕生した時期、シュメール人はすでに宗教を持っていたことがわかっています。文字が登場してまもない頃の粘土板に、三柱の「主神」と、同じく三柱の「天体神」についての伝承、今では詳細のわからない多数の神々の名前などが書かれていたからです。シュメール人は、文字が登場するはるか以前から宗教を持ち、多くの神々を信仰していたのです。シュメール人の宗教神話には、この世界のはじまりも描かれています。

ただし、シュメールでは、いくつも都市国家が分立していた時期があるので、そこには複数の神話があり、これらの内容は少しずつ食い違っています。

シュメールの研究者である小林登志子氏によれば、そうした神話の内容を総合すると、まず最初に存在していたのは、ナンムという

「原初の海」の女神だといいます。

ナンムは、海そのものであり、彼女は、天と地をひとつに結合する巨大な「宇宙的山」を産みました。そこから、人間と同じ姿をした天空の神アンと大地の神キが誕生するのです。

やがてアンとキは結婚し、大気の神エンリルが誕生します。この時期まで、天と地は一体となっていました。その天と地を分けたのがエンリルです。このとき、父親であるアンは天を運び去りますが、息子であるエンリルは地を運び去ったとされています。これは彼が、自分の母親を運び去ったことにほかなりません。

そして神話では、エンリルが母親キと結合し、そこから宇宙と人間が誕生し、人間の文明が成立した、というのです(『シュメル神話の世界』)。

ただしこうした宇宙や人間の誕生神話は、この時期の一般の人々にとっても、彼らの日常生活とはかなりかけ離れた物語だったようです。その証拠に、当時の人々は個人の守護神である「個人神」を持っていましたが、それはアンやエンリルといった高位の神ではなく、別の神々、いわゆるより庶民的な神々がなることが一般的でした。

個人神は、「人間の運命」を神格化したもので、人の体の中にいると信じられていたものです。人々は、自分や家族などの幸せをこうした個人神に祈っていたのです(『五〇〇〇年前の日常』)。また、都市にも、「都市神」と呼ばれるそれぞれの守護神がいました。

メソポタミアの神々の最高位は、時代によって変わっていきます。

記録に残る最古の時代には、天空の神アンが神々の頂点にいましたが、のちには、大気の神エンリルがその地位につきます。さらに紀元前二〇〇〇年前後になると、シュメール人の都市国家が滅び、新たに侵入したアモリ人が、シュメール人の文化を吸収しつつ、この地を治めるようになりました。この時期を「古バビロニア時代」と呼びますが、ここでは首都バビロンの都市神マルドゥクが最高神となります。

ちなみに、このときの王朝の創始者が、「目には目を」の「ハンムラビ法典」で名高いハンムラビ大王ですが、今に残る彫像には、彼がこうした神々の一柱である太陽神シャマシュから、法典を構成する法を伝えられる様子が刻み込まれています。

 今変わらないと滅亡しかないということ 最後は 簡単にやってくる
 制度の単純化
 豊田市図書館の3冊
209『137億年の物語』宇宙が始まってから今日までの全歴史
209『岩波講座 世界歴史22』冷戦と脱植民地化Ⅰ 二〇世紀後半
361.2『社会学の歴史Ⅱ』他者への想像力のために

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『第二次世界大戦』

 209.74チヤ『第二次世界大戦』

湧き起こる戦雲 ウィンストン・チャーチル

アドルフ・ヒトラー

〈失明した上等兵/無名の指導者/一九二三年ミュンヘン一揆/『マイン・カンプ』/ヒトラーの抱えていた難/ヒトラーと共和国軍/シュライヒャーの策謀/経済の猛吹雪の影響/ブリューニング首相/立憲君主制/軍備平等権/シュライヒャーの容喙/ブリューニング退陣〉

一九一八年一〇月、フランスのコミーヌ付近で、ひとりのドイツ共和国軍上等兵が、イギリス軍のマスタードガス攻撃によって一時的に失明した。その上等兵がポメラニアの病院で床についていたあいだに、敗北と革命がドイツを席巻した。上等兵は無名のオーストリア税関上級事務官の息子で、青年時代には偉大な芸術家になるという夢を抱いていた。ウィーンの造形美術大学の入学試験に落ちたあと、彼はウィーンにとどまって貧窮生活を送り、のちにミュンに移住した。ときには住宅塗装工として働いたが、ほとんどの場合、日雇い労働者で、体を壊し、世間が自分の成功を阻んでいるのだと、ひそかに激しい恨みを抱いた。この不遇は、彼を共産主義者陣営に向かわせなかった。きっぱりと反対側を向き、もっと異常な民族的忠誠という感覚と、ドイツとドイツ民族への熱烈かつ神秘主義的な賛美を心に抱いた。戦争が勃発するといそいそと入営し、バイエルンの連隊で四年間、伝令兵として西部戦線で軍務に服した。それがアドルフ・ヒトラーの人生前半の浮き沈みだった。

一九一八年冬、光を失い、無力な状態で病院のベッドに横たわっていたとき、ヒトラーは自分自身の失敗とドイツ国民すべての不幸が同化したように感じた。敗北の衝撃、法と秩序の崩壊、フランスの勝利が、静養中のヒトラーに耐えがたい苦痛を味わわせ、彼という存在を呑み込んで、人類の救済滅亡のどちれがある禍々しい強大な悪鬼の軍勢を創り出した。ドイツはありきたりの過程で零落したのではないと、ヒトラーは考えていた。それでは説明がつかない。どこかに極悪非道の大きな裏切りがあったのだ。孤独で自分の内に閉じこもりがちだった小柄な上等兵は、ドイツの惨状の原因を自分の限られた経験を拠り所にして考え、憶測した。ヒトラーはウィーンでドイツの過激な国粋主義者集団と交流し、宿敵であるユダヤ人が、北方人種を食い物にし、悪意に満ちた活動で飲んでいるという話を聞かされていた。ヒトラーの愛国的な怒りは、金持ちと成功者へのねたみに煽られて、とてつもなく激しい憎悪に変わった。

ヒトラーは、取るに足らない一患者としてようやく退院した。まるで学童のように得意げに軍服を着たまま、うろこの落ちた目で彼が見たのは、惨憺たる光景だった!敗北が恐ろしい激動をもたらしていた。絶望し、狂乱した周囲の状況のなかで、共産主義革命のけばけばしい特徴が目についた。装甲車がミュンヘンの通りを突進して、あてどなくさまよい歩く人々にパンフレットか銃弾をばら撒く。ヒトラーのかつての戦友たちが、反抗のしるしの赤い腕章を軍服につけて、彼がこの世で大切だと思っている物事すべてに対して怒りのスローガンを叫んでいた。まるで夢のなかのように、すべてがはっきり見えた。ドイツはユダヤ人に背中を刺され、ひきずり倒されたのだ。銃後で金儲けしたやから、策略をめぐらしていたやから、ユダヤ人知識階級の国際的陰謀に加担している憎きボリシェヴィキに殺られたのだ。目の前で自分の責務が燦然と輝くのをヒトラーは見た。これらの害悪からドイツを救い、不当な仕打ちの仇を討ち、神が長らく示してきた神意に向けて支配者民族を導くのが自分のつとめなのだ。

ヒトラーの連隊の将校たちは、兵卒たちの反政府的・革命的な傾向に警戒を強めていたので、すくなくともひとり、道理をわきまえているように思われる兵卒を見つけてよろこんだ。ヒトラー上等兵は、軍に残ることを望んでいたので、“政治教育教官〟に任命された。要するにスパイだった。この見せかけで、ヒトラーは反乱や反政府の企てに関する情報を収集した。ほどなく上官の保全将校の指示で、ありとあらゆる毛色の地元政党の会合に出席するようになった。一九一九年九月のある晩、ヒトラーはミュンヘンのビヤホールでひらかれたドイツ労働者党の集会へ行き、そこではじめて、参加者たちが、ユダヤ人、投機家、ドイツを奈落の底に落下させた”一一月の犯罪者ども”に対する彼のひそかな確信と似通った話をするのを聞いた。九月一六日、ヒトラーはドイツ労働者党に入党し、しばらくすると軍の活動に沿うようなプロパガンダを行なった。一九二〇年二月、ドイツ労働者党初の大規模集会がミュンヘンで行なわれ、アドルフ・ヒトラーが進行を宰領して、二五ヵ条の党綱領を発表した。ヒトラーはいまや政治家だった。ドイツを救済すると称した運動が開始されていた。四月にヒトラーは共和国軍から除隊し、拡大した党の活動に傾注するようになる。翌年半ばには党の当初からの指導者たちを排除し、彼に心服していた仲間をその情熱と天賦の才で説得して、党の独裁権をのにした。ヒトラーはすでに指導者”だった。経営不振に陥っていた《民族的観察者》紙が買収され、党機関紙になった。

共産主義者はすぐにこの敵の存在に気づいた。共産主義者が会合を妨害しようとしたため、ヒトラは一九二一年末に突撃隊〟の最初の部隊を編成した。この時期まで、運動はすべてバイエルンの地元団体内で行なわれていた。だが、ヒトラーの党が大戦後数年のあいだにドイツ国民の生活に貢献したことで、このあらたな思想に耳を傾ける人々が旧ドイツ帝国中で増えていた。一九二三年のフランスによるルール占領に、ドイツ人すべてが激しい怒りをたぎらせていたため、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と改称していたヒトラーの党の支持者は幅広い層で急増した。マルク急落でドイツの中産階級の生活基盤が破壊され、窮乏した人々の多くが新党に入党して、みじめな状態からの救いを熱烈な憎悪と復讐と愛国心に求めた。

当初、ヒトラーは、敗北の屈辱から生まれたヴァイマル共和国に対する攻撃と暴力で権力を得ると明言していた。一九二三年一一月、指導者〟は決意の固い集団を擁し、なかでもゲーリング、ヘス、ローゼンベルク、レームが抜きんでていた。これらの行動派の男たちが、バイエルン政府を乗っ取る潮時だと決断した。フォン・ルーデンドルフ将軍が、一揆を先導し、この冒険的行動に軍の威信を授けた。戦前には、“ドイツには革命はない。なぜなら、ドイツでは革命が厳しく禁じられているからだ〟といわれていた。この格言がミュンヘンの地元官憲によって復活した。警察部隊はまっすぐに行進してくるルーデンドルフ将軍には危害を加えないよう慎重に発砲して、丁重に身柄を拘束した。デモ隊の約二〇人が銃撃で殺された。ヒトラーは地面に伏せ、幹部数人とともにしばらく逃亡していた。一九二四年四月、ヒトラーは五年の禁固刑を宣告された。

ドイツの官憲は秩序を維持し、法廷は罰を加えた。だが、当局が生身のドイツ人に襲いかかり、ドイツにもっとも忠実な若者たちを外国との駆け引きのために犠牲にしたという見方が、ドイツ全土にひろまった。ヒトラーの刑期は五年から一三ヶ月に減刑された。しかし、ランツベルク要塞に禁固されていたその歳月は、一揆の失敗について自分の政治哲学を論じた『マイン・カンプ』(『わが闘争』)の概要をまとめるのに役立った。その後、ヒトラーが権力を握ったときに、連合国の政治・軍事指導者たちはこの本をもっと念入りに研究すべきだった。すべてそれに述べられているドイツ復興計画、党のプロパガンダの技法、マルクス主義と戦う計画、国民社会主義国の概念、ドイツの正当な地俺は世界の頂点であること。それはヒトラーの信念と戦争の聖なる教典だった。わかりにくく、冗長で、まとまりが悪いが、重大な意図をはらんでいた。

『マイン・カンプ』の主題は単純だった。人間は戦う生き物であり、したがって国家は戦士の共同体であり、戦闘部隊である。生存のために戦うのをやめる生命体は絶滅する。同様に、戦うのをやめる国や人種は、死滅する運命にある。人種の戦う能力は、その純度に左右される。したがって、外国人の血によって汚されるのは避けなければならない。ユダヤ人はどこの国にもいるので、平和主義者・国際主義者にならざるをえない。平和主義は、存在をかけた戦いで人種が降伏する原因になるので、もっとも恐ろしい罪である。したがって、すべての国の第一の責務は、大衆を国粋化することである。個々の知性は最重要ではない。意志と決意が、最優先される特質である。指揮官に生まれ付いた人間は、無数の部下よりもはるかに貴重な存在である。軍事力のみが人種を確実に生存させるから、各兵種の軍隊が必要になる。人種は戦わなければならない。のうのうとしている人種は、錆付き、朽ち果てる。ドイツ人種が適切な時機に一致団結していたら、とっくに地球の支配者になっていたはずだ。新ドイツ帝国は、ヨーロッパに分散しているドイツ民族の小集団をすべて取り込まなければならない。敗北を喫した人種は、自信を取り戻せば救済される。なによりも、自分たちが無敵であることを確信するように軍隊を教化する必要がある。ドイツ国家再興のためには、武力によって自由を取り戻すのが可能だということを、国民に得心させる必要がある。貴族政治の原理は根本的に適切である。主知主義は望ましくない。教育の最終目標は、最低限の訓練で兵士に仕立てあげることができるドイツ人を生み出すことだ。狂信的で異様なまでに激しい情熱という原動力がなかったら、史上最大の激動を引き起こすことはできない。平和と秩序というありふれた美徳では、何事も動かせない。世界はそういう激動に向けて進んでいるし、新ドイツ国家は、ドイツ民族がこの地球上でもっとも偉大な最後の決断を下す覚悟を決めるように仕向けなければならない。

外交政策は節操のないものになるかもしれない。国家が勇猛果敢に倒れるのを傍観せずに繁栄して生き延びるよう気を配るの外交官の仕事である。ドイツの同盟国になりうるのはイギリスとイタリアだけだ。民主主義者やマルクス主義者が牛耳っている臆病な平和主義国と同盟を結ぶ国はどこにもない。つまり、ドイツが自力でやっていかなかったら、だれも面倒を見てくれないだろう。神に心から祈ったり、国際連盟で善人ぶって願ったりしても、失われた領土は取り戻せない。領土回復は武力のみによって可能なのである。ドイツは敵国すべてと同時に戦う過ちを犯してはならない。もっとも危険な敵を選り出し、全力を挙げてそれを攻撃しなければならない。イツがさまざまな権利において平等の立場を回復し、陽の当たる場所に戻ったときにはじめて、各国は反ドイツではなくなるだろう。ドイツの対外政策に感情的な要素があってはならない。感情的な理由からフランスを攻撃するのは愚かだ。ドイツはヨーロッパにおける領土を拡大する必要がある。ドイツの戦前の植民地政策は間違っていたし、打ち捨てるべきである。ドイツはソ連に向けて拡大することをもくろみ、とりわけバルト海諸国の併呑を考慮すべきだ。ソ連との同盟は許されない。ソ連とともに西欧に対する戦争を行なうのは論外である。なぜなら、ソ連は国際ユダヤ主義の勝利を示しているからだ。

これらが、ヒトラーの政策の〝御影石の柱“だった。

アドルフヒトラーのたゆまぬ闘争と、しだいに国家的な重要人物として台頭したことは、ほとんど戦勝国の目には留まらなかった。戦勝国はそれぞれが抱えている問題や党の政争に圧迫され、悩まされていた。この長い幕間が過ぎる前に、“ナチ”と呼ばれていた国民社会主義は、ドイツ国民、ド-ツ軍、国家機構の大多数、共産主義に当然の恐怖を抱いている企業家のかなりの部分をがっちりと掌握して、ドイ日常生活における一大勢力になり、全世界が刮目せざるをった。一九二四年末に刑務所から解放されたとき、運動を再編するには五年かかると、ヒトラーは述べた。

ヴァイマル憲法の民主主義的な一条項は、国会が四年ごとに選挙を行なうよう規定していた。この条項は、ドイツ国民の大多数が議会を永続的に完全に抑制できることを願うものだった。当然ながら、現実には激しい政治的興奮状態が生じて、選挙運動が切れ目なくつづくことになる。これらの選挙の結果は、ヒトラーとその教義の発展を如実に示している。一九二八年にはヒトラーは国会で一二議席しか得られなかった。それが、一九三〇年には一〇七議席に、一九三二年には二三〇議席に増えた。やがてドイツのすべての機構に国民社会主義党の行動と規律が浸透し、ユダヤ人に対するありとあらゆる脅迫と侮辱と蛮行がはびこるようになった。

そういった熱狂、悪行、浮沈をここですべて述べて、複雑怪奇な恐るべき展開を年代記的に述べる必要はないだろう。ロカルノ条約の弱々しい陽光が、しばらくはそういう状況を照らしていた。アメリカの巨額の借款を使うことで、繁栄が戻ったような錯覚が生じていた。その時期にはヒンデンブルク元帥がドイツを統率し、シュトレーゼマンが外相を務めていた。ドイツ国民の過半数を占める理性的でまっとうな人々は、ヒンデンブルクの堂々とした絶大な威厳が根っから大好きで、元帥が息を引き取るまで、それにしがみついていた。だが、ヴァイマル共和国は、安全保障が維持されているとい意識はもとより、国の栄光や復讐のよろこびを国民にあたえることができなかった。そして、国民の目がよそに向いているあいだに、べつの強力な勢力が活動を強めていた。

ヴァイマル共和国の政府機関と民主主義の機構は、戦勝国から押しつけられたもので、敗北という汚点にまみれていた。その薄っぺらな見せかけの蔭に、ドイツの真の政治勢力が潜んでいた。ドイツ帝国の骨格をなす共和国軍参謀本部は、戦後もしぶとく生き延びていた。参謀本部には、大統領や閣僚を任命したり辞任させたりする力があった。彼らはヒンデンブルク元帥を自分たちの力の象徴、自分たちの意図の仲介者にした。だが、一九三〇年にヒンデンブルクは八三歳になっていた。この時期から、ヒンデンブルクの精神力と知的理解力は、見る見る衰えていった。偏見が強まり、独断的にな

り、老耄がはじまった。戦争中にヒンデンブルクの巨大な木像が創られ、愛国者はそれに打ち込む釘を買って崇敬を示すことができた。ヒンデンブルクが〝生気のない巨人〟になったことを、いまではそれが如実に示していた。元帥は高齢であり、だれもが納得するような後継者を早急に見つけなければならない。将軍たちはだいぶ前からそう考えていた。だが、国民社会主義運動の力が猛烈に拡大し、ヒンデンブルクに代わる象徴を探す動きはそれに呑み込まれた。一九二三年のミュンヘン一揆に失敗したあと、ヒトラーはヴァイマル共和国の枠組みのもとで、公には完全に合法的な計画を唱えていた。しかし、それと同時に、ナチ内で軍隊と準軍事組織の編成と拡大を促し、立案していた。“褐色シャツ隊〟とも呼ばれた突撃隊は、当初はごく小規模な訓練中核組織だった。いっぽう、親衛隊は人数と行動力が増大し、その活動と兵力が増大する可能性に共和国軍が重大な危惧を抱くようになっていた。突撃隊を指揮していたのは、共和国軍大尉のエルンスト・レームだった。闘争の歳月を通じて、レ―ムはヒトラーの同志でなおかつ親しい友人だった。突撃隊参謀長に任命されたレームは、能力と勇気があることを実証していたが、個人的な野望と性的指向の虜になっていた。権力の座への過酷で危険な道のりを歩んでいたときには、レームの悪癖はヒトラーが協力を求める障害にはならなかった。ブリューニング首相が苦情を述べたように、突撃隊は一九二〇年代にバルト海沿岸とポーランドでボリシェヴィキと戦った義勇軍や、国家主義者の退役軍人から成る鉄兜団のような、昔ながらのドイツ国家主義者組織の大半を吸収していた。

ツ国内の大きな潮流を注意深く熟考した共和国軍は、自分たちの主な社会階級からして、もはやナチ運動に対抗する組織としてドイツを支配することはできないと、不承不承、確信するに至った。共和国軍もナチの武装組織も、ドイツを奈落の底から引きあげ、敗北の復讐を果たすという決意は共通していた。しかし、共和国軍がドイツ皇帝の秩序正しい機構そのもので、ドイツ社会の封建制の領主、貴族、地主、裕福な階級を代表していたのに対し、突撃隊は、怒りを沸々とたぎらせ、苦い思いを胸に抱いた反政府分子の不満や、破産した男たちの絶望に煽られて、ほとんど革命的な運動になっていた。そして、彼らが公然と非難するボリシェヴィキとは、北極と南極ほどかけ離れていた。

ナチと反目すれば、敗戦国ドイツをまっぷたつに引き裂くことになるというのが、共和国軍の見方だった。一九三一年と一九三二年の共和国軍上層部は、自分たちと国のために、国内問題に関して、ドイツ人の杓子定規で厳格な気質とまったく相反する勢力であるナチと手を結んだ。ヒトラーには破城槌をもって権力の砦に押し入る覚悟があったが、若いころに崇敬と忠誠を捧げた光り輝く偉大なドイツの指導者になるという目的が、つねに目の前にあった。したがって、ヒトラーと共和国軍の協定の条件は、双方とも現状維持の月並みなものばかりだった。共和国軍上層部は、ナチの力は強く、ヒンデンブルクの後継者としてドイツを率いることができるのはヒトラーしかいないと、しだいに悟った、ヒトラーのほうも、自分のドイツ復興計画を実行するには、共和国軍を支配している選ばれた人々との同盟が不可欠だと知っていた。取り決めが結ばれ、共和国軍の指導者たちは、ヒトラーを将来のドイツ首相の候補と見なすよう、ヒンデンブルクを説得した。そのために、突撃隊の活動を抑制し、参謀本部に従属させて、最終的には解隊することが合意された。ヒトラーはドイツを支配する勢力と同盟を結び、公式な首班による支配選挙による独裁)「制とも呼ばれる、を確立し、ツ国家が首領によって統べられ

るという体制に逆戻りする可能性が濃厚になった。一介の上等兵が、ついにそこまでになったのだ。

しかしながら、まだ複雑な内訌の種が残っていた。ドイツの国内勢力すべてに使える万能の鍵が参謀本部だったとするなら、その一本の鍵を数人が奪い取ろうとしていた。この時期、クルト・フォン・シュライヒャー将軍が、隠然たる影響力を有し、ときには決定的な影響力を行使した。シュライヒャーは、ひそかに温存されて支配力をふるっていた小規模な軍人集団の政治の師だった。シュライヒャーはあらゆる部局や派閥から不信の目を向けられ、参謀本部の教範に記されておらず、軍人がふつうなら知る由もない知識に通じている、抜け目のない有用な政治的策士と見なされていた。シュライヒャーはだいぶ前からナチ運動の重要性を見抜いていて、それを芽のうちに摘むか、抑制しなければならないと確信していた。そのいっぽうで、突撃隊という増大する私兵を擁するこの攻撃的な集団には、参謀本部の同志が適切に扱えば、ドイツの偉大さを再現し、自分を偉大な存在に押しあげるのに使える攻撃手段があると見なしていた。その武器とはレームのことだった。そういう思惑で、シュライヒャーは一九三一年に、ナチ突撃隊参謀長のレームとひそかに陰謀をめぐらしはじめた。つまり、大きな物事が二重になって進行していた。参謀本部はヒトラーと取り決めを結び、そのさなかでシュライヒャーが、ヒトラーの右腕でその競争相手になりうるレームとともに、みずからの策謀を押し進めていた。シュライヒャーは、ナチの革命的な勢力、とりわけレームと接触をつづけていたが、三年後にヒトラーの命令によっていずれも射殺された。それによって政治的状況は単純になり、生き残ったものが置かれている状況もおなじになった。

その間も、経済の猛吹雪がこんどはドイツを苦しめていた。アメリカ国内での支払いに追われているアメリカの銀行が、ドイツに対する不用意な貸し付けを増やすことを拒んだ。そのため、ドイツ全土で工場が廃業し、ドイツの平和な復興の基盤だった数多くの事業が突然、破綻した。一九三〇年冬、ドイツの失業者は二三〇万人にのぼった。それと同時に、賠償金があらたな段階に達した。それまでの三年間、アメリカ代表部のS・パカー・ギルバートが、私がアメリカ財務省にそっくりそのまま伝えたイギリスへの支払いも含めて、連合国が要求する巨額の賠償金の徴収を担当していた。この制度が長つづきしないことは目に見えていた。一九二九年夏、対独賠償国際委員会のヤング委員長が、パリでひらかれた会議で重要な賠償軽減案を組み立て、提案し、交渉した。この案は賠償金支払いに年限を設けるだけではなく、ドイツ帝国銀行とドイツ鉄道を連合国の統制からはずし、対独賠償国際委員会を撤廃して、国際決済銀行を利用するとしていた。これに対し、ヒトラーと国家主義運動は、実業界や商業界の派閥と手を組んだ。いずれも、獰猛で移り気な大物実業家アルフレート・フーゲンベルクの息がかかっている勢力だった。連合国が差し出した広範におよぶ寛大な軽減案に反対する無益な荒々しい運動が開始された。ドイツ政府は最後の力をふりしぼって、二二四票対二〇六票の僅差で、ヤング案”に国会の承認を得た。一九二九年に脳卒中のために急死するシュトレーゼマン外相は、条約が求める期限よりもはるかに早い時期に連合軍をラインラントから完全撤退させることに合意を取り付けた。それがシュトレーゼマンの最後の業績になった。

しかし、ドイツの国民大衆は、戦勝国の大幅な譲歩にはおおむね冷淡だった。その譲歩がもっと早い時期か、明るい雰囲気のときに行なわれていれば、和解に向けて大きく前進し、ほんとうの平和が戻ってくると称賛されたかもしれない。しかし、いまやドイツの国民大衆は、失業といういっかな消えようとしない暗い恐怖に襲われていた。マルクから資本が逃避したことによって、中産階級はすでに破産し、荒々しい激流に投げ込まれていた。外交で活躍していたシュトレーゼマンは、国際経済の圧迫により、国内での政治的立場が危うくなっていた。ヒトラーのナチとフーゲンベルクの大物資本家たちの痛烈な攻撃により、シュトレーゼマンが失脚し、ミュラー首相が退陣に追い込まれて、一九三〇年三月二八日、カトリック系の中央党のハインリヒ・ブリューニングが首相に任命された。

ブリューニングは、ヴェストファーレン出身のカトリック教徒の愛国者で、現代風の民主主義の装いのなかで、以前のドイツを復活させようとした。暗殺される前にラーテナウが画策していた戦争のための工場準備計画を、途切れさせることなく進めた。また、混乱が激化するさなかで、財政の安定を目指して悪戦苦闘した。ブリューニングの経済政策と、公務員の数と給与を減らす計画は、不人気だった。憎悪の奔流が、いっそう荒れ狂うようになった。ヒンデンブルク大統領の支持を得て、ブリ・ニングは対立する国会を解散させ、一九三〇年に総選挙を行ない、過半数を得た。ブリューニングはそこで最後の注目すべき努力を行なった。ドイツの守旧派の残党を糾合し、力を盛り返した暴力的で品格のない国家主義者の扇動に対抗しようとしある。そのために、ヒンデンブルク大統領の再選を図ろうとした。ブリューニングは、これまでにない明確な解決策に目を向けていた。ドイツの平和と安全と栄光は、皇帝の復活のみによって実現すると考えていたのだ。そのあと、高齢のヒンデンブルク元帥を説得する。ヒンデンブルクが再選されたら、摂政として最後の任期を務めてもらう。ヒンデンブルクが死ぬときには、事実上、君主制が復活していることになる。この政策が実現すれば、ヒトラーがいま明らかに狙っているドイツ国家の元首の空位を埋められる。あらゆる状況に鑑みて、それは正しい方策だった。だが、はたしてブリューニングは、ドイツをそこまで導くことができただろうか?ヒトラー寄りに流れていた保守勢力をヴィルヘルム二世の復位によって呼び戻すことは可能だったかもしれない。しかし、社会民主主義者や労働組合は、元ドイツ皇帝や皇太子が地位を回復することに肯んじなかっただろう。ブリューニングの計画は、第二帝国の再現ではなく、イギリス式立憲君主制を望んでいた。皇太子の息子のひとりが、適切な候補になるかもしれないと期待していた。

一九三一年一一月、ブリューニングは、すべてを左右する力があるヒンデンブルクに自分の計画を打ち明けた。高齢の元帥はたちまち激しい不快感を示した。仰天し、断固として反対した。“余はあくまでもドイツ皇帝の管財人だ”と、ヒンデンブルクはいった。“それ以外の策は余の軍歴の名誉を汚す。皇族のひとりを選んで帝位に就けるというのは余の信奉する君主制の基本概念に反する。正統性を侵してはならない。また、ドイツ国民が皇帝の復位を受け入れることはありえないから、余しかいない。これに余は依拠する。妥協の余地はない!〟「余はここにいて、ここにとどまる」。ブリューニングは熱烈に説得した。老兵に対して、長広舌をふるった。ブリューニングには、強力な論拠があった。正統性に欠けるかもしれないが、君主制という解決策をヒンデンブルクが受け入れないと、ナチが革命によって独裁制をものにするに違いないと論じた。同意には達しなかった。だが、ブリューニングがヒンデンブルクを翻意させることができるかどうかはべつとして、ドイツ国家がただちに政治的に崩壊するのを避けるためには、是が非でもヒンデンブルクが大統領に再選される必要があった。その最初の段階では、ブリューニングの計画は成功した。一九三二年三月に大統領選挙が行なわれ、決選投票でヒンデンブルクが最多得票を獲得して、政敵のヒトラーと共産主義者のエルンスト・テールマンを破った。ドイツは国内の経済状況とヨロッパ諸国との関係の両方に取り組まなければならなかった。ジュネーヴ軍縮会議が行なわれている折、ヒトラーはヴェルサイユ条約でドイツが受けた屈辱に抗議する運動を燃えあがらせて勢力をのばした。

ブリューニングは、慎重に考慮したうえで、ヴェルサイユ条約を改変する広範な計画を創案した。一九三二年四月にブリューニングはジュネーヴでこれを発表し、思いがけず好意的に受けとめられた。ブリューニング独首相、マクドナルド英首相、スティムソン米国務長官、ノーマン・デイヴィス米無任所大使の会談では、合意に達しそうな雰囲気だった。ブリューニングの案は、ドイツとフランスの〝軍備平等権〟という、控え目にいってもさまざまな解釈ができる奇妙な原理に基づいていた。本書のあとの章で論証されるが、こういうものを基礎に平和を築くことができると思慮深い人物が思い込んだことには、あいた口がふさがらない。この重要な主張が戦勝国に認められたら、ブリューニングは苦境を脱していたかもしれない。そして、つぎの段階―巧妙に仕組まれていたつぎの一歩―は、ヨーロッパ復興のための賠償帳消しということになる。もちろん、そういう合意はブリューニングの地位を高め、偉業を成し遂げたと見なされるに違いなかった。

アメリカの全般的な外交を担当していたノーマン・デイヴィス無任所大使が、フランスのタルデュ首相に電話をかけて、急いでパリからジュネーヴに来てほしいと頼んだ。だが、ブリューニングにとって不運なことに、タルデューはべつの新情報をつかんでいた。ベルリンであれこれ画策していたシュライヒャーが、ブリューニングはまもなく失脚するので交渉の相手にすべきではないと、フランス大使に警告していた。それに、“軍備平等権〟方式におけるフランスの軍事的立場を、タルデューが危惧していたのも一因だったかもしれない。とにかくタルデューはジュネーヴに赴かず、五月一日にブリューニングはベルリンに戻った。間が悪いときに、手ぶらで帰ったことは、致命的だった。ドイツの国内経済は崩壊に瀕し、それに対処するには思い切ったきわどい手段を講じなければならなかった。ブリューニングの不人気な政府には、そういう手を打つような力がなかった。五月いっぱいブリューニングは苦戦し、そのあいだに刻々と変化するフランスの議会政治は、エドゥアール・エリオに取って代わられていた。

 生きるって本当に連続なのディスクリートとしか思えない

 奥さんへの買い物依頼
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『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

 『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

フォルクスゲマインシャフト―共同体と排除

国家権力は、ナチ党が思い描いた再生ドイツの実現にとって必要な条件でしたが、これだけでは不充分でした。第4章で見てきたように、ナチ党の政治理論とプロパガンダに用いられた決まり文句のひとつに、国家はそれ自体が目的ではなく、目的を達成するための手段であるというものがありました。その目的とはドイツ民族の歴史的運命の実現でした。ナチ指導のもと、統一された国民・人種の共同体、つまりフォルクスゲマインシャフトを築くというのです。フォルクスゲマインシャフトという言葉自体はドイツの政治論ではごく一般的なものでしたが、ナチ・ドイツでそれが具体的になにを意味したのかについては歴史家のあいだでかなりの論争になってきました。論争を呼んだのは、ドイツ人の信念と考え方を支配したナチ・イデオロギーの力について、そしてドイツ人のためという名目で実施された暴力による政治的・社会的実験に国民がどの程度同意していたのかについての、根本的な問いと密接に関係しているからです。

フォルクスゲマインシャフトを理解する

国民国家の時代には、国民や民族を、それを構成する個人を超えて、より崇高な目的へと向かわせる集合体と見なすことがよくあります。ナチ党の思い描いたフォルクスゲマインシャフトは、このなじみのある魅力的な枠組みのなかにありました。当時、第一次世界大戦後のドイツは、軍事的敗北、社会不安、経済危機によって国が分断され、将来どこへ向かえばいいのかを見失っていました。しかしナチ党は、一貫性はないにしても、フォルクスゲマインシャフトに新たに何層かの意味をつけ加えました。権利、交換、選択を重視する、社会的統合による現代的な大量消費主義の市場モデルが国際的に勢力を拡大していましたが、ナチ党はそれに代わるものとして、人種選択的で闘志にあふれ、経済的な自給自足を目指す国民連帯のモデルを提案したのです。“ドイツ人の「血と土」(ブル・ト・ボーデン)”というナチ党の古めかしい言い方にもかかわらず、そのモデルはおそらく反近代的な構想というよりむしろもうひとつの現在を提案したものであり、人種の純粋性と人口の拡大のためのナチ独自の似非科学に基礎を置いていました。

とはいえ、ナチ政権がドイツ国民に受け入れられたのはイデオロギーに説得力があったおかげではありませんでした。むしろ、前向きで新しいなにかを創造したという、一九三三年以降ナチ政権がとりわけ声高に繰り返し宣伝した自慢のひとつが国民の心をつかんだのです。そのなにかとは、有機的でありながら競争のある共同体(ライストゥングスゲマインシャフト)であり、成果に応じた報酬を与える能力主義を採用し、過去の抑圧的な社会階層を消し去ったと宣伝されました。フォルクスゲマインシャフトの一員になるための新たな人種的・社会的な基準に一致し、応分の負担を果たした人びとは、この特権的な民族共同体の貴重な一員として満足のいく自己像を得ることができました。疑い深い人びとでさえ、独立独歩の新生ドイツで、政権が共同体と責任分担について主張した魅力的な公約に心惹かれました。公約には、完全雇用の実現と生活・福祉の水準向上、社会的な規律と家族の安定、男女間の秩序ある関係の確立、富と地位という不平等ではなく能力と努力の競争による人生の可能性の獲得などが謳われていました。

歴史家は、こうした主張を人びとが生きた現実にほとんど即していないプロパガンダ的な煙幕として扱いがちでした。この見方では、階級のない新たな社会というナチ党の主張は、ドイツの労働者が新しい国民共同体に統一されておらず、労働者の政治団体および職場での自由を暴力で破壊することで彼らを脅して従わせていた事実を無視していました。フォルクスゲマインシャフトについて止めどなく発信しつづけたのは、階級区分の根深さを見えにくくし、新たな社会階層と経済格差が生み出されたことを否定するためでした。また、戦争による世界制覇というヒトラーの野望の隠れ蓑ともなったのです。その実現には頼りになる確かな銃後の守りが必要不可欠でした。強制的同質化―ドイツの機関や団体をナチ化された団結した統一体に組み込んで連携させることという詐欺的な策略の陰で、現実には、人びとは小集団に細分化され、停滞した不平等にはまり込んで抜け出せない状態にありました。富と財産は再分配されませんでした。実質の時間給はほんのわずかしか上がらず、住宅建設は再軍備のため断念されました。権力が新たな党エリート層に移譲されると同時に、大衆迎合的な主張とはうらはらに、旧体制の資本家階級と貴族階級は地位と権威の多くをもちつづけていました(そして自分たちの信念も保っており、上流階級のドイツ人ナショナリストは、自分たちが政権の座に就くのを後押しした粗野な指導者たちを見下して軽蔑を強めていた)。その一方で、この解釈によると、無力な大勢の国民は空約束で買収され、「治安」をテロ行為の別名とする警察国家で服従に追い込まれ、戦争が避けられない運命だった、ということになります。

この見方は政権自体の主張よりも現実に即したものでしょうか?一九三三年時点でのナチ政権の第一の目的は、左派を壊滅させ、力のある政治的反対勢力を抑え込むことだったのは明らかです。それと同様に、社会の主要な不平等はそっくりそのまま残しておいて、新たな不平等をつくり出しながら、国民の同意があったというイメージをでっちあげて押しつけようとしたこともまた明白でしょう。とはいえ、イデオロギーはプロパガンダがすべてだと単純化できるものではありません。「ナチ」を、「ドイツ人」という受け身の大衆に向けた指示と政策の立案者とし、ドイツ人には従うか抵抗するかのどちらかしか道はなかったと断定するのでは、単純化しすぎているのです。これは、それまで集団として共有していたアイデンティティと表現方法が突然否定されてしまった社会において、社会生活および私生活の実感と実体験が充分に考慮された見方とは言えません。かつて階級と抵抗の限界に集中していたナチ・ドイツの歴史研究が人種政治をより考慮するようになるにつれて、私たちの見方の角度も変わってきました。社会的カテゴリーと政治的忠誠によってではなく、新たな生政治的な区分によって定義された社会における、アイデンティティと帰属の問題に注目が高まりました。ナチ・ドイツの日常生活史をじっくり見てみると、国民社会主義を徐々に植えつけた入り組んだルートが浮き彫りになります。多様な政治的背景をもつ、あらゆる階級のドイツ人の生活とアイデンティティに、政党、イデオロギー、言語、政策として、国民社会主義を浸透させていったのです。国民社会主義のもとで失ってしまった自由と引き換えに、何百万もの人びとが選択的にイデオロギーを無視し、自分が手に入れのを数えるほうを選ぶことができました。拡大する経済で生まれた勤め口、民族的な権利を与えられた安心感、ヴェルサイユの「恥辱」を経験したのちのドイツの軍事力と国際的地位にいだいた愛国的誇りが得られたのです。それからほどなくして、同じドイツ人でありながら、自分たちに選択権がないと気づいた人びとが数十万いましたが、大多数はそうした人びとが払う代償は胸におさめてしまってかまわないと考えました。

境界線を引く

帰属意識で結ばれたこの共同体が第一の礎としたのは、一員として受け入れる価値がないと判断された全員を強制的に排除することでした。ナチ政権は前代未聞の抜本的な措置を講じる用意ができていました。ドイツ社会のモザイクのような多様性を力ずくで叩きつぶし、人口増加、人種闘争、領土拡大に向けた手段につくり変えるためです。能力不足や不要と見なされた人びとは、フォルクスゲマインシャフトから切り離され、物理的にも言葉のうえでも壁の向こうに閉じ込められることになりました。そして承認と共感というごく普通の感情はその壁を越えることができなくなったのです。

このように、フォルクスゲマインシャフトの根本原則は、帰属するにふさわしい者とそうでない者のあいだに境界線を引き、取り締まることでした。「個人」や「市民」といったリベラルな概念は、Volksgenosse(民族同胞)という生物学的な分類に取って代わられました。これも一九三三年以降に公的な場で盛んに語られるようになった多くの言葉のひとつで、イデオロギーがたっぷり詰まっており、英語にはまったく同じ意味の言葉がありません。たとえば「ethniccomrade」など、不自然な直訳にしかならないのです。その中心となる意味は政治的権利や公民権ではなく、生物学的適応度という意味での「血」でした。ここで言う血とは、有機的共同体の生命と成長のための民族同胞の人種的・優生学的価値のことでした。民族同胞の範疇からはずれた人びとはすべて「その他の人びと」と位置づけられ、フォルクスゲマインシャフトは彼らから守られなければならない、彼らを追放しなければならないとされました。こうした人びとはartfremd(「[人種的な]異種」)やgemeinschaftsfremd(「共同体にとって異質」、つまり「反社会的」共同体異分子)、erbkrank(遺伝病)と指定されました。国は生物学的に健康な(かつ政治的に好ましい)ドイツ人が繁栄し、子孫をつくるのを奨励する一方で、文字どおりに言えば、こうした政治的身体〟である国民に害を及ぼしかねない欠陥があるとみなしたすべての人びとを排除していったのです。ナチが「人種衛生学」と呼ぶのを好んだ優生学の教義と実践は決してナチ・ドイツに限られたものではありませんでした。優生学は二〇世紀初めのヨーロッパとアメリカ合衆国では科学と社会政策に当たり前のように採り入れられており、ドイツでは一九三三年以前にすでにいくらか進歩していました。しかし批判的な発言が禁じられたナチ・ドイツでは、歯止めが効かない状態になり、強制的な計画を進めるための新たな急進的合意と推進力が形成されていきました。医学的な野心が正式に承認された人種イデオロギーと次第に一致し、不適応の問題を生政治上の集団的自己防衛という緊急課題として扱うようになりました。一九三四年にナチ党のある幹部がずばり言ったように、国民社会主義は「応用生物学」にすぎなかったのです。

「反社会的分子」と犯罪者

「反社会的分子」とは社会の基準から逸脱したり、反抗的だったりする個人や集団をひとまとめにした分類で、人種的には「アーリア人」でも、ハイドリヒが一九三八年に言ったように「犯罪に限らず、共同体にとって有害な行動をとおして共同体に順応するつもりのないことを明らかにする人びと」を指しました。危険なほど弾力性のある定義です。政敵の大量拘束がボリシェヴィズムの脅威から共同体を守るためだと公然と正当化されたのと同じように、嫌われ者で取るに足らない逸脱者集団の拘禁は、「犯罪との戦い」であるだけでなく、社会を蝕む危険から国民を守るための緊急措置とされました。

一九三六年、バイエルン政治警察が標的として列挙したのは、そのほとんとがすでに長いあいだ公的な嫌がらせを受けてきた人びとの寄せ集めでした。「物乞い、放浪者、ジプシー、路上生活者、労働忌避者、なまけ者、売春婦、不平家、常習的な大酒飲み、ごろつき、交通違反者、いわゆるサイコパスや精神病患者」だったのです。彼らは一斉に逮捕されて刑務所や労役場、強制収容所に入れられ、何万人もの危険とされた「常習的」あるいは「遺伝的」な犯罪者も、予防拘禁の新たな権限によって同じ運命にさらされました。まず、シンティとロマ(ジプシー))が路上生活者や労働忌避者として迫害されましたが、一九三八年にヒムラーが出した命令では、彼らが厄介者であるばかりではなく、異人種でもあると恐ろしげに説明されました。強制収容所はこうした人びとでいっぱいになり、一九三九年には二万一〇〇〇人の収容者のうち、政治犯は三分の一以下に減っていました。過酷な労働と厳しい規律によって「再教育」された収容者が共同体に復帰するというかすかな可能性も残されたものの、ほとんどの収容者にとってそれは幻想にすぎませんでした。

性、ジェンダー、生殖

「反社会的分子」と犯罪者も、ドイツの人口とその質を高めるための別の優先度の高い計画の標的にされていました。一九三三年七月、「遺伝病」があると認定されたすべての人を強制的に断種する法律が制定されました。知的障碍からアルコール依存症、先天性の聾や盲目まで、広い範囲におよぶ身体・精神にかかわる障碍が遺伝病とされました。実施の際の基準はさらに弾力的に運用され、「反社会的分子」とされた人びとや数は少ないもののアフリカ系ドイツ人にも適用されました。アフリカ系ドイツ人のほとんどは、第一次世界大戦後のラインラントに駐留していた、フランスのアフリカ人部隊〔フランス植民地のアフリカから派遣されていた〕の兵士とドイツ人女性のあいだに生まれた人びとでした。

一九三九年までにおよそ三二万人のドイツ人女性と男性が断種されており、男性対象の処置が「ヒトラー切開」という皮肉な異名をとるほど、断種政策は人びとの意識に急速に浸透しました。

“不適格者”に子孫を残させないことは、第一次世界大戦以来低下していたドイツ人の出生率を回復させるための政策に緊密に結びつけられていました。出生率の低下はナチ党の目には人種的な自殺行為という悪夢に見えたのです。遺伝的に「健康な」男性と女性の断種は禁じられる一方、ドイツですでに違法だった妊娠中絶は取り締まりと刑罰がさらに強化され、避妊手段は利用しにくいものになりました。結婚は、一九三三年六月に始まった結婚奨励貸付金制度を皮切りに、国が課した人種・思想の基準によってますます規制されるようになりました。結婚の資格は人種によって制限されるとともに、結婚した女性は有給の仕事からの退職を義務づけられ、子をひとり出産するごとに貸付金の返済額が減免されました。一九三五年に制定されたいわゆるニュルンベルク法のもと、「ユダヤ人」と「ドイツ人ないし〝同種”(artverwandtes)の血をもつ国籍所有者」との結婚および性交渉が禁止されました。同年、生物学的に「望ましくない」と見なされた結婚も禁止されています。このように生殖活動に対して新たに規制が課せられたのは、一九二〇年代のフェミニズムの躍進を帳消しにする意図もありました。性差による役割分担という慣例的な思想に女性を従わせ、母親になることを共同体に対する義務として強制しようとしたのです。

ヒムラーが陣頭指揮を執った男性同性愛者への激しい迫害は、彼らが共同体に対する子づくりの義務を拒否しているという通俗的な思い込みも理由のひとつになっていました。女性は受け身の性とされていたため、女性同性愛者は守られました。子をつくれる可能性が完全に失われたわけではなかったからです。しかし彼女たちも、男性性と女性性しか存在しないとする、ヒムラーの厳格な道徳観による攻撃にさらされやすくなっていました。ドイツでは男性同士の性交渉が以前から長らく犯罪とされており、一九三五年になると、男性同士の性的親密さという定義が曖昧な状態も犯罪に含まれるよう刑法が拡大されました。大勢の男性同性愛者が裁判にかけられ投獄されましたが、一九三三年から四五年にかけては、約一万五〇〇〇人が強制収容所に送られ、親衛隊の看守からも同じ立場であるはずの囚人からも迫害を受けました。さらには人体実験の犠牲者となりました。

国家が新たに発令した人種衛生上の命令は、個人の選択や倫理観をまったく考慮せず、とりわけ女性を対象に、個人の性交歴や病歴、家系についてひどく立ち入った調査を認めました。人びとの価値観や職業上の規範、言語がゆるやかに変化していくにつれて、抵抗と疑念は徐々に弱まり、新しい現実に批判が及ばないようになっていきます。そして一九三九年以降にいっそう重大な医学的な倫理違反が起こる素地がつくられてしまうのです(第9章参照)。「われわれ対あいつら」という二項対立的な区別を強いることで、政権の政策は、汚名を着せた集団を通常の社会的交流から遠ざけ、抑圧や迫害に対して無防備な状態へと追い込みました。その一方で、彼らの反対側にいる人びとは優越感に浸ることができ、それによってさらにインサイダーとアウトサイダーの距離は広がっていったのです。おそらく、この感情がフォルクスゲマインシャフトを支える最も揺るぎない柱となったのでしょう。しかし、「アーリア人」のドイツ人が受ける資格のある保健福祉計画はコインの片面にすぎませんでした。その提供は、すべての個人をフォルクの単なる生物学的単位として扱う人種的・優生学的差別の原則にまさに左右されていたのでユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

 宅配弁当の宣伝が本当に増えた 個の自立を理念としての明確にしないと
 無印で衝動買いしたボールこれ面白い
 セブン-イレブンで宅配弁当の販売を始めるのは目に見えてる
 そしてその時にセブンイレブンは後悔する なぜコンビニ袋を辞めたのか 物流が完結しない!
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『13歳からのイスラーム』

コーランを知ろう

  • コーランってなに?

◆コーランの作者

ユダヤ教やキリスト教では「聖書」が、仏教では「お経」がそれぞれ重要な教えです。これと同じく、イスラームにも重要な教えがあります。それが「コーラン」です。では、このコーランの作者はだれでしょうか。

Qコーランの作者はだれ?

  • 神②天使③ムハンマド

くり返しになりますが、ムスリムにとって神は唯一で、世界を創造し統治する、他にはない重要な存在です。ムハンマドは名前を持つ一人の人間です。そのムハンマドが神から授かった言葉は、のちに一冊の本にまとめられました。それがコーランです。「朗誦されるもの(口に出して唱えるもの)」という意味で、アラビア語では「クルアーン」といいます。コーランはすべてアラビア語で記され、全部で114章からなっています。それぞれの章はさらにいくつかの節に分けられます。3節だけのごく短い章もあれば、200節以上の長い章もあります。

では、コーランの作者はだれになるのでしょうか。ムスリムの考え方では、コーランは、神が預言者を通して人間にあたえた一冊の書物です。それに従えば、答えは①ということになります。

◆ムスリムの4つの啓典

神に由来する書物を啓典と呼びます。ムスリムにとっての啓典は全部で4つあります。1つめは紀元前1200年ごろの預言者ムーサー(モーセ)が授かったとされる「律法の書(トーラー)」、2つめは紀元前900年ごろのダーウード(ダビデ)の「詩篇」、3つめは紀元前後の預言者イーサー(イエス・キリスト)が授かった「福音書」です。600年ごろの預言者ムハンマドを通じてもたらされた4つめの啓典が「コーラン」です。みなさんのなかには、「あれ?!?!モーセはユダヤ教で、イエスはキリスト教じゃないの?」と疑問に思った方がいるかもしれません。前にも触れましたが、イスラームとこれらの宗教はすべて一神教で強いつながりがあるのです。

なお、ここからはコーランの内容の解説になるので、先に第2部を読んでもよいでしょう。

◆神のお告げを書き留めたもの

さて、コーランははじめから現在のような書物の形になっていたのではありません。もともとは、ばらばらの短い啓示がムハンマドに伝えられたのでした。最初の啓示は、前章で説明したようにムハンマドが4歳のころに下されたと言われています。そのときのようすを伝える、こんな逸話があります。

ある日、ムハンマドは、メッカ郊外にあるヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていました。すると突然、何者かが目の前にあらわれて、「よめ」と言いました。ムハンマドは、文字の読み書きができなかったため、「よめません」と答えました。

すると、その訪問者は、ムハンマドの首をおそろしく絞め上げました。「よめ」「よめません」「よめ!」「よめません」。そんな押し問答の末、ムハンマドは観念し、「よめ」という言葉を繰り返しました。

すると、その訪問者は言いました。

「よめ、創造主であるあなたの主のお名前において。彼は人間を血の塊からおつくりになった。」

これが最初にムハンマドが受け取った神の言葉でした。そして、その訪問者は、啓示のなかだちをする天使、ジブリール(ガブリエル)だったということが後にわかりました。

以来、ムハンマドは20年以上のあいだ、ジブリールを通じて、いろいろな瞬間に啓示を受け取り、それを周囲の人びとに伝えました。人びとは、その言葉を忘れないように、木片やラクダの骨、ナツメヤシの葉などに書き留めておいたそうです。神の言葉がすべて集められ一冊の本の形になったのは、ムハンマドの死後20年を経た650年ごろだったと言われています。

コーランのなかの言葉は、神がムハンマドに伝えた順番で並んでいるわけではありません。たとえば、「よめ」に始まる、最初の啓示は、コーランの9番目の章「血の塊章」に入っています(1、2節)。言葉の順番は、神の意図の通りにムハンマドが生前に指示していたと言われています。

  • コーランの主題(1)―神のこと

◆コーランの4つの主題

ムスリムの人びとにとって、コーランのなかにある言葉は、すべて神に由来するもので、どれも大切なものです。そのなかにはいったいなにが書かれているのでしょうか。

コーランの主題は大きく分けて4つあります。1つめは「神のこと」。神とはどのような存在なのかが、コーランのさまざまな箇所で語られます。2つめは「現世のできごと」。この世界がどのように生まれたのか、天地創造や人間の誕生、それから神の預言者たちや使徒たちにまつわるできごとについて語られます。3つめは「来世のできごと」。ここでは、現世には終わりの瞬間があり、その後来世が始まることが示されます。最後は、「人間に対する神の命令」です。そのなかには、罪や断食など宗教儀礼にかかわる命令と、食事や装い、家族や社会のあり方など生活にかかわる命令があります。

◆開始の章のなかの神

コーランのなかでも、多くの人びとにとってもっともなじみ深いのが、「開始の章」と名づけられた第1章です。7節からなるこの章は、ムスリムが毎日の礼拝で必ず唱えるものです。礼拝を覚えたばかりの子どもたちでも、みんな知っている部分です。

  1. 慈しみ広く、情け深いアッラーのお名前において

◆ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム

  1. アッラーよ、あなたを称賛します、諸世界の主よ

ルハムドリッラーヒラッビルアーラミーン

  1. 慈しみ広く、情け深いお方

◆アッラハマーニッラヒーム

4.審きの日をとり仕切るお方

◆マーリキヤウミッディーン

5.わたしたちはあなたを崇め、あなたにこそ救いを求めます

イイヤーカナアブドゥワイイヤーカナスタイーン

6.わたしたちを正しい道へとお導きください

イフディナッスィラータルムスタキーム

7.あなたの怒りをこうむったり、道を踏み外したりしない、あなたが恩寵を授ける人びとの道へと

スィラータッラズィーナアンアムタ
アライヒムガイリルマグドゥービアライヒムワラッダーリーン

世界のすべてを創り出したのは、この唯一神である。天地を創ったのも、人間を創ったのもそう。そして神は、この世のすべてのものに対して優しく、良い行いには良い事柄で報いてくださる。ムスリムのあいだではそのように信じられています。

一方、神は厳しい顔も持っています。この世が終わるとき、神はすべての人の一生の行いを確かめ、人ひとりが来世をどこで過ごすべきかを判断します。善行を多くした人は楽園のある天国へ、悪行のほうが多かった人は灼熱の地獄へと送られます。

全能で、優しく、厳しい神。そんな神を崇め、そんな神に救いを求めてムスリムは生きていく。この開始の章のメッセージは、コーランのなかでその後もくり返されています。

  • コーランの主題(2)―現世のできごと

◆天地創造

天地や人類は、いつから、どうやって存在しているのでしょうか。コーランには、神による天地創造に関する表現がたびたび出てきます。たとえば、神が「あれ」と言っただけですべてのものがあらわれたという表現(2章117節)や《目に見える柱もなしに天を創り、地上にがっしりとした山を据えつけてあなたたちの足元がぐらつかないようにし、そこにありとあらゆる動物を散らばせた》という言葉(31章10節)などがあります。

コーランには、神が最初の人間であるアーダムとその妻を泥土からつくったとあります。神は2人にこう言いました。《アーダムよ、あなたとあなたの妻は楽園に住みなさい。そして、どこでも望むところで食べるがいい》。そのとき、一本の木についてだけ、こうつけ加えました。《ただ、この木に近づいてはならない》(7章14節)。

◆地上に降り立ったアーダム

コーランによると、神は人間を創造する前に、光から天使を、火から悪魔を創りました。悪魔は人間が自分よりも神から大切にされていることに不満を抱き、アーダムとその妻にこうした。

《おまえたちがこの木に近づくことを主が禁じたのは他でもない、おまえたちが天使となるか、永遠に生きる者となるからだ》。2人は悪魔に欺かれ、神に禁じられた木の実を食べてしまいました。すると突然、自分たちが裸でいることを恥じるようになりました。楽園の葉で体を覆い始めた2人を見て神は言いました。《私はあなたたちにその木を禁じ、悪魔はあなたたちの明白な敵だと言わなかったか。2人は楽園を追放され、地上に住むようになりました(7章20〜25節)。

神の言葉を預かり、地上に降り立ったアーダムは、最初の預言者となりました。その後、次のページで紹介しているヌーフやイブラーヒー、ユースフをはじめ、数多くの預言者があらわれました。コーランにはそれぞれの人物に関する物語が記されています。

  • コーランの主題(3)――来世のできごと

◆現世のおわりと来世

コーランのなかでたびたび言われているのが、現世(この世)にはやがて最後の日がやってくるということです。その日は「終末のとき」と呼ばれます。それがいつなのかは明らかにはされていません。ただしコーランには、その日、あらゆる天変地異が起こると書かれています。《そのとき、大地はぐらぐらと揺れ、山々は粉々にくずれ、ちりとなって吹き散らされる(5章4~6節)。さらに、太陽の光は失われ、星々は流れ落ち、海はふつふつと煮えたぎり(8章1~6節)、人は皆、死に絶える(50章13節)とあります。

突然、ラッパの音が鳴り響きます。それを合図に、すべての死者が墓場や死に場所から甦り、ぞろぞろと列をつくって、神の御前へと向かっていきます(50章4節)。これが「復活」と呼ばれるできごとです。神の前で人びとは生前におこなったことを記録した帳簿を手わたされます。コーラン〈もっとくわしく>によると、帳簿を右手にわたされた人は喜びいさんで天国へ行き、左手にわたされた人はいやいやながらも地獄に送られることになります。

「真実の日章」6章の2~3節には、次のようにあります。

自分の帳簿を右手に渡された者は言うだろう、「みなさん、私の帳簿を読んでみてください。私の善行が報われる日が来ると思っていた」。そして良い暮らしを送るのだ。天の楽園の中で。……だが、帳簿を左手に渡された者は言うだろう。「こんな帳簿はもらわなければよかった。自分の行いの報いなど知らないほうがよかった。(現世の死で)すべてがおわればよかったのに。財産も役に立たなかった。権威も消え失せた」。(地獄の番人に対して)おまえたち、彼を捕まえて縛れ。そして、灼熱の地獄にくべるのだ。

◆天国と地獄

天国は「楽園」と呼ばれます。コーランによると、そこには「水」、「乳」、「酒」、「艦」が流れる清らかな4つの川があり、豊かな木々にはあらゆる果実が実っています(4章15節)。楽園の住人は金の腕輪で身を飾り、上質の緑色の衣服を着て、毎日寝椅子に寄りかかり、ゆったりと過ごしています(1章3節)。おなかが空くこともありません。黄金の大皿や杯が回ってきて、そこから好きなものを飲み食いすることができるのです(4章7節)。

一方、地獄は「火獄」と呼ばれます。コーランには、地獄の住人が、首に枷や鎖をかけられ、湯や炎のなかを引きずり回される姿が描き出されています。

コーランの主題の最後、4つめは生活に関わるさまざまな決まりごとです。これは、次の章でくわしく説明します。

⚪コーランに登場する「旧約聖書」の預言者

●ヌーフ(旧約聖書のノア)

神を信じない人びとに最後の警告を伝えつかかれるために遣わされた預言者・使徒。彼の言葉ほろを聞きいれなかった人びとを滅ぼすために、だいこうずい神は大洪水を起こしました。ヌーフは神の命はこぶね令によって、箱舟をつくり、自分の家族とすべての動物の雄と雌を連れて船に乗りこみ、のが難を逃れました(23章23~30節)。

●イブラーヒーム(旧約聖書のアブラハム)

イスラームでは一神教の礎をきずいた、重要な預言者・使徒の一人として知られています。神からの試ぎせいささ練として息子イスマーイールを犠牲として捧げようしんこうあつとし、その信仰心の篤さを神に認められ、祝福されまいけにえす。左の絵は天使が息子の代わりに犠牲となる動物をもって降りてきたところ(37章83~113節)。イブラーヒームは後にイスマーイールとともにメッカにカアしんでんバ神殿を建設しました(2章125~127節)。

●ユースフ(旧約聖書のヨセフ)

コーランの中で、ユースフの物語は「もっとも美しねたい「い物語」と言われます。兄弟に妬まれ、幼いころに井戸に捨てられたユースフは、商人に拾われ、エジプトの大臣に売られます。大臣の家で美しく、知識の豊富な若者に成長したユースフに、大臣の妻が思いを寄せます。右の絵はこの物語を土台にして、1540年ごろのイランで描かれたもの。ユースフのあまりの美しさに大臣の妻の友人たちが驚いているところです(12章)。

イスラームと他者

  • イスラーム社会を支えるしくみ

◆寄付は当然の行為

この章では、イスラーム世界を支えるしくみについて見ていきましょう。

巡礼などと同じように、ムスリムの義務とされたものに「喜捨」があります。「喜捨」とは、他人の利益のために寄付をおこなうことで、アラビア語ではザカートあるいはサダカとよばれました。をして他人を助けることは、当然ながら善い行いとされ、来世で天国に行くためにも必要な行いと考えられていました。そのため、義務として強制される喜捨(ザカート)だけでなく、自発的な喜捨(サダカ)もさかんにおこなわれていました。とくに、支配者や大商人など裕福な人びとにとり、自発的な喜捨をおこなうことは天国に行くためだけでなく、自分たちが善きムスリムであることを社会に示し、権威や名声を保つためにも重要なことでした。

◆ワクフのしくみ

自発的に喜捨をおこなったことを広く社会に示すために、ムスリムはアラビア語で「ワクフ」とよばれるしくみを用いました。ワクフは、自分の土地や建物をアッラーにささげ、だれの手にもわたらないようにし、土地や建物が生む利益を末長く他人のため、社会のために活用できるようにするしくみでした。

たとえば、畑の持ち主は、自分の畑をアッラーにささげ、畑で栽培した作物、あるいはその作物を売ることで得たお金をモスクの運営のために役立てました。あるいは、建物の持ち主が、自分の建物をアッラーにささげ、建物を人に貸して得たお金(賃料)を学校の運営のために役立てることもありました。また、ワクフにより運営された施設には、その施設を建設し、土地や建物を喜捨した人びとの名前が付けられました。これにより、その人が喜捨をおこなった事実が広く社会に知らされ、来世のみならず現世における利益ともなったのです。

下の絵は、エジプトのモスクの内部のようすです(1840年代)。ワクフによって運営されたこの建物は、学校の機能も兼ね備えた大きな複合施設で、たくさんの人がここで勉強しました。

◆社会を支えたしくみ

ワクフというしくみがイスラーム社会で広まったのには、ムスリムとして善い行いをしたいという思いのほかにも理由がありました。それは、自分の子孫にまとまった財産を残したい、という思いです。ワクフによりアッラーにささげられた土地や建物には、有給の管理人を置くことが定められていました。その管理人の仕事を子孫が代々受け継ぐことにより、子孫の生活を保証することができましたし、ワクフによりアッラーにささげられた土地や建物は以後、他人の手にわたることが禁じられたため、財産が一族の手を離れる事態も防ぐことができたのです。このように書くと、ムスリムは個人の利益のためだけにワクフを利用したと思うかもしれません。しかし、ワクフにより数多くの公共の施設が支えられていたことは紛れもない事実です。また、一族の生活を守るためにこのしくみが使われた場合も、一族が死に絶えたときには、孤児など苦しい立場の人びとのために役立てると決められていました。

ワクフを通じ支えられていたのはムスリムだけではありませんでした。たとえば、水飲み場などイスラーム社会全体に不可欠な施設を維持するためにも用いられました。キリスト教徒やユダヤ教徒などムスリム以外の人びともまたこのしくみを用いて、自らの財産を守るためだけでなく、公共のために土地や建物を活用していたのです。

  • ムスリム以外の人びととの関係

◆共存のしくみ

第3部の冒頭で見たように、ムスリムに征服された土地の人びとがイスラームに改宗するまでには、い時間がかかりました。また、イスラームに改宗しなかった人びともいました。歴史上のイスラーム社会はムスリム以外の人びとの存在を当たり前と考える社会だったと言えるでしょう。

イスラーム社会の支配者はムスリムであり、イスラームはその他の信仰よりも優位に立っていました。そのことをムスリム以外の人びとが認めさえすれば、平和に共存するためのしくみがイスラーム社会にはありました。ムスリム以外の人びとはイスラームの保護(ズィンマ)の対象、すなわち庇護民(ズィンミー)となり、信仰の自由が認められ、生命や財産も保障されました。ズィンミーとなりえたのは、当初はイスラームと同じ一神教であるユダヤ教やキリスト教の信者のみでしたが、後にはそれ以外の宗教の信者がズィンミーと認められる場合もありました。

◆ズィンミーの苦労

しかし、ズィンミーとして生きることは、ムスリム以外の人びとにとって良いことばかりではありませんでした。常にそうするように強制されたわけではありませんでしたが、彼らはさまざまな決まりごとを守らなければなりませんでした。

たとえば、ムスリムと簡単に区別できるように定められた服装をすること、特定の色(預言者やイスラームに深い関わりのある緑色)を使用しないこと、武器を持ち歩かないこと、さらには馬に乗らないことなどが定められていました。現在は、このような決まりは廃止されています。

 夢の中で詳細から概要に移るような指示があった
 詳細から 概要を作り出す決意
 なんとなく この壁紙(8月2日)だけで生きてる感じ #早川聖来
 なんとなく 60年前のロシア版 『戦争と平和』の舞踏会のシーンを思い出させる #早川聖来
 ヒントはムスリムにありそうです アラーは偉大なり そのアラーを内に持つ私も偉大なり 後段部分を言い切れないムスリムが変わらない
 おかわりはいつもワンモアアイス
 しーちゃんがプログラミングスクールの単独コマーシャル 電算部はアセンブラー から始まった。12技術部は8x ともに機械言語 だからロジックはよくわかった

 豊田市図書館の8冊
  209『人類の歴史を変えた8つのできごと Ⅰ:言語・宗教・農耕・お金編
209シ『人類の歴史を変えた8つのできごと Ⅱ』民主主義・報道機関・産業革命・原子爆弾編
302.25『インド グローバル・サウスの超大国』
302.27『「アラブの春」の正体』欧米とメディアに踊らされた民主化革命
135.23『情念論
317.3『公務員の「お仕事」と「正体」がよ~くわかる本』
162『宗教が変えた世界史』ビフォーとアフターが一目でわかる
302.27『獅子と呼ばれた男』
304『日本の歪み』
134.97『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』
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『数学者たちの黒板』

 『数学者たちの黒板』

なぜ数学者には黒板が必要なのか
フィールズ賞受賞者を含む数学者109人の板書の写真その黒板にまつわるエッセイを収録。数学者たちの黒板への情熱に溢れた、唯一無二の「数学エッセイ」×「黒板の写真」集!

数学者は数学が何かを知っているが、彼らにとって、それを説明するのは難しい。私が数学について見聞したことを挙げてみよう。数字は、演繹法と抽象化を用い、古い知識から新しい知識を創造する技術だ形式的なパターンの理論」「数学は数の学問」「自然数や、平面と立体の幾何学を含む分野」「必要な結論を導き出す科学」「記論理学」「構造に関する学問」「時を超えた宇宙の構造を説明する「論理的なアイデアの詩」「公理の集合から、命題あるいはそれらの否定の集合までに至る、演繹的な経路を探す手段」「目に見えない、想像の中にしか存在しないものに関する科学」「正確な概念装実在のものであるかのように扱うことができるアイデアの学問」「明示的な構文規則に従い、一次言語の無意味な記号を操作すること」「理想化された対象の性質とその相互作用を調べる分野」「目的のために発明された概念と規則を用いた、巧みな演算の科学」「何がおそらく正しいのかに関する予想、問い知的な推測、発見的な議論」「多大な労力の上に作られた直観」「我々の文明によって構築された、貫性のある、最大の人工物」「完成に向かうにつれて、あらゆる科学がそうなるもの」「理想的な現実」「たかだか形式的なゲームにすぎ「ないもの」「音楽家が演奏をするように、数学者がすること」。

数学のことを、「何千年にもわたって書き綴られてきた物語で、常に加筆され、決して完成することのないもの」と捉える数学者もいる。これほど古い『経典』はないだろう。数学は、人類が自身について書き残している記録であり、歴史以上の長さを持つ。歴史には、修正されたり、改ざんされたり、消されたり、失われる可能性がある。でも、数学はずっと変わらない。A-B-Cは、ピタゴラスが彼の名前をつける以前から真であり、太陽がなくなっても、そのことを考える人が誰もいなくなっても真だ。そのことを考えるかもしれない、いかなる地球外生命にとっても真であり、彼らがそれについて考えるかどうかに関係なく、真だ。数学を変えることはできない。上下左右、空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在であり、いかなるものよりも真だ。

バートランド・ラッセルは数学のことを、「私たちが何について話しているのかも、私たちの言っていることが正しいのかどうかも、「分からない学問」と言った。他の科学者の言葉についても言及しよう。ダーウィンは、「数学者とは、真っ暗な部屋で、そこにいない黒猫を「探している盲人だ」と言った。ルイス・キャロルは、四則演算(足し算、引き算、掛け算、割り算)を、打算、注意散漫、醜怪化、あざけりと書いている。状況を複雑にしているのは、数学を、特に高等な範囲で、理解するのが難しいことだ。それは、単純な共通言語(数を数えることは誰にでもできる)として始まったが、専門化された方言に変わり、あまりにも難解になったため、世界で数人しか話せなくなってしまったのだ。

これらはいずれも、私自身の考えではなく、常套句のようなものだが、そうだとしても私は数学に惹かれる。数学者たちは、確かな世界の中で生きている。他の分野の科学者も含め、残りの人が住んでいる世界において、確実性とは、「自分の知る限り、ほとんどの場合は、このような結果が起こること」を示す。証明に対するユークリッドの主張のお陰で、数学では、分かっている範囲内で、毎回、何が起こるかが分かる。

数学は、謎を説明するために私たちが持っている、最も明示的な言語だ。物理学の言語としての数学は、実際の謎(自然界で、はっきりとは分からないが、正しいと推測し、その後、正しいと確認される謎)架空の謎(数学者の心の中にのみ存在するもの)を記述するものだ。

では、これらの抽象的な謎はどこに存在するのだろう?その縄張りはどこか?人の心の中に住んでいると言う人もいるだろう。つまり、数学的対象(数字や、方程式、公式など、数学の用語集や装置全体を意味する)と呼ばれるものを思いつき、それらを存在せしめているのは、人の心であり、それらの振る舞いは、私たちの心の構造を反映したもの、ということだ。私たちは、自分の持っているツールと整合する形で、世界を検証するように導かれている(例えば、私たちに色が見えるのは、表面からの光の反射をそう捉えるように脳が構造化されているからだ)。これは、確かな情報に基づいてはいるが、少数派の見方であり、神経科学者や、根本原理に偏った一定数の哲学者や数学者が、主に持つ考えだ。(ほんの少しかもしれないが)より広く支持されているのは、数学がどこに存在するのかは、誰も知らない、という見方だ。どこかを指さして、「数学はそこから来た」、と言える数学者や自然主義者はいない。数学は、私たちの内面以外のどこかに存在し、創造されるものではなく発見されるものだという信念は、プラトンの信念にちなんで、プラトン主義と呼ばれる。彼は、時空を超えた、完璧な形をとる領域が存在し、地球上に存在するものは、その不完全なコピーにすぎないと信じた。定義上、時空を超えた領域は常に存在してきたもので、時間と空間の外側にあり、いかなる神が創造したものでもない。第3の見方は、数学は神の心の中に宿るというもので、歴史的にも現在においても、少数ではあるが無視できない数の数学者がそう考えている。集合論の創始者であるゲオルク・カントールは、「神の持つ最上の完璧さは、無限集合を創造する力にあり、それを可能たらしめるのは、その計り知れない高「潔さだ」と述べている。そしてシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、「神の考えを表すものでなければ、方程式は私にとって意味をなさない」と言った。

芸術家のように、数学者はしばしば、自分の知識の縁、すなわち、薄明かりしか差し込まない領域で研究する。取り組む価値のある問題に到達することは、時に、内面の冒険であり、多くの努力を必要とし、多くの領域を包括する。すべての冒険が意識的なものではない。古くて、由緒ある問題に向き合うのは、最後の砦に立ち、(それを試みた他の多くの人たちの報告によると)不可能に見える状況で、攻撃の計画を立てるのと少し似ている。

ワインの写真は、複雑な数学的推論の領域から厳選されたものの集まりだ。人間の思考の最前線、すなわち、まだ検討中で、現在進行形の問題を表した写真もある。説明的な写真や、物語的な写真、推測を含んだ写真もある。数式や描画は、あたかもそれ自身が生きているかのように揺れている。若い頃にLSDを服用し、小さな木片に書かれた、かろうじて読める文字を見て、「これが理解できれば、すべてが理解できるだろう」と考えたときの幻覚を思い出す。

これらの図を描き、公式や説明を書いた人々は、すべてを理解しているわけではないとしても、新しい知識を追究している。追究の多くは、数学を拡張する以外に実用上の目的はないかもしれない。とはいえ、控えめに言っても、彼らが研究していることは、これまでに誰も知らなかった何かである可能性がある。

黒板に書かれたものは、記号であり、これらの記号に残された指針を辿れば、そのときの思考の結論に戻ることができるし、一連の思考を再構築することもできる。黒板に書かれた文書は、数学という普遍的な言語以外では互いに話すことができない人々によって、世界中のどこででも再構築することができる。黒板に書かれたものを消してしまっても、それらは、数学という大薯の中の項目として、依然として存在するだろう。

これらの写真は、何年にもわたる研鑽と思考を記録したものだ。肖像画がそうであるように、そこには、心の状態や性格、内面の働きに関する何かが体現されている。飾り気のないこれらの写真を見ると、20世紀初頭にディスファーマーがアーカンソー州のアトリエで撮影した、農家と農作業員、その家族の写真を思い起こす。ワインの撮影した、これらの図表や方程式は、ディスファーマーの写真のように、あなたを見つめ返す。まるで撮影されたものの本質を明らかにするかのように、余分なものを取り除いた質を帯びている。あたかもワインがダンスの流れを辿ったかのように、そこには、思考が行われた、活気に満ちた様子が描かれている。彼女は目を閉じて、1行1行を追っているようだ。写真には、文書のような固定化された感覚があるが、その文書を書いた手の動きも感じ取ることができる。それらはすべて、数学者が、歴史的に、美と関わりを持ってきたことを象徴している。ある生き物と、そのホームグラウンドで遭遇したような臨場感もある。あまりにも魅力的で、ワインが最初に見たときに息を呑むほどだったであろうと思える黒板の写真もある。彼女の関心は、形式的な外観だけでなく、それぞれの黒板が示唆する意味の層にも及んでいる。それらの第一印象には、はっきりした意味があるが、消去された跡や、描き直されたもの、推論が進展してゆく過程には、さらなる意味があり、時間の経過とともに明らかになってゆくかのようだ。

数学者のアラン・コンヌは、数学において「存在する」という語は、矛盾の対象とならないことを意味する、と言った。これらのエレガントな写真には、人の厳密な思考というキャンバスに描かれた絵が、詳細に保存されている。

全体として、これらの写真はある種の証言であり、人の思考がより高い能力を持つことを信じた記録だ。ほとんどの抽象的な数学がそうであるように、たとえ明確な形で役に立たなくても、そのよらな推論的な思考には価値がある。時に詩人が、自分の文章を、散文よりも高尚なものと見なしたように、純粋数学という呼び名には、19世紀の俗物性の意味合いが(おそらく意図的に)含まれる。そうは言っても、純粋な思考と実践的な思考は区別しなければならない。それは、例えば、詩と簡単な報告書の間に存在する区別のようなもので、プラトンも同様の区別をしたであろう。数学が芸術なのか科学なのか、あるいはその両方なのかを判断するのは難しい。

 奥さんへの買い物依頼
ヨーグルト     129
ショルダーベーコン      325
ごはんパック 399
油揚げ         79
かき揚げ      150
キャラメルコーン         59
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『シリア・レバノンを知るための64章』

『シリア・レバノンを知るための64章』

ワイン源流の地

  • レバノンワインを楽しもう★

レバノンを初めて訪れたのはアメリカで1年を過した帰り途、1975年の6月だった。この国が十七年戦争とも名づけた長い内戦に突入する直前、すでに不穏な情勢であった。

しかしベイルート入りした3日後、私たちは幸いにも一気に千メートルのベカー高原を昇り、聖書の時代からあこがれをもって眺められたという美しいレバノン山脈や葡萄畑を、反対側には荒寥とした赤土の谷間などに見とれながら1時間半、世界最古の町シリアのダマスクスに通じる道を走り、バアルベッンの町に到着した。

バアルベックの遺跡は不思議な複合神殿アクロポリスである。そもそもはフェニキア人(レバノン人の祖先)が自分たちの神バアルを祀った地だったが、ギリシアの時代が来ると彼らはここを太陽の町(ヘリオポリス)と名付けた。次に来たローマ人たちはこの地に最大規模の複合神殿を建立した。

西暦60年ごろにまずジュピター神殿ができ、その150年後にはバッカスとヴィーナスの二つの神殿が完成した。葡萄とワインの神バッカスを祀る遺跡が現存するのはバアルベックが世界でただ一ヶ所という。

私のワインに対する好奇心は、実はその半年ほど前から始まったのだった。カリフォルニア・ワインが禁酒法の不遇をようやく脱して、かなりの味わいを誇るブランドや名門ワイナリーがテレビで宣伝され始めた頃だったので、私は何冊かの本を買い込んでアメリカだけでないワイン世界とその歴史に興味を持つようになった。

ワイン発祥の地についても、グルジア、アナトリア、メソポタミアとある中にレバノンの山々という説があったのを記憶していたし、イエス・キリストが結婚の祝宴で水をワインに変えたあの奇蹟の起きた村、ガリラヤのカナがベカー高原に近い事実にも気がついた。

もしかして、レバノンこそワイン源流の地ではなかったのか?

その時は拡がる好奇心を満足させることもできずに帰国したのだが、やがて私は物書きとなり、フランス、イタリア、スペインなどワインの取材に出掛ける幸運に恵まれた。しかしレバーを再訪するようになったのは、二十余年を経た90年代末からだった。

一方で「ワイン源流の地・レバノン」説についての勉強は山形孝夫先生(宮城学院女子授)の著書『レバノンの白い山』のおかげで、私の中では確かなものになっていた。

レバノンは旧約聖書の中ではカナンの地として登場する地域に全土が入ってしまう国でもあり、古代イスラエルの神が何としても自らの民のために獲得したいミルクと蜂蜜、そして美酒ワインに象徴される土地だった。

ことにワインはエジプト王朝全盛期から引っぱりだこの人気だったし、中世ヨーロッパでも贅沢で高価なものとされたのがカナン産だった。しかしそれは当然であり、この地にはバッカス神殿ができる前に、先住の神として人々の厚い信仰を集めていたバアルクの主、バアル神が存在していたからだ。彼こそがワインと深い関係にある神だった。

――紀元前13世紀頃彫られたバアル神のレリーフは、現在はパリのルーブル美術館に収まっているが、発掘されたのは1928年、ベイルート北方の丘だった。神殿跡や楔形文字でびっしりと神話が記された粘土板など、大量の出土品があったという。

その楔形文字はウガリット語といわれる言葉でそれまで未知のものだったが、学者たちの熱烈な研究のあげく3年で解読され、3000年以上も埋もれていたバアル神話が現代の光を浴びたのだった。バアル神は古代オリエント世界の農耕神であり、大地に雷鳴を轟かせて雨をもたらし、万物の生命を蘇らせる主だ。カナンの地は沙漠に生きるイスラエルの民の憧れであり、緑濃い作物の豊かに実る肥沃な土地であった。この地に暮らす人々は平和と子孫繁栄を願う農耕民族であり、バアル神も同じくペアの神アナトと結婚し家族を守る優しい神だった。

しかし人間を生かす穀物は一年草の実であり、一年毎の儚い生命である。人間の関係もやがては滅びるものだ。ところが血は子孫に伝えられて何年も生き続ける。その事実こそがキリストの言葉ならずとも農耕文化の中でワインを造る人間存在の証ではないだろうか。ワインは農耕社会の絆とも要とも言えよう。

バアルにはモトという弟があり、彼は火の空を支配して大地を干上がらせてしまう神である。彼は壮絶な戦いを繰り広げるが、やがてバアルの方が力尽きて屍を野にさらす。すると大地は旱魃し、野山は枯れ果ててしまう。

ペアの女神アナトはバアルを失った悲しみにくれて野山をさまよい歩き、ようやく彼の亡骸を見つけると、さめざめと泣きくれる。するとアナトの涙は、何と、尽きることのない芳醇なワインであった。彼女は目から溢れ出る悲しみの水、ワインの中でバアルの復活を願い、モトへの復讐を誓った。アナトは大地母神であると同時に勝利の女神であり、豊穣と多産の象徴として乳房がたわわに実る葡萄でできていた。

モトは息の根を止められて、やがて干からびた大地に雨が降り注ぎバアルは復活する。穀物神バアルに連続した命を与えるのは、アナトの流す涙、ワインだったのである。

ワインをめぐるこのレバノン神話に魅せられた私はやがて十年足らずの間に4回もレバノンを旅することになった。私にはかつてベイルートで日本料理店「ミチコ」を経営していた姉がいた。不幸にして彼女は突然に亡くなり、その後だったが、友人たちが私のワトリー訪問の世話をしてくれたのだった。

シャトー・ケフラヤは内戦の真最中にフランスから醸造技術者などのスタッが移住し、この国にフランス流のワイン造りを指導して、西欧で80年代の終わりから毎年さまざまな賞を獲得するようになったワイナリーだ。いわばレバノンにワイン・ルネッサンスをもたらした名門であるという。

私は日本から十数人のツアーと共にシャトー・ケフラヤを訪ね、レバノンの人々は料理との相性で白を好むことを知った。フランス流の赤もなかなかおいしく、当時は日本にも輸入されており、愛飲していたのだが……

このときは十九世紀半ば開設のシャトー・クサラも訪問した。このワイナリーの造るワインは多岐にわたり、フランス種はもちろんスペイン系のテンプラーニョも、アルザス流のゲヴェルツトラミナーもおいしい。さらに古代からの貯蔵庫かと思うような洞穴じみたカーヴへのツアーも楽しいものだった。

2003年に夫と娘と訪ねた時は、98年開設のシャトー・マサヤへ案内された。フランス人との共同経営と聞いたが、若い当主ゴスン氏自らの案内でワイナリーの敷地にあるレストランで、主に赤(ムールヴェルドなど)を味わった。

新しいワイナリーの心意気をことさらに感じたのは、ワインそのものの故か、ゴスン氏の印象だったのか、興味深い体験だった。

さて私がレバノン・ワインについて最も大切なことを学んだのは、2005年国際交流基金の機関誌『遠近』の仕事で、すでに西欧の多くのワイン評論家が「世界におけるグレート・ワイン」と賞賛するシャトー・ミュザールのオーナー、セルジュ・ホーシャル氏と対談するために彼の地を訪問した時のことだ。

最初にワイナリーを見学に行った私を、葡萄畑から工場も貯蔵庫もテイスティングまで、すべてホーシャル氏自信が案内して下さった。私は「レバノンの自然の味」という言葉を新たに耳に止めた。翌日は日本大使館が氏のために晩餐会を催してくださったので、かなり長時間にわたってお話することができた。

さて、対談はそれまでに私が学んだワイン体験を全部合わせても学べなかったほどの、ワイン造りの哲学から古代の歴史、そしてレバノンの土壌や山々、太陽の光の特殊性から宗教にまで及び、私は氏によって奥深いレバノンのワイン世界に入り込んでしまった。

「レバノンでは一度葡萄を搾ったら手をかけないワイン造り」であり、「この国には植物の病気がなかった」。さらに「レバノンは薬用植物の最大輸出国の一つであるほど生物学的多様性に恵まれています」などの言葉が忘れられない。さらに私が最も感動したのは次の言葉だった。

「この国は度重なる破壊を受けてきたが、もし私たちが復興しなければ、ここはただの難民の国になってしまう。戦争によって民族の心は引き裂かれても、ワインは民族的感情を癒す大切なものだ。ただの歓びを越えて今日と深く関わり、破壊の時に創造があることを、無政府状態のときに秩序があることを示してくれた。そして死と再生はめぐり来るものだということも、そもそもはバアヘックで示されたように、今またワインが明らかにしつつあると思う」。

今日レバノンではワイン造りが活撥になってきている。世界各地……日本でも盛んだ。

この現代においてこそ、ワインの源流はレバノンであることを思い起し、私たちはレバノンワインに深く親しみたいと思う。

世界に広がるレバノン・シリア移民

★際立つ存在感と深刻な頭脳流出★

「兄はドイツで医者、母方従妹はアメリカの大学で研究していて、父方の叔父はオーストラリアで貿易をやっている。曾祖父から分かれた別の親戚は3代にわたってブラジルで商売、はスーパーのチェーン店を経営している。」シリアでもそうだが特にレバノンで、こんな話を耳にすることが多い。かつて、日本の商社マンが高度成長期に世界各地に出かけて事業を展開したとき、あちこちで地元の手ごわい商業ネットワークと対峙したのだが、そこで「レバ・シリ商人」はインド・パキスタン系の「イン・パキ商人」や「ユダヤ人商人」「華僑」よりも商売上手だと話題になったという。

レバノン・シリア移民とその子孫はさまざまな分野で非常に目立っている。際立った人物を思いつくままに挙げてみよう。ビジネス界では、まず世界長者番付第1位のカルロス・スリーム。(資産690億ドル=6兆9000億円で、東京都の一般会計予算を超える!)1940年メキシコシティ生まれ、父親は南バノン山間部の出身で1902年メキシコに移民、母方祖父はベイルート近郊の出身でメキシコ初のアラビア語新聞社の創業者。カルロス氏自身はメキシコの電信会社経営から事業を拡大した。今やニューヨーク・タイムズ紙の大株主でもある。日本でおなじみのカルロス・ゴーン(アラビア語名ゴスン)日産CEOは、1954年ブラジル生まれのレバノン移民3世。小・中学校を中心に1年間をレバノンで過ごし、1971年に高等教育を受けるためフランスに移った。コピー印刷や製本で世界的なチェーンを展開するフェデックス・キンコーズ創業者のポール・オルファリーは、カリフォルニア生まれのレバノン移民2世。アップル創業者の故スティーブ・ジョブズは、アメリカで生後すぐに離別した実の父親がホムス出身の政治学者なので、シリア移民2世と言える。

政界では、アメリカ大統領選に二大政党以外からの候補として顔を出す消費者運動家のラルフ・ネーダー(ナーデル)はレバノン移民2世で、1989年から10年間アルゼンチン大統領を務めたカルロス・メネム(マヌアム)は両親がダマスクス近郊出身、2010年のトヨタ車リコール問題でその厳しい姿勢により有名になったアメリカ運輸長官レイ・ラフードはレバノン移民3世である。ブラジルには「レバノン系国会議員団」という40人ほどの組織がある。

文化・芸能・(医)学界・ファッション界など数え始めるときりがないが、こうした著名人を別にしても、世界各地のレバノン系・シリア系の人々は、概ね経済的に豊かな生活を確立しているように見える。中には失敗して表に出ない人々もいるだろう。しかしこの目立ち方は尋常ではない。もちろん傑出した人たちは、その才覚・努力や育った環境が重要なのであって、人種的に優れているという話では毛頭ない。ただ、レバノンとシリアの国内人口それぞれ400万人、2300万人を考慮すれば、実に注目すべき現象なのである。

もう一つ在外人口の動きを象徴する例を挙げよう。2006年7~8月イスラエル軍は対レバノン戦争で真っ先にベイルート空港の滑走路を爆撃したため、外国人の避難が大問題になった。欧米諸国は艦船を送って自国民の救出に努めたのだが、そこでわかったのは、当時レバノンにはカナダ人が5万人、オーストラリア人とアメリカ人が各2万5000人、イギリス人とフランス人が各2万人余りいたことである。大半はそれらの国のパスポートを所持して夏休みに帰省していたレバノン移民とその子孫だった。(なお、外国人労働者としてスリランカ人8万人、フィリピン人3万人がいた。)

それでは現在、世界のレバノン・シリア移民(とその子孫)の人口はどれほどなのか。正確な統計的データはどこにもなく、雲をつかむような話になるが、レバノンについてのある推計によれば、中南米に858万人(うちブラジル580万人)、北米に257万人(うち合衆国230万人)、西欧、オセアニアにそれぞれ4万人、湾岸アラブ諸国に35万人、西アフリカに7万人で、全世界に1200万人という数字が現れる。ブラジルでは、そこだけで1000万と言われていて、いかにも誇大な推計に見える。一方で、レバノン国内人口がざっと400万人なので、世界全体でもせいぜいその程度だろうという推測もある。この推計のバラつき自体が政治性を帯びているのだが、これほど混乱する理由はいくつかある。これまでの移民の歴史をざっと眺めながら考えてみよう。

レバノン・シリアから本格的な移民が始まったのは19世紀末で、その後第一次世界大戦までが第一波の時期で、東・南欧からアメリカ大陸への大量移民の時期と同じである。移民の大半は、レバノン中北部の山間部とシリア中部のキリスト教徒の農民で、南北アメリカを中心に、西アフリカ、オセアニアからフィリピンまで、当初からグローバルな移住が進んだ。当時レバノンもシリアも国としては存在せずオスマン帝国領だったので、各地で「トルコ人」と記録された。このためレバノン系移民を語りながらシリア系移民も含めたり、その逆が起こったりする。

また移住先では名前が変わることがしばしばだった。「ユースフ・ファフリー」が「ジョセフ・フェアリー」になると、名前からの追跡は難しくなる。運よく移住先の移民管理局の記録が残っていても、ほとんど役に立たないのである。ギリシア正教の移民は移住先でロシア正教会に、マロン派はローマ・カトリック教会に吸収されて独自の教会を持たないケースもあったので、教区資料もない。さらに南北アメリカで顕著だが、他のエスニックグループとの結婚が進むと、世代を経るにつれて「レバノン人」なり「シリア人」なりのアイデンティティは急速に薄らいでゆく。

この移民第一波の時期、大金を稼いで帰還する者もいたが、は家族を呼び寄せて永住し、結果的に一族もろとも移住して、出身村の人口が激減することが多かった。長い船旅の末、移住先にたどり着いた農民は、ほとんどの場合、まず行商から身を起こし、徐々に資金を築いて(世代を経て)都市中心部の商店街に卸や小売りの商店を持ち、各地で社会上昇を遂げた。

移民第二波は、レバノン、シリアとも独立して20年ほど経った1960年代で、主にオイルブームに沸く湾岸産油国に向かうものだった。ムスリムの比重が高く、社会インフラが立ち後れた湾岸諸国で、石油産業の管理運営や技術部門、教職や行政職、商業に従事した。出稼ぎの感が強く、距離的な近さから頻繁に一時帰国する例も多かった。またイスラエル建国前後からユダヤ教徒の移住が続いていたが、1967年の第3次中東戦争は決定的なプッシュ要因となった。この時期、宗教を問わず南北アメリカへの移民も続いていた。

第三波は1975年から1990年までのレバノン内戦期、そしてそれ以降の政治的不安定期である。レバノンでは高水準のフランス語・英語教育が行われてきたため、若者が単身で、あるいは家族と一緒に主に西欧・北米・オーストラリアに流出することとなった。ムスリム・キリスト教徒を問わず、おそらく人口の4割が、間断ない戦闘による閉鎖の合間を縫ってベイルートの空港から、あるいは陸路でシリアやヨルダン、海路でキプロスに向かい、そこの空港から、あるいはレバノン沿岸港からの密航船で、続々と戦火を逃れた。内戦後に戻る者も多かったが、欧米で活躍の場を見つけた者はそこで永住する方向だ。また内戦後も移民は依然ハイペースで続いており、おそらく50万人近くがレバノンを離れたとの推定がある。シリアからも高等教育を受けた若者の留学と移民が相次ぎ、頭脳流出は今日まで深刻な問題である。

そして2011年以来、動乱のシリアからトルコやヨルダン、レバノンに、そのレバノンからさらに欧米に向けて、新たな難民・移民の人口流出が始まっており、これが第四波となるであろう。

在外レバノン系・シリア系の人々は、送金や投資などを通じてその経済的支援が本国で期待されるだけでなく、レバ人有権者の帰国投票行動(そのために湾岸諸国から莫大なカネが流れて無料航空券が世界各地で配布される)やシリア反体制派の運動など、双方向的にさまざまな力が交錯する空間を作り出している。

一方、長期的な観点からすると、移民はこの地域のキリスト教徒とユダヤ教徒の人口比率を著しく低下させ、宗教的多様性が失われてゆく過程にある。同時に誰がレバノン・シリア人なのか、という問題が世界的に拡散しているのである。

スンナ派とシーア派

★国が変れば立場も変わる★

世界のイスラーム教徒の大多数を占めるスンナ派と、1から2割を占めると言われるシーア派との間の教義の違いやそれぞれの成立の歴史については、事典類の解説に譲り、本章では主にシリア・レバノンにおける両宗派の位置と今日の問題について扱う。ドルーズ派やアラウィー派、イスマーイール派など、シーア派からの分派とされる宗派については、それぞれの章をご覧いただきたい。

預言者ムハンマドの没後3年目の635年、初代正統カリフのアブーバクルの時代にムスリム軍がダマスクスを占領し、それまでビザンツ帝国領だったこの地域のイスラーム化が始まった。661年からダマスクスに都をおいたウマイヤ朝は、現在の国で言えば東はパキスタンから西はスペイン、ポルトガルとモロッコに至るまでの大帝国を築いた。歴史地図帳を見ると、圧倒的な軍事力による「大征服」で、この広大な領域の住民が一気にイスラーム化したかのような印象を受けるかもしれないが、この時期、まだムスリムは少数派で、多数の異教徒を支配する形だった。一方、この段階ですでにウマイヤ家の支配の正統性を否定する一派が、今日私たちが「シーア派」と呼ぶ宗派として出現していた。

ウマイヤ朝は、750年にアッバース朝に取って代わられるまでの約90年間、「歴史的シリア」の中心都市ダマスクスを都として繁栄したのであるが、この歴史的事実はシリアの(特にスンナ派の)ムスリムたちにとって誇らしい、重要なよりどころとなる意識を植え付けたと言える。イスラームの共同体は、アラビア半島という生態的に厳しい環境に生まれ、世界中に拡大することになったが、最初に「歴史的シリア」という肥沃な農業地帯に多くの人口を擁する地域に政治的中心を移し、一挙に版図を広げたのである。

この当時からメッカへの巡礼路には、イラン・イラク方面からアラビア半島の沙漠を縦断するルートや、エジプト方面から紅海を渡り沿岸を進むルートなどいろいろあったが、都のダマスクスから陸路南下してメッカに向かうルートが一番主要なものだった。これは時代が下ってオスマン帝国の時代になっても変わらなかった。都のイスタンブルをはじめアナトリア方面からメッカ巡礼する際、ダマスクスは陸上ルートの最後の拠点都市として位置づけられた。毎年巡礼月が近づくと、何千人もの巡礼者が各地から集まり、町は1ヵ月以上にわたり祝祭的な雰囲気に包まれた。出発の日には華々しく飾り立てられた千頭単位のラクダがキャラバンをなし、楽器が多数鳴らされるなか、ダマスクス総督が先頭に立ち、護衛の軍勢を従えて、長い列をなす巡礼団が賑々しく南に向かった。メッカまで4日弱の行程だった。

ダマスクスとアレッポという主要都市の中心の大モスクが、ウマイヤ朝期に建立された「ウマイヤ・モスク」であることは、以後今日に至るまで14世紀間にわたりイスラームが絶えることなく生活に根付いてきたことを、常に思い起こさせる。ユダヤ教やキリスト教に比べれば新しい伝統ではあるものの、世界中のムスリム社会を眺望すると、シリア・レバノンのムスリム社会が最長の時間的伝統の上に成り立った地域の一つであることは明らかである。そして今日のシリアとレバノンの地域を総体で考えれば、ここで約8割の人口を占めているのがスンナ派であり、密度の差こそあれ、ほぼ全域に分布している。正統派の宗教として、地域全体に浸透・定着してきたことは疑いようがない。

ただし、この地域の地中海沿岸の山地に国境線を引いて、レバノンをシリアから切り離すと、そこではスンナ派がもはや多数派ではなく、あまたの宗派の合間に入って急にマイノリティになる。レバノン国内の分布は、ベールートやトリポリ、シドンといった沿岸都市部とベカー高原の一部にほぼ限定され、山間部の町村にはほとんどプレゼンスがない。このためスンナ派は、レバノンという国を「レバノン山地」(アラビア語で「ジャバル・ルブナーン」)を基盤とする社会と認識する立場――マロン派とドルーズ派を中心とする――に対して明確に異を唱える傾向がある。全世界のスンナ派ムスリムの巨大な海の中にいつでも一体化できるのであり、より近くのアラブ地域のスンナ派とはそもそも自他を分かつ必要性はあまりなかったのである。これは独立前後の時期から、レバノンのスンナ派の多くをアラブ民族主義に向かわせる原動力となった。

シーア派も国境線が引かれることでその勢力図がガラリと変わる。現在のシリア・レバノンの地域全体からすれば、あくまでも少数派である。ざっくり言って、2700万人のうちの6パーセントくらいであろう。それがレバノンに限っては、400万人のうちの130万人、この3割ほどで、個別の宗派としては最大勢力となる。

つまり(アラウィー派・イスマーイール派・ドルーズ派といった分派以外の十二イマーム派としての)シーア派は、シリアにはほとんどプレゼンスがない、といってよい。ただし、ダマスクスのウマイヤ・モスクの内部(東端の方)には、イラクのカルバラーでウマイヤ朝軍に殺されたフサイン(第4代カリフ、アリーと預言者ムハンマドの娘ファーティマの間の息子)の首がここに運ばれて葬られたという廟があるし、ダマスクスの東部郊外、グータの森の中にはフサインの妹ザイナブの墓廟がある。いずれもイランやイラク、湾岸地域のシーア派の人々にとって、重要な参詣地となっている。

スンナ派国家たるオスマン帝国において、シーア派はしばしば弾圧の対象となることがあったが、レバノン山間部のシーア派も例外ではなかった。さらに加えて、シーア派の領主層はドルーズ派やマロン派の領主層と対立しながら、峡谷に散在する農村部の支配をめぐり、勢力争いを繰り広げていた。当初はレバノン山地の北部にも大きな縄張りを持っていたが、17世紀から18世紀を通じてだんだん押し込まれて、現在シーア派の本拠地として知られる南部レバノンとベカー高原に落ち着くことになった。南部レバノン、とりわけシドンとティールの間で地中海に流れ込むリタニ川の東部上流域とそこから南にかけての山地が「ジャバル・アーミル(アーミル山地)」と呼ばれていたが、ここはシーア派法学者を輩出したことで知られており、イランのサファヴィー朝(1世紀初めにシーア派を国教とした)にウラマーを多数送り出した。オスマン帝国とサファヴィー朝はしばしば戦火を交えたが、シーア派同士の人的交流を維持していたのである。

南部レバノンはレバノン内戦(1975~90年)の時期以来、度重なるイスラエル軍の侵略に苦しんだ。戦火を逃れて首都ベイ下に移り住んだ人々も多く、ダーヒヤと呼ばれる南部郊外地区は多宗派混住の田園都市から、シーア派一色の稠密住宅地へと変貌した。

2003年のイラク戦争以来、中東全域を覆い始めたスンナ派・シーア派間の亀裂は、レバノンにも及んで国内政治の主要な対立軸をなすに至っている。西べイル-の中南部地区は両派の住民が近接して居住しており、政治的緊張の高まりと共にしばしば衝突が伝えられるところである。しかしこうした両派の明確な対立状況が、レバノンでは21世紀的現象であることも忘れてはならない。(黒木英充)

曖昧なシリア・レバノン国境

★浸透性が国際的にも問題に★

レバノンは、シリア、イスラエル両国と計450キロの国境線を有しており、その内シリアとの国境線は370キロに及んでいる。フランス委任統治時代の1920年に、「歴史的シリア」地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ自治区に相当)から切り離された領域をベースに、レバノンは1943年に主権国家としての独立を達したが、シリアとの国境線には現在に至るまで画定されていない部分があり、帰属が不明確な地点が多数(36か所以上)存在している。

両国の国境線が曖昧な状態に置かれている背景には、シリアの歴代政権が基本的には同国の独立(1946年)以来、「二つの国家における一つの人民」という認識の下、レバノンの主権を尊重する姿勢を示してこなかったことがある。レバノン、シリア両国共に歴史的シリアに含まれる上に、首都ダマスクスから僅か20キロほど西に向かうだけで国境線に到達してしまう事実が、政権のこうした認識に影響を与えてきた。他方で、レバノンにおいてもアラブ世界との結びつきを重視するムスリムを中心に、シリアとの一体性に長らく重きを置いてきたことから、国境線の画定が両国間の政治的なイシューとなることは殆どなかった。また、レバノン北部の都市トリポリはシリア中部の都市ホムスと、レバノン東部ベカー高原一帯はホムスのみならずダマスクスと、とりわけ密な経済関係を有している。更に、レバノン北部や東部の国境地帯においては、両国間に分かれて家族が居住していることが珍しくないことから、相互の行き来は元より、買い物や学校、通院などに伴う越境が今もなお日常的に行われているのである。

このように、国境線が一部画定されていないことは、両国間での密輸が横行する原因になっており、その特徴が顕著に表れたのがレバノン内戦期(1975~90年)であった。戦闘状況の激化に伴い、レバノン中央政府による国内統制が緩む中、1980年代にはシリアの年間輸入量の七割ほどがレバノンからの密輸で占められる一方、シリアでは補助金を受けて低価格に抑えられているセメントやガソリン、砂糖などが数千トンも同国からレバノンへ密輸され、高価格で販売されているという事態が報告されるに至った。また、ベイルート内外における戦闘によって首都の機能が低下する中、相対的に平穏であったベカー地方の中心都市ザハレが、レバノン東部における商業活動の中心的地位を占めるようになるにつれて、多くのレバノン人やシリア人が同地を訪問するようになった。と同時に、日用品のみならず麻薬をも扱う密輸ネットワークが両国間で築かれることになり、ベカー高原に駐留していたシリア軍兵士もこうした非合法な経済活動に携われるようになっていった。さらに、大麻栽培や密輸業にはハーフィズ・アサド大統領の弟であるリファアトアサド副大統領や、同大統領の「側近」であったムスタフートゥラース国防大臣らを含む、国軍や治安機関に関係する多くのシリア政府高官が当時関わっていたとされており、「清貧な」同大統領は彼らの非合法的な手段による蓄財を内心快く思っていなかったものの、自らに対する忠誠心を維持するために基本的には黙認したと言われている。

シリア・レバノン国境における未画定領域は、1990年のレバノン内戦終了後もしばらくは、両国のみならず国際的にも大きな問題としては取り上げられなかった。しかしながら、2000年5月にイスラエル軍が南レバノンの大部分から撤退すると、未画定領域の問題がやにわに持ち上がった。と言うのも、イスラエル軍撤退をもたらした功労者であるシーア派組織「ヒズブッラー」のハサン・ナスルッラー書記長が撤退完了後直ぐに、「シャブア農場」を含む数箇所のレバノン領土が未だにイスラエル占領下にある、と発言したからである。ゴラン高原の北端に位置し、256平方キロメートルの中に14の農場を有しているシャブア農場は、イスラエルが1967年の第三次中東戦争以来占領しているシリア領ゴラン高原の一部であると、国際的には見なされている。だが、シリア・レバノン両政府とヒズブッラーが、1951年に両国間で交わされたとされている「口頭合意」を根拠にして、シャブア農場がレバノン領に属するとの見解を取っていることは、同国領内における占領地を解放するために武装闘争を継続しなけれらない、とするヒズブッラーの主張に正当性を与える根拠になっている。また、シリアがヒズブッラーの武装闘争を引き続き、ゴラン高原解放に向けた対イスラエル戦略の一部として利用することも可能にさせているのである。

イスラエルによるレバノン占領が国際的には終了したと認定されているにもかかわらず、ヒズブッラーがシャブア農場解放を名目として、その武装闘争の維持が可能になったことは、レバノンにおけるシリア覇権が終わりを告げた2005年以降にレバノン国内で問題視されるようになった。こうした中で、ファード・シニオーラ内閣(同年7月樹立)は「反シリア」勢力基盤にしていたことから、対シリア国境の画定作業がシャブア農場の帰属問題を解決するのみならず、同国とヒズブッラーの拠点を結んでいる武器供給ルートの遮断や、引いてはその武装闘争の終焉につながると計算し、国際的な助力を求めた。その結果、2006年にはドイツからの支援を得て、シリア・レバノン間の国境線画定作業が着手されたが、シニオーラ内閣の反シリア姿勢などにより、シリアからの充分な協力を得ることができず、進捗しなかった。こうした中で国連は2007年6月に、その国境査定チームの報告書において、レバノン・シリア国境における武器密輸の取り締まりが不十分であると指摘した。その後2008年10月には、シリアが1946年に、レバノンが1943年にそれぞれフランスからの独立を達成して以降、両国間には外交関係樹立されず、また相互に大使館も設置されない状態が続いてきていた中で、国交樹立に関する共同宣言が調印されるに至ったことから、国境線の画定が進むとの見通しが生じた。だが、レバノンにおいて「反シリア」の内閣が続いたこと(2009年1月にサアド・ハリーリー内閣が樹立)や、シリアが対イスラエル戦略の観点から国境線画定に消極的であったことにより、進展はやはり見られなかった。

2011年3月以降にシリアで反体制運動が勃発すると、対レバノン国境が確定されていないことは、両国にさまざまな影響をもたらしている。シリアにおける戦闘が激化するに伴い、同国からの避難民がレバノン北部や東部の国境地帯に逃れてきている他、武器搬入や戦闘員の出入り、あるいは負傷者搬出のためのルートが、国境管理の曖昧さを衝く形で両国間に形成されてきている。シリア政府は反体制運動の発生間もない2011年4月に、同国との国境に近いベカー地方選出のレバノンの国会議員が、反政府勢力に武器や資金を提供しているとして非難したが、同国からシリアに向けた武器の需要は高まっており、ベイルートではカラシニコフ銃などの値段が倍増する現象が生じている。の後2012年4月には、シリアの反体制派に向けた武器を密輸していたとされている貨物船が、リポリに向けて航行中にレバノン国軍によって同国海域で拿捕されるという事件も発生した。

シリア国軍は他方で、同軍からの脱走兵が組織した「自由シリア軍」や、その他の反対勢力がレバノン領内に攻撃拠点を構えていることから、越境しての軍事作戦を頻繁に遂行している。このような状況は、レバノン民間人や取材を行っていたジャーナリストらが、シリア国軍の発砲によって負傷する事件を生じさせていることから、両国国境の現状は昨今、国際的な懸念や注目をより一層集めている。(小副川琢)

 『ニュルンベルク裁判1945-46』でパウルスが証人として出廷していたことを知る
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『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

フォルクスゲマインシャフト―共同体と排除

国家権力は、ナチ党が思い描いた再生ドイツの実現にとって必要な条件でしたが、これだけでは不充分でした。第4章で見てきたように、ナチ党の政治理論とプロパガンダに用いられた決まり文句のひとつに、国家はそれ自体が目的ではなく、目的を達成するための手段であるというものがありました。その目的とはドイツ民族の歴史的運命の実現でした。ナチ指導のもと、統一された国民・人種の共同体、つまりフォルクスゲマインシャフトを築くというのです。フォルクスゲマインシャフトという言葉自体はドイツの政治論ではごく一般的なものでしたが、ナチ・ドイツでそれが具体的になにを意味したのかについては歴史家のあいだでかなりの論争になってきました。論争を呼んだのは、ドイツ人の信念と考え方を支配したナチ・イデオロギーの力について、そしてドイツ人のためという名目で実施された暴力による政治的・社会的実験に国民がどの程度同意していたのかについての、根本的な問いと密接に関係しているからです。

フォルクスゲマインシャフトを理解する

国民国家の時代には、国民や民族を、それを構成する個人を超えて、より崇高な目的へと向かわせる集合体と見なすことがよくあります。ナチ党の思い描いたフォルクスゲマインシャフトは、このなじみのある魅力的な枠組みのなかにありました。当時、第一次世界大戦後のドイツは、軍事的敗北、社会不安、経済危機によって国が分断され、将来どこへ向かえばいいのかを見失っていました。しかしナチ党は、一貫性はないにしても、フォルクスゲマインシャフトに新たに何層かの意味をつけ加えました。権利、交換、選択を重視する、社会的統合による現代的な大量消費主義の市場モデルが国際的に勢力を拡大していましたが、ナチ党はそれに代わるものとして、人種選択的で闘志にあふれ、経済的な自給自足を目指す国民連帯のモデルを提案したのです。“ドイツ人の「血と土」(ブル・ト・ボーデン)”というナチ党の古めかしい言い方にもかかわらず、そのモデルはおそらく反近代的な構想というよりむしろもうひとつの現在を提案したものであり、人種の純粋性と人口の拡大のためのナチ独自の似非科学に基礎を置いていました。

とはいえ、ナチ政権がドイツ国民に受け入れられたのはイデオロギーに説得力があったおかげではありませんでした。むしろ、前向きで新しいなにかを創造したという、一九三三年以降ナチ政権がとりわけ声高に繰り返し宣伝した自慢のひとつが国民の心をつかんだのです。そのなにかとは、有機的でありながら競争のある共同体(ライストゥングスゲマインシャフト)であり、成果に応じた報酬を与える能力主義を採用し、過去の抑圧的な社会階層を消し去ったと宣伝されました。フォルクスゲマインシャフトの一員になるための新たな人種的・社会的な基準に一致し、応分の負担を果たした人びとは、この特権的な民族共同体の貴重な一員として満足のいく自己像を得ることができました。疑い深い人びとでさえ、独立独歩の新生ドイツで、政権が共同体と責任分担について主張した魅力的な公約に心惹かれました。公約には、完全雇用の実現と生活・福祉の水準向上、社会的な規律と家族の安定、男女間の秩序ある関係の確立、富と地位という不平等ではなく能力と努力の競争による人生の可能性の獲得などが謳われていました。

歴史家は、こうした主張を人びとが生きた現実にほとんど即していないプロパガンダ的な煙幕として扱いがちでした。この見方では、階級のない新たな社会というナチ党の主張は、ドイツの労働者が新しい国民共同体に統一されておらず、労働者の政治団体および職場での自由を暴力で破壊することで彼らを脅して従わせていた事実を無視していました。フォルクスゲマインシャフトについて止めどなく発信しつづけたのは、階級区分の根深さを見えにくくし、新たな社会階層と経済格差が生み出されたことを否定するためでした。また、戦争による世界制覇というヒトラーの野望の隠れ蓑ともなったのです。その実現には頼りになる確かな銃後の守りが必要不可欠でした。強制的同質化―ドイツの機関や団体をナチ化された団結した統一体に組み込んで連携させることという詐欺的な策略の陰で、現実には、人びとは小集団に細分化され、停滞した不平等にはまり込んで抜け出せない状態にありました。富と財産は再分配されませんでした。実質の時間給はほんのわずかしか上がらず、住宅建設は再軍備のため断念されました。権力が新たな党エリート層に移譲されると同時に、大衆迎合的な主張とはうらはらに、旧体制の資本家階級と貴族階級は地位と権威の多くをもちつづけていました(そして自分たちの信念も保っており、上流階級のドイツ人ナショナリストは、自分たちが政権の座に就くのを後押しした粗野な指導者たちを見下して軽蔑を強めていた)。その一方で、この解釈によると、無力な大勢の国民は空約束で買収され、「治安」をテロ行為の別名とする警察国家で服従に追い込まれ、戦争が避けられない運命だった、ということになります。

この見方は政権自体の主張よりも現実に即したものでしょうか?一九三三年時点でのナチ政権の第一の目的は、左派を壊滅させ、力のある政治的反対勢力を抑え込むことだったのは明らかです。それと同様に、社会の主要な不平等はそっくりそのまま残しておいて、新たな不平等をつくり出しながら、国民の同意があったというイメージをでっちあげて押しつけようとしたこともまた明白でしょう。とはいえ、イデオロギーはプロパガンダがすべてだと単純化できるものではありません。「ナチ」を、「ドイツ人」という受け身の大衆に向けた指示と政策の立案者とし、ドイツ人には従うか抵抗するかのどちらかしか道はなかったと断定するのでは、単純化しすぎているのです。これは、それまで集団として共有していたアイデンティティと表現方法が突然否定されてしまった社会において、社会生活および私生活の実感と実体験が充分に考慮された見方とは言えません。かつて階級と抵抗の限界に集中していたナチ・ドイツの歴史研究が人種政治をより考慮するようになるにつれて、私たちの見方の角度も変わってきました。社会的カテゴリーと政治的忠誠によってではなく、新たな生政治的な区分によって定義された社会における、アイデンティティと帰属の問題に注目が高まりました。ナチ・ドイツの日常生活史をじっくり見てみると、国民社会主義を徐々に植えつけた入り組んだルートが浮き彫りになります。多様な政治的背景をもつ、あらゆる階級のドイツ人の生活とアイデンティティに、政党、イデオロギー、言語、政策として、国民社会主義を浸透させていったのです。国民社会主義のもとで失ってしまった自由と引き換えに、何百万もの人びとが選択的にイデオロギーを無視し、自分が手に入れのを数えるほうを選ぶことができました。拡大する経済で生まれた勤め口、民族的な権利を与えられた安心感、ヴェルサイユの「恥辱」を経験したのちのドイツの軍事力と国際的地位にいだいた愛国的誇りが得られたのです。それからほどなくして、同じドイツ人でありながら、自分たちに選択権がないと気づいた人びとが数十万いましたが、大多数はそうした人びとが払う代償は胸におさめてしまってかまわないと考えました。

境界線を引く

帰属意識で結ばれたこの共同体が第一の礎としたのは、一員として受け入れる価値がないと判断された全員を強制的に排除することでした。ナチ政権は前代未聞の抜本的な措置を講じる用意ができていました。ドイツ社会のモザイクのような多様性を力ずくで叩きつぶし、人口増加、人種闘争、領土拡大に向けた手段につくり変えるためです。能力不足や不要と見なされた人びとは、フォルクスゲマインシャフトから切り離され、物理的にも言葉のうえでも壁の向こうに閉じ込められることになりました。そして承認と共感というごく普通の感情はその壁を越えることができなくなったのです。

このように、フォルクスゲマインシャフトの根本原則は、帰属するにふさわしい者とそうでない者のあいだに境界線を引き、取り締まることでした。「個人」や「市民」といったリベラルな概念は、Volksgenosse(民族同胞)という生物学的な分類に取って代わられました。これも一九三三年以降に公的な場で盛んに語られるようになった多くの言葉のひとつで、イデオロギーがたっぷり詰まっており、英語にはまったく同じ意味の言葉がありません。たとえば「ethniccomrade」など、不自然な直訳にしかならないのです。その中心となる意味は政治的権利や公民権ではなく、生物学的適応度という意味での「血」でした。ここで言う血とは、有機的共同体の生命と成長のための民族同胞の人種的・優生学的価値のことでした。民族同胞の範疇からはずれた人びとはすべて「その他の人びと」と位置づけられ、フォルクスゲマインシャフトは彼らから守られなければならない、彼らを追放しなければならないとされました。こうした人びとはartfremd(「[人種的な]異種」)やgemeinschaftsfremd(「共同体にとって異質」、つまり「反社会的」共同体異分子)、erbkrank(遺伝病)と指定されました。国は生物学的に健康な(かつ政治的に好ましい)ドイツ人が繁栄し、子孫をつくるのを奨励する一方で、文字どおりに言えば、こうした政治的身体〟である国民に害を及ぼしかねない欠陥があるとみなしたすべての人びとを排除していったのです。ナチが「人種衛生学」と呼ぶのを好んだ優生学の教義と実践は決してナチ・ドイツに限られたものではありませんでした。優生学は二〇世紀初めのヨーロッパとアメリカ合衆国では科学と社会政策に当たり前のように採り入れられており、ドイツでは一九三三年以前にすでにいくらか進歩していました。しかし批判的な発言が禁じられたナチ・ドイツでは、歯止めが効かない状態になり、強制的な計画を進めるための新たな急進的合意と推進力が形成されていきました。医学的な野心が正式に承認された人種イデオロギーと次第に一致し、不適応の問題を生政治上の集団的自己防衛という緊急課題として扱うようになりました。一九三四年にナチ党のある幹部がずばり言ったように、国民社会主義は「応用生物学」にすぎなかったのです。

「反社会的分子」と犯罪者

「反社会的分子」とは社会の基準から逸脱したり、反抗的だったりする個人や集団をひとまとめにした分類で、人種的には「アーリア人」でも、ハイドリヒが一九三八年に言ったように「犯罪に限らず、共同体にとって有害な行動をとおして共同体に順応するつもりのないことを明らかにする人びと」を指しました。危険なほど弾力性のある定義です。政敵の大量拘束がボリシェヴィズムの脅威から共同体を守るためだと公然と正当化されたのと同じように、嫌われ者で取るに足らない逸脱者集団の拘禁は、「犯罪との戦い」であるだけでなく、社会を蝕む危険から国民を守るための緊急措置とされました。

一九三六年、バイエルン政治警察が標的として列挙したのは、そのほとんとがすでに長いあいだ公的な嫌がらせを受けてきた人びとの寄せ集めでした。「物乞い、放浪者、ジプシー、路上生活者、労働忌避者、なまけ者、売春婦、不平家、常習的な大酒飲み、ごろつき、交通違反者、いわゆるサイコパスや精神病患者」だったのです。彼らは一斉に逮捕されて刑務所や労役場、強制収容所に入れられ、何万人もの危険とされた「常習的」あるいは「遺伝的」な犯罪者も、予防拘禁の新たな権限によって同じ運命にさらされました。まず、シンティとロマ(ジプシー))が路上生活者や労働忌避者として迫害されましたが、一九三八年にヒムラーが出した命令では、彼らが厄介者であるばかりではなく、異人種でもあると恐ろしげに説明されました。強制収容所はこうした人びとでいっぱいになり、一九三九年には二万一〇〇〇人の収容者のうち、政治犯は三分の一以下に減っていました。過酷な労働と厳しい規律によって「再教育」された収容者が共同体に復帰するというかすかな可能性も残されたものの、ほとんどの収容者にとってそれは幻想にすぎませんでした。

性、ジェンダー、生殖

「反社会的分子」と犯罪者も、ドイツの人口とその質を高めるための別の優先度の高い計画の標的にされていました。一九三三年七月、「遺伝病」があると認定されたすべての人を強制的に断種する法律が制定されました。知的障碍からアルコール依存症、先天性の聾や盲目まで、広い範囲におよぶ身体・精神にかかわる障碍が遺伝病とされました。実施の際の基準はさらに弾力的に運用され、「反社会的分子」とされた人びとや数は少ないもののアフリカ系ドイツ人にも適用されました。アフリカ系ドイツ人のほとんどは、第一次世界大戦後のラインラントに駐留していた、フランスのアフリカ人部隊〔フランス植民地のアフリカから派遣されていた〕の兵士とドイツ人女性のあいだに生まれた人びとでした。

一九三九年までにおよそ三二万人のドイツ人女性と男性が断種されており、男性対象の処置が「ヒトラー切開」という皮肉な異名をとるほど、断種政策は人びとの意識に急速に浸透しました。

“不適格者”に子孫を残させないことは、第一次世界大戦以来低下していたドイツ人の出生率を回復させるための政策に緊密に結びつけられていました。出生率の低下はナチ党の目には人種的な自殺行為という悪夢に見えたのです。遺伝的に「健康な」男性と女性の断種は禁じられる一方、ドイツですでに違法だった妊娠中絶は取り締まりと刑罰がさらに強化され、避妊手段は利用しにくいものになりました。結婚は、一九三三年六月に始まった結婚奨励貸付金制度を皮切りに、国が課した人種・思想の基準によってますます規制されるようになりました。結婚の資格は人種によって制限されるとともに、結婚した女性は有給の仕事からの退職を義務づけられ、子をひとり出産するごとに貸付金の返済額が減免されました。一九三五年に制定されたいわゆるニュルンベルク法のもと、「ユダヤ人」と「ドイツ人ないし〝同種”(artverwandtes)の血をもつ国籍所有者」との結婚および性交渉が禁止されました。同年、生物学的に「望ましくない」と見なされた結婚も禁止されています。このように生殖活動に対して新たに規制が課せられたのは、一九二〇年代のフェミニズムの躍進を帳消しにする意図もありました。性差による役割分担という慣例的な思想に女性を従わせ、母親になることを共同体に対する義務として強制しようとしたのです。

ヒムラーが陣頭指揮を執った男性同性愛者への激しい迫害は、彼らが共同体に対する子づくりの義務を拒否しているという通俗的な思い込みも理由のひとつになっていました。女性は受け身の性とされていたため、女性同性愛者は守られました。子をつくれる可能性が完全に失われたわけではなかったからです。しかし彼女たちも、男性性と女性性しか存在しないとする、ヒムラーの厳格な道徳観による攻撃にさらされやすくなっていました。ドイツでは男性同士の性交渉が以前から長らく犯罪とされており、一九三五年になると、男性同士の性的親密さという定義が曖昧な状態も犯罪に含まれるよう刑法が拡大されました。大勢の男性同性愛者が裁判にかけられ投獄されましたが、一九三三年から四五年にかけては、約一万五〇〇〇人が強制収容所に送られ、親衛隊の看守からも同じ立場であるはずの囚人からも迫害を受けました。さらには人体実験の犠牲者となりました。

国家が新たに発令した人種衛生上の命令は、個人の選択や倫理観をまったく考慮せず、とりわけ女性を対象に、個人の性交歴や病歴、家系についてひどく立ち入った調査を認めました。人びとの価値観や職業上の規範、言語がゆるやかに変化していくにつれて、抵抗と疑念は徐々に弱まり、新しい現実に批判が及ばないようになっていきます。そして一九三九年以降にいっそう重大な医学的な倫理違反が起こる素地がつくられてしまうのです(第9章参照)。「われわれ対あいつら」という二項対立的な区別を強いることで、政権の政策は、汚名を着せた集団を通常の社会的交流から遠ざけ、抑圧や迫害に対して無防備な状態へと追い込みました。その一方で、彼らの反対側にいる人びとは優越感に浸ることができ、それによってさらにインサイダーとアウトサイダーの距離は広がっていったのです。おそらく、この感情がフォルクスゲマインシャフトを支える最も揺るぎない柱となったのでしょう。しかし、「アーリア人」のドイツ人が受ける資格のある保健福祉計画はコインの片面にすぎませんでした。その提供は、すべての個人をフォルクの単なる生物学的単位として扱う人種的・優生学的差別の原則にまさに左右されていたのでユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

あらゆる種類のユダヤ系ドイツ人が新たに過激な反ユダヤ主義にさらされることは、一九三三年には既定路線となっていました。はっきりしていなかったのは、それがどのようなかたちと方向性になるかだけだったのです。政権はまず、ほかのヨーロッパの国ぐにと同様にドイツにも広がっていた反ユダヤ主義に基づく偏見、とくに公職においてユダヤ人がもっていたとされる「不釣り合いなほどの影響力」に対する人びとの憤りを利用することができました。この有力とされた異人種集団の存在が、ナチ党がドイツのために完全に「解決」すると決定した「ユダヤ人問題」となったのです。その実現までに政権が意図したのは、平等と同化の道筋を閉じて国外移住を奨励し、普通の生活を営み、追い求めることからユダヤ人を除外することだけではありませんでした。「ユダヤ人」と「ドイツ人」のあいだに決してとおり抜けられない壁を打ち立てることも目指したのです。これは人種隔離国家をつくるという意味ではありません。存在するとされたユダヤ人的なちがいは、その構造からして、空間を隔ててふたつの共同体を無理に共存させるのには適しておらず、ユダヤ人の「いない」ドイツにするのがふさわしいとされたのです。とはいえ、その実現方法は、断固たる戦略によって生み出されたというより、ナチ・ドイツにおける権力行使の特徴となっていた競争力学と敵対意識によってもたらされたものでした。

それにしても、「ユダヤ人」とは実際には誰だったのでしょう?このきわめて重要な問いは、通俗的な偏見の問題だけにしておくわけにはいかず、ある種の適用可能な定義が必要になりました。レイシズムの例にもれず、ナチ党の反ユダヤ主義はイデオロギー、疑似科学、頑迷さの寄せ集めだったため、絶対的な正確さや科学的な確証はありませんでした。しかし決定的だったのは、ナチが不当に定義づけをおこない、ユダヤ人が自らのアイデンティティを主張する権利を奪ったことでした。一九三三年以降、「血」を基準にユダヤ人が決定されるようになりました。つまり、キリスト教へ改宗しても人種的にユダヤ人と見なされるのを防ぐことはできず、疑いの余地が残るケースの確定には乱暴な生理的基準が適用されました。ユダヤ人の意見はもはや考慮されなくなりました。一九三三年の初めての人種による公職追放では、「非アーリア人」の子孫かどうかは、両親と祖父母の宗教が根拠となりました。この「アーリア条項」はその後、広範囲に適用され、反ユダヤ主義に基づく差別と迫害が染みのようにドイツ社会に広がっていったのです。

自分の名前から結婚相手、教育を受けられる場所から職業選択、住む場所から余暇の過ごし方まで、なにからなにまで同じ原則で決められるようになりました。また、同じ原則によって、非ユダヤ系のすべてのドイツ人は祖先がユダヤ人の「血」で穢されていないと証明することが求められ、家系調査(Sippenforschung)という新たな巨大産業が生み出されました。

一九三五年九月の毎年恒例のナチ党党大会で開かれた特別国会でニュルンベルク法が採択され、さらに複雑で広範囲な規制が生まれました。「ドイツ人の血と名誉を守る」法はユダヤ人と「ドイツ人ないし同種の血をもつ国籍「所有者」――非ユダヤ人に対して好まれた正式呼称との結婚と性交渉を禁じました。ユダヤ人への完全な市民権を制限する新しい法律とともに、こうした規制が法的にユダヤ人の地位を二級市民へと貶めました。法律の付則では、以前より厳格ではない「完全ユダヤ人」(Volljude)の定義が決められたばかりではなく、複雑な下位区分もつくられ、何万という部分的ユダヤ人、つまり「混血」(Mischlinge)をつくり出し、その混血という地位は引こうとしていた境界線を曖昧にしただけでした。「血」の科学のでたらめぶりが露見すると、分類は結局、正式な宗教的帰属に基づきおこなわれました。

一九三三年以降、ドイツ系ユダヤ人が経験したことは、民衆レベルのテロ行為と国家が認めた迫害が絡み合う予測不可能な力学によって決まりました。同胞のドイツ人が距離を取るにつれ、ユダヤ人の社会的孤立が深まったことも状況を悪化させました。ナチ活動家による剥き出しの暴力が一部の人びとの失望をさそったものの、ユダヤ人の法律違反者に首からプラカードをかけさせて引きまわしたり、明らかにユダヤ人経営とわかる商店をボイコットしたりするなど、儀式化された侮辱と辱めは、非ユダヤ人共同体の連帯を確認する大衆デモをおこなう機会になることもありました〈図版4〉。反ユダヤ主義を煽るプロパガンダは生活のすみずみまで溶け込み、「ドイツ人」と「ユ「ダヤ人」がお互いについて考えたり、人種の境界線を越えてコミュニケーションを取ったりすることができる言葉そのものをつくり変えました。案内板やお知らせで「ここはユダヤ人お断り」や「この町にユダヤ人はいない」とそっけなく告知されました。「ドイツ系ユダヤ人全国代表部」は「在ドイツ・ユダヤ人全国代表部」へと名称変更を余儀なくされ、報道機関も同様に「ドイツ系ユダヤ人」の存在をにおわせる言葉を避けるよう命じられました。

ユダヤ人は国勢調査や住民登録といった書類上で分離され、一九三八年一月からはユダヤ人とわかる身分証明書の所持が義務づけられ、ユダヤ人のパスポートには「J❲ユダヤ人を意味すJudeの頭文字❳」の文字が大きく押印されたのです。

こうした戦略の目的は、ドイツ系ユダヤ人を「ユダヤ人」としてだけ見えるようにし、ドイツ人が彼らを個人としてではなくユダヤ人として、文字どおり異人種として認識するよう促すことでした。ユダヤ人自身にとっては、ドイツ人としての主観的かつ疑問の余地のないアイデンティティをこのように破壊されるのはひどく侮辱的でつらいことでした。「政治でなにが起きようと、私は心のなかで決定的に変わった」と一九三八年一〇月、ドイツに同化したユダヤ人学者で勲章も授与された退役軍人のヴィクトーア・クレンペラーは書き記しています。「何人も私のドイツ人らしさを奪うことはできないが、私のナショナリズムと愛国心は永遠に失われてしまった」

一九三〇年代末になる頃にはすでに、ユダヤ系ドイツ人は学校や大学から追放されており、ユダヤ人が手がけた文化的作品は舞台やコンサートの演目や曲目、図書館、アートギャラリーから一掃されていました。「ユダヤ人」の歴史や人種的特徴についての、反ユダヤ主義の立場からの研究は学術的な地位を得ました。ユダヤ人は勤め先や専門的職業から締め出され、公職から追放されました。ユダヤ人の店や会社はボイコットされ、倒産に追い込まれました。財務当局はユダヤ人の財産を没収する強制的な「アーリア化」に加担し、ユダヤ人納税者から徹底的に搾り取り、そうして得た利益を再軍備活動へ回しました。ユダヤ系ドイツ人はかつての友人と同僚から避けられ、裏切られ、自由と自尊心に対して予想外の攻撃にさらされました。クラブなどの各種の団体から追い出され、映画館、公園水泳プールやそのほかの施設への立ち入りを禁じられました。ほとんどのユダヤ人はさらに密に団結することで、こうした戸惑うばかりの仕打ちに対処しました。地理的には、小さな共同体を捨てて大都市に匿名性の高い環境を求め、社会的には、家族やシナゴーグ、新たに結成された自助組織のなかに安全を求めたのです。

ユダヤ人に対する国外移住への圧力は、ハイドリヒ率いる親衛隊保安部が陣頭指揮を執った政策であり、激しいものでした。ただし同時に、着々と進められていたユダヤ人の貧困化が計画の妨げになっていました。祖国を捨て、家族の絆を断ち切り、財産を国に明け渡し、どこかの知らない国で、おそらくは歓迎してもらえない国で人生をやり直すべきかどうか。ユダヤ系ドイツ人は身を切るような決断を迫られました。出国すると決めた場合でも、どこの国境も閉鎖されており、なかなか出国はできませんでした。一九三七年末までにユダヤ人人口のおよそ四分の一しか出国できす、政策立案者とナチ活動家は一様にいらだちを募らせます。ヒトラーは、一九三七年のニュルンベルク党大会で激しい反ユダヤ演説をおこない、この状況に怒りを爆発させました。これをきっかけに地元の活動家による新たな反ユダヤ暴動が起き、経済活動の隙間市場に残っていたユダヤ人を追い出すためのさらなる差別的な措置が実施されました。政権が戦争の準備を着実に進めるなか、ユダヤ人の

だいこれつ「第五列」をドイツ人社会から強制退去させることは喫緊の優先事項となります。併合されたオーストリアでは一九三八年三月以降、すさまじい暴力と急激に激しさを増した迫害が発生し、ドイツの大都市では反ユダヤ暴動が起きたため、国を脱出するユダヤ人の数は回復しましたが、それでもまだ政権にとっては少なすぎたのです。この行き詰まりによって、反ユダヤ政策は引き返せない地点から前のめりになっていきました。

一九三八年一一月七日、パリのドイツ大使館職員がユダヤ人少年ヘルシェル・グリュンシュパンによって狙撃されました。少年の両親は一〇月末にポーランドへ帰るよう国外退去命令がくだされた大勢のなかのふたりでした。折しも併合されたオーストリアでの急速な進展とは対照的にドイツ国内で遅々として進まない反ユダヤ対策に対して、草の根レベルのナチの不満が高まっていました。ゲッペルスはこの暗殺事件をその不満を利用する好機と捉えました。ヒトラーの承認を得たゲッベルスとナチ党幹部は、一一月九日夜から翌一〇日にかけてドイツ各地でポグロムを周到な準備のうえで展開する一方で、これをユダヤ人の犯罪に対する民衆の復讐心から自然に発生した行為だと公然と発表したのです。

凄惨な暴力がドイツのユダヤ人を呑み込みました。特別に招集された党員たちに扇動され、平服姿の突撃隊と親衛隊の隊員たちがそれを実行しました。

群衆は見守っていましたが、なかには暴力行為に加わる者もいました。警察はただ見ているだけでした。この「水晶の夜(クリスタルナハト)」はそれ以前のなにをも凌駕していました。暴力が恐ろしいほどエスカレートするなか、ドイツにあった一〇〇〇ヵ所ものシナゴーグが冒潰され、破壊され、何千というユダヤ人経営の商店や会社が滅茶苦茶に壊され、略奪され、住居は侵入され、家財が盗まれ、男性も女性も容赦なく攻撃されました。ヴァイマルでは、最後のユダヤ人経営の商店だった小さな文房具店が突撃隊と親衛隊に荒らされ、店主の高齢女性は乱暴な扱いを受けました。ドイツ全国で少なくとも九一人が殺害され、自ら死を選んだ人は何人いたのかわかっていません。ヴァイマルからの一二人を含む、およそ二万六〇〇〇人のユダヤ人男性が過密状態の強制収容所に入れられ、そこで間もなく数百人が亡くなりました。ブーヘンヴァルトのある収容者は彼らの到着をこう描写しています。「何十もの、車両いっぱいの、数百、数千ものユダヤ人。人生のあらゆる段階の人びと――けが人、病人、身体に障碍のある人、手足を骨折した人、眼を失った人、頭蓋骨を骨折した人、死にかけている人、死人」。生き残っても、有効な国外移住の書類を手に入れていたことを証明できた場合にしか釈放されませんでした。

暴力行為に参加しなかった人びとの反応は静かなものでした。多くの非ユダヤ系ドイツ人が暴力の規模と財産の理不尽な破壊に受け、恥じてさえいたのですが、介入しようという人はほとんどいなかったのです。恐怖だけではなく、反ユダヤ感情の広がりとユダヤ人孤立化の成功を物語る反応と言えるでしょう。ナチ幹部のあいだでは、ゲッベルスの民衆を扇動する手法が完全に建設的とは見られていなかったものの、それによって政権内に反ユダヤ主義の活力が解き放たれると、迫害、財産没収、国外移住の各政策間の関係を体系化しようとする多くの過酷な措置が導入されました。今度は、混乱と破壊を厳しく批判していたゲーリングが政権内の反ユダヤ政策の調整をヒトラーから任されます。それでも根本的な矛盾が残りました。ゲーリングが責任者を務める経済計画「四ヵ年計画」のためにユダヤ人財産の没収を優先事項とすることは政権の統制が及ぶ範囲にありましたが、大量国外移住というハイドリヒの目標は、人数が著しく増加していたにもかかわらず、どうにもならなかったのです。ヒトラーやそのほかのナチ党の代表者たちは、いらだちまぎれであれ、外国政府を脅迫するつもりであれ、ドイツ国内にとどまるユダヤ人に対するいっそう露骨な脅しを口にするようになりました。それと同時に、プロパガンダでは、ドイツの破壊をもくろむ世界じゅうのユダヤ人から自国を守るのに不可欠な共同体として、フォルクスゲマインシャフトがますます盛んに喧伝されるようになったのです。

 金曜日 以来の図書館 また15冊借りてしまった本が重たくて うろうろ できない 新作のコーヒーフラペチーノ
 やっとうな丼にありつけた エプロンで中国産うなぎ 1匹 800円 そのままレンジで温めて添付のたれをつけて うな丼 ラーメンどんぶりに山盛り いっぱい 自分で料理することのメリットは味には文句をつけれない 自分で作って自分で食べるんだから これが本来、基本です
 vFlatで街の情報探索 単なる写真とは異なり 情報を損害 得られる デジタル化もできる

 歴史ほど面倒なものはない 詳細から概要に戻す 側面があまりにも多い 詳細に意味があるのかというところから始まっていく

 豊田市図書館の14冊
209『世界の歴史⑦』宋と中央ユーラシア
209『世界の歴史⑨』大モンゴルの時代
209『世界の歴史⑪』ビザンツとスラヴ
209『世界の歴史⑭』ムガル帝国から英領インドへ
209『世界の歴史⑯』ルネサンスと地中海
209『世界の歴史⑰』ヨーロッパ近世の開花
209『世界の歴史⑱』ラテンアメリカ文明の興亡
007.3『メタ産業革命』メタバース×デジタルツインでビジネスが変わる
516.71『新幹線全史』「政治」と「地形」で解き明かす
329.67『ニュルンベルク裁判1945-46』
236.9『リスボン大地震』世界を変えた巨大災害
302.34『ドイツの現状』
134.2『判断力批判(上)』
134.2『判断力批判(下)』
奥さんへの買い物依頼
お好み焼き   178
うすピーナ    128
カップラーメン 128
ソース焼きそば          168
リンゴ6個    598
スイートコーン            199
うなぎ          800
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新『もういちど読む 山川世界史』

新『もういちど読む 山川世界史』

イスラーム世界

普遍性と多様性

7世紀のアラビア半島に成立したイスラーム世界は,その後,時をへるにしたがって拡大し,今日では東南アジアから西アフリカにいたる広大な地域がこの世界にふくまれる。イスラーム世界は、初期をのぞいて政治的に統一されることはなく,10世紀頃からは,シリア・エジプト,イベリア半島・北アフリカ,イラン,トルコ,インドなどの地域がそれぞれ独自の歴史的発展をとげてきた。しかし,一方ではイスラームという共通の信仰と法をうけいれることにより,一つの世界としてのまとまりをも維持してきた。この世界では,交易巡礼・遊学などをつうじて人や物の移動,学術・情報の交流がさかんにおこなわれた。社会は開放的で柔軟性にとみ,さまざまな出自の人びとが民族の枠にとらわれることなく活躍した。ギリシア・ローマ・イラン・インドなどの古代文明の栄えた地に成立したイスラーム世界は,これら古代文明の伝統を継承して融合し、独自のイスラーム文化を発展させたのである。

1イスラーム世界の成立

預言者ムハンマド

7世紀の初め、唯一神アッラーの啓示をうけたと信じ、神の使徒であることを自覚したムハンマド(570頃~632)は、アラビアのメッカで,偶像崇拝をきびしく禁ずる一神教をとなえた。これがイスラーム教のはじまりである。その聖典『クルアーン(コーラン)』は、ムハンマドにくだされた啓示を,彼の死後あつめ、編集したものである。

イスラーム教の特質

イスラーム教はユダヤ教・キリスト教の流れを汲む一神教であり,『クルアーン(コ―ラン)』の内容も『旧約聖書』『新約聖書』の物語に近い。モーセやイエスも預言者として登場し、両聖書も『クルアーン』と同様に聖典とされる。ただし、最後の預言者ムハンマドを最良の預言者とし、最後にくだされた啓示『クルアーン』を最良の啓示とする。

教義は,正しい信仰をもつだけでなく,その信仰が行為によって具体的に表現されなければならないとするもので,「六信五ぎょう行」といわれる。「六信」とは(1)アッラー,(2)神の啓示を運ぶ天使(3)神の啓示を書き留めた啓典,(4)それを人びとに伝える預言者(5)最後の審判後にやってくる来世,(6)神の予定の実在を信じることで,「五行」とは(1)信仰告白(2)礼拝(1日5回メッカにむかっておこなう),(3)喜捨(富者が貧者にほどこしを与える)(4)断食(ラマダ―ンとよばれるイスラーム暦の月に、1カ月間,夜明けから日没までのすべての飲食と性行為を断つ),(5)巡礼(義務ではなく余裕のあるものがおこなえばよい)を実行することである。六信の成立は10世紀後半,五行の成立は8世紀初頭とされる。

以上は神と人間の関係における規定であるが、信者同士の人間関係の規範も定められている。そこでは,売買,契約,利子,婚姻,離婚,相続にはじまり,賭け事の禁止、禁酒や豚肉を食べないなどの飲食物の禁忌,殺人をしない,秤をごまかさない,汚れから身を清める,女性は夫以外の男性に顔や肌をみせないようにするなどの倫理的徳目や礼儀作法などが問題とされる。たとえば「禁酒」の場合,イスラーム発生期のメッカの住民がことあるごとに酒を飲むようになり、その弊害が目につくようになったことからムハンマドは禁酒の啓示を何回かうけたあと,ついに全面禁酒の啓示(『クルアーン』の5章90~91節)をうけることになった。

多神教を信じるメッカの人びとの迫害をうけたムハンマドは,622年,メディナに移住(ヒジュラ〈聖遷〉)し,この地に彼自身を最高指導者とする信徒の共同体(ウンマ)をつくった。この622年はイスラ―ム暦の元年とされている。その後ウンマの拡大に成功したムハンマドは,彼にしたがう信徒をひきいてメッカを征服し,多神教の神殿カーバから偶像をとりのぞいて,これをイスラーム教の聖殿とした。こうしてムハンマドが死ぬまでには,アラビア半島のほぼ全域がその共同体の支配下にはいった。

アラブ帝国

ムハンマドの死後,イスラーム教徒(ムスリム)は全員で新しい指導者を選んだ。この指導者のことをカリフ(後継者代理の意)とよぶ。最初の4人のカリフは選挙で選ばれ,正統カリフとよばれる。カリフの指導のもとでアラブ人ムスリムは征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し,7世紀のなかばまでにササン朝をほろぼし,シリア・エジプトをビザンツ帝国からうばった。多くのアラブ人が新しい征服地に移住した。征服地が広がると,カリフ位をめぐって争いがおこった。その結果,第4代カリフのアリー〈位656~661>が暗殺され,彼と対立していたウマイヤ家のムア―ウィヤ〈位661~680>がカリフとなって,ダマスクスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)をたてた。ムアーウィヤは息子を後継カリフに指名し,以後カリフ位は世襲されるようになった。

ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアの西半分とインダス川下流域,西方では北アフリカを征服し,やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした(711年)。さらにフランク王国にまで進出したが,トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ,ピレネー山脈の南側に領土はかぎられた。この広大な領土をもつ帝国では,征服者アラブ人のムスリムが特権的な地位にあり、膨大な数の被征服民を支配していた。国家財政をささえる地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課され、彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。その意味で,正統カリフとウマイヤ朝カリフが統治した国家はアラブ帝国ともよばれる。

イスラーム帝国

シーア派の人びとやイスラーム教に改宗してもなお不平等なあつかいをうけていた被征服民など,ウマイヤ朝の支配に反対する人びとは,8世紀初め頃から反ウマイヤ朝運動を組織した。ムハンマドの叔父の子孫アッバース家はこの運動をうまく利用してウマイヤ朝をほろぼし,イラクを根拠地としてあらたにアッバース朝(750~1258年)をたてた。まもなく建設された新首都バグダードは国際商業網の中心として発展し,王朝はハールーン・アッラシード〈位786~809〉の時代に最盛期をむかえた。

9世紀頃までに,宰相を頂点とする官僚制度が発達し、行政の中央集権化が進んだ。イラン人を主とする新改宗者が政府の要職につくようになり,アラブ人ムスリムだけが支配者とはいえなくなった。イスラーム教徒であればアラブ人以外でも人頭税は課されず,征服地に土地を所有すればアラブ人にも地租が課されるようになった。イスラームの信仰のもとでの信徒の平等という考えが徐々に浸透していった。また,イスラ―ム法(シャリーア)の体系化も進み,この法を施行して,ウンマを統治することがカリフのもっとも重要な職務となった。アラブ人だけではなく,イスラーム教徒全体の指導者となったカリフが統治するこの時期のアッバース朝国家は,イスラーム帝国ともよばれる。

スンナ派(スンニー)とシーア派

イスラーム教には、大別すると、スンナ派とシーア派という二つの宗派がある。今日,全イスラーム教徒のうちの9割はスンナ派に属する。この両派の対立は、元来,アラブ帝国のカリフの位をめぐる政治的なものだったが,その後,教義の解釈をめぐって宗教的にも意見の相違がみられるようになった。スンナ派は,ムハンマド死後の代々のカリフの政治的な指導権を認めるいっぽう、イスラーム教徒の行動の是非はイスラーム教徒全体の合意によって判断されるべきだと考える。その際,判断の基準として用いられるのが,『クルアーン(コーラン)』と伝承として残されているムハンマドの言行(スンナ)である。この伝承の範囲,解釈の仕方のちがいによって,スンナ派内部に四つの学派がある。

これに対してシーア派は,アリーおよびその子孫のうちの特別な人物だけが、『クルアーン』を真に解釈することができ,政治的にも宗教的にもイスラーム教徒の最高指導者であるとする。彼らには一般の人びとにはない神秘的な力がそなわっていると考えられ,カリフの権威やイスラーム教徒の合意は認めない。シーア派は,このように,アリーの血統を重視するため,最高指導者の地位が子孫のうちのどの人物に伝えられたと考えるかによって,多くの派閥にわかれた。

このうち、今日のイランを中心とした地域に広まっている十二イマーム派では,9世紀の後半に姿をかくした12代目の最高指導者が、正義を実現するために、いつかふたたびこの世にあらわれると信じられている。また、この指導者がかくれているあいだは,徳が高く,学識の豊かな法学者・宗教学者がその権限を代行するものとされている。1979年の革命後のイランで,ホメイニをはじめとする法学者・宗教学者が大きな権限をもっているのはこのためである。

2イスラーム世界の変容と拡大

2イスラーム世界の政治的分裂

アッバース朝の成立後まもなく、後ウマイヤ朝(756~1031年)がイベリア半島に自立した。一つの政治権力が支配するにはイスラーム世界は拡大しすぎていた。9世紀になるとアッバース朝の領内でも各地で地方王朝が自立するようになった。このうち,中央アジアに成立したサーマ―ン朝(875~999年)は,トルコ人奴隷貿易を管理し,経済的に繁栄した。また,この王朝のもとでペルシア語がアラビア語とならんで用いられるようになり,のちに発展するイラン・イスラーム文化の芽生えがみられた。チュニジアにうまれ、のちエジプト・シリアを征服して新都カイロを建設したシーア派のファーティマ朝(909~1171年)の支配者は,建国当初からカリフと称し,アッバース朝と正面から対立した。

このような政治的分裂にくわえ,9世紀頃からカリフの親衛隊として用いられるようになった,トルコ系の奴隷であるマムルークが,やがてカリフの位を左右するようになりアッバース朝カリフの威信は低下した。

国家と社会の変容

946年、シーア派のブワイフ朝(932~1062年)がバグダードを征服し,カリフから大アミール(軍事司令のなかの第一人者)に任じられて政治・軍事の実権をにぎった。アッバース朝カリフはこれ以後実際の統治権を失い、イスラーム教徒の象徴としての役割をはたすだけとなった。

ブワイフ朝の時代,軍隊への俸給支払いがむずかしくなると、俸給にみあう額を租税として徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえる制度がうまれた。これをイクター制という。イクター制は,セルジューク朝(1038-1194年)にひきつがれ、やがて西アジア・イスラーム社会でひろく用いられるようになった。

元来ユーラシア草原の遊牧民であったトルコ人は,10世紀頃からしだいに南下し,11世紀には,その一派で,イスラーム教スンナ派に改宗したセルジューク朝が西アジアに進出した。1055年,ブワイフ朝を追ってバグダードにはいったトゥグリル・ベク〈位1038~63>に,カリフはスルタン(支配者)の称号をあたえた。セルジューク朝はビザンツ帝国領だった小アジアを征服し,以後,小アジアはしだいにイスラーム化・トルコ化していった。彼らは領内の主要都市にマドラサ(学院)を設けてスンナ派の法学・神学を奨励した。しかし,王族のあいだでの権力争いが激しく、統一は長続きしなかった。

11世紀以後の西アジア・イスラーム社会では,修行によって神との合一をめざす神秘主義思想が力をもつようになった。12世紀になると,神秘主義者(スーフィー)とその崇拝者たちを中心として各地に神秘主義教団が組織され,都市の手工業者や農民のあいだに熱心な信者をえた。教団は貿易路にそってアフリカやインド・東南アジアに進出し,これらの地域にイスラームの信仰を広めていった

東方イスラーム世界

13世紀初め,東方からモンゴル人が西アジアに進出してきた。フラグにひきいられたモンゴル軍は,1258年,バグダードをおとしいれて,アツバース朝をほろぼし,イル・ハン国(1258~1353年)をひらいた。イル・ハン国は,モンゴル人やトルコ人など軍事力をもつ遊牧民を支配者とし、これにイラン人の都市有力者が行政官僚として協力して成り立っていた。このような国家体制は,これ以後サファヴィー朝(15011736年)にいたるまで同じ地域に成立した諸国家にうけつがれていく。ただし,遊牧民支配者間での争いがたえず,総じて国家の寿命は短かった。イル・ハン国のモンゴル人支配者は,ガザン・ハン〈位1295~1304>のときまでにほぼイスラーム化し,イランイスラーム文化の成熟に寄与した。

1370年,チャガタイ・ハン朝の混乱に乗じてサマルカンドで位についたティムール〈位1370~1405〉は,その後西アジアにはいってイラン全域を征服し,オスマン帝国やマムルーク朝領,北インドやキプチャク草原にまで兵を進めた。ティムール朝(1370~1507年)の時代,成熟しつつあったイラン・イスラーム文化と中央アジアの伝統文化が結びつけられ,文学建築などの分野で特色あるティムール朝文化が花開いた。16世紀の初め、分裂していたティムール朝は北方の草原から南下したトルコ系のウズベク人によってほろぼされた。ウズベク人は,ブハラ,ヒヴァ,コーカンドなどの都市を中心に19世紀なかばまで続く国家をたてた。

16世紀初め,イラン高原にサファヴィー朝が成立した。この国家も、トルコ系遊牧民とイラン系都市有力者の協力のうえに成り立っていたが,シーア派を国教とし,住民の改宗を強要した点がそれまでのこの地域の国家とは異なっていた。イラン人の多くがシーア派をうけいれるのは,サファヴィー朝時代のことである。

1587年に即位したアッバース1世〈位15871629>は,多くの政治・軍事改革をおこなって王朝の最盛期をきずいた。この王の時代に首都となったイスファハーンは,絹・綿織物・香料などの国際交易の中心として「世界の半分」といわれるほど栄え,モスク(礼拝所)・マドラサ(学院)・キャラヴァンサライ(隊商宿)・橋・庭園などが数多くつくられた。

エジプト・シリアの諸王朝

11世紀の末,シリアの沿岸に十字軍(115ページ参照)が進出してきた。セルジューク朝の一侯国の武将サラーフアッディーン(サラディン〈位1169~93〉)は12世紀後半に自立してアイユーブ朝(1169~1250年)をひらき,エジプトのファーティマ朝を倒して,スンナ派を復興させた。彼は十字軍のイェルサレム王国を攻撃してイェルサレムの奪回に成功した。

1250年,アイユーブ朝のマムルーク(奴隷出身の軍人)軍団が権力をうばい、マムルーク朝(12501517年)が成立した。この国家では君主の位が世襲されることは少なく,有力なマムルークがあいついで君主となった。マムルーク朝は軍事制度と農村支配の体制をととのえ,モンゴル軍や十字軍勢力へのジハードを進めた。また,アッバース朝カリフの一族をカイロにむかえて保護するとともに,メッカ・メディナを領有して,イスラーム世界の中心であることを自認した。首都のカイロはバグダードにかわってイスラーム世界の政治・経済・文化の中心地として栄え,東西の香辛料貿易に活躍する商人もあらわれた。

イベリア半島とアフリカの諸王朝

イベリア半島の後ウマイヤ朝(756~1031年)は,10世紀のなかばに最盛期をむかえ,その文化は中世ヨーロッパ世界に大きな影響をあたえた。しかし、この王朝がおとろえた11世紀以後は,小王国が分立し,しだいにキリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)が進展した。

これに対抗して,11世紀なかばベルベル人のあいだでおきた熱狂的な宗教運動を背景に,北西アフリカを拠点として誕生したムラービト朝(1056~1147年),そして同じベルベル系のムワッヒド朝(1130~1269年)がイベリア半島に進出することもあった。1492年,グラナダのナスル朝(1232~1492年)がほろびると,イスラーム教徒の政権は、イベリア半島から姿を消したが,アルハンブラ宮殿にみられるようなイスラーム文化の影響は,その後も長く残った。

ナイル川上流には,前8世紀に一時エジプト王朝をほろぼしたアフリカ人のクシュ王国(920年頃~後350年頃)があり,メロエに都をおいた時代には製鉄と商業で栄えた。しかしエチオピアのアクスム王国(紀元前後頃~12世紀)によってほろぼされた。

西アフリカでは,ガーナ王国(7世紀頃~13世紀なかば頃)が金を豊富に産したことから繁栄し,イスラーム商人との交易もおこなった。そのためイスラーム商人の居留地ができていたが,ムラービト朝の攻撃によってガーナ王国が衰退すると,住民のイスラーム化がいっそう進み,マリ王国(1240~1473年)やソンガイ王国(1464~1591年)などの黒人イスラーム教徒による国家が,北アフリカへ金・奴隷を輸出して発展した。とくにソンガイ王国の中心都市トンブクトゥは黄金の都,イスラームの学問都市として有名である。

東・東南アフリカの海岸には,ザンジバル・マリンディ・キルワなどの海港都市がインド洋貿易の拠点として存在した。9世紀頃からはイスラーム教徒の商人がこれらの町に住みつくようになり,アラビア・イラン・インドなどとの交易に従事した。

オスマン帝国

13世紀末,トルコ化・イスラーム化が進んでいた小アジアにおこったオスマン帝国は,バルカン半島のキリスト教世界に進出し,1453年にはコンスタンティノープル(以後イスタンブルの呼称が一般化した)を征服して,ビザンツ帝国(111ページ参照)をほろぼした。その後,マムルーク朝をほろぼしてシリアとエジプトをあわせ(1517年),メッカ・メディナをその保護下において,スンナ派イスラームスルタンを頂点とする中央集権的な行政機構がしだいに整備され,スレイマン1世〈位1520~66>のときにオスマン帝国は最盛期をむかえた。彼は南イラクと北アフリカに領土を広げるいっぽう,ハンガリーを征服し,1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威をあたえた。またプレヴェザの海戦(1538年)でスペイン・ヴェネツィアの連合軍を破って地中海の制海権をにぎった。これ以後,オスマン帝国はフランスと同盟しつつ,ヨーロッパの国際関係と密接なかかわりをもつようになった。

しかし,17世紀にはいると国内政治に乱れがみえはじめ、同世紀末の第2次ウィーン包囲に失敗して以後は,対外的にもヨーロッパ諸国に対してしだいに守勢にたつようになった。

オスマン帝国では、領土の拡大にともなって大幅に増大した領内のキリスト教徒やユダヤ教徒を,それぞれの信仰に応じて宗教別の共同体(ミッレト)に組織し,これに自治をあたえた。また,キリスト教徒の少年を徴発して宮廷で専門教育をおこない,高級官僚やイェニチェリ(新軍)とよばれるスルタンの常備軍に採用した。これらは,異民族・異教徒をもひろくうけいれて共存をはかり,活用してきた西アジア・イスラーム世界に伝統的な政策の特徴をよく示している。

多民族・多宗教国家オスマン帝国

オスマン帝国は、長いあいだ「オスマン・トルコ」とよばれてきた。オスマン帝国はトルコ人の国だと認識されていたのである。しかし、現在は,「オスマン・トルコ」ではなく、「オスマン帝国」や「オスマン朝」という呼称が用いられるようになっている。

オスマン帝国の全臣民は、民族単位ではなく、宗教単位で識別されることが多かった。オスマン帝国内の大多数の非イスラーム教徒(非ムスリム)はギリシア正教徒であったが,そのほかにも、バルカン諸民族,アラブ地域のマロン派ネストリウス派などが存在していた。各集団は,それぞれ属する教会組織のもとで従来の信仰が認められてきた。もともと,イスラーム(ムスリム)諸王朝においては,キリスト教徒やユけいてんたみダヤ教徒は、啓典の民として保護民(ズィじんとうぜいンミー)と位置づけられ,人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由が認められてきた。オスマン帝国もこの原則を踏襲したのである。

まざまな人材を登用することにより,その支配を盤石にしていった。当初,オスマン帝国軍の主力を担っていたのは,トルコ系遊牧民軍人であったが,それに並んで君主に忠誠を誓う官僚・軍人が必要とされた。15世紀なると,これらの人材には、組織的な人材登用方法が考案された。それが,デヴシルメ制である。オスマン帝国は、バルカン半島における8~20歳のキリスト教徒を容姿身体・才能などを基準として,イスラーム教に改宗していないことを条件ちょうようくっきょうに徴用した。その後,イスラーム教に改宗させたうえで,トルコ語とムスリムとしての生活習慣を身につけさせた。そのなかで頭脳明晰な者は宮廷官吏に、身体屈強な者は軍人に選出されるなど,オスマン帝国の国政にとって必要不可欠な存在となった。1453年から1600年までに大宰相を務めた36名中,トルコ人と思われる者がわずか5名にすぎないという事実は、オスマン帝国の多民族国家としての特質を象徴している。


3イスラーム文化の発展

イスラーム文化の特色

ギリシア・イラン・インドなど古代の先進文化が栄えた地域に成立したイスラーム文化は、征服者のアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語を縦糸,征服地の諸民族が祖先からうけついだ文化遺産を横糸として織りあげられた新しい融合文化であった。インド・イラン・アラビアギリシアなどに起源をもつ説話が,16世紀初め頃までにカイロで現在のようなかたちにまとめられた『千夜一夜物語』はその典型的な作品といえる。

固有の学問として,伝承学・法学・神学・歴史学・アラビア語学などが発達するいっぽう、ギリシア語文献の翻訳をつうじて,哲学・論理学・地理学・医学・天文学など外来の学問も積極的にとりいれられ,それらはやがてギリシアの水準をはるかにこえるようになった。11~12世紀,イブン・シーナーやイブン・ルシュドに代表される哲学者は,とくにアリストテレスの哲学を研究し、合理的で客観的なスンナ派神学体系をうちたてるとともに,中世ヨーロッパのスコラ学派(124ページ参照)にも影響をあたえた。また,インド起源のゼロの観念と十進法・アラビア数字の導入によって発達した数学は,錬金術光学で用いられた実験的方法とともにヨーロッパに伝えられ,近代科学の発展をうながした。

イスラーム教徒の学者はあらゆる学問につうじた知識人で、広大なイスラーム世界の政治的国境をこえて活動することが多かった。詩人として名高いウマル・ハイヤームは,同時にすぐれた天文学者であったし,北アフリカにうまれ,シリア・エジプトで活躍した14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンは,政治家・法学者としても有能だった。大旅行家で『三大陸周遊記』をあらわした法学者のイブン・バットゥータもこのような知識人の一例である。

イスラーム文化の多様性

アラブ人の征服とともに成立した普遍的なイスラーム文化は,9世紀以後,イスラーム世界の政治的分裂にともなって,全体としての統一は保ちながらも,地域ごとに独自の発展をとげた。文化の基調となる言語を例にとると,エジプト・シリアや北アフリカでは,『クルアーン(コーラン)』の言葉,アラビア語が日常生活でも使用され続けたのに対して,10世紀以後のイラン・中央アジアではペルシア語,オスマン帝国ではトルコ語が使われるようになり,これらの言葉で書かれた歴史書・文学作品が数多く残された。

イスラーム世界全域でみられる建築物であるモスクも、共通の特徴を保ちながら、各地域ごとに異なった素材や様式が用いられた。素朴で重厚な石造アーチ式回廊をもつアラブ型(古典型)モスク,ササン朝以来の伝統をもつ煉瓦造りのドームと青や黄の彩色タイルが美しいイラン型モスク,ビザンツの影響をうけた石造大ドームととがった光塔(ミナレット)が特徴的なトルコ型モスクなどはその例である。

イスラーム教は偶像崇拝を禁じたため,彫刻は発達しなかったが,装飾文様としてのアラベスクがうまれ、各地で独特のデザインをもった文様が建築物の表面を飾るいっぽう,じゅうたんや陶磁器の図柄としても用いられた。13世紀以後発達するミニアチュール(細密画)も,地域ごとに特有の主題と画風をもっていた。

イスラーム教と男女の平等

イスラーム教を批判する際によく用いられるのが、男女が不平等で、女性は家のなかに押しこめられ、外出する際には髪や肌を隠すためにヴェールを身に着けなければならない、という類の言説である。

歴史的にみて、イスラーム教徒(ムスリム)の女性の社会的な立場は決して低かったわけではない。たとえばもっとも初期の事例としてムハンマドの妻ハディージャ(619年没)があげられる。彼女は富裕な商人として知られ、その経済的・精神的援助によイスラーム教がおこったといっても過言ではない。また彼女は、もっとも早くイスラーム教の教えをうけいれた信者であった。

その一方で,「クルアーン(コーラン)」には「男は女の擁護者(家長)である」(第4章第34節)とあり、男、女の社会的な役割のちがいを強調している。イスラーム法によれば、婚姻は男女間の個人の契約とされるが,夫は婚姻時の婚資の支払いと妻・家族を扶養する義務を負うかわりに、妻は夫に服従することが求められる。しかし、20世紀にはいると、女性の法的・社会的な地位の向上を求める運動が各地域でもりあがり、管理職の女性や企業家としての経済活動はもちろんのこと、医者や弁護士,大学などの教員として活躍する女性も多い。このような背景のもとで,イスラーム法の規定の合理的執行が模索されている。

イスラーム教と女性に関する問題の象徴の一つとしてよくとりあげられるのが,女性のヴェール着用の問題であるが,現在トルコやエジプトをはじめとする多くの国では,ヴェールを着用するか否かは個人の判断にゆだねられている。実際に女性のヴェ―ル着用が義務づけられているのは,サウジアラビアやイランなどのいくつかの国だけである。しかし,そのような状況にあるにもかかわらず,1990年代以降イスラーム復興の潮流のなかで,ヴェールを着用する女性の数は増加傾向にある。そこにみられるのは、西洋的な文明や生活様式に触れるなかでこれに対して疑問をもち,イスラ―ム教徒としてのアイデンティティを主張する象徴としてヴェールを着用するという傾向である。

4インド・東南アジアのイスラーム国家

イスラーム教徒のインド支配

インドでは,8世紀初めにウマイヤ朝のアラブ軍がインダス川下流域を占領したが,それ以上の進出はみられなかった。イスラーム教徒の組織的なインド征服がはじまったのは,アフガニスタンにガズナ朝(977~1187年)とゴール朝(1148頃~1215年)があいついでおこってからである。これら両王朝は10世紀末からインド侵入をくりかえし,ヒンドゥー教徒の諸王国を破って,しだいにインド支配の足場をかためた。そして13世紀初めに,ゴール朝の解放奴隷出身の将軍アイバク〈位1206~10〉によって,デリーにインド最初のイスラーム王朝(奴隷王朝,1206~90年)が創始された。

その後の約3世紀間,デリーには五つのイスラーム王朝が興亡し(デリ・スルタン朝),14世紀初めには,半島最南端部をのぞくインド亜大陸の大部分がその支配下にはいった。イスラーム勢力進出の初期には仏教を弾圧しヒンドゥー教の寺院を破壊することもあったが,信仰を強制することはなく,経済・文化面など,のちのムガル帝国の基礎をつくった。
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『世界歴史㉓』

『世界歴史㉓』

「大加速」時代の諸相

科学技術イノベーションと大量消費社会

世界は前と同じでないことを私たちは悟った。笑う
人もいた。泣く人もいた。大部分の人はおし黙っていた。

マンハッタン計画を主導した物理学者ロバート・オッペンハイマーが、一九四五年七月一六日午前五時二九分、ニューメキシコ州アラモゴード射爆場で実施したトリニティ核実験で、プルトニウム型原子爆弾による人類史上初めての核爆発を目撃したときの様子を、のちに回想して語った言葉である。プルトニウム同位体が人新世のGSSPを定めるシグナル候補とされているという点でも、二〇世紀後半世界史の点描は、この瞬間から始められなければならないだろう。

それはまた、二〇世紀科学技術イノベーションの最も劇的な到達点であっただけでなく、科学技術が歴史を駆動する時代の幕開けを告げる出来事でもあった。一般的な世界史・各国史の通史や教科書において、科学的発明・発見や技術革新、それらの推進力となった企業や組織の歴史は、政治経済史の後段で副次的・補論的に、あるいは個別のジャンルとして扱われがちである。しかし、たとえば核開発と冷戦のように、科学技術と歴史の因果と機序が絡み合う二〇世紀の、とりわけ後半においては、歴史叙述についても再考が必要である。科学技術イノベーションの歴史的衝撃に着目するとき、「長い二〇世紀」とその後半「大加速」の時代はどのように映るだろうか。

第二次産業革命の時代を起点とする「長い二〇世紀」論は、科学技術イノベーションの歴史においても有用である。アメリカでトーマス・エジソンが研究開発の事業化を目指してニュージャージー州メンロ・パークに研究所を開設したのは一八七六年のことだった。同研究所による白熱電球の開発成功を起爆剤として事業化されていった電気をはじめとして、第二次産業革命の時代には、とりわけアメリカとドイツにおいて今日の社会を支える多くの画期的な発見・発明が相次いだ。

具体例として、「大加速」グラフ群に採用された三指標――電話回線の契約数(通信手段の発達と普及)、自動車台数(モータリゼーション)、同:海外旅行入国者数(その前提となる航空の発達)、――に注目してみよう。それらの実用化・事業化・標準化の歴史的起点もまた、一八七六年のグラハム・ベルによる電話機の特許取得、一八七〇年代から八〇年代にかけてのゴットリープ・ダイムラーやカール・ベンツらによるガソリンエンジンや自動車の開発、一九〇三年のライト兄弟による初の有人飛行に到るまでの航空技術の開発競争など、おおむね第二次産業革命の時代に遡る。

二〇世紀前半には、これらの技術革新に対する積極的な資本投入による事業化が進み、イノベーションと需要(軍民需)が相互を牽引しつつ、先進工業国を中心に三指標ともに成長を続けた。そして、テイラー・システム(科学的管理手法)、フォード・システム(大量生産方式)、フレキシブル大量生産・マーケティング・会計手法など現代企業経営の基礎を確立したスローン主義など、生産方式・経営ノウハウの発達との好循環が働いて、ドイツのシーメンス、BASFやアメリカのGE、フォード、デュポン、GMなど、二〇世紀を代表する大企業群が次々と成長した。

二〇世紀後半には、三指標をめぐる消費の大衆化・高度化・グローバル化がいよいよ加速して、地球規模における成長の「対数期」を迎えた。本巻原山論文は、多品目にわたる耐久消費財の普及について、日本と中国をそれぞれ農家・非農家に分けて比較している(一九六頁)。その分析からも、異なる「対数期」の総和が地球規模での消費の「大加速」をもたらしてきたことが窺われる。そして「大加速データ・コレクション」によれば、二〇一〇年時点においても、他の「社会経済トレンド」の多くと同様に、これら三指標もまた「大加速」が継続しているのである。

ここで例示した科学技術イノベーションとその社会実装・普及のプロセスは、市場経済の競争的環境のもとであれ、指令経済や戦時体制の非競争的環境のもとであれ、人間社会や国家の様々な欲望を実現する方向に向けてイノベーションがシステム化されてきた二〇世紀「物質文明」のあり方を反映している。もちろん、失敗・偶然・試行錯誤に満ちた発明や発見は、二〇世紀の科学技術史において欠かせない役割を果たし続けた。例えば、

ヤン・チョクラルスキーが、メモを取りながらの実験中にインク壺と間違えてスズを溶かした坩堝にペン先を入れなければ、のちの半導体デバイス開発に不可欠なシリコンウェ製造技術の基礎となる単結晶の作製方法(チョクラルスキー法、一九一六年)は発見されず、二〇世紀後半の半導体開発は大幅に遅れるか、あるいは全く異なった発展経路を辿っていたかもしれない(Tomaszewski2002:1-2)。

二〇世紀「物質文明」の発展は、その多くを物質や生命の様々な性質の発見に負っており、毎年繰り返されるノーベル賞受賞者たちの物語は、チョクラルスキーと同様の失敗・偶然・試行錯誤に満ちている。しかしそれら無数の試みから生まれる成功物語としての幸福な偶然(セレンディピティ)は、一個人・天才の営為である以上に、社会から企業・研究機関・国家などの組織に対して資本・人材・ノウハウを継続的に投入・調達する仕組みがあって初めて可能となった確率論的必然であり、発見・発明から事業化までが可能となる営みだった。チョクラルスキーの発見も、ベルリンでドイツ大手電機会社AEGの技術者として研究開発に取り組んでいる最中の出来事であった。

発見と同様に、あるいはそれ以上に、応用と進化はシステム化されたイノベーションにおいて不可欠の要素だった。チョクラルスキー法の発見から三〇年あまり後の一九四七年、アメリカでAT&Tベル研究所の三人の研究者が同法を応用して半導体デバイスおよびトランジスタの発見・発明に成功(一九五六年にはノーベル物理学賞を受賞)、エレクトロニクスの世界でやがて半導体が真空管に取って代わることになる。そして半導体集積度の対数的増加に関する「ムーアの法則」に象徴されるような連続的に進化するエレクトロニクスの「大加速」が世界を変貌させていく。映画・ラジオ・テレビなどの音声・映像メディア、家電、コンピューター、通信など、ほかにも「長い二〇世紀」を通じてイノベーションがもたらした常に進化し続けるモノ・製品とコト・消費体験は、大量生産・大量消費社会の不可欠の構成要素となって、世界や人々の暮らしを不断に変化させてきたのである。

このように、二〇世紀は、科学技術イノベーションと経済成長が相互を牽引するシステムが稼働して、絶え間ない技術革新が進み、社会と人間活動のあり方を大きく変化させた。その変化において重要なことは、技術革新そのものよりも、むしろ持続的な革新・改革・成長の追求--実現していく欲望、高度化していく消費体験を前提とする世界観が社会のうちに内面化されたことかもしれない。そして、二〇世紀後半とは、そのような不断の社会改造―さらに言えば人間改造のプロセスが、アメリカそして主要工業国から世界へと拡大しつつ「大加速」した時代として捉えることができるのではないかと思われるのである。

アラモゴードから

体制間競争の「勝者」・資本主義体制における中心国としてのアメリカの優位性は、「大加速」論および発展経路の複数性の観点からどのように理解すべきだろうか。いま一度、アラモゴードに舞台を戻して考えてみよう。

あの早朝のアラモゴードで原子時代の幕開けを見た[中略]私たちは、今や、人間は労を惜しまぬ意志さえあれば、ほとんどいかなることでも成し遂げられるということを知っているのです。(Groves1962:415)

陸軍軍人としてマンハッタン計画を統括したレズリー・グローヴス准将の回顧録結語からの引用である。その溢れる自信と自己肯定感は、このとき確かに事実によって裏付けられていた。アメリカの核兵器開発は、一九三九年に核分裂連鎖反応が実験で確認され、ドイツによる核開発を憂慮する物理学者たちを代表してアルバート・アインシュタインがフランクリン・ローズヴェルト大統領に書簡を送ってから六年、計画開始(一九四二年八月)からわずか三年で核兵器の実戦使用にまで到った。ドイツや日本でも同じ時期に核兵器開発が検討・試行されたも実を結ばなかったことはよく知られている。

マンハッタン計画では、テネシー州オークリッジにウラン濃縮施設等、ワシントン州ハンフォードに本格的なプルトニウム生産炉等をもつ巨大な工場群が、ニューメキシコ州に核兵器開発を主導するロスアラモス研究所がそれぞれ建設され、常時一〇万人を超える人員が施設の建設、工場稼働、研究開発、運営管理の動員・雇用された。このような巨大プロジェクトを短期間のうちに設計・実行できたのは、「生産技術、製品・製法技術、流通システム、経営管理ノウハウ」など、あらゆる側面にわたり優れた分厚い技術蓄積がアメリカに存在していたからだった(橋本一九九八b)。

グローヴスは、同じ結語で「マンハッタン計画を成功させた五つの要因」として、①目的の明瞭さ、②タスク・デリゲーションに基づく効率的な分業システム、③目的の共有、④既存組織の活用、⑤政府による無制限の支援を、経営管理の教科書風に列挙している。実際のところ、オッペンハイマーとグローヴスが二人三脚で成功に導いたマンハッタン計画は、経営管理の教科書的な成功事例として二一世紀の今日も繰り返し参照されている「語り草」である。グローヴスは退役後、ジャイロスコープの製造から出発して軍需によって大きく成長した機械・電気メーカーで、コンピューター生産にも乗り出していくスペリー社の副社長に就任した。第二次世界大戦は、軍民を跨いだ経営人材育成の場でもあった。

しかし、アラモゴードや第二次世界大戦の成功体験だけでは、アメリカの優位性を説明できない。ソ連もまた総力戦でドイツに勝利し、さらにアメリカに遅れることわずか四年後の一九四九年八月、核実験に成功したからだ。一四四年にはサイクロトロンを組み上げるなど基礎研究が進んでいたソ連は、アメリカの原爆開発・使用の衝撃を受けて、スターリンの号令のもと国家最優先のプロジェクトとして大規模・急速に資源・人員を動員して独自に核開発を進めたのである。オッペハイマーとグローヴスの役割をソ連で担ったのは、核物理学者のイーゴリ・クルチャートフと、軍人で軍需工業指導者のボリス・ヴァンニュフだった(市川二〇二二:二六一四八頁)。宇宙開発でもソ連はアメリカをリードして、一九五七年一〇月四日には世界初の人工衛星スプートニク一号の軌道投入に成功、アメリカ・西側諸国を「スプートニクショック」が襲った。一九六一年にはユーリイ・ガガーリンが世界最初の宇宙飛行に成功、六三年にはワレンチナ・テレシコワが女性初の宇宙飛行に成功した。ソ連の指令経済・中央集権体制は、目標が明確で市場性が問われない軍需や宇宙開発では、少なくとも一九五〇年代から一九六〇年代にかけてアメリカに伍する科学技術力・巨大プロジェクトの遂行能力を示したのである。

軍需の民生転用では、資本主義体制における軍産複合体の方が社会主義体制と比較して優っていたとは言えるだろ冷戦による準戦時体制の恒久化は、世界最大の軍事大国となったアメリカの軍産複合体に莫大な利益をもたらし、ボーイング社、ロッキード社などの航空機産業などに代表されるように民需・軍需の双方を取り込んだ多くの大企業が成長するとともに、軍需で開発された技術は、重化学工業、トランジスタ、集積回路(IC)などのエレクトロニクス技術、NC工作機械などへ転用され普及した。

しかし、軍産複合体だけでは、体制間競争における資本主義の優位も、資本主義体制におけるアメリカの中心性も十分には説明できない。大量消費社会との関係では、むしろアメリカの軍産複合体も、競争の不在による生産性の低さという弱みを抱えていた点でソ連の国営企業と同類であったからだ。トランジスタ、IC、NC工作機械なども、開発したのはアメリカだったが、トランジスタ・ラジオやテレビなど民需での利用が拡がるにつれて、軍需の政府調達に依存しがちな米企業に対して民需を競う日本企業等の方がコスト削減や品質改善で優位に立った。一九七〇年代までアメリカが七割近いシェアをもっていたICも、一九八六年には日米のシェアが逆転するなど、アメリカは各分野で大きくシェアを日欧企業に(藤田二〇一八:三一頁)。一九七〇年代から八〇年代にかけて製造業を中心にアメリカ衰退論が囁かれたときには、中核産業として軍産複合体を抱える超大国であることは、むしろ製造業の競争力低下の要因でさえあったのである。

アップルへ

衰退論を裏切ってアメリカ経済が再生の方向に向かい、冷戦に「勝利」し、一九九〇年代には「ニューエコノミー」とさえ呼ばれた長期の好況を実現して、冷戦後の資本主義世界体制と高度化した進化し続ける大量消費社会のなかで競争力と中心性を維持できた最大の要因は、ICT(情報通信技術)分野での圧倒的な先行・優位にあった。半導体(一九四七年)に始まり、IC(一九五八年)、中央処理装置・CPU(一九七一年)の開発などを背景とする大型コンピュ―ターの小型化(一九六〇年代)、パーソナル・コンピューター(PC)(一九八〇年代)、インターネット(一九九〇年代)、モバイル通信(二〇〇〇年代)の爆発的普及に到る展開は、「大加速」時代の核心をなす産業革命・ICT革命であり、一九六〇年代から現在まで長期にわたって社会を連続的に改造してきた。それは資本主義世界のなかでグローバルに展開したとはいえ、右に示した開発事例の全てを含めて、その圧倒的中心はアメリカだった。他方、ICT革命を起こすことができず、またその模倣・複写にも限界があったことは、のちに検討するサハロフらの書簡(本稿四二頁)が危惧したように、ソ連・社会主義圏に体制転換をもたらす一因となっていく。

ローニング

ここで注目すべきことは、ICT革命を主導したのが、多くの場合、既存の大企業ではなく、既存組織を離職した、あるいは企業・組織への就業経験を持たないことさえあり得るような、わずか数名の仲間が集まって起業するスタートアップから成功をつかんだ新興企業群だった点である。それぞれ技術者仲間で設立した、一九五七年創業のDEC社は大型コンピューター市場を独占するIBMに対して小型コンピューター市場で大成功し、一九六八年に創業したインテル社は半導体開発で既存企業を淘汰して急成長した。さらに一九七六年、二〇代の青年スティーヴ・ジョブズとスティーヴン・ウォズニが、いわゆるガレージ・カンパニーとして創業したアップル・コンピューター社は、その前年にビル・ゲイツとポール・アレンが創業したマイクロソフト社などと並んで、PCの世界で先陣を切って巨大な成功を収め、その後もビッグ・テック企業としてⅠCT革命を主導して今日に到る、間違いなく「大加速」時代の主役企業のひとつとなった。

DECやアップルのような成功を生み出していくためには、くのスタートアップ企業群に投資し、ほんの一握りの投資先の成功から莫大な利益を獲得することを目指す投資方法を事業化したベンチャーキャピタルの存在が大きな役割を果たした。このような資金調達システムや、それを支える文化・風土におけるアメリカの優位性には、リスク投資が必要だった一九世紀ニューイングランドの遠洋捕鯨ビジネスにおけるファイナンスなどに遡る歴史があることが指摘されている(ニコラス二〇二二:二七―六二頁)。より現代的な起源としては、第二次世界大戦復員兵たちによる起業を支援する目的で一九四六年に設立されたARD(AmericanResearchandDevelopmentCorporation)が知られている。同社が体系的にスタートアップ企業群に投資してDEC社への投資から莫大な利益を収めたことは、ベンチャーキャピタル事業の出発点となった。一九七八年、創業直後のアップル社に五〇万ドルを投資したベンチャーキャピタル法人のベンロックは、三年半後には一億一六六〇万ドルの利益を獲得した(同:二四〇頁)。こうしたスタートアップ企業やベンチャー投資の成功譚は、ICT革命が体制間競争の行方や「大加速」に与えた影響を考えれば、経営大学院の教材(ケース)として以上の意味を汲み取る必要があるだろう。

インテル(サンタクララ郡マウンテンビュー)、アップル(同郡クパティーノ)などIT革命を主導した企業の多くは、カリフォルニア州サンフランシスコ湾ベイエリア一帯の、いわゆるシリコンバレーで起業・成長した。なぜシリコンバレーだったのか。ニュラス(二〇二二)は明るい気候風土が生み出した開放的な文化を強調するとともに――UCバークスタンフォードをはじめとするベイエリアの大学・研究拠点が若く優秀な人材を引きつけたことに加えて、第二次世界大戦以来、テクノロジー・エレクトロニクス分野の軍需がカリフォルニア州とりわけシリコンバレーに集中したことを背景に、大学と軍部の投資が早くからスタートアップ企業を繁栄させてきたことを指摘する(二六一―二六九頁)。DEC創業者の二人は国防総省がMITと設立したリンカーン研究所の出身であり、初期半導体の開発は資金を国防総省に多く依存していた。よく知られているように、一九九〇年に開放されたインターネットは一九六九年にアメリカ国防高等研究計画局(ARPA)が軍事目的で開発したARPAネットに起源をもち、国防総省によるGPS開発は一九七三年に始まり、一九九三年、全球を二四のGPS衛星がカバーするシステムが完成した。ICT革命と軍需、アップルとアラモゴードは深い縁で結ばれてきたのである。

いまひとつ指摘したいのは、ICT革命を通じて称揚されてきた起業家精神と結びつく独立自尊の人間類型である。アップル創業者スティーヴ・ジョブズが、がんを宣告された後の二〇〇五年、スタンフォード大学卒業式で行った祝辞に残した言葉からはその一端を窺うことができる。

あなたの時間は限られているのだから、誰かの人生を生きることに浪費してはいけない。[中略]最も重要なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。それらは、あなたが本当になりたいものを、なぜかすでに知っているのだから。(StanfordNews2005)

死は避けられないのだから、限られた人生、あくまで自分の直感を信じて自己実現に向けて迷わずに歩めと若者を勇気づけるジョブズの感動的なスピーチは長く記憶され、スタンフォード大学YouTube公式チャンネルでの再生回数は二〇二三年現在で四一〇〇万回を超えている3(https://youtu.be/UF8uR6Z6KLc)。同じ個体の死の不可避性の認識から、利他的選択の可能性を語ったポラニーとは異なり、ジョブズは、新自由主義時代の美徳として極限の自由と個性の賛歌を力強く語った。「スティ・ハングリー、ステイ・フーリッシュ」の結語が示す、独創を貫くために成熟を拒否する人生観はまた、ソ連において称揚された超人的能力でノルマを超過達成したとして生産性向上運動の象徴となった炭鉱夫アレクセイ・スタハノフ、無着陸飛行の世界記録を樹立してスターリンが絶賛した飛行士ヴァレリI・チカロフ、さらに冷戦下で「豊かな精神性、道徳的純粋性、身体的完全性を調和」させた英雄として称えられた宇宙飛行士ガガーリンらに代表される「新しいソビエト人」(Gerovitch2007:135)の人間類型ともかけ離れていたのである。

台所論争

ロシアを対象とする「長期経済統計」研究によれば、一九一三一九〇年のロシア共和国一人当たりGDP成長率は欧米諸国の水準を大きく上回っており、スターリン時代の第一次高度成長期(一九二八一四〇年)は群を抜くなど、ソ連期ロシア共和国は相対的に安定した恒常的成長軌道を歩んできた。一九六〇年代以降、生産性低下の問題や停滞感が次第に強まったことは事実だとしても、一九七〇年代から八〇年代にかけても経済成長は継続しており、「GDPの「量的な問題」だけではソ連崩壊は説明できない(久保庭ほか二〇二〇一九九一二〇五頁)。また、「歴史の敗者」としてのイメージがついて回るソ連・社会主義圏については、とりわけ二〇世紀を知らない世代の間で、資本主義世界・自由主義と「両極端」に位置する価値観が支配していた社会であったと捉えられがちである。確かにスティーヴ・ジョブズと「新しいソビエト人」たちは水と油の関係にあるかれない。しかし、この「両極端」な世界像には訂正が必要である。

あなたはロシア人がこれら〔ユニット・キッチンなどのアメリカ製品〕を見て吃驚するだろうと思っているんだろうが、実際のところ新築のロシア住宅は今まさにこういう設備を備えていますよ。(Krushchev1959)

一九五九年七月、アメリカ副大統領としてソ連を訪問したリチャードニクソンとの「台所論争」で、ソ連共産党書記長ニキータ・フルシチョフが放った言葉である。論争の舞台となった「アメリカ博」は、本巻齋藤論文が検討する、ソ連の「文化攻勢」から始まった東西文化交流におけるアメリカの「反撃」の場とも言うべきもので、六週間の期間中三〇〇万人が訪れたモスクワの会場で市民の関心を集めたのは、芸術作品などの高級文化よりも「郊外に住む中流階級の平均的な暮らし」を紹介して家電品を「主婦」がデモンストレーションするモデルルームのような空間だった(鈴木二〇二四一頁)。この会場で通訳を介して交わされた論争は、テレビで録画放映もされ、冷戦を象徴する一コマとして長く記憶されてきた。

当時、ソ連の指導者が消費社会における市民の生活満足度を競い合うことを拒まなかった事実を示すこの出来事を「大加速」論の観点からふり返るとき、米ソ・東西体制間競争は、両極端・二項対立のイデオロギー闘争というよりは、同じ近代、同じ物質文明において、同じ欲望を実現することを目指した競争であったと捉えた方が有用ではないかと思われてくる。スターリン批判(一九五六年)後の「雪どけ」の明るさとともに、この時期のソ連は、スターリン時代に続く「第二次高度成長期」(一九五〇年代後半―六〇年代前半)を迎えていた。平和共存路線を唱え、軍事的対決ではなく体制間競争での勝利を「アメリカに追いつけ追い越せ」など様々なレを使いながら強調したフルシチョフは、少なくとも表面的には好調だったソ連経済を頼みにして、社会主義による近代化を大衆的規模で実現することをめざしていた。

なかでも喧伝されたのが、労働者への集合住宅の大量供給だった。スターリンの死の翌年(一九五四年)、フルシチョフはコンクリートの効用を説く三時間にわたる大演説を行い、まもなく統一規格の五階建てコンクリート・プレハブ集合住宅建設の大号令をかけた(Forty2019)。第六次(一九五六―六〇年)五ヵ年計画では第五次からほぼ倍増の一一三万戸分のフルシチョフカと呼ばれた-住宅団地が全ソ連に建設されていった。フルシチョフ失脚(一九六四年)後も集合住宅の供給はソ連・社会主義圏の看板政策であり続け、一九七〇年代にはエレベーター付き高層集合住宅が主流となり、年間二二〇万戸のペースで世界最大規模の住宅建設がソ連崩壊直前の一九八〇年代末まで続いた(大津一九九八:二八六頁)。

住宅の大量供給は住宅不足と表裏一体であるから、社会主義の成果として額面通りに受け取ることはできない。一九八九年の調査でも、複数家族で共用する「共同フラット」利用者が三五〇万家族にのぼっていた(外池一九九一:一二二二二頁)。それでも長い待ち時間「行列」を経てでも、入居後は無償に近い低廉な住宅に住み、質量ともに低レベルとはいえ消費生活と福祉を享受できたことは、社会主義体制下の統合の基礎となった。西側モデルとは比較にならない陳腐さは否めないものの、家電も量的には一定の普及が進み、一九六八年までにはテレビと洗濯機の普及率は五〇%を上回り、テレビ販売台数も一九五九年の一一三万余台から一九八五年には九三七万余台に達した(大津一九九八:二九〇一二九一頁)。チェコ「プラハの春」弾圧後の「正常化」体制を批判したヴァーツラフ・ハヴェルから見れば、このような状況は独裁と消費主義が結合した「ポスト全体主義」であった(本巻福田論文:一七三頁)。しかし、いったん消費社会の窓を開いてしまうと、完全な統制と情報の遮断をしない限り、競争的市場経済のなかで不断に高度化していく西側の大量消費社会の情報に接した人々の欲望を抑えつけることは難しい。西側の情報に晒される機会が増えるにつれて、「行列」に象徴される慢性的な消費財の不足や品質の低さは東側市民の不満を高めた。「長期経済統計」分析は、「消費財選択・営業・貿易・旅行・為替の自由化」がないままに「不足経済」を国民に強いたことによる「GDPと経済構造の内実の貧困」がソ連崩壊の最大の経済的要因だったとして、消費者不満が体制転換に向かう大きな要因だったという見方を示している(久保庭ほか二〇二〇二〇七頁)。

本巻松井論文が検討する人権と民主主義を求めた異論派の役割、ソ連末期の改革(ペレストロイカ)、冷戦終結、資本主義・市場経済への転換を求める動き、豊かな消費生活への人々の期待などが、どのように組み合わさってソ連・社会主義圏の崩壊へと事態が展開したのかについては議論の尽きないところであり、本巻の各論文からも多様な示唆を得ることができる。ここでつけ加えたいのは、それら諸要素の絡みあいがソ連において強く認識されていたことである。台所論争から一〇年後、アンドレイ・サハロフ博士ら三名が共産党中央委員会に宛てた書簡(一九七〇年三月)からも、そのことが読み取れる。

最近の一〇年、わが国の経済には混乱と停滞の危険な兆候が現れるようになりました。[中略]第二次産業革命が始まり、七〇年代初めにわれわれは、アメリカに追いつかず、ますますアカから遅れを取っているのを見るのです。「略」民主化を行わない場合にわが国を待っているのは何でしょうか。第二次産業革命の資本主義諸国からの立ち遅れ、そして二流の地域国家への漸次的変化(歴史はその例を知っています)。経済苦境の増大。党=国家機関と知識人の関係の尖鋭化。左右決裂の危険。民族問題の尖鋭化。(歴史学研究会二〇一二三二〇一三二一頁)

この書簡はソ連人権運動史を代表する文章のひとつとして知られている。ここではあえて民主化に関する文章の前後を引用した。相手を意識して意図的に強調されたとしても、サハロフらが人権擁護と民主化が必要な根拠としてソ連の国力停滞・衰退への懸念を強調していたことは重要である。ここで書簡が「第二次産業革命」と呼んでいたのは、本巻「展望」が検討してきた一九世紀第4四半期に始まったそれではなく、「生産システムと文化総体の様相をラディカルに変えつつある最も重要な現象」としてのコンピューター化すなわちICT革命に他ならなかった。すでに米ソのコンピューター普及率には一〇〇対一の格差があり、ソフトウェアの格差は計測できないほど大きく、「私たちは別の時代に住んでいる」と、サハロフらは危機感を露わにしていた(Dallin&Lapidus1991:83)。

「現存した社会主義」を考究した塩川(一九九九)は、社会主義は「組織化による近代化」という趨勢を最も徹底して体現していたという意味で「二〇世紀」の最も極限的なモデルであったが、そのことが「社会主義の位置をある時期まで高いものにし、そして時代の反転とともに低下させた基底的な要因だったのではないか」と述べる(六二六頁)。「時代の反転」が指し示していた趨勢とは、資本主義体制に「第二次産業革命」すなわちICT革命をもたらした脱工業化・情報化・知識社会化であった。そして、コンピューター化による技術の高度化は、軍拡競争でアメリカと伍するためにも絶対に必要だった。もしそのためにも集権から分権へ、組織から個人へ、規律から自由への転回が、必ずしも目的としてなく手段としても必要だったとすれば、そしてが集権的な権威主義体制であるソ連には到底出来ない相談であったとすれば、冷戦・体制間競争の勝敗を分けたのは、やはり、アラモゴードではなく、アップルーを生み出すようなアメリカ資本主義体制の土壌とソ連におけるその不在―――だったことになる。

問題は、「第二次産業革命」を起こす要素の不だけではなかった。むしろ「組織化による近代化」そのものに「時代の反転」をもたらす要素が内在していた。近代化は、どこかで必ず共同性から「個人への転回」をもたらさざるを得ないからだ。フルシチョフの大号令で建設されていったアパートは、浴室・トイレに加えて、スターリン時代までの共同炊事場付きアパ―トには無かった個別専用台所をソ連のこうした集合住宅としては初めて備え、戸別にプライバシーが確保されたことが大きな意味をもった(鈴木二〇二二:三八三九頁)。社会主義の公共性が建前では強調されても、「共同フラット」を脱出して個別住宅で快適な私生活を送るために人々が長い待ち時間を耐えたのは「個人への転回」を意味していたし、住宅供給を喧伝した体制もその欲望に応えることの必要性を理解していたことになる。「時代の反転」は外から訪れただけでなく、ソ連・社会主義圏が自ら作り出したものでもあった。

そして、「組織化による近代化」からの反転という時代の趨勢が押し寄せたのは、何もソ連ばかりではなかった。資本主義体制においても、生産性が低迷する製造業や肥大化した官民の諸組織のリストラ、国家資本主義・修正資本主義の産物である国営企業・公社の民営化、社会保障制度の見直しなど、要するに一九七〇年代以降の新自由主義政策・思潮が生まれていく。本巻小沢論文が新自由主義の世界体制化を論じるなかで、ソ連・社会主義圏解体の基底にあるものを「内発的新自由主義」(一三二頁)と呼んでいることを踏まえると、ソ連・社会主義圏の崩壊は、このような時代の趨勢のなかで、「大加速」時代における複数の発展経路のひとつが淘汰されていく過程であり、また「大加速」心向けで世界が、そして人間の挙動が最適化されていく過程であったと解釈することも可能だろう。

ポーランド社会主義時代の人工都市ノヴァ・フータをめぐるツアーやベルリンのDDR博物館など、消費者不満の記憶は、二一世紀に入ると皮肉と懐古の入り交じったレトロ消費の対象ともなった。その一方、九九〇年代の深刻な体制移行不況を経て、旧ソ連・東欧諸国では、「古きよき社会主義」を懐かしむ視線が強まった(菅原二〇一八)。究代ドイツでは、ナチスだけでなく東ドイツの過去をどう扱うかが問題とされる(本巻星乃コラム)。こうして、淘汰された過去を生きた記憶と新自由主義の現在を生きる意識は、旧ソ連・東欧諸国の二一世紀におけるポピュリズム・を与えていくのである。ナショナリズムの台頭に複雑な影響を与えていくのである。

「大加速」時代の日本とアジア

台所論争をせず、真っ向からアメリカ的生活様式を否定したという意味では、第二次世界大戦における日本は「持たざる国」としての必要に迫られたからとは言え、物質主義と対決して欠乏に耐える精神主義を掲げた点でソ連よりもよほど両極端で二項対立的なイデオロギー闘争をアメリカに挑んだと言える。しかし、日本の精神主義は、たとえば東南アジア占領において被占領者の住民にはほとんど理解不能であったし、またアメリカの物量に圧倒された悲惨な敗戦という事実をもって完膚なきまでに否定された(中野二〇一二)。何よりも戦後日本人が、戦時の精神主義の愚かさと欺瞞を否定し、またあっさりと忘却して、戦後世界でアメリカナイゼーションの優等生となった。これも「大加速」に向けて世界が最適化されていく過程で起きた一大事件だったと言えるだろう。

第二次世界大戦後になると、政治的な出来事を中心に叙述する世界史では日本の影が一挙に薄くなる。高度経済成長期(一九五五―七三年)も、世界史とつながらない内向きの成功体験として語られがちである。しかし、地球から見れは、「大加速」グラフ群二四項目のほぼ全てにわたり、日本は大活躍する立派な主役のひとりであった。別府湾が人新世GSSPの有力候補のひとつになったことも、決して偶然ではない(日本経済新聞「地球史に人類の爪痕環境激変の新年代「人新世」検討」二〇二三年二月一九日朝刊)。同湾海底堆積物からはプルトニウム同位体のグローバル・フォールアウトが一九五三年から急増した明瞭な痕跡とともに―――マイクロプラスチック、PCB、重金属、富栄養化、低酸素化、窒素同位体など人新世を示すさまざまなシグナルが検出される。化石燃料燃焼によるフライアッシュの球状炭化粒子(SCP)もまたそのひとつで、一九六四年から値が急上昇したことが検出される(Kuwaeetal.2022:26)

 奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   118
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家族の潤いアップル    88
冷凍肉まん   218
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生ハンバーグ 158
ポテサラ       100
サランラップ  328
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