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豊田市図書館の10冊

007.63『OneNote基本&便利帳』
007.63『いちばんやさしいExcelピボットテーブルの教本』
002『脳がめざめる「教養」』
292.92『ウラジオストクを旅する43の理由』
913.6『ナポレオン2 野望篇』
304『リバランス--米中衝突に日本はどう対するか』
010.4『第104回全国図書館大会 東京大会記録』
312.9『図解でわかる 14歳からの地政学』
369.38『ロヒンギャ問題とは何か』難民になれない難民
227.1『近代アフガニスタンの国家形成』歴史叙述と第二次アフガン戦争前後の政治動向

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無印大好き

幕張メッセの前のビルにナン・カレー食べ放題の店があった。好きだった。無印のナンにチャレンジしよう。生地を伸ばす棒は確か合ったはず。 #退職後は自炊
無印には多種のカレーがあり、なぜか、200gと350gが同一価格。じゃがいももまるごと入っている。 #無印大好き
定刻よりバスが2分ほど早く来た。
車なしで最初の新刊書漁り。リュックを背負って、歩き始めた。ネアンデルタール人のように。胸は痛むけど、ここがワルシャワだと思えば前に行ける。 新刊書漁り
りくは頑張っている。玲子が来ても吠えることはもうできない。 #りくくん
FBのハッシュタグは有効。言葉を整理しよう。 #言葉の進化
乃木坂工事中のハッシュタグは秀逸。日本は俳句の世界を進化させた。 #言葉の進化
未唯宇宙は8文字のキーワードの組み合わせで表現している。 #言葉の進化
図書館がプアでよかった。30冊だと処理できない。せいぜい10冊だった。とりあえず運べる量。 #新刊書確保
本は私のためにあるので新刊書漁りは止めたらいけない #未唯宇宙
先週の乃木坂工事中で今野が「44人全員を撮してください」とバナナマンに言った。これって、すごいこと。それに対して、本当に全員を撮った。 #乃木坂工事中
てちとその仲間たちではあり得ない。分からないのがおなじのが関わっている。 #乃木坂工事中
伊賀と甲賀は上で繋がっていた。敵のように見せて、社会の変化を促すやり方。すべてが実験の世界を作り出す。本当の敵の出現を阻止するために #秋元戦略
ごっついのが6人でカードゲームを始めた。スポーツ選手とスーパーの主婦は傲慢だから嫌いです。 #スタバ風景
それにしてもごっつい。スタバは馴染みがあるんだろう。ドイツ鉄道の駅にあるスタバに感じるのと同じ。 #スタバ風景
待ち時間はメモ入力に当てよう。
指が微妙に痛い。
ナンを買ってきてしまった。めん棒を探さないといけない。 #無印大好き
無印の接客には感心する。お釣りの渡し方は一番ですね。えぷろんだと機械から出てきたものをレシートとごちゃで渡してくる。最低です。 #無印大好き

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朝鮮の民族問題

どう見ても、朝鮮の民族問題でしょう。そのために共通の敵は必要。202年5に北に吸収される。そのあとに市民意識に目覚める。香港は先を行く。 #民族問題
ベトナムを見るときに、これがホーチミンが望んだことなのか、ということ。 #ベトナム
人間は過去においては殺す役割を持っていたが、今は殺される役割だけ。なのになぜ戦争をのぞむのか。相手が違うだろ。 #戦争ができる国
吉野家のあじフライ丼。いいことを聞いた。これなら簡単に作れる。買ってきて、載っけるだけ。ソースが使える。 #退職後は自炊
キャベツの千切りも買ってこよう。
目次編は色鉛筆で書き込もう。#未唯空間
欅の東京ドーム公演のリアルタイムの感想を見ていると「てちとその仲間たち」の戻っている。菅井の意図した変化はムリみたい。てち次第での急激な変化しかない。今野はそう割りきった。やれるところまでやる。 #今野の割り切り

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クルマは道路を走るもの

クルマって、道路を走るものなんだよね。生活道路の幅が拡がっていないのに車が広がるのは何故か? 道路を走ることを想定していないから。 #車は道路を使う
詳細はなかなか進まない。繰り返しで眠たくなる。プリンターは退職時に否定した。手書きになる。Kindleでペン対応を待っている。本に手書きするようにKindleは考えるはず。 #詳細と概要
思考のためにはプリンターは不要。イメージを頭に入れ込めば考えられる。 #思考するには
車は所有が前提にだから、居住性とか見栄えを考える。共有なら移動効率を考える。#所有から共有

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ドローン攻撃と神風特攻隊

ヨーロッパ縦断の計画がたたない。ハンガリーとポーランドに絞ろうか。本命のウクライナは見えてこない。 #ヨーロッパ縦断計画
東欧を歩いている感覚で歩行しよう。都市を歩くのは好きです。早朝の大連、冷えきったロバニエミ、歩き疲れたコペンハーゲン。だけど、豊田市はつまらない。路地を歩いても、駐車場しかない。ダニーデンは花壇が多くあった。車より花の方がいいのに。 #ヨーロッパ縦断計画
目的があるものには組織は使うもの。
ドローン攻撃と神風特攻隊との違いは何か? 人類の進化。ギリシャの重層歩兵が民主主義を発生させた。究極のカタチはスパルタの教育。 #ドローン攻撃
ドローンがいちばん発達しているのが中国。256機で花火を演出できる。日本は戦争できる国を目指しているいるけど戦争そのものが変質してしまった。 #ドローン攻撃
図書館寒い。半袖はムリ。
カローラ3ナンバー化。インフラとしての道路の幅を考えていない。自転車専用レーンのために道路を分割すると、車幅は2/3位が正しい。 #車は道路を使う

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OCR化した10冊

『国家活動の限界』
 人間の究極目的
  陶冶の条件--自由と多様性
  内面生活への適用
  歴史的確証
『ファクトフルネス』
 単純化本能 「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
  誰を信じたらいい?
  単純化本能
  その道のプロ--専門家と活動家
  トンカチとくぎ
   数字だけがすべてではない
   医療でなにもかも解決できるわけではない
  政治思想
  キューバ--貧乏人の中でいちばん健康
  アメリカ--金持ちの中でいちばん不健康
   民主主義でさえ、それだけではすべてを解決できない
  ファクトフルネス
『国民衛生の動向』
 婚姻と離婚
  婚姻と離婚の動向
  結婚生活に入ったときの夫妻の年齢
  初婚・再婚
  離婚の種類
  離婚した夫妻の同居期間
  離婚した夫妻の子どもの数
『サイバー空間における覇権争奪』
 歴史的位相を問う
  どうなるWeb3.0--無形資産とプライバシーの法的規制問題 
   パイプラインからプラットフォームヘ
   データの所有問題
   データは「資産」?
   無形資産の所有権問題
   分散化システム下での無形資産
   データは「排気ガス」?
   コンテンツとしてのプライバシーの重要性
   公的機関による顔認証を禁止したサンフランシスコ市
   ソフトウェアにも製造物責任を
  ブロックチェーンの可能性--「ネットワーク信頼」
   「ネットワーク信頼」
   エストニアのX-Roadプラットフォーム
   ブロックチェーン・ネットワークの二つの形態
   アーカーシャ(Akasha)
   データの直接売買
   将来性への疑問
   ブロックチェーンヘの規制問題
   最先端の中国
  産業はどう変わる?
   デジタル・トランスフォーメーション
   「ライン」にもライバル    、-
   変貌必至の銀行・保険
   分散化システムのさらなる発展のために
   常識を捨てよ
   EVに賭ける中国
   トヨタ倒産?
   根深い米中貿易戦争
  地政学的転回
   分散化システム下の地政学
   分散化システムの新たな可能性
   「監視資本主義」下の地政学
   「テック・ジャイアンツ」への警戒
  「国家信頼」から「マシーン信頼」へ
   民主主義とグラフィック革命
   確率的因果論とその限界
   「気高い嘘」(noble lies)
   統計の問題は科学全体の問題
   統計の信頼性を担保する「マシーン」
   グラムシを逆手にとったトランプ
『良いスウェーデン、悪いスウェーデン』
 難民とオルタナティブ・メディア
『テクノロジー思考』
 データ資本主義データと民主主義の結婚--トランプ大統領誕生の裏側
 フェイスブックはなぜ人気者から嫌われ者に堕ちたのか?
 個人データは一体、誰のものか?
 データにまつわる2つのイデオロギー対立
 規模の経済性というデータ特性
 テクノロジー全体主義の世界で、胸でGの字を切る人々
『教育学へのレッスン』
 近代家族規範をこえて子育て支援を考える
  1.子育て家族をめぐって
  2.歴史的存在としての家族、モデル(理念型)としての近代家族
  3.「子育て困難社会」のはじまり--母性の危機か、子育て環境の危機か
  4.子育て家族の多様化と子育て支援
『逆転のイギリス史』
 フランス革命・ナポレオン戦争の影響
  2つの戦争の相違
  新しいシステムを生み出したイギリス
 インターネットの発達とイギリス
  インターネットの始まり
  インターネットと経済
  リーマンショックからギリシア危機へ
  ブレクジットとは何か
『2100年の世界地図』
 イスラーム
  アフラシアの結節点
  ムスリム人口の世界的分布
  アフラシアを結ぶ旅
  アフリカのイスラーム
  土着の共存の作法
 共同体を想像する
  民主主義の二つの意味
  多数派の意思が支配する
  少数派の意見が尊重される
  温和な共同体
  アフラシアとヨーロッパ世界
  アフラシアとアメリカ世界
  アフラシアと日本
  三角測量の試み
『南北戦争の時代』
 はじめに
  本書の時代区分と歴史空間
  デモクラシーの実験場--トクヴィルのみたアメリカ
  世界が注目した南北戦争--カール・マルクスのみたアメリカ
  近代化のモデル--岩倉使節団のみたアメリカ
 南北戦争
  内戦の勃発
  南北戦争中の外交と海上封鎖作戦
 南北戦争の変質
  転機としての奴隷解放宣言--奴隷解放のための戦争ヘ
  戦争の終結
 アメリカの帝国主義のかたち
  アメリカの帝国主義
  米西戦争と帝国主義論争
  門戸開放宣言とアジア進出

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南北戦争 内戦の勃発

『南北戦争の時代』より
一八六一年三月四日の大統領就任演説においてリンカンは、あらためて南部奴隷制への不干渉を表明した。その上で、「私たちは敵ではなく友人である、敵であってはならない、激情が緊張をもたらすことがあっても、私たちの愛情の絆をきってはいけない」と述べ、連邦を維持してゆくことの必要性を説いた。だが四月こ一日未明、連邦離脱の先陣を切ったサウスカロライナのチャールストン湾で、孤立した連邦側のサムター要塞に南部連合軍(南軍)が砲撃を加えたことにより内戦が勃発、絆は断たれることになる。
南部連合発足後、南部にある連邦要塞はほぼ南軍支配下に置かれたが、サムター要塞の司令官ロバート・アンダーソン少佐は連邦への忠誠を誓っていた。大統領就任式の翌日、彼からの手紙を受け取ったリンカンは、閣僚会議での反対意見を押し切り、サムター要塞守備隊への食糧支援を決断した。リンカンのこの決定は、反乱地区に連邦の権限が及んでいることを国内外に示し、大統領の連邦離脱阻止の思いがいかに強固であるかを南部連合に伝えるためのものだった。
しかし、開戦の機会をうかがっていたサウスカロライナがこれを受けて要塞に発砲し、以後四年の長きにわたる未曽有の内戦が始まったのである。二日間にわたる激しい砲撃戦の末、サムター要塞は陥落した。チャールストンの民衆が勝利に沸き返るなか、南軍は連邦軍(北軍)兵士が非武装船で逃走するのを見逃した。サムター要塞にはためいていた三三星の星条旗(開戦前の州は三三)は、アンダーソン少佐が持ち帰ったが、この星条旗は戦時中、北部民衆の愛国的シンボルとなり、北軍の徴兵活動でも大活躍することになる。ちなみに、戦争終結後、この三三星旗を再占領したサムター要塞に掲揚する祝賀会が行われた一八六五年四月一四日は、まさにリンカンが狙撃された日であった。
連邦に留まっていたヴァージニアは、これを機に南部連合に参加し(連邦離脱日一八六一年四月一七日)、アーカンソー(五月六日)、ノースカロライナ(五月二〇日)、テネシー(六月八日)も続いた。以降、これら一一州から構成される南部連合は国家体制を整え、首都も当初のモンゴメリーから、ヴァージニアのリッチモンドヘと移された。
これに対して、連邦に残ったのは全部で二三州。そこにはミズーリ、ケンタッキー、デラウェア、メリーランドという南北の境界エリアにあった奴隷州も含まれており、ヴァージニアから分かれたウェストヴァージニアも連邦に加わった。
リンカンは開戦後まもない四月一七日、第一騎兵隊大佐のロバート・リーに総司令官就任を打診した。だが同日、リーの故郷であるヴァージニアが連邦を離脱したため彼は就任を拒否し、連邦軍からの除籍を願いでた。アメリカの陸軍士官学校のほとんどは南部諸州に置かれており、南部出身の軍人の多くはりIと同じ決断を下し、南軍についた。
戦争遂行にあたって両陣営が最初に直面した課題は、兵士の創出であった。建国期にさかのぼれば、独立戦争時にワシントンが率いた大陸軍は、戦争終結後の一七八三年には解体された。その後の戦争においても、アメリカ・メキシコ戦争時に陸軍が五万人にまで膨らんだが、戦後は約一万人へと縮小した。州単位で強い募兵権が確立され、反常備軍感情が根強いアメリカには、開戦当時も、主に先住民に対抗するための二万人足らずの連邦軍しかなかったのである。もちろん新たに誕生した南部連合も、兵力は保有していなかった。
リンカンは早くも一八六一年四月一五日には、三ヵ月限定での志願兵七万五〇〇〇人の召集を決定した。さらに五月にも志願兵増員の募集をするが、各州は白州への割り当て増を求め、知事からの陳情が相次いだ。この軍役期間の短さからも、リンカンが戦闘の早期終結を楽観視していたことがわかる。
しかし七月二一日、ブルランの戦いでの北軍の敗北により、事態は一変する。ヴァージニア州マナサス近郊のブルランで行われた、南北戦争最初のこの大規模戦闘は、首都ワシントンから南部連合の首都リッチモンドを一気に占領するべく南下した北軍が、南軍と激突したものだった。南北双方の急ごしらえの陸軍部隊による戦闘は混乱を極めたが、のちに「ストーンウォール(鉄壁)・ジャクソン」とあだ名され南軍の英雄となるトマス・ジャクソン将軍の頑強な防御戦術が功を奏した。反撃に出た南軍に対して、数において勝る北軍は総崩れとなり、首都ワシントンに逃げ帰ったのである。勝利を確信していた北部人は衝撃を受け、一転、首都攻略の危険すらあると恐れるようになった。
図2-6が示すように、開戦当時、北部側は人口比で北部二二〇〇万対南部九〇〇万(内訳は白人五五〇万人、黒人奴隷三五〇万人)、工場数でも北部一一万対南部一万八〇〇〇など、南部を圧倒する人的資源を持ち、工業化・産業化を推し進めていた。圧倒的に有利な立場から、短期間での勝利を確信していたのである。しかし、結果から見れば、北部が軍事力の点で南部を凌駕するまでには、かなりの時を要したということになる。
ブルランの戦い(第一次)以後も、戦争初期は、七日間の戦い(一八六二年六月二五日-七月一日)や第二次ブルランの戦い(八月二八-三〇日)など、南軍が勝利するケースが多かった。その理由は、第一に、南軍はロバート・リー将軍など優れた軍人を数多く擁し、兵士の士気が高かったこと。第二に、戦略的にいえば、南軍は北部に侵攻する必要はなく、北軍による南部侵攻を撃退するという専守防衛でよかったということである。逆に北軍は、南部連合一一州を相手に、領土深く侵攻して南部全域を征服する必要があった。
さらに、南部の防衛を強固にしたのは、この戦争で両軍により本格的に使われるようになった射程距離の長い近代的ライフルと、塹壕であった。総力戦としての第一次世界大戦を想起させるこれらの武器や戦術は、実は南北戦争において使われ始めたのであり、それゆえに、両軍の戦死者が六二万人を超える甚大な犠牲者を出す結果となるのである。
苦境に立たされた連邦側は、長期戦への備えが必要であり、また志願兵中心の軍隊では限界があることを痛感した。そのため議会では、兵力増強を目指して、上院軍事委員会議長ウィルソンを中心に徴兵制の導入に向けた検討が本格化した。一八六二年七月には、議会が可決した第二次没収法により、従来の民兵法を修正し、解放された黒人奴隷が任意の軍務に就くことが可能になった。
だが、同年一二月のフレデリクスバーグの戦いでの戦死者の急増、逃亡兵の増加、兵役期間終了を迎えての志願兵の退役などで、北軍の弱体化には歯止めがかからなかった。そこで一八六三年三月三日、国家による直接徴兵を可能とする連邦徴兵法が成立し、陸海軍の兵力を立て直す道が開かれた。これがアメリカ史上、最初の徴兵法であり、こうした戦時立法を通じて連邦の権限強化と集権化が一気に進んだのである(南部連合側では、これよりも早く一八六二年から徴兵を実施)。

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今日から車なし生活

今日から車なし生活。歩き始めたのはいいけど、胸の痛みが出てきた。忘れていた。歩くと胸が痛くなるんだ。 #原因不明
心臓外科で視てもらったけど、原因不明で気のせいで済まされた。現在の人類では解明できないでしょう。 #原因不明
休み休みで豊田市へ。祝日だから図書館は開いているはず。
やはり、タブレットはいる。FB入力用
スマホは不安定。
衣ヶ原経由の方がバスの便数が多い。180円に対して、220円と40円も高い。悩むところです。
モスが満席になっている! バーガーよりメンチの方がまとも #モスはガラガラ

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イスラーム アフラシアの結節点

『2100年の世界地図』より イスラーム
アフラシアの結節点
 アフラシアを束ねる根拠は、植民地支配を繰り返してはならないという認識である。そこで提示されるべきものは、西洋列強による植民地支配をふりかえったうえで、私たちは「他者の自由を奪わない」「寄生しない」「覇権を求めない」という歴史的な決意であり、知恵である。私たちは二二世紀に向かう百年の構想を考える。そうであれば同じ長さのスケールを用いて、過去の百年から教訓を得なければならない。そこで前章では、二〇世紀のアフリカとアジアの汎民族主義者の言説を紹介したのだった。
 二一世紀に入った同時代において反西洋のイデオロギー的な言説が最も強く語られているのは、イスラーム世界である。サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』(一九九六年)において、ポスト冷戦時代には異なる文明の断層線において紛争が生じやすくなると指摘し、とりわけ西洋世界とイスラーム世界、儒教世界の対立を予告した。世界はこうなるという予言を受け入れた者が、その予言が求める通りに行動し、その結果として(実現するとは限らなかった)予言が実現してしまうことを「自己実現的予言」という。人間は信仰が違えば互いに信用できないという言説が繰り返し語られるほど、人々はそのような言説にとらわれて行動し、実際に宗教間の対立が深まってしまうかもしれない。
 冷戦時代には「安全保障のジレンマ」という現象が注目され、盛んにシミュレーションが行われていたものである。A国が新たなミサイルの配備を準備していると考えたB国は、自衛のためにミサイルの配備を準備する。その様子を見たA国は、B国の脅威に備えてミサイルを増強しようとする。それを見たB国がまた同じことをしようとする。こうして軍備増強と相互不信に歯止めがきかなくなり、偶発的な核戦争の危険が高まる。冷戦時代、大規模戦争を引き起こす当事者になりかねない核大国は、こうしたジレンマの構図をふまえ、軍拡に乗り出す反面で信頼醸成と戦略対話を積み上げる努力を重ねてきた。第二次世界大戦後、軍事対立の空間から自らを切断することで平和を維持してきた日本は、自らのプレイヤーとしての位置を客観視することに核大国ほどに慣れていないので、ポピュリズムに煽られて安全保障のジレンマを加速させる当事者になってしまう可能性がある。
 この「安全保障のジレンマ」の構図は、現在では西洋世界とイスラーム世界の間において典型的に見られるようになった。地域の住民を巻き込んだ相互不信の構図は、欧米社会からアフラシア社会にまで伝染しようとしている。その根底には、アフラシアの結節点である中東・北アフリカ世界が西洋世界の介入によって切り裂かれてしまったという状況がある。
 第一章で触れたように、歴史家トインビーの用語法では、アフラシアという言葉は、現在の中東・北アフリカを指すものであった。文明の揺藍の地であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三大一神教が誕生したこの地は、第二次世界大戦以降、戦乱によって引き裂かれ続けている。一九四八年以降、イスラエルと周辺諸国は戦争を繰り返してきた。レバノンの内戦は一九七五年から一九九〇年まで続いた。七八年のイラン革命によって米国とイランの関係は著しく悪化し、そのイランとイラクは八〇年代に百万人以上の犠牲者を出す消耗戦を繰り広げた。アフガニスタン--地理的にはパキスタンの隣国として、南アジアに分類されることが多い--は七九年にソ連に占領され、二〇〇一年には米国などが地上軍を派遣した。イラクは大量破壊兵器を保有する嫌疑をかけられ、二〇〇三年にフセイン体制が崩壊した。二〇一一年にはリビアのカダフィー体制が崩壊し、シリアでは同年から、アサド体制のもとで激しい内戦が戦われた。すべての戦乱において多くの難民が生み出されてきた。
 この狭義のアフラシアの地においては、ソ連が崩壊した後も、西洋の大国が全面的に介入する暴力的紛争が終わらない。独裁的な体制が崩壊した後も政権は安定しない。世界が平和にならない限り、アフラシアは平和にならない。アフラシアの内発的な平和が実現すれば、世界には希望が見えるだろう。しかし、不安と怒りは伝染し、国境を越える。
アフラシアを結ぶ旅
 西洋の植民地支配によって分裂を余儀なくされたイスラーム世界の再興を願って活動した人物といえば、ジャマールッディーン・アフガーニーを忘れることはできない。一八三八年頃にイランとアフガニスタンが交わる地域に生まれ、一九世紀を生き抜いたアフガーニーは、汎イスラーム主義者だった。インド、トルコ、エジプト、イギリス、ロシアなどを精力的に旅したアフガーニーは、西洋文化がもたらす脅威について警鐘を鳴らすとともに、スンナ派とシーア派が団結し、非イスラームの民族主義者を味方につけることによって、帝国主義を効果的に撃退すべきだと説いた。狭義のアフラシア地域の植民地を解放する「共同戦線」をつくろうとしたのである。アフガーニーは合理的な科学を重視したが、彼が呼びかけたのは世俗的な民族主義ではなく、あくまでイスラームの刷新と団結であった。
 アフガーニーは、文明史家イブン・ハルドゥーンの著作を、よく読んでいたようである。イブン・ハルドゥーンは、一三三二年に北アフリカのチュニスで生まれたムスリムの総合的知識人である。イベリア半島で暮らしたあと、エジプトのカイロで学究生活を送ったハルドゥーンが念頭に置いていた世界は、まずもって北アフリカだった。北アフリカの地中海沿岸部には繁栄した商業都市が点在し、その内陸部では砂漠の遊牧民が暮らしている。この構図に親しく触れていたイブン・ハルドゥーンは、名著『歴史序説』において、より一般的な都市と後背地の関係性をめぐる社会学的な議論を展開した。彼が観察するところでは、都市は経済の原理、その後背地の砂漠は政治の原理で動いており、後者に属する「族的」集団が前者を周期的に征服してきた。そしてイスラームの教義は、遊牧民の政治と都市民の経済活動の双方に存在の根拠を与えることで、社会の均衡をもたらしてきた。イスラームは、共同体「内」よりも共同体「間」の関係を統御するネットワーク型の宗教として広がっていったのである。
 イブン・ハルドゥーンと同じ一四世紀に活躍したイブン・バットゥータは、イスラーム世界をくまなく周遊し、さらにその外部にまで精力的に足を伸ばした旅行家である。一三〇四年にモロッコで生まれた彼は、アラブ系ではなくベルベル系であった。イブン・バットゥータは、中東・北アフリカ、東アフリカのインド洋沿岸を巡り、南アジアに逗留した後、東南アジアから中国まで旅したとされる(ただし、中国の記録は伝聞の可能性がある)。訪問先の人間と文化を生き生きと記録したイブン・バットゥータは、晩年にはサハラ砂漠を縦断し、西アフリカの内陸部を訪れた。彼は、イブン・ハルドゥーンが濃厚な「血の結合」を見て取った砂漠の遊牧民たちの交易ルートを内陸へとたどり、現在のニジェール、マリ、モーリタニアを訪問している。
 マルコ・ポーロもそうであるが、この時代の旅行者たちは既存の交易ルートをなぞって旅をしているのであり、かれらの偉大さは旅をしたことそれ自体よりも、自分たちが見聞したことを生き生きと記録したところにある。イブン・バットゥータの旅行記は、一四世紀の広大なアフラシア世界の豊かな接続性を活写するものだった。イスラーム世界が当時のアフラシア世界の経済的、文化的な中心に位置していたことは明らかであるが、そのネットワークの周辺にはハイブリッドな精神世界が広がっていたことも伝わってくる。

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フランス革命・ナポレオン戦争の影響

『逆転のイギリス史』より
2つの戦争の相違
 1789年に発生したフランス革命は、やがてその影響をヨーロッパ各地に広げていった。この革命により、フランスの貿易は一時的にストップし、フランス経済は壊滅的打撃を受けた。ただし、ヨーロッパ全体で見ると、フランス国外の港が代替港として発展し、フランス革命による破壊的影響は、最小限に抑えられた。
 さらに、フランス革命戦争(1793~1802)とナポレオン戦争(1806~1815)がヨーロッパ経済に与えた影響には、大きな差があったことを指摘しておくべきであろう。前者は主としてオランダに、後者はおおむねハンブルクに決定的なまでの影響をおよぼした。
 1795~1806年に、オランダはフランス革命軍によって占領され、バタヴィア共和国となった。この時代に、ョーロッパ最大の海運国家は、オランダからイギリスヘと変った。多くの商人がアムステルダムから逃げ出し、その一部はハンブルクに居住した。ナポレオン戦争の影響に関しては、次のクルゼの言葉がきわめて重要な示唆をしている。
  「したがって、ナポレオン戦争がヨーロッパ大陸に与えた影響のバランスシートを作成すれば、以下のようになる。『海運』業が崩壊し、リネン産業が衰退し、主要である鉄工業が衰退し、羊毛・絹・第二位の金属産業が少し成長し、綿業が比較的スムーズに成長した。さらに、工業全体としては、ゆるやかに成長した。……(中略)……戦争の影響はイングランドより大陸に深刻な打撃を与えた」
 ここでイギリスに目を向ければ、十数年間にわたりヨーロッパ大陸が戦場になったので、イギリスがもっとも有利な投資先になったことが指摘されよう。島国であるイギリスは、ヨーロッパの投資先として一番安全な場所だったのである。それはまた、イギリスの工業化に大いに役立つことになった。
 フランス革命・ナポレオン戦争は、非常に費用がかさむ戦争であった。しかしもしこのような長期間ヨーロッパ大陸で戦争がなかったなら、イギリスに大量の資本が投下されることも、イギリスに大陸の商人が来ることもなかったかもしれないのだ。
 したがって資本・商人の両面から、イギリスにとって、少なくともヨーロッパ諸国と比較するなら、これらの戦争は、プラスの結果をもたらしたであろう。この時代、密輸はふつうにおこなわれており、イギリスに非合法的にやってきた商人も少なくなかったはずである。
新しいシステムを生み出したイギリス
 1806年に発せられた大陸封鎖令により、ナポレオンは、イギリスを経済的に封鎖しようとした。しかし、それには失敗に終った。イギリスの製造部門が、ウェリントンの大陸政策に影響を受け、消費財の輸出に重点をおく軽工業から、軍需品生産をおこなう重工業へ、中心を移すという結末になったにすぎず、結局、イギリスの工業化を促進したからである。
 さらに、イギリスにあった外国資本は、大陸封鎖令のために国内にとどまり、鉄・運河・港湾の改善・有料道路などに投資されることになった。オランダ人をはじめとするヨーロッパ大陸の人々はアムステルダムから資金を引き揚げ、イギリスの国債に投資したのである。
 ハンブルクの動向に目を向けると、フランス革命直前に、ハンブルクからフランスに向かう船舶数が著しく増大し、しかしフランス革命によって大きく減少する一方で、フランス革命期にハンブルクからイギリスに向かう船舶数が増加した。
 1795年にフランス革命軍によりオランダが占領されると、アムステルダムの貿易・金融市場は大きな打撃を受けた。そのためハンブルクは、アムステルダムの代替港として台頭することになったからだ。
 しかもハンブルクは、中立を利用して大きな利益を得た。1802年には、ロンドンにとって、ハンブルクがヨーロッパ大陸最大の取引相手先になる。ナポレオンの大陸封鎖令が施行された1806年には、イギリスからヨーロッパ大陸に向かう船舶のうち、ハンブルク行きが最大になった。
 しかし、フランス革命軍によるドイツ占領は、ハンブルクの貿易に大きな痛手となった。しかも大陸封鎖令により、中立国の船舶でさえイギリスと取引することが困難になった。
 1808年には、ナポレオン軍によって占領されたハンブルクの商人の多くがこの都市を離れ、中立国スウェーデン西岸の貿易都市イェーテボリに向かい、イェーテボリで目覚ましい商業ブームが起こった。ナポレオン戦争が長引けば、おそらく、アムステルダムからハンブルクに移住し、さらにイェーテボリヘと移った商人もいたことであろう。しかしナポレオン戦争が終わると、イェーテボリの役割は終わったのである
 ロンドンとハンブルクを比較すると、アムステルダムの後継者として、おそらくロンドンの方が若干有利な立場にあったろう。ただその違いは、絶対的といえるほどには大きくはなかったと思われる。少なくとも大西洋貿易で取引される商品の物流に関しては、ハンブルクは十分にロンドンと対抗しえた。ロンドンは、砂糖に関してはイギリスの植民地のものしか輸入できなかったが、ヨーロッパ最大の製糖所地帯であったハンブルクには、さまざまな国の砂糖が送られた。
 ハンブルクは、アムステルダムと同様、国境を越えたコスモポリタンな商人が集う都市であった。ハンブルクを中心とするシステムは、物流を中心として形成された。それに対しロンドンを中心とするシステムは、大英帝国の形成と関連していた。ロンドンは、首都から帝都になった。ハンブルクとロンドンの競争は、ナポレオン戦争が終了した1815年になってようやく、ロンドンの優位で決着がつく。経済活動に国家が強力に介入することが、イギリスに成功をもたらしたのである。
 1792年にはロンドンはアムステルダム金融市場に従属していたが、1815年にはアムステルダムがロンドンに従属するようになった。イギリス「帝国」のシステムの勝利に、あるいは、大英帝国の確立につながり、国家が中央集権化しなかったオランダとは異なるシステムが誕生するのである。それはまた、これ以前のヨーロッパには見られなかった形態のシステムであった。そのシステムの特徴は、1815年以降にさらに明らかになる。

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