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「長州ファイブ」と明治維新

『ユニオンジャックの矢』より

アメリカのペリー艦隊が浦賀に来港し、日本に開国を迫るのはフハ五三年のことであった。日本とアメリカの関係に目を奪われがちだが、そこには日本に迫り来る英国の影があった。ペリーの艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから大西洋を渡り、アフリカ南端・喜望峰を回ってインド洋に抜け、英国の植民地であるセイロン(現スリランカ)、シンガポール、香港、さらには南京条約で開港された上海を経由して、琉球に立ち寄って浦賀にやってきていた。翌一八五四年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(現在の函館)を開港することになった。このあと一八六七年の大政奉還に至るまで、攘夷かそれとも倒幕かを巡って、日本は動乱期に入っていく。

一八五八年、日米修好通商条約が締結された一か月後には、英国との間でも日英修好通商条約が結ばれた。平戸のイギリス商館閉鎖から実に二三五年後のことである。一八六〇年代に入ると、日英関係はさまざまな意味で密度を深め、複雑な軌跡を見せ始める。

江戸幕府は一八六〇年にアメリカヘ使節を送ったのに続いて、翌一八六一年には欧州へ公式使節団を派遣する。主な目的は修好通商条約で約束した江戸、大坂、兵庫、新潟の開港の延期を欧州各国に要請するためである。一行は三八名で、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳、副使は松平石見守康英、監察使は京極能登守高朗だった。彼らは一八六二年五月、フランスを経てドーバー海峡を渡ってロンドンに到着し、約一か月半の間、ハイドパークに近いブルック街のクラリッジズ・ホテルに宿泊した。当時、第二回ロンドン万国博覧会が開催されており、一行は何度も足を運んでいる。

同じ年の八月、日本では薩摩藩主の行列の間を騎乗したまま通り過ぎようとした英国人が殺傷されるという「生麦事件」が起きている。翌年には、その補償をめぐって鹿児島湾に現れた英国艦隊と薩摩藩の間で薩英戦争が起きた。

この動乱期にあって、英国の影を感じさせる象徴的な出来事は「長州ファイブ」だろう。一八六三年五月に若き長州藩士五名が密航船に乗って上海経由で英国に渡り、ロンドン大学(UCL)で学んだのである。当時、英国の新聞は彼らを「長州ファイブ」と呼んだが、日本と英国の歴史にとって重要なのは、この五人の中にのちに明治政府の初代総理大臣となる二二歳の伊藤博文や、初代外務大臣となる二八歳の井上馨が含まれていたことである。一緒に英国に渡った遠藤謹助、山尾庸三、井上勝も、後述するように、それぞれ明治政府で中心的な役割を果たすのである。

長州藩の若い藩士が英国を目指したのには理由がある。一八五三年のペリー来航は日本の知識人たちの間に、日本は清国のように外国の力に屈して植民地になるのではないかという強烈な危機感を呼び起こしていた。吉田松陰は自ら西欧に渡り、海軍術や国防の基礎を学ぶ必要があると考え、翌年、日米和親条約締結を目指して下田に再度訪れたペリーの艦隊に乗船を試みている。

松陰は討幕運動で幕府に危険視され、五年後には獄死する。松陰の影響を受けていた長州藩の若者たちがその遺志を継ごうと、強大な海軍を持つ英国への渡航を企てたのである。井上馨から山尾庸三、井上勝とともに三名で渡航するという計画を打ち明けられた長州藩主の毛利敬親は一人二〇〇両ずつの資金を密かに与えた。この三名に伊藤博文、遠藤謹助か加わり、英国へと向かったのである。高杉晋作の上海密航の翌年であった。

興味深いのは、この渡航を仲介したのが英国商社のジャーディン・マセソン商会横浜支店だということである。すでに触れたように、ジャーディン・マセソン商会はイギリス東インド会社の流れをくむ商社で香港に本店を持っていた。現在では世界最大の金融機関となったHSBCホールディングスの母体である香港上海銀行は、主に同商会の送金業務を行うために設立された。また、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが設立したグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、実質的にジャーディン・マセソン商会の配下にあった。グラバーは坂本竜馬の設立した亀山社中に対して武器売却を行うほか、薩摩藩士の英国留学の手助けも行っている。幕末維新史においてジャーディン・マセソン商会が果たした役割はきわめて大きかったのである。

ちなみに、ジャーディン・マセソン商会の社名は共同創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名前をとったものである。二人ともスコットランド出身のユダヤ人で、トーマス・グラバーも含めて、フリーメーソンのメンバーであったことから、日本の維新もフリーメーソンが影響を与えているという説を唱える論者もいるほどである。

さて、長州ファイブの五人は密航船で上海に着くと、ジャーディン・マセソン商会の上海支店の手配でロンドンヘ向かう英国船に乗せてもらった。それだけでなく、ロンドンでは宿泊先の紹介も受けている。彼らはロンドン大学の教授の世話になりながら、ロンドン大学で主に理工学系の学問を学んだ。

宮地ゆうの『密航留学生「長州ファイブ」を追って』(二〇〇五年、萩ものがたり刊)によると、勉学の合間にはイングランド銀行の当時世界一と言われた造幣技術を見学し、訪問時の名簿も残っているという。井上馨と伊藤博文は、一八六四年に英国、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊が長州藩を攻撃しようとしていることを知ると、留学を半年で切り上げて帰国した。二人は横浜で英国公使のアーネスト・サトウと会うなどして、衝突を回避するための努力をしたが、長州藩の強硬政策を覆すことができず、下関戦争(馬関戦争)が起きてしまう。この戦争で列強の軍事力を見せつけられ敗北した長州藩は、攘夷から倒幕へと転換していくのである。

遠藤謹助は一八六六年まで、山尾庸三、井上勝は明治元年の一八六八年まで英国に留まり、先端の技術を学び続けた。大阪造幣局というと今では「桜の通り抜け」が有名で、花の時期になると桜並木が開放され見物客でごった返すが、この桜の通り抜けを発案したのは遠藤謹助である。

長州ファイブは帰国後、明治政府のさまざまな役職に就くが、造幣局長は五名のうち四名が務めている。井上馨が初代局長を務めた時期に、遠藤謹助は造幣権頭として新貨幣の造幣に当たった。英国政府が香港で二年間使っていた中古の造幣機を、日本政府はグラバー商会を通じて六万両もの高額で購入したのである。当初、技術者はすべて英国人だったが、彼らが帰国したあと、遠藤は造幣局長となり、日本人の技術による貨幣製造を行うのである。結果的に見ると、ジャーディン・マセソン商会は、長州藩の若者たちの英国留学を支援するという投資に対して、十分な元をとったと言えるのである。

山尾庸三、井上勝も日本に英国の最先端の技術を持ち込むことに尽力した。山尾庸三はロンドン大学だけでなく、エンジンで優れた技術を持っていたグラスゴーのネイピア造船所でも学ぶ。明治元年に帰国すると、横須賀製鉄所に船のドックをつくり、工学寮(東京大学工学部の前身)を創設し、エンジニアの育成に力を注いだ。井上勝は鉱山技術・鉄道技術を学び、帰国したあとは鉄道敷設に尽力した。新橋・横浜間の鉄道建設は英国の技術と資金援助によって行われ、建築師長には英国人のエドモンド・モレルが当たり、鉄道頭として日本側を代表した。このことから井上勝はのちに「日本の鉄道の父」と呼ばれるようになった。

長州ファイブとは、明治維新史において英国が果たした微妙な役割を象徴している。幕府はフランスとの関係を強め、軍事顧問の受け入れなど支援を受けていた。万延元年(一八六〇年)の遣米使節でワシントンを訪れた小栗上野介はフランスの借款と技術援助で横須賀に日本初の造船所(のちの横須賀工廠)を建設する事業を進めた。これに対して英国は、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)など、薩摩、長州との軍事衝突を通じて反幕府勢力への影響力を強めていく。長州ファイブの密航はまさにこれらの時期と重なる。長州ファイブを受け入れた英国の深慮遠謀は驚くべきものである。

ただし、幕末維新から明治にかけて英国を訪れた日本人は、産業革命を進めた英国の科学技術と産業力には驚嘆し、敬服したが、王権と議会を共生させ「立憲君主制」に辿り着いた英国の政治史にはあまり学ばなかった。明治期の日本は、欧州の新興勢力たるプロイセン主導のドイツに魅かれていく。政治体制から明治憲法まで、ドイツの影響を受けた天皇制絶対主義、国権主義的体制を確立していく。明治という時代に国費留学生として海外留学した日本人の約六割はドイツに留学した。そして、このドイツ・モデルヘの過剰なまでの傾斜が日本近代史における「戦争の悲劇」に繋がっていったといえる。
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教科書にみるイスラーム世界


『新もういちど読む山川世界史』より イスラーム世界 普遍性と多様性

イスラーム世界の成立

 預言者ムハンマド

  7世紀の初め、唯一神アッラーの啓示をうけたと信じ、神の使徒であることを自覚したムハンマド(570頃~632)は、アラビアのメッカで、偶像崇拝をきびしく禁ずる一神教をとなえた。これがイスラーム教のはじまりである。その聖典『クルアーン(コーラン)』は、ムハンマドにくだされた啓示を、彼の死後あつめ、編集したものである。

  多神教を信じるメッカの人びとの迫害をうけたムハンマドは、622年、メディナに移住(ヒジュラ〈聖遷〉)し、この地に彼自身を最高指導者とする信徒の共同体(ウンマ)をつくった。この622年はイスラーム暦の元年とされている。その後ウンマの拡大に成功したムハンマドは、彼にしたがう信徒をひきいてメッカを征服し、多神教の神殿カーバから偶像をとりのぞいて、これをイスラーム教の聖殿とした。こうしてムハンマドが死ぬまでには、アラビア半島のほぼ全域がその共同体の支配下にはいった。

 アラブ帝国

  ムハンマドの死後、イスラーム教徒(ムスリム)は全員で新しい指導者を選んだ。この指導者のことをカリフ(後継者、代理の意)とよぶ。最初の4人のカリフは選挙で選ばれ、正統カリフとよばれる。カリフの指導のもとでアラブ人ムスリムは征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し、7世紀のなかばまでにササン朝をほろぼし、シリア・エジプトをビザンツ帝国からうばった。多くのアラブ人が新しい征服地に移住した。征服地が広がると、カリフ位をめぐって争いがおこった。その結果、第4代カリフのアリー〈位656~661〉が暗殺され、彼と対立していたウマイヤ家のムアーウィヤ〈位661~680〉がカリフとなって、ダマスクスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)をたてた。ムアーウィヤは息子を後継カリフに指名し、以後カリフ位は世襲されるようになった。

  ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアの西半分とインダス川下流域、西方では北アフリカを征服し、やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした(711年)。さらにフランク王国にまで進出したが、トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ、ピレネー山脈の南側に領土はかぎられた。この広大な領土をもつ帝国では、征服者アラブ人のムスリムが特権的な地位にあり、膨大な数の被征服民を支配していた。国家財政をささえる地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課され、彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。その意味で、正統カリフとウマイヤ朝カリフが統治した国家はアラブ帝国ともよばれる。

 イスラーム帝国

  シーア派の人びとやイスラーム教に改宗してもなお不平等なあつかいをうけていた被征服民など、ウマイヤ朝の支配に反対する人びとは、8世紀初め頃から反ウマイヤ朝運動を組織した。ムハンマドの叔父の子孫アッバース家はこの運動をうまく利用してウマイヤ朝をほろぼし、イラクを根拠地としてあらたにアッバース朝(750~1258年)をたてた。まもなく建設された新首都バグダードは国際商業網の中心として発展し、王朝はハールーン・アッラシード〈位786~809〉の時代に最盛期をむかえた。

  9世紀頃までに宰相を頂点とする官僚制度が発達し、行政の中央集権化が進んだ。イラン人を主とする新改宗者が政府の要職にっくようになり、アラブ人ムスリムだけが支配者とはいえなくなった。イスラーム教徒であればアラブ人以外でも人頭税は課されず、征服地に土地を所有すればアラブ人にも地租が課されるようになった。イスラームの信仰のもとでの信徒の平等という考えが徐々に浸透していった。また、イスラーム法(シャリーア)の体系化も進み、この法を施行して、ウンマを統治することがカリフのもっとも重要な職務となった。アラブ人だけではなく、イスラーム教徒全体の指導者となったカリフが統治するこの時期のアッバース朝国家は、イスラーム帝国ともよばれる。

イスラーム世界の変容と拡大

 イスラーム世界の政治的分裂

  アッバース朝の成立後まもなく、後ウマイヤ朝(756~1031年)がイベリア半島に自立した。一つの政治権力が支配するにはイスラーム世界は拡大しすぎていた。9世紀になるとアッバース朝の領内でも各地で地方王朝が自立するようになった。このうち、中央アジアに成立したサーマーン朝(875~999年)は、トルコ人奴隷貿易を管理し、経済的に繁栄した。また、この王朝のもとでペルシア語がアラビア語とならんで用いられるようになり、のちに発展するイラン・イスラーム文化の芽生えがみられた。チュニジアにうまれ、のちエジプト・シリアを征服して新都カイロを建設したシーア派のファーティマ朝(909~1171年)の支配者は、建国当初からカリフと称し、アッバース朝と正面から対立した。

  このような政治的分裂にくわえ、9世紀頃からカリフの親衛隊として用いられるようになった、トルコ系の奴隷であるマムルークが、やがてカリフの位を左右するようになりアッバース朝カリフの威信は低下した。

 国家と社会の変容

  946年、シーア派のブワイフ朝(932~1062年)がバグダードを征服し、カリフから大アミール(軍事司令のなかの第一人者)に任じられて政治・軍事の実権をにぎった。アッバース朝カリフはこれ以後実際の統治権を失い、イスラーム教徒の象徴としての役割をはたすだけとなった。

  ブワイフ朝の時代、軍隊への俸給支払いがむずかしくなると、俸給にみあう額を租税として徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえる制度がうまれた。これをイクター制という。イクター制は,セルジューク朝(1038~1194年)にひきつがれ、やがて西アジア・イスラーム社会でひろく用いられるようになった。

  元来ユーラシア草原の遊牧民であったトルコ人は、10世紀頃からしだいに南下し、11世紀には、その一派で、イスラーム教スンナ派に改宗したセルジューク朝が西アジアに進出した。1055年、ブワイフ朝を追ってバグダードにはいったトゥグリル・ベク〈位1038~63〉に、カリフはスルタン(支配者)の称号をあたえた。セルジューク朝はビザンツ帝国領だった小アジアを征服し、以後、小アジアはしだいにイスラーム化・トルコ化していった。彼らは領内の主要都市にマドラサ(学院)を設けてスンナ派の法学・神学を奨励した。しかし、王族のあいだでの権力争いが激しく、統一は長続きしなかった。

  11世紀以後の西アジア・イスラーム社会では、修行によって神との合一をめざす神秘主義思想が力をもつようになった。12世紀になると、神秘主義者(スーフィー)とその崇拝者たちを中心として各地に神秘主義教団が組織され、都市の手工業者や農民のあいだに熱心な信者をえた。教団は貿易路にそってアフリカやインド・東南アジアに進出し、これらの地域にイスラームの信仰を広めていった。
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日英同盟の二○年--日本近代史の成功体験

『ユニオンジャックの矢』より

日本と英国の関係で歴史的に特に重要なのは、一九〇二年に結ばれた日英同盟だろう。明治期に入って日本は次第に国家形成のモデルを新興のプロイセンに採り始める。英国では一九世紀後半のヴィクトリア期に英国流の立憲君主制の形を整えていくが、岩倉具視をはじめとする当時の日本の指導者は「王政」と「代議制民主主義」を絶妙にバランスさせる英国的知恵が理解できなかった。国王・国家元首の権限が議会によって制約一棚上げされることへの拒否感が強かったのである。

ところがその日本が、二〇世紀に入ると日英同盟という外交軸を選択することになる。日露戦争から第一次世界大戦までは、世界という舞台に日本が彗星のごとく台頭する時期にあたり、日本近代史においていまだに成功体験として語り継がれている。その後ろ楯となったのが、まさに英国との同盟関係であり、日露戦争に勝利できた理由もこの同盟にあったと言える。その後、日英同盟は第一次世界大戦後に開催された一九二一年のワシントン会議の四か国条約で解消されるまで約二〇年にわたって続き、この間、日本は日英同盟を主軸に外交を行った。

英国が日本と同盟を結んだのは、何よりも極東地域で南下を企てるロシアを牽制するためだったと言える。しかし、英国が新興勢力の日本を同盟のパートナーとして信頼の置ける相手であると考える理由があったはずである。

戊辰戦争で逆賊とされた会津藩士の生き残りに柴五郎という人物がいる。一八五九年に会津藩士の五男として生まれ、九歳のときに会津城は落城し、祖母、母、姉妹の自害と白虎隊の白刃を直接体験している。会津は下北半島の斗南に移封され、柴五郎も青森県庁の給仕からスタートして一五歳で設立間もない東京の陸軍幼年学校に入学。明治という時代が生んだ運命なのか、驚くべきことに薩長藩閥の陸軍において、のちには大将にまで登りつめた。東京帝国大学総長になった山川健次郎も同じように会津白虎隊士の生き残りで、若いころには後輩で友人でもあった柴五郎の面倒を見たと言われている。

柴五郎が歴史に名を残したのは、清国での駐在武官として赴任後に起きた一九○○年の義和団事件(北清事変)においてである。当時、中国では列強による支配に対する反発から義和団と呼ばれる宗教的秘密結社が生まれ、外国人やキリスト教徒を襲撃、殺害するなどの排外運動を各地で繰り返していた。義和団は急速に勢力を拡大し、約二〇万人の反乱軍となり、北京に進入して列強公使館を包囲した。これを見た清朝政府は義和団弾圧から支援へと方向を変え、列強に対して宣戦布告したのである。二コラス・レイ監督の『北京の55日』という映画があるが、義和団に包囲された一一か国の居留民が北京に龍城して戦った過程を西洋の側から描いたものである。実はこのとき、北京に侵攻した多国籍軍の中で、日本派遣軍を指揮して日本進駐地区の軍政官となったのが柴五郎中佐である。他の列強の軍隊が戦利品を求めて略奪行為に走るなか、柴中佐が率いた日本軍は規律と統制を守り抜き、中国人を保護したため、日本管区に移住する住民が続出した。籠城が持ちこたえることができたのは、日本軍の奮闘があったからだと「ロンドンタイムス」紙などでも讃えられた。「コロネル・シバ」の凛とした存在感は、英国の日本への信頼と期待を醸成し、二年後の一九〇二年に日英同盟を成立させる一因になったとも言われる。

日英同盟については、当時さまざまな見方があった。フランスの「ル・タン」紙は「(日英同盟は)日本人の自尊心を大いに満足させている。なぜなら、今なお成り上がり者と感じているこの国民にとって、これは貴族社会での結婚のようなものだから」(一九〇二年二月一四日付)と揶揄した。当時、在英中だった夏目漱石は浮かれた日本の論調を知り、「斯の如き事に騒ぎ候は、恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん」と冷笑している。興味深いのは、かつての長州ファイブである伊藤博文、井上馨の二人ともが日英同盟に反対したことである。そこには「栄光ある孤立を標榜する英国が日本を真剣な同盟相手として評価するはずがない」という認識があったようだ。英国の実像を知る者ほど、日英同盟に対して楽観的になれなかったのであろう。

しかし、日本は大英帝国を後ろ楯にしながら、ロシアと戦って日露戦争に生き延びた。次に日英同盟を理由に参戦したのが第一次世界大戦であり、今でいうと集団的自衛権の発動だった。戦争は欧州で行われていて、日本とドイツとの間に際立った争いごとがあったわけではなく、英国に参戦を要請されるどころか、英国の外務大臣らが日本の自制を訴えるなかを、押しかけ同盟責任を口実にドイツの山東利権に襲いかかる。どこかで聞いたような論理で戦争にしやしやり出ていったのである。ドイツ軍の青島要塞を攻略し、さらに山東半島へと支配を広げた。日本は戦勝国として、ベルサイユ講和会議に列強の一翼を担う形で出席したのである。

一九二一年の日米仏英によるワシントン会議での四か国条約締結で、日英同盟は破棄されるが、これはアメリカの思惑を強く反映した条約であり、「国際協調主義」の名の下にアメリカのイニシアティブによる多国間の国際協調・勢力均衡体制を構築しようとするものであった。アメリカ側には、このまま日本が日英同盟を固めて行動をしていくと、やがてアメリカとの間で軍事衝突が避けられなくなるのではないかという不安と懸念があったためと思われる。アメリカにとっては宗主国であった英国が日本と同盟関係を維持しながらアメリカに向き合ってくるのを避けたかったのである。

日本は日英同盟を失って多国間関係の中に置かれて、遅れてきた植民地帝国として列強間の力比べの中でダッチロールを始めることになる。満州国問題をめぐって国際的孤立を招き、中国での戦線を拡大し、ついに真珠湾攻撃の道へと突っ込んでいくのである。日本にとって日英同盟の一九〇二年から一九二一年までは栄光の二〇年だったが、一九二一年から真珠湾攻撃へと至る期間は迷走の二〇年となったのである。

戦後首相を務めた吉田茂は、外交官として一九〇九年に約一年間ロンドンに赴任し、また一九三六年には駐英大使として赴任している。日英同盟の復活を模索し、日独伊の同盟には反対の立場だった。のちに『回想十年』(中公文庫)で次のように述べている。

「日英同盟成立の頃のイギリスは七つの海を制覇し、その領土に日の没する時なきを謳われていた時代である。しかもわが日本は漸く世界史に登場しかかったばかりの一小国に過ぎなかった。つまり当時の大英国と日本との国力の懸隔は、到底今日のアメリカ対日本のごときものではなく、もっとへだたりの大なるものだったのである。それにも拘らず、日英同盟が成立するや、前述の如く、朝野に亘って快くこれを迎えた。

そして、やれ、これで日本はイギリスの帝国主義の手先になるとか、イギリスの植民地化するとかいうが如き、猪疑的悲観論を唱えるものは、何ら見当らず、むしろご果洋のイギリスたることを誇りとして、その間少しも劣等感がみられなかったのである」

考えてみると、第二次世界大戦の敗戦から今日に至る七〇年間、新しいアングロサクソンの国アメリカとの同盟関係で日本は生きてきた。二〇世紀に限ってアジアの国々を冷静に見渡してみても、前半の二〇年間を英国と、後半の五〇年以上をアメリカと、合計七〇年以上もアングロサクソンとの同盟で生きた国は日本以外にないことに気づかされる。現在でも「アングロサクソンとの同盟こそが日本の生きる道だ」と訴える人が出てくるのは、日英同盟の成功体験を忘れることができず、トラウマのようになっているからかもしれない。
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年収と未婚率は完全にリンク

年収と未婚率は完全にリンク

 年収と未婚率は完全にリンクしている。これは何を意味しているのか。個人としての結婚というもの、それを前提とした子どもとの関係を変えていかないといけない。それが家族制度の変革の中枢部分。

 こんな方程式が成り立つ社会はおかしいという感覚をどう作っていくか。

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近隣コミュニティでの防犯対策 パトロール・拠点監視・近隣監視

『犯罪をどう防ぐか』より エビデンスに基づく防犯--監視、照明、パトロール 日本の近隣コミュニティでの防犯対策

公共空間における監視性を高めるもうひとつの方法が、警察官や防犯ボランティアによるパトロールや拠点監視である。犯罪を止める役割意思を持つ人間が地域をパトロールしたり、拠点で立哨することで、潜在的な犯罪者に防犯対策が実施されていることを認知させ、犯行を抑止するという効果が期待されている。

日本では、警察にパトカー等の車両が約四万二千台整備されており、パトロールの任にあたっているが、近年、警察以外の主体による防犯パトロールが盛んになっている。中でも、自治体や防犯ボランティア団体などの主体が、自動車に青色回転灯を装着して行う青色防犯パトロールが盛んになっている。青色防犯パトロールは二〇〇三年に三重県の住宅地で始まったと言われており、二〇口(年末現在で日本では九七六〇団体の四万五三九六台が青色防犯パトロールを実施している(警察庁二○一七)。

パトロールが犯罪発生に与える影響について欧米での評価研究の歴史は長く、一九七四年にはアメリカ中西部のカンザスシティーで大規模な介入実験が行われた。この実験では、管内一五地区のうち五地区ではパトロールの水準をニー三倍に増加させ、別の五地区では通常のパトロールを実施し、残りの五地区でパトロールを実施しない、という実験をコーカ月間実施したが、介入が管内をくまなく回るランダムパトロールであったため、犯罪水準や市民のパトロールの認知率には有意な影響はみられなかった。その後、犯罪多発場所に集中してパトロールを行う「ホットスポットパトロール」が行われるようになり、評価研究でその有効性が認められるようになった。たとえば、シャーマンとワイスバードは、アメリカーミネアポリスの犯罪多発場所五五ヵ所を、パトロール実施場所と非実施場所とに割り付けて前後比較する実験を行い、実施場所での警察通報が六-一三%減少することを見出した。また、ラトクリフらは、アメリカ・フィラデルフィアの一二○カ所を犯罪発生に応じて、実施群と非実施群に割り付けて、実施場所での路上犯罪が二三%削減されることを示した。そして、最新の系統的レビューでは一九の評価研究が統合され、暴力犯罪、財産犯罪、薬物使用、秩序違反の各種に対して有効な削減効果が見出されている。

また欧米では、パトロール以外に住宅地の監視性を高めるための市民参加として、近隣監視が広く行われている。近隣監視では、住民間で互いに気を配り、不審なことに気付くと警察に通報するように申し合わせる。この取り組みによって、不審な人物に声をかけるといったインフォーマルな社会統制が活性化すると期待される。ペネット(Fョ医ここ呂)は、アメリカとイギリスにおける近隣監視の系統的レビューを行い、近隣監視は犯罪を一六-二六%削減させることを示している(ただし、このレビューでは近隣監視によってなぜ犯罪が減少するのかはわかっておらず、今後の研究成果が期待される)。

日本では、パトロールや拠点監視、近隣監視が犯罪発生に与える影響は十分に検討されていない。東京都は、青色防犯パトロールを実施した市区と、パトロールを実施していない隣接市区での一〇罪種の発生件数の変化を比較したところ、実施地区での犯罪の減少率が高かったという結果を報告している。パトロールの評価研究がほとんど行われていない日本では貴重な結果とはいえるが、パトロールを実施した市区と実施しなかった市区とが均質でない可能性があるため、パトロールが犯罪に与える影響についてはさらなる検討が期待される。

なお、地域コミュニティで実施されるパトロールや拠点監視、近隣監視は、犯罪そのものの削減にとどまらず、市民の犯罪不安や犯罪に対する態度への影響も見込まれる。とりわけ、警察以外の主体によるパトロールは、欧米では市民パトロールとして知られており、①潜在的犯罪者を威嚇し犯行を抑止させる、②市民の安心感の向上、③警察とコミュニティとの関係の向上、④警察活動のカバー率の向上、⑤自警主義の削減、⑥市民参加の促進といった犯罪削減に限らないメリットが挙げられている。市民パトロールは、パトロールに参加した市民に対しては、その犯罪不安を引き下げたり、犯罪対策への市民参加の必要性を認識させるなど好ましい影響を与えている。しかし、パトロールに直接関与しない一般市民に対する影響は分かれている。イギリスの二都市での社会実験では、パトロール実施は、市民の地区に対する満足感やコミュニティ意識を向上させたが、犯罪不安には変化はなかった。また、制服警察官によるパトロールに関して、デンマークやアメリカでの研究では、街頭で警察官を見た頻度と、犯罪不安との間には有意な影響はなかった。

日本では、青色防犯パトロールが住民意識に与える影響が検討されている。年齢、性別、被害見聞といった回答者の背景要因を統制した階層的重回帰分析の結果、青色防犯パトロール車を見たことのある回答者は、防犯パトロールの存在を知らない回答者に比べて、被害リスク認知が有意に高く(被害リスクを高く見積もりやすい)、犯罪不安への有意な影響はみられなかった。この市での青色防犯パトロールは、住民に対して犯罪被害防止を放送で呼びかけていることから、住民の被害リスク認知に影響していることが示唆される。

また、山本と島田(二○一六)は、千葉県でのコンビニエンスストアの駐車場に防犯の詰所を設置して、専従の勤務員が立哨や防犯パトロールのコーディネートを行う地域防犯事業を取り上げ、設置地区の住民の意識の変化を調査した。その結果、設置後の住民の治安評価は統計的に有意に改善したことが示された。また、島田・雨宮らと同様に、地域での防犯対策への接触は、被害リスク認知を高めることが示された。これらの研究からは、日本における地域防犯活動は犯罪発生に対する影響は必ずしも明らかになってはいないものの、住民の治安評価を改善するとともに、犯罪に対する関心を喚起する効果があると考えられる。

2017年08月27日(日) フェイスブック 2005年と1493年の類似点 内的世界のコロンブス交換

『フェイスブック 不屈の未来戦略』より フェイスブックが「勝った」なら?

フェイスブックがオンライン世界の端まで行き渡ったならどうなるか? ポスト・コネクティビティーの時代が来るのだろうか。ザッカーバーグは内的世界におけるコロンブスとなり、フェイスブックはコロンブス交換を引き起こすのだろうか。そして、別々に存在する社会をひとつのパングアとして編み上げることができるのだろうか?

何を言っているのかと眉をひそめるかもしれない。

この意味を伝えるには、もう少し説明が必要だ。1493年に時を巻き戻そう。より正確には、これについて書かれたチャーズ・マン著の『1493--世界を変えた大陸間の「交換」(原題:1493)』の話をしたい。2011年のベストセラーとなったこの本でチャールズ・マンは、コロンブスの航海で、それまで分断されていたヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカがつながり(コロンブスがこれを意図して行ったのではないだろうが)、それは、世界のグローバリゼーションに多大な影響を与えたと説明している。

このグローバリゼーションで重要だったのは、「コロンブス交換」だ。この概念は1972年にアルフレッド・クロスビーが提唱した。コロンブス交換により特定の地域にしかなかった品物、動物、食料、病が別の地域にもわたり、広まった。マンは「イタリアにトマト、アメリカにオレンジ、スイスにチョコレート、タイに唐辛子があるのはコロンブス交換の結果」と説明している。例えば、氷河期以降、北アメリカにはミミズはいなかったが、農業にとって重要なこの生物は、南アメリカより持ち込まれた。ヨーロッパからは馬がやってきた。ヨーロッパ人は南アメリカで、アフリカ人の奴隷に銀の採掘を命じた。その銀はアジアへとわたり、ヨーロッパ人が好む絹や磁器と交換された。ペルーからグアノをもとにした肥料、パプアニューギニアからさとうきび、中東から麦、ブラジルからゴム、カリブからタバコ、アフリカからはコーヒーが貿易により各国を行き来した。それと同時に、疫病が流行るきっかけとなった。アメリカには天然痘、麻疹、腸チフス、コレラ、マラリアが広まり、ョーロッパでは梅毒や、ジャガイモの疫病による飢饉が猛威を振るった。マンによると、このコロンブス交換は産業革命に農業革命、そしてヨーロッパの台頭が起きる基盤となったと説明している。

コロンブス交換は、過去500年間における世界の歴史の中で、今ある世界と人々の生活を形作るのに最も大きな影響を与えたと言うことができるだろう。クロスビーはこの交換の影響について「パングアをつなぎ合わせた」と表現している。1億7500万年前、地球上のすべての陸地が1枚の「パングア大陸」の一部であったことに由来している。

フェイスブックに話を戻すと、ザッカーバーグは彼を筆頭に、30億人のユーザーを抱えるフェイスブックで内的世界のコロンブス交換を起こせるのだろうか(コロンブスに対しては原住民の奴隷支配や直接的あるいは間接的な虐殺、乏しい航海術、狂信者として批判する声もあり、ザッカーバーグにとって良い比較対象ではないかもしれないが)。

フェイスブックとコロンブス交換は、新たなプラットフォームで人々の接点を作るという点で共通している。16世紀初頭、スベイン人はメキシコヘと航海し、その後フィリピンヘと向かった。そこで初めて中国の商人に出会ったように、現代の人々もフェイスブックを使って世界の反対側にいる友人とつながることができる。

しかし、そこには大きな違いもある。フェイスブックでは確かに何億人もの人々がつながっているが、コロンブス交換と比べると「交換」の意味合いは薄い。スペイン人とフィリピンの中国人との間で行われた貿易は「ガレオン貿易」と呼ばれている。フェイスブックのサービス上で、ユーザーはそれぞれの感情やストーリー、アイデアという人々の内的世界の産物をシェアしているが、コロンブス交換がもたらしたような人々の新しい交流はさほど起きていないだろう。私たちはみなグローバルコミュニティーの一員であるが、フェイスブックでグローバルコミュニティーが形成されているとは言えない。私たちは、すでに知っている人々や事柄とこれまで以上に密につながっている。ニュースフィードは私たちが過去に「いいね!」した人や事柄に関連する投稿を多く表示することに最適化している。フェイスブックは、良くも悪くも「交換」ではなく、自分の独自の考えが反響するエコーチャンバーを形成する傾向にあるのだ。ニュースフィードの弱点は、確証バイアスを強化するシステムであることだ。アルゴリズムは各ユーザーの意見や好みを特定し、記録することで、それに似た意見を表示することを優先している。その環境では、ューザーはさらに自分と同じ意見の情報に囲まれることになる。

2017年08月27日(日) 「長州ファイブ」と明治維新

『ユニオンジャックの矢』より

アメリカのペリー艦隊が浦賀に来港し、日本に開国を迫るのはフハ五三年のことであった。日本とアメリカの関係に目を奪われがちだが、そこには日本に迫り来る英国の影があった。ペリーの艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから大西洋を渡り、アフリカ南端・喜望峰を回ってインド洋に抜け、英国の植民地であるセイロン(現スリランカ)、シンガポール、香港、さらには南京条約で開港された上海を経由して、琉球に立ち寄って浦賀にやってきていた。翌一八五四年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(現在の函館)を開港することになった。このあと一八六七年の大政奉還に至るまで、攘夷かそれとも倒幕かを巡って、日本は動乱期に入っていく。

一八五八年、日米修好通商条約が締結された一か月後には、英国との間でも日英修好通商条約が結ばれた。平戸のイギリス商館閉鎖から実に二三五年後のことである。一八六〇年代に入ると、日英関係はさまざまな意味で密度を深め、複雑な軌跡を見せ始める。

江戸幕府は一八六〇年にアメリカヘ使節を送ったのに続いて、翌一八六一年には欧州へ公式使節団を派遣する。主な目的は修好通商条約で約束した江戸、大坂、兵庫、新潟の開港の延期を欧州各国に要請するためである。一行は三八名で、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳、副使は松平石見守康英、監察使は京極能登守高朗だった。彼らは一八六二年五月、フランスを経てドーバー海峡を渡ってロンドンに到着し、約一か月半の間、ハイドパークに近いブルック街のクラリッジズ・ホテルに宿泊した。当時、第二回ロンドン万国博覧会が開催されており、一行は何度も足を運んでいる。

同じ年の八月、日本では薩摩藩主の行列の間を騎乗したまま通り過ぎようとした英国人が殺傷されるという「生麦事件」が起きている。翌年には、その補償をめぐって鹿児島湾に現れた英国艦隊と薩摩藩の間で薩英戦争が起きた。

この動乱期にあって、英国の影を感じさせる象徴的な出来事は「長州ファイブ」だろう。一八六三年五月に若き長州藩士五名が密航船に乗って上海経由で英国に渡り、ロンドン大学(UCL)で学んだのである。当時、英国の新聞は彼らを「長州ファイブ」と呼んだが、日本と英国の歴史にとって重要なのは、この五人の中にのちに明治政府の初代総理大臣となる二二歳の伊藤博文や、初代外務大臣となる二八歳の井上馨が含まれていたことである。一緒に英国に渡った遠藤謹助、山尾庸三、井上勝も、後述するように、それぞれ明治政府で中心的な役割を果たすのである。

長州藩の若い藩士が英国を目指したのには理由がある。一八五三年のペリー来航は日本の知識人たちの間に、日本は清国のように外国の力に屈して植民地になるのではないかという強烈な危機感を呼び起こしていた。吉田松陰は自ら西欧に渡り、海軍術や国防の基礎を学ぶ必要があると考え、翌年、日米和親条約締結を目指して下田に再度訪れたペリーの艦隊に乗船を試みている。

松陰は討幕運動で幕府に危険視され、五年後には獄死する。松陰の影響を受けていた長州藩の若者たちがその遺志を継ごうと、強大な海軍を持つ英国への渡航を企てたのである。井上馨から山尾庸三、井上勝とともに三名で渡航するという計画を打ち明けられた長州藩主の毛利敬親は一人二〇〇両ずつの資金を密かに与えた。この三名に伊藤博文、遠藤謹助か加わり、英国へと向かったのである。高杉晋作の上海密航の翌年であった。

興味深いのは、この渡航を仲介したのが英国商社のジャーディン・マセソン商会横浜支店だということである。すでに触れたように、ジャーディン・マセソン商会はイギリス東インド会社の流れをくむ商社で香港に本店を持っていた。現在では世界最大の金融機関となったHSBCホールディングスの母体である香港上海銀行は、主に同商会の送金業務を行うために設立された。また、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが設立したグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、実質的にジャーディン・マセソン商会の配下にあった。グラバーは坂本竜馬の設立した亀山社中に対して武器売却を行うほか、薩摩藩士の英国留学の手助けも行っている。幕末維新史においてジャーディン・マセソン商会が果たした役割はきわめて大きかったのである。

ちなみに、ジャーディン・マセソン商会の社名は共同創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名前をとったものである。二人ともスコットランド出身のユダヤ人で、トーマス・グラバーも含めて、フリーメーソンのメンバーであったことから、日本の維新もフリーメーソンが影響を与えているという説を唱える論者もいるほどである。

さて、長州ファイブの五人は密航船で上海に着くと、ジャーディン・マセソン商会の上海支店の手配でロンドンヘ向かう英国船に乗せてもらった。それだけでなく、ロンドンでは宿泊先の紹介も受けている。彼らはロンドン大学の教授の世話になりながら、ロンドン大学で主に理工学系の学問を学んだ。

宮地ゆうの『密航留学生「長州ファイブ」を追って』(二〇〇五年、萩ものがたり刊)によると、勉学の合間にはイングランド銀行の当時世界一と言われた造幣技術を見学し、訪問時の名簿も残っているという。井上馨と伊藤博文は、一八六四年に英国、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊が長州藩を攻撃しようとしていることを知ると、留学を半年で切り上げて帰国した。二人は横浜で英国公使のアーネスト・サトウと会うなどして、衝突を回避するための努力をしたが、長州藩の強硬政策を覆すことができず、下関戦争(馬関戦争)が起きてしまう。この戦争で列強の軍事力を見せつけられ敗北した長州藩は、攘夷から倒幕へと転換していくのである。

遠藤謹助は一八六六年まで、山尾庸三、井上勝は明治元年の一八六八年まで英国に留まり、先端の技術を学び続けた。大阪造幣局というと今では「桜の通り抜け」が有名で、花の時期になると桜並木が開放され見物客でごった返すが、この桜の通り抜けを発案したのは遠藤謹助である。

長州ファイブは帰国後、明治政府のさまざまな役職に就くが、造幣局長は五名のうち四名が務めている。井上馨が初代局長を務めた時期に、遠藤謹助は造幣権頭として新貨幣の造幣に当たった。英国政府が香港で二年間使っていた中古の造幣機を、日本政府はグラバー商会を通じて六万両もの高額で購入したのである。当初、技術者はすべて英国人だったが、彼らが帰国したあと、遠藤は造幣局長となり、日本人の技術による貨幣製造を行うのである。結果的に見ると、ジャーディン・マセソン商会は、長州藩の若者たちの英国留学を支援するという投資に対して、十分な元をとったと言えるのである。

山尾庸三、井上勝も日本に英国の最先端の技術を持ち込むことに尽力した。山尾庸三はロンドン大学だけでなく、エンジンで優れた技術を持っていたグラスゴーのネイピア造船所でも学ぶ。明治元年に帰国すると、横須賀製鉄所に船のドックをつくり、工学寮(東京大学工学部の前身)を創設し、エンジニアの育成に力を注いだ。井上勝は鉱山技術・鉄道技術を学び、帰国したあとは鉄道敷設に尽力した。新橋・横浜間の鉄道建設は英国の技術と資金援助によって行われ、建築師長には英国人のエドモンド・モレルが当たり、鉄道頭として日本側を代表した。このことから井上勝はのちに「日本の鉄道の父」と呼ばれるようになった。

長州ファイブとは、明治維新史において英国が果たした微妙な役割を象徴している。幕府はフランスとの関係を強め、軍事顧問の受け入れなど支援を受けていた。万延元年(一八六〇年)の遣米使節でワシントンを訪れた小栗上野介はフランスの借款と技術援助で横須賀に日本初の造船所(のちの横須賀工廠)を建設する事業を進めた。これに対して英国は、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)など、薩摩、長州との軍事衝突を通じて反幕府勢力への影響力を強めていく。長州ファイブの密航はまさにこれらの時期と重なる。長州ファイブを受け入れた英国の深慮遠謀は驚くべきものである。

ただし、幕末維新から明治にかけて英国を訪れた日本人は、産業革命を進めた英国の科学技術と産業力には驚嘆し、敬服したが、王権と議会を共生させ「立憲君主制」に辿り着いた英国の政治史にはあまり学ばなかった。明治期の日本は、欧州の新興勢力たるプロイセン主導のドイツに魅かれていく。政治体制から明治憲法まで、ドイツの影響を受けた天皇制絶対主義、国権主義的体制を確立していく。明治という時代に国費留学生として海外留学した日本人の約六割はドイツに留学した。そして、このドイツ・モデルヘの過剰なまでの傾斜が日本近代史における「戦争の悲劇」に繋がっていったといえる。
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宗教について 時間と空間

『語る大拙』より

それから、地球の上で物が軽いとか重いとかいうて居るのも、これも地球の上から少し離れて空気の無い所へ行けば、軽いも重いも無くなります。そうすると、力の強い相撲取が大きな石を動かすということも、吾々の手でちょいと動かすのと同じことです。力が強いとか強くないとかいうことは、空気があって地球の引力があるからで、これが無かったら、同じことであります。

また、吾々は、空間というものと時間というものを置いて考えないと、地球の上では何事も考えられません。無限に向うへ延びて居る時間が、こういう風に継続して居る。横には方処を絶し、竪には無始以来というが、時間は竪の関係、空間は横の関係であります。ところが、近頃、色々な人が色々に研究すると、時間だの空間だのというものを別々には考えられない、時間と空間とは二つのものである、これを一つに考えて行かぬと宇宙の説明が出来ないというのです。例えば、今の地球よりもっと速く動いて居る世界へ行くと、地球での同時が向うの世界では継続になるというたと同じように、物が運動して居ると、運動して居る棒なら棒の長さというものは短くなる。普通には三尺と思うて居たのが、或る運動を加えると、その棒が三尺でなくして二尺九寸五分になるという風に、長さが異って来るのです。すると、空間でこれだけのものだと、物が定まって居るのでなくて、空間に時間が加わって来て、そうして始めて、今日見て居るものが、これだけの大きさであるとか、これだけの長さであるとかいうことが出来るので、空間だけで、これは三尺なら三尺、四尺なら四尺というわけにはいきません。空間に時間というものが加わって来て、物の長さなら長さ、重さなら重さ、大きさなら大きさが定まるというのでございます。

こうなると、仏教でよくいうように、吾々が眼で見て居るものは本当のものでない。近い例を申しますと、水の中へ上から棒を入れますと、その棒が曲って見える。また、月が水へ映って居るのを見ると、その月が水の底にあるように見えるので、利口な揃は枝の上から手を伸ばしてその月を取ろうとする。人間もそれと同じようなことを、やはりやって居るのでないかというように思われます。近頃、いわゆるアインシュタインの相対性原理とでも申しますが、この空間ということと時間ということの問題が、空間と時間とこれを一つに考えるようになった。空間が今までは或る面を持って居ったのに対して、それに今度は時間を加えて、その時間の面というものも同時に考えないと、本当の答が出て来ないという、こういうような塩梅になって来て、今まで吾々が色々なことをいうて居った、その空間・時間の話というものは、今度は役に立たぬということになります。

もう一つ因果の法則というもの、これもどうも怪しいものです。仏教でも因果の世界というものを説いてある。因果というものが無かったら、吾々はどんな悪いことをやってもいいということになるが、その仏教の方の話は別として、これは他日お話する機会があろうが、物理の世界で因果というものは怪しい。それは私は余り細かいことは知りませんが、ただ漠然とお話をするわけでありますが、こうしてこうなればこうなるという風にきちんといわれない。段々生命保険の方で統計をとって、大抵このくらいの人はこのくらいで死んで行くから、これだけ金を掛けて置けば、これだけの危険率はあっても、これだけは儲かるという風に、そういうことを概算して、統計の上で生命保険の方ではやるが、それと同じようなわけで、自然の世界でも、きちんと、こうなるからこうなるというのでなく、すべてのものを概算的に見て行かなくてはならぬ、きちんと必然的に見て行くわけにはいかないという風で……これはもっと細かいお話をせぬといけないのでありましょうが、そこはそのくらいに致して置きまして……。そうすると、時間・空間というようなことも、因果ということも、吾々は、今日の物質の世界を支配して居ると見て、それですべての話が埓が明いたように考えて居たのでありますが、昔からそういう考えを持っていたのですが、今度はもっとその考えを改めなければならぬ、全く変えていなければならぬようになった。それでなくては、到底科学の研究は進めて行けないという状態です。何かもっと他の考えを持って来ぬと説明が出来ないということになった。ところが、その他の考えというものは、まだ持合せが無い。それで科学者は世界を研究すればするほど不思議で、どこからどう説いていいのかわからぬ、こういうようなことに今はなって居ります。

しかし、それだけで吾々は到底落著いて居れぬので、何かこれを解決するような時期が出て来るでしょう。或は吾々が宇宙を研究するに当って、その本の態度がいけないのかも知れない。今までのような考えでは研究が出来ないので、何が全く改めた立場から近寄らなければならぬと思う。即ち吾々の出す今日の問題というものが、始めからわからぬようになって居るので、問題の出しようがいけないんである。それならどういう風に問題を出したらいいかというと、それはまだわからぬが、何れにしても今までのように感覚の世界ばかりを問題にして行って、そうしてそれから組み立てたところの考えというものは、これからは通用しないということになる。すると感覚の世界というものは、最後の事実でなくして、この感覚の世界の外に何かかなければならぬ。それは感覚を本にして研究した科学の世界より、また異ったものでなくてはならぬ。今日やって居るところの科学は、感覚の世界で拵え上げたところの考えを本にしたものだから、その科学の研究が幾ら進んだところが、それでは役に立たぬ……役に立たんのでなく、その考えを本にするというと解決がつかない。それで何とかしなければならぬが、まだわからぬので困って居る。まあこういうことなんですが、それだけでももう既に感覚だけには頼られないわけで、五官の世界以外に何か一つの世界を見なくてはならぬということになるだろうと思うのでございます。
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レニングラード包囲戦

『世界からバナバがなくなるまえに』より

一九四一年六月二二日、ヒトラーの軍隊は国境を越えた。九月には、レニングラードのすぐ近くまで進撃してきた。かつて皇帝と王宮の都市だったレニングラードは、一九四一年には、ソビエト連邦の文化、音楽、芸術、科学の中心地になっていた。ドイツ軍は最初、この都市を占領しようとしたが、最後の最後で戦略を変えて包囲戦に持ち込むことにした。レニングラードが飢えるには、数週間、あるいは長くても数か月しかかからないと踏んだのだ。レニングラード攻略後に、ソビエト連邦の残りの領土を占領する予定だった。

九月後半になると、もっとも隔絶したルートと、冬季に凍結するラドガ湖を経てウラル山脈方面に通じるルートを除き、レニングラードから外部へ通じるすべてのルートが、ナチスの手で遮断される。燃料も食物も届かなくなり、ほとんど誰も市外に出られなくなる。若者はすでに前線に送られ、市内には子どもと戦闘能力のない高齢者、そして女性が残されていた。彼らは皆、集められるだけの物資を備蓄し始めていた。当時のレニングラードには数百万人が住んでおり、誰もが必死で何かを救おうとしていた。さまざまな悲劇のなかでも、ニコライ・グァグィロフの種子コレクションを死守した人々のストーリーは際立つ。

ヒトラーは、レニングラード、およびソビエト全土に散在する研究センターからヴァヴィロフの種子コレクションを押収することだけを任務とするSS特殊部隊を編成し、ハインツ・ブリュッヒャーに指揮させた。SS長官ハインリッヒ・ヒムラーは当時、ソビエト西部とポーフンドの多くの地域に自国民を移住させようとしていた。ブリュッヒャーは、かくして征服した、ドイツとは著しく異なる土地の生産力を上げるためには、ヴァヴィロフの種子コレクションの押収が必須だと考えていた。したがって、ヴァヴィロフの研究所を運営していたスタッフは、爆弾のみならずブリュッヒャーの部隊からもコレクションを守らなければならなかった。

もっとも差し迫った危険にさらされていた種子コレクションは、種子ではなくジャガイモであった。ヴァヴィロフは、六〇〇〇を超える品種の、数千キログラムにのぼるジャガイモをアンデス地方で収集していた。これらのジャガイモは、ロシア(さらには世界)にとって途方もない価値があった。だがジャガイモの種子は保存が悪く、種芋となると、アイルランドで植えられていたもののようにさらに悪い。だから当時の最善の選択は、ジャガイモを実際に植えて、新たに収穫し直すことであった。ヴァヴィロフと彼のチームは、かつて皇帝の住居があった、レニングラードの南東およそ三〇キロメートルの地点に設立されたパヴロフスクの実験所で、この作業を毎年繰り返していたのである。しかし包囲戦が始まった頃、ナチスはパヴロフスクを含むレニングラード市郊外を爆撃し始め、ジャガイモ畑も爆弾にさらされた。

種子コレクションを事実上統括していたアブラハム・Y・カメラッツとオルガ・A・ヴォスクレセンスカヤは急速、畑に植えられていたジャガイモを、なるべくすべての品種が選ばれるよう留意しながら集め、箱に詰めた。春には数百の品種のチェリーやプラムやリンゴが開花し、その香りで充満する果樹園の木立の下を走り、砲弾が降り注ぐなか、冷たい地面からジャガイモを一つ一つ拾い上げては箱に詰めたのだ。それから彼らは、ジャガイモの価値を十分に認識していた赤軍の兵士に、箱の輸送を支援するよう依頼する。兵士は、箱を軍用トラックに積み、すでに種子コレクションが集められていたレニングラードの聖イサアク広場まで運んだ。ジャガイモや他のサンプルの輸送作業は、ナチスがパヴロフスクを占領するまで必死に続けられた。

聖イサアク広場に到着した種子とジャガイモは、ヘルツェン通り四四番地に立つ建物の暗い片隅に運び込まれた。コレクションとともに残った研究員は、もっとも貴重な品種のいくつかを複製し別の場所に保管することに決め、実際に迅速に複製を作ったが、別の問題が生じる。どうやって完全に包囲された市街から、多量の種子を避難させればよいのか?彼らは、一〇万種を超えるサンプルと五トンの種子から成るコレクションを分割し、小さな箱につめて一つずつ運び出せばよいと考えた。そして凍結後の数百キロメートルにわたるラドガ湖を越えて、ウラル山脈方面ヘコレクションの一部を避難させる計画が立てられる。残った種子は、たった二つ残されているルートを通って人々が脱出する際に、ポケットやカバンに詰めて運び去ることもできた。ただし、この方法ではジャガイモは救えない。また、大量の種子の複製を二重枠の箱に詰めて貨車で運び去る予定であった。実際にサンプルは一端貨車に積み込まれたが、遅きに失した。貨車に詰まれたままの状態で、脱出のタイミングを見計らいながら半年間待機していたが、その好機はついに訪れず、積んでいた種子は下ろされて、もとの保管場所に戻された。結局、これらいくつかの方法で運び出された種子はあるにはあったが、多くはなかった。市街は完全に包囲され、厳しい冬が早くも到来しようとしていた。かくして種子バンクの科学者たちは、保管場所のヘルツェン通り四四番地で種子を救うしかなく、その任務のためだけにできる限り長くそこに詰めていた。

当初彼らは、ドイツ人と、包囲に協力するフィンランド人から種子を守っていた。しかし一九四二年の秋から冬にかけて食糧がますます乏しくなると、食べ物を求める同胞のロシア人からも種子を守らなければならなくなる。食糧の備蓄を三〇日分と見積もった市当局は、肉体労働者には一人につき一日二五〇グラムの、またコレクションを管理している科学者を含め、それ以外の人々には一二五グラムのパンと糠を配給することに決定する。数百万の市民はそれで暮らさねばならなかった。そして飢餓が襲ってくる。

飢餓の発生によって、種子コレクションは、厳寒や、それと同程度に危険な湿気などの物理環境のみならず、飢えて自暴自棄に陥ったレニングラード市民が、種子を奪って食べる可能性にも脅かされた。種子コレクションは作物の遺伝情報が詰まった貯蔵庫であったが、より単純に見れば食糧庫でもあった。ヘルツェン通り四四番地の建物には、何トンものコメやコムギの種子(要するにコメやコムギそのもの)、ジャガイモなどが蓄えられていたのである。飢えた人々が建物の内部に何が保管されているのかを察知すると、押し込み強盗が出現し始める。コレクションは、果物やベリーや穀物のにおいがした。人々は、壁の外からでさえうまそうなにおいをかぎつけることができたのだ。ならば当然、ネズミもかぎつけた。

ドイツ軍に包囲された最初の冬、レニングラードのネズミは、人間がネコを食べ始めたために増えたと言われた。人間同様、腹をすかせ寒さに凍えていたネズミも種子コレクションを見つけ、紙製や木製の容器の外枠をかじり始めた。できることといえば、種子のまわりの防御を固めることくらいであった。紙製や木製の容器に入っていた種子は、金属製の容器に移されて頑丈に密封された。一八の部屋に分散された種子は、人の手で一箱一箱管理された。窓は爆撃で吹き飛ばされ板張りされていたため、室内には光が射してこなかった。しかも電気が通じていなかったので、灯油ランプの光を頼りにあらゆる作業をこなさなければならなかった。研究員が部屋からネズミがいなくなったことを確信すると、その部屋は密閉され、毎日その状態が確認された。こうして、一日二四時間、三人から五人の研究員が建物で働いていた。やがて彼らは、バリケードを張って閉じこもり、建物への出入りはまったくなくなる。

建物の外では、すでに二月の時点で数十万のロシア人が餓死していた。配給されていた食糧はもはやパンではなく、麦芽粉、植物繊維、子牛の皮であった。それでは誰も生きていけない。九〇〇日にわたる包囲のあいだに、一五〇万のロシア人の命が失われている。飢餓に耐えた者も、寒さで死んだ(レニングラードの冬の気温はマイナス四〇度に達する)。市内には、暖房のための石炭もまきも残っていなかった。
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アイルランドのジャガイモ飢饉

『世界からバナバがなくなるまえに』より

一八四六年七月、長い冬が終わったあと、アイルランドの畑は一面ジャガイモの芽で覆われ、ゴルフコースのごとく青々としていた。ところが、たった四八時間で状況はまったく変わってしまう。アイルランドの端から端へと、ジャガイモが死んでいったのだ。コーク近郊で、とある旅行者が、畑のなかで歌っている一人の男を見かけた。旅行者が男に何をしているのかと尋ねると、彼は「畑のジャガイモがみな、黒ずんで水を染み出して死んでしまった。生活するすべがなくなってしまった。歌う他に何ができるというのかね?」と答えた。その近くでは一人の女が、かがみ込んでつめを立てて畑の土を掘り起こしていた。彼女のそばには、汗をかいた小さなジャガイモが二、三個置かれていた。子どものために調理するつもりらしかった。コムギもなければ、ニンジンもない。乳牛は売ってしまった。同じことがアイルランド中で起こり、何百万ものアイルランド人が自暴自棄に陥った。こうして、近代史のなかでも最悪の災厄の一つが始まったのである。

アイルランドのジャガイモ飢饉のおぞましさは、私たちの想像を絶する。まず子どもが死に、次に高齢者が死んだ。それから誰もが死んでいった。ましな場所を求めて移動している途中、夜間溝で寝ているあいだに死んだ者もいた。畑で死んだ者もいた。全滅した村もあった。こうして、飢饉が終わるまでに一〇〇万人以上が死んだ。アイルランドで六○万人である。船でアイルランドを出国した人たちもいるが、彼らも同様に死に直面した。被害の規模は圧倒的だった。しかし、私たちの生活に関連してもっとも驚くべきことは、たった今、アイルランドのジャガイモ飢饉が起こったとき以上に多くの作物が、害虫や病原体による被害を受ける危険性があることだ。ジャガイモ飢饉は、過ぎ去った時代における最後の疫病なのではなく、最初の真に現代的な疫病だったと見なせる。そのジャガイモ飢饉がアイルランドという一つの地域に限定された災害であったとするなら、各国の経済がはるかに緊密に結びついたグローバル化した現代に生きる私たちは、まさしく世界大の危機に直面していると言えよう。

ジャガイモ飢饉は、ジャガイモ疫病と呼ばれる病気によって引き起こされた(当時は「poteto murrain」と呼ばれていた)。ジャガイモ疫病は、一八四三年にニューヨーク州で最初に記録されている。この疫病が到来すると、ジャガイモは死んだ。ジ々ガイモ疫病は、年内にペンシルベニア州に広がり、さらに多くのジャガイモが死んだ。ペンシルベニア州やニューヨーク州の農民の視点からすると、呪いのごとく空から降ってきたようなものだった。次の春には、北に向かってバーモント州まで拡大していた。一八四五年の春には、カナダのニューファンドランドに達し、その年の後半にはベルギーに上陸していた。ひとたびベルギーでジャガイモ疫病が発生すると、拡大の速度が上がり、その進行は、年単位ではなく月単位で、さらには週単位で測られるようになる。かくしてジャガイモ疫病は、七月にはフランスに、八月にはイングランドに達した。

アメリカでは、ジャガイモは平均的な食事構成の比較的小さな部分を占めるにすぎない。したがって、その損失は個々の農民にとっては痛手でも、全体として見れば大惨事ではなかった。だが、ヨーロッパ、とりわけ北ヨーロッパでは事情が違った。オランダ、ベルギー、ポーランド、プロシアでは、人口の一〇パーセントから二〇パーセントは、ジャガイモ以外に充実した食物を口にすることがほとんどなかった。だから、これらの地域へのジャガイモ疫病の到来は、多くの家庭に脅威を与えた。疫病によるジャガイモの被害が甚大であったため、新聞はほとんどそればかりを記事にした。一八四五年には、フランドル地方で栽培されていたジャガイモの九二パーセントが失われたのを始めとして、ベルギーでは八七パーセント、オランダでは七〇パーセントが失われた。ジャガイモヘの依存度がアイルランドよりはるかに低かったこれらの国々でも、結果は悲惨だった。オランダでは、比較的裕福な人々でも、一八四五年の秋には「野草で食いつないでいる」と言われた。しかもそれは、長い冬がやって来る前のことであった。かくして飢饉は、北ヨーロッパの農村地帯のあらゆる町、あらゆる家庭に潜んでいたのだ。とはいえ、真に悲惨な状況にあったのは、小さな島に人々が密集して暮らしていたアイルランドであった。

一八四五年、アイルランドは、ジャガイモヘの依存度が、ョーロッパの国々のなかでももっとも高かった。というより、地球上のいかなる地域の人々より、つまりアンデス地方の住民と比べてさえ高かった。

アイルランド人のジャガイモヘの依存は古くはなく、部分的には偶然の結果、つまり原産地のアメリカから新たにもたらされたという歴史的事実によるものであった。ジャガイモヘの依存は、それ以外の作物がうまく育たない寒冷湿潤な島国で農業を営まねばならないという厳しい現実にも帰せられる。しかし、ジャガイモがアイルランドの農業を支配するようになった最大の要因は、おそらく土地所有システムにある。一九世紀のアイルランドでは、プロテスタントの英国系封建領主が広大な土地を所有し、仲介人がその土地を農民に賃貸ししていた。農民は、余剰作物によって領主に地代を払っていた。だが、「余剰」という言い方は正しくない。農民は領主に、所定の量の作物を収めたと言うべきだろう。これらの作物は、発展しつつあったダブリン、ベルク、コークなどのアイルランドの諸都市や、イングランドの都市の住民に販売された。農民は、その残りを消費していたのである。この土地システムに鑑みると、アイルランドの平均的な家庭の成功の度合いは、領主の取り分を差し引いたあとに残る、自分の生活に回せる作物の量で測ることができる。そして、単位面積あたり最大の食物を確保できる作物はジャガイモであった。。

アイルランド人のジャガイモヘの依存は、世代ごとに増していった。悪循環に陥っていたのだ。ジャガイモ、具体的に言うとランパーと呼ばれる品種のジャガイモは、とりわけミルクとともに食べると、ジャガイモが到来するまでは不可能であった、あらゆる栄養素の摂取を可能にした。ジャガイモを栽培するようになると、乳児死亡率は低下し、平均寿命は延びた。ジャガイモが主要作物になったヨーロッパの他の国々と同様、アイルランドの人口は急増した。しかし人口が増加すると、土地はさらに細分化されねばならず、その結果、人々は余計にジャガイモに依存するようになった。ますます狭隘化する土地で家族を養っていける作物は、ジャガイモをおいて他にはなかったからだ。一九世紀初期には、貧しい借地人は通常、一エーカー程度の土地しか持っていなかった。その面積で一家を養える作物はジャガイモだけであり、食糧が減ってでも、あえてそれ以外の作物を植えようとする人はいなかった。こうしてアイルランド人は、ジャガイモを食べざるを得ない状況に置かれ、大量に消費するようになったのだ。一八四五年まで、アイルランド西部で平均的な広さの土地を耕していた農民の成人はたいてい、一日に五〇個から八〇個のジャガイモを消費していた。衣類や靴を持たない人も大勢いた。彼らは芝土の家に住んでいた。一文無しではあったが、ジャガイモのおかげで生きていけたのである。一九世紀初期のアイルランド人にとって、ジャガイモが食べられたことは幸運だった。

一八四五年時点におけるアイルランド人の状況を振り返るにあたり、私たちは彼らが後進的な人々であったと考えやすい。だが、それはまったく逆である。彼らの文化は、農業に対する最新のアプローチに支えられていた。つまりたった二つの作物品種が、大規模に栽培され、肥料を与えられ、他の食物を圧倒する量で消費されていたのだ。当時のアイルランドは、ジャガイモヘの過度の依存という形態で、私たちの未来を予示する。一八四五年の年頭の時点では、それはまだ明るい未来だった。ジャガイモ疫病は、その原因が何であれ、まだ、三〇キロメートル離れたイングランドからアイリッシュ海を越えて渡ってきてはいなかった。だからランパーは、アイルランドの無数の畑で順調に育っていた。そして例年どおり、豊かな栄養をもたらしてくれるはずであった。
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サーメ人の映画

サーメ人の映画

 10/7『サーメの血』ミリオン座。久しぶりの観たい映画。サーメ人の原始宗教には興味があります。ロバニエミ図書館のサーメ民族の図書室に40分ぐらい居たけど、特に何も感じなかった。やはり、現地でないとムリかもしれない。

革新的なサービス

 「革新的サービス」と書かれているので、期待したが、ありきたりだった。一人ひとりに対応する力が革新的サービスです。
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南北戦争はどうして凄惨な殺し合いになったのか

『世界<経済>全史』より ユーラシア規模に拡張していく商業

南北戦争については、教科書などでは「奴隷解放の戦争」という北部の戦争プロパガンダがそのまま記されています。

が、実際には、世界で最も高い保護関税を課す北部主導の合衆国から、綿花の生産でイギリス経済と密接な関係を保ち、自由貿易を主張する南部の一一州が「アメリカ連合国」を結成し、独立をめざした戦争だったのです。

しかし、南部が綿花輸出で稼いだ金を財源にできなくなることを恐れた北部は、武力により強引に南部を合衆国に引き留めたのです。

それが、両軍合わせて約六二万人の死者を出した悲惨な内戦の「南北戦争」(一八六一~六五)になりました。

第二次世界大戦のアメリカ兵の死者が約三二万人ですから、それと比べると内戦の規模の大きさが理解できます。

南北戦争は言ってみれば、国という意識が希薄な「他人」同士の凄惨な戦いだったのです。寄せ集めの国でなければ、ありえないことです。

戦争中の一八六二年に、リンカーンは西部の諸州を味方につけるために「ホームステツ-ド法」(自作農創設法)を出しました。五年の間、西部の開拓に従事した二一歳以上の男性戸主に、登記費用のみの負担で約二〇万坪(約65ヘクタール)の西部の国有地を分譲するという人気取りの法律でした。

しかし、この法律は、ヨーロッパの貧しい人々に大歓迎されました。

渡航費用を何とか調達してアメリカに渡り、数年間辛抱すれば大地主になれるという「アメリカン・ドリーム」が広がり、南北戦争後に大挙してヨーロッパから移民が押しかけることになります。そのためたったの二五年間で、西部の未開拓地(フロンティア)は姿を消していきました。

ヨーロッパの大不況の時代に、アメリカの西部がヨーロッパの失業者たちの「受け皿」になったのです。

アメリカ経済は南北戦争後に、大量移民の流入、西部の開拓、大陸横断鉄道の建設で高度経済成長をとげ、世界一の工業国に急成長しました。
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