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アレッポは七千年の歴史があり、あらゆるところに歴史が刻みつけられている

『シリアからの叫び』より アレッポ 二○一二年十二月十六日 日曜日 ⇒ まだまだ、よかったころの「アレッポ」。シリアの昔の名前はアッシリア。7千年の歴史の果て。

午後になると必ずその老人を見た。変わっていなかった。同じ場所、同じ姿勢、同じ服。アレッポはこの数力月ずっと絶望的な状況にあり、その老人は病院へと延びる道路の脇で、ごみの中に腰まで埋もれていた。その姿はわたしには、この都市で死にかけているすべてのものを象徴しているように思えた。老人は広いごみ捨て場に立って、両手を何かの中に突っ込んで食料を漁っていた。ごみを漁って食べるものを探していたのだ。

わたしたち三人の女性ジャーナリストは、トルコででこぼこの車に乗せてもらいたいと頼み、暗闇の中にかすかな明かりを灯して開いている小さな病院に向かっていた。ドライバーは、神経質で小柄なシリア人男性のOだった。車の中で同僚のひとり、パディかニコルのどちらかがこう言った。「あの老人、前にも見たわね。毎日あそこにいるのよ」。その老人はいつも同じ場所にいた。同じところに、同じ格好で、同じぼろぼろの服で。

何か見つけられただろうか。

そうとは思えない。しかし彼はいつもそこに戻ってきた。

わたしたち三人は一緒にアレッポに行くことにしたのだった。ニコルは香港から来た小柄で勇敢な女性で、長い髪を黒いスカーフで包み、カメラを携えて、友人のジム・フォーリーを探すために前線へ向かう予定だった。パディはイギリス人で沈着冷静だった。わたしたちはアレッポの人々が食べているものや、飢餓の程度や、戦時中の生活について記事を書きたかった。

ところがここにはほとんど何もなかった。この冬の日、パンを焼くための動力がなかった。料理をするガスがなかった。ここでの生活は欠乏だらけだ、とわたしたちのドライバーが言った。切望する生活、不足する生活、なしで済ます生活だ。それは記憶と忘却の生活でもある。

友人のカメラマンが、かつてジハード戦士時代のアフガニスタンを「伸縮する時間の国」と呼んだことがある。彼がどういうつもりでそう言ったのかすぐにわかった。時間か性能抜群の車のように飛び去っていくか、無力のまま留まっているか、そのどちらかしかない場所なのだ。ここアレッポでは、記憶があやふやになる。戦争中には、時間がいつまでも進まない。いつまでたっても明日にならないように思える。いつになったら料理用ガスが使えたり、砲弾の雨がやんだりするかわからない。

時間のない感覚、時間を喪失した感覚は、アレッポがとても古い都市だという事実と対照的だ。アレッポは七千年の歴史があり、あらゆるところに歴史が刻みつけられている。地球上でもっとも古くから人が住んでいる都市で、その歴史は紀元前三千年代後半まで遡ることができる。

考古学者がメソポタミア文明の遺跡を発掘すると、この都市の軍事力や強大さを記した石版が見つかる。アレッポは、中央アジアとメソポタミアを繋ぐシルクロードの最終地点で、貿易の重要拠点だった。馬や隊商が、銅や羊毛、中国の絹、インドの香料、イタリアのガラス、ペルシャの金属を運んだ。

この二〇一五年十二月に、シリアの内戦は三年目に入っていた。わたしはアレッポのかつての栄光の軌跡を探していた。ぼろぼろの穴、砲弾の痕しかなかった。オスマン帝国時代に三番目に大きかった都市が、どうしてこんなひどい状態になってしまったのか。クリスマスを一週間後に控えたこの日、わたしは本当ならパリの家で幼い息子とともにクリスマス・ツリーを飾ったり、両親へのプレゼントを買いに行ってきらきら光る包装紙で包んだりしているはずだった。ところが、わたしはこの世の終わりのような町にいた。

アレッポの戦いに終わりはないように思えた。戦闘は、バッシャール・アル=アサド政権軍(とヒズボラの混成軍)対さまざまな反政府軍(軍を離脱したシリア軍の兵士の割合が多かった)でおこなわれていた。反乱軍とも呼ばれるシリア反政府側を構成するグループを表にしてまとめたかったが、その内訳は日々変化していた。仲間同士の殺し合いがある。戦争に発展し無政府状態になった市街地や村などでよく起きることだが、生き延びるために犯す犯罪がある。

いま現在、反政府軍の中には、アルトヌスラ、ジャブハ卜・アルトヌスラ(アル=シャムの人々のための支援戦線)が含まれていて、タンジム・カエダット・アル=ジハッド・ファイ・ビラッド・アル=シャムと呼ばれる、シリアにおけるアルカイダの支部が入ることもある。彼らは二○一二年一月に結成され、つい最近では六千人を数えると言われている。

イスラム国--この戦争で力をつけるのはかなりあとになってからで、やがてアル=ヌスラおよび反乱軍と戦い、七世紀にイスラム世界で成立した野蛮なシャリーア(イスラム法)をシリアの一部とイラクに導入しようとする--は、まだ萌芽も見えず、影のところで存在していた。形になるのをじっと待っている段階だった。

シリアでもっとも産業が栄えた町アレッポは、実に多様な人々で構成されていた。二〇一一年以前には、アレッポに住んでいたキリスト教徒はベイルートよりも多かった。そのほかにシリア系アラブ人、クルド人、アルメニア人、アッシリア人、トルコ人、サーカシア人、ユダヤ人、ギリシア人がいた。聖書にはアレッポについて語っている十三篇の詩がある(アレッポは十一世紀からアラム・ソバというヘブライ語で呼ばれていた)。

詩篇の第六十篇に「ダビデ、ナハイラムのアラムおよびソバのアラムとたたかひをりしがヨアブかへりゆき塩谷にてエドム人一万二千をころししとき教訓をなさんとてダビデがよみて『証詞の百合花』といふ調べにあはせて伶神(歌の神)にうたはしめたるミクタムの歌」とある。

塩谷はアレッポから馬に揺られて四時間のところにある、とわたしが読んだ文献には書かれている。一六九七年にこの地域を旅行した神学者ヘンリー・マンドレルが書いたものだ。その塩谷でダビデはシリア人一万二千人を殺した。

いまシリア人を殺しているのはだれなのか。シリア人は互いに殺し合っているのだ。野蛮に、見るも無残に。

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パートナーからのメール

パートナーからの4か月ぶりにメール

 なんと4か月ぶりにパートナーからメールが来た。内容はいつも通りに愚痴だった。

 メーカーの連中の陰謀は着々と進んでいるみたい。組織と闘っているパートナーを見ていると、太平洋戦争の末期を感じる。自分のことしか考えられない組織に対抗するにはどうしたらいいのか。

 観察することだけです。それを記憶することだけです。それを記録しておくこと。それは再生のために必要です。それらの葛藤のなかから、次の答を見つけて欲しい。販売店にとってみて、どうあるべきなのか。

 レスは要求しない。オープン系にはしない。クローズドにしておきます。プレッシャーを掛けない。

三人からのメール

 パートナーは私にメールが来る三人の内の一人。アテネのれいこさんは6か月に一回。パートナーは4か月に一回。スタバのIさんは2か月に一回。

OCR化した本の感想

 『シリアからの叫び』

  アレッポ 二○一二年十二月ということは、壊滅的になる以前の日常を描いている。7千年の歴史が新たな局面を開いている。

  以前の建築の本で、アレッポの街の配置と住宅の分析がなされていた。500万人以上が国外に出て行ってしまったシリアから何が生まれるのか。

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未唯空間第7章生活編 2/2

7.3「生活する」

 存在することは、7.4で気付いてしまっているので、このまま、先に行ったら、クルアーンを作るしかなくなる。だから、「生活する」に戻します。

 最終的にはクルアーンの持って行くかもしれないけど、どのように生活すればいいのか、いかにして覚醒するかの家庭のサンプルにしていく。

 生活はギリギリな状態です。だから、いいんだけど、余分なお金もない。世界を回るといってもきりがない。自分が回らなくとも、得るものはいくらでもある。回ることでなくて、答を見つけることが目的なんだから。

 このICレコーダー一つとっても、これを用意してくれた人のためにも使いこなさないといけない。

 家庭は不思議なものです。生活パターンで日々を送っていく。それは何を意味しているのか。それとは関係なくやってくる。お金も何故か回ってくる。それをなぜ、用意してくれるのか。用意してくれていると感じるのか。この仕組み事態を見させる為なんでしょうね。

海外に行く

 海外にしても、丁度いい時に、なにかの理由を付けて行くことができた。国内も同じです。東フジにいたら、動けなかったけど、販売という理由でどこでも行けるようになった。

 海外もイソベを用意してくれた。おかげで言葉の問題は関係なくなった。

 不思議なのは奥さんですね。最終的には私の方が先に行くからどうでもいいけど。

毎日の思いを示す

 各項目一つ一つがその先がないような感覚で話している。何故か、思いを示すということ。あるところから毎日の思いを示すようになった。

 何を考えたかもあるけど、なにも得たのかも多くなっている。それに伴って、何を出してきたのかも示している。いつの間にか集めることが趣味になっています。

 そこで得たものは、自分のものです。不思議なもんです。その為にネット社会を用意してくれたので、アウトプットしているけど、それで影響を与えようとは思っていない。何しろ、他者がいないんだから。他者がいないことが効いている。

書くことから未唯空間が生まれた

 話すということ、書くということ,考えることをループしています。これは時間を要します。考えるだけなら、瞬間的に終わってしまうことを回りくどいことをしている。それにどういう意味を持たせるのか。

 全てをログに残すことを未唯が生まれた時に決めた。そこから何を出していくのか。最終的には自分に戻ってくる。未唯空間に反映することで、空間を作る軸は何にするのかを含めて決めてきた。

7.3.3「家庭」

 家庭というものが出てきたのは、家庭を変えることが社会を変えることになるからでしょう。偶然に支配されている。何故、こうなったかも,全て偶然です。

 世の中に対する提案を書いているけど、これはもっと、後ろに来るんでしょうね。家庭というものは、家族ではなくて、考える一番小さな世界としてあります。それのサンプルです。なぜ、そこに「持続可能性」の項目が来ているのか。見直さないといけない。

仕組まれたこと

 ある意味では、仕組まれている。仕組まれていながら、仕組んだやつを考えている。夢の中に居ながら、夢を見ている。仕組んだものは、私がそこまで考えるとは、思っていたんでしょう。ざまあみろ!

7.3.4「規範」

 元々,未唯空間を作る為のルールだけど、全体の生活規範にすることにした。世の中にいかにばれずに活動するのかがテーマです。デカルトはシンプルに考えるために,世の中に受入れなくても弾かれないために規範を作った。私は宇宙人としてそれをやっていかないといけない。ほとんど、そのルールは守っていないけど。

 得たものをどうしていくのか。仕事もその為に使ってきた。情報も同じように生活のなかにいかに浸透させるのか。仮のターゲットとして、未唯を設定しました。ネルーのように未唯に見識を渡していくのか。そういうカタチにしている。

 家庭での生活はなるべくバレないように、人々の生活を基準にしていく。ここまで来ただけでも、まだ7.3です。本当にこんな生活を持っていますね。多分,逆なんでしょうね。

7.4「生きる」

 生きるの最初が独我論です。どうなっているんでしょうか。生きるベースが独我論とは。といっても、言葉を作ってみましたという感じです。決して、独我論ではないけど、「独我論」と称しておきます。この生活を抽象的にして、世の中から見た時にどう見えるか。そこで、「独我論」として見ました。

 全てに依存しないというのがベースです。私は私の世界で生きていく。こりつした存在になっていく。元々、孤立だから、孤立した存在になるわけではない。そして、不安定。安定から見て、不安定はどこでも行けるという自由を持つ。宇宙のなかで必要なことです。宇宙のなかで安定したら、潰されます。それは「宇宙の旅人」としての心得です。常に動いていること、自分がないということ、唱えること。

無限次元空間の住人

 空間はいくらでもあります。それは無限次元空間で得たものです。二次元、三次元と思うと窮屈です。無限次元空間の中のサブ空間と思えば、どこでも存在できます。世界中を回った人間よりもはるかに大きな世界です。

7.4.2「ライフログ」

 「生きる」にライフログが出てきます。全てを記述すること。何もない世界だから、これをしないと単に何もしないだけではなく、それもよいけど、忘れっぽいから。それでもって、自由に発信して、誰も居ない世界で語っていく。

 歴史を考える。時空間を考える。これに虚しさを感じないというのが、特徴かもしれない。

7.4.3「啓示」

 大いなる意思からのメッセージが啓示です。配置の考えは啓示です。考えよ!というのも啓示です。自分からは発信しない。問われたら応えよ、というのも啓示です。啓示をまとめていく。誰に対してやっているかわからないけど、来ているのは確かです。ムハンマドも同じ心境だったんでしょう。

 その啓示の一つが行動しないということ。行動するのは私に合わない。というか、行動することに意味がない。考えることに意味がある。その為に,数学に導いたんでしょう。ものを作ることでなくて、考えて、モデルを作り、実証する。

 考えるだけにすることで大きく進歩した。存在自体も武器です。それ以外の武器はない。存在もあやふやです。ここまでが第7章の半分です。
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未唯空間第7章生活編 1/2

他者が存在しない生活

 他者が存在しない生活は何をしていけばいいのか。ひたすら、内に向かうしかない。内に向かってどうするのか。やはり、内に向かっていくしかない。他者が存在しないけど。生きていること、生まれてきたことの謎に向かうことにないという生活。

絶対的孤独

 そうなると、ロマンチストにならざるを得ない。対象は孤独と女性ですね。そして、未唯への手紙で未唯に希望を託した。

 その中で考える。何を考える。考えることを考える。生きることを考える。考えることは生きること。そして、池田晶子さんの言葉に出会った。

 そこから考え抜くこと。本当に何なの。有るのか亡いのか。相手がナイのは確かだけど。これだけ、宙ぶらりんの状況ですから、そこでの好奇心、好奇心があれば、何をやってもいい。

日常と非日常が共存する世界

 扉を開けないと世界は拡がらない。これはSFPLの館長室は自分のために用意されていた。扉はなかったけど、入り込んだ。

 日常と非日常を最初に味わったのは、エヴァンゲリオンの風景。日常と非日常に境はないんです。わざわざ、ロヴァニエミに行って、非日常を味わうことと、この日常で非日常を感じるのとは多分同じなんでしょう。それを確認するためにフィンランドまで行った。

 こんな濃密な生活と世の現実はあまりにもかけ離れている。その中で考える元は「時間」です。存在すること、与えられた時空間の内で生きていること。

 ベースは放り込まれたこと。本当は時間を止めたいけど、ここからまだ、何かを得ていかないと。と同時に、与えられたものの中に自分がいるということ。

本から得られるもの

 ここ・今だけでない時空間は周りの本から得られる。自分が行かなくても、変わりに任務を負った人間がいる。そこから報告を聞くことができる。それらを私が考えるベースにする。

 この膨大な現象から簡単にするのも、私の役割です。

 考えるのは考えるけど、書くことはいい加減にする。きりがない。ロックに陥る。分かりやすくする。その内に生きること。

私のために用意されているもの

 自分が考えたり,生きたりするために、大いなる意思が用意してくれたもの。

 それらは、タイミング良く出てくる。寝ながら操作できるできるようなものはふつう考えたらおかしいでしょう。私のために用意されたとしか思えない。ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも私のツールのために存在した。それを味合わないといけない。

 目が悪く,パソコンが見えなくなっている。その前にこのようなカタチを提供されている。ネット放送についても同様です。テレビは一方向であったものが、探しに行ける様になっている、それもリアルタイムでのやりとりが可能です。

 周りの人間は適当に使っているけど、私はそれなりに真剣に使います。何しろ、私のために用意されたものだから。

7.2.1「生まれてきた」

 生まれてきた理由を解明するとか、意味を探るとかがあるけど、残っていることをちゃんと表現していかないといけない。この宙ぶらりんの状態に不安を抱いています。哀しくなる存在というのは、自分にとって納得のいく表現です。

7.2.2「存在と無」

 「存在と無」が一番の謎です。

 何故、こんなにも小さな存在、無に近いのに自分から見ると、大きな世界と一緒になっている。全てとゼロが一緒になっている状態。

 それを他の人がどう思っているのかわからない。多分、何も思っていないでしょう。だから、他者の存在が信じられない。時々、本に存在に関する記述があるけど、十分、表現できていない。哲学の本はすぐに別の方向に行く。そして、我田引水。

 全てと無が一緒になっている状態ということしか言えない。最初にそれを融合で考えた。高度な数学になると、この状態はあり得る。独我論もここから生まれた。融合でいいかどうか分からないけど、これを考えていく。

心はどこにあるという問いと答

 以前。「心はどこにあるか」というと問いに対して、とっさに浮かんだのが、宇宙の端と私の内に同時に存在する感覚でした。あの時から変わってきた。それが一緒になる究極なカタチが全ての答ではないのか。

 それを探して、まあ、適当だけど、色々やってきた。

 1千冊の雑記帳、2.2万冊の新刊書、1万のブログ、6万のツイッター、そして、それらを包括する未唯空間。そこには1280項目があり、参考資料を付加している。内なる世界から未唯宇宙に送り出していく世界。

 それをやればやるほど感覚的にはノマドです。浮遊します。

 こんな本質的なことばかり考えていては、とてもじゃないけどループしてしまう。同じ事しか言わなくなる。そこからまた掘り出していけばいいかもしれない。

自分の役割から啓示を得た

 とりあえず、未唯宇宙での自分の役割を決めた。数学者であり、社会学者であり、歴史学者であり、他者の世界を預言するもの。

 60歳の時点で、デルフォイとか赤ピラミッドに行けた。それは誘導されたんでしょうね。

 デルフォイは一神教に潰されたみたいですね。多神教のアポロンは一神教では存在できない。それをもとに戻すことになるでしょう。一神教に先行きは見えている。

 宇宙と自分が一緒の世界とは,神と自分が融合する世界を目指すことになる。「存在する」の最期は内なる世界、私は私の世界をいかに作って行くのか。

7.2.4「内なる世界」

 生活編の中で考えた時に、自分の内のモチべーション、奥さんとの関係、絶対的存在の未唯との関係との関係の謎が解けていない。何故、彼らはいるのか。何を示唆しているのか。隔離されている世界なのに、それでつながっている不思議な感覚。

 なぜ、ご飯を作るのか,子どもというもの、孫というもの。それらとのつながり。自分の中の一つの特徴は、絶対的存在です。相対的ではなく、子どもだからではない。絶対的になればなるほど、一方的になります。相手からは何かを求めるならば,絶対的にはならない。
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ヘーゲルはわかりやすい若者ではない

『メルロ=ポンティ 哲学者事典』より へーゲル、ゲオルクヴォルヘルム・フリードリヒ ⇒ 出だしが気にいった。「歴史哲学」はすごいと思う。

ヘーゲルはわかりやすい若者ではない。ただし、そう言ったのは批判のつもりではない。哲学者というものはみなむずかしいのだから。おそらく最もむずかしいのは、デカルトのように明晰に書いたり、プラトンのように偉人な詩の力で書いたりする人ダだろう。わたしたちは彼らにまず魅了されてしまうのだが、その奥深さと高みが見えてくるのは後になってからなので、本当に彼らを理解したければ、そこからもう一度、ゆっくりと一歩ずつ、苦労して、その奥深さと高みに挑まなければならないのだ。それとはまったく反対に、これはいつでも断言してよいが、ヘーゲルはその文体の魅力によって読者を誘惑したりしない。信しがたいほどに簡潔で、正薙さに気を遣い、他のことには無頓着な彼の文章は、最初の一行目から読者に警戒心を起こさ廿る。それは、読んでも楽しくない著作、きわめて大きな注意と、きわめて高い精神の緊張とを必要とする著作なのである。

だが、丈体から発するこうした警告が、結局のところは理解を助けてくれるのである。読者は、このような著作を急いで読み進めようとは思わないし、あまりに自明に見えるので、ヘーゲルの言うしかじかのテーゼを認めたがらないし、あまりに力強く語りかけてくるので、しかしかの比喩的表現を信川したがらない、というわけである。わたしたちは思考の流れを反省し、検証し、解きほぐそうと努めるだろう。こういったことはすべて、読者にはあまり楽しくないにしても、理解の助けにはなるはずである。しかしここには何かしら皮肉なもの、つまりが定的なものがある。つまりヘーゲルの書き方は、その哲学のむずかしさをめっき加工で隠すかわりに、むずかしさを端的に表わすのだ。それは、複雑なものを単純なものと取り違えて、余計にむずかしくなるのを防いでくれる。しかし、この助けによっても、ヘーゲル哲学の複雑さそのものと、元からあるむずかしさはなくならないのである。

したがって、繰り返しになるが、やはりヘーゲルはむずかしいのである。もしかしたら彼は、もっ犬不気味で、もっと無愛想かもしれないし、いささか厳格で気むずかしい姿を見せるかもしれない。しかし、だからといって彼は、熱意をもち忍耐力のある読者を受けつけないわけではない。哲学者はみなこの種の読者仁語りかけ、一方で読者は、その熱意を獲得し、その忍耐力を保つために骨を折るのである。ヘーゲルの書くものに人して魅力はなく、名文家としての優れた技法がないと彼を非難したとしても、わかってもらえるだろう。だが、彼はたしかに、世間に謎を差し出したり、玄人にしかわからない言い回しを提案したり、無遠慮な。人や読者の資格をもたない人を追い払うために、奥底や本質を隠したりするような類の人ではないのだ。ヘーゲルにとっては、誰も無遠慮でも無資格でもない。彼にそうした名文家の技法がないのは、まさにすべての人、忍耐力と熱意とを引き換えにしてヘーゲル哲学への入場券を得たいすべての人にとって、近づきやすい存在であろうとした結果なのである。

このことからすれば、彼は、他の偉大な哲学者だちよりも近づきやすい存在であってしかるべきだろう。ところが、専門家や、教養のある目の肥えた読者の判断によれば、彼は少しもとっつきやすくはないのだ--正しい判断である。ヘーゲルは、ただ哲学者であるという理由だけでむずかしい著者なのではない。哲学者のなかでも、よりいっそうむずかしいのである。

このことには二つの理由を割り当てることができる。あまりに軽々しく、ヘーゲルがむずかしい理由は次のことだけだと主張する者もいる。その理由としては、ヘーゲルの思想の詳細がむずかしいのは、明快でなく、不完全で首尾一貫性がないという意味だとか、主要な諸概念が、学問や条件や態度の歴史的進化によって時代遅れになってしまったとか、言葉の意味が変わってしまい、今の時代にヘーゲルを理解すべき者には多大な努力が必要となる、といったことである。しかし、このような非常に現実的な障害物はどこにでもあり、ヘーゲルの場合にだけ特別な事情があることを説明してはくれないだろう。さて、ヘーゲルが哲学者のなかでもいっそうむずかしい理由は、次の見出しでまとめられるように思われる。ひとつは、哲学史に占めるヘーゲルの位置であり、もうひとつは、彼の思想の意図である--しかも、ただちに付け加えておきたいが、その位置はその意図のゆえに独特であり、その意図は、それが歴史上のある特定の時期に出現したがゆえに独特なのである。それでは、こうしたむずかしさから出発して、ヘーゲルの哲学を輪郭づけてみよう。そうすることによって、彼の哲学がいっそう明らかとなり、彼の哲学の意味と、わたしたちにとっての意義とがいっそう明らかになるのは、不可能なことではない。

さらに忠告をひとつしておこう。以下ご覧になるのは、体系の要約や、ヘーゲルとは何かということを二、三行で知りたい人にとって最も便利な、原本のかわりにできるミニチュアサイズの複製品である、などと期待しないでいただきたい。思想の価値は、その細部のなかに、その彫琢の全体のなかにある。究極的な真理や、奥深いものの見方や、絶対的な暴露といったものは不条理か無内容である。別の言い方をすれば、原理というものはその展開のなかで証明されるのであって、最初からなかにめるのはせいぜい約束とプログラムにすぎない。こういうことを最も強調した哲学者こそ、ヘーゲルなのである。この企画がうまくいけば、なぜヘーゲルがわたしたちにとって生き生きとした現実をなすのかを示したことになる。しかし、わたしたちは、この現実とはいかなるものかを示すつもりはない。この現実はあるがままのものであり、それ自身の諸条件のもとでしか、見物人には見えてこないのである。

今のところヘーゲルの哲学は、数々の偉大な哲学のなかで、最後のものである。したがって彼の哲学は、他のどんな哲学も彼の哲学にとって代わっていないという意味では、最初の現代哲学でもある。最初の近代哲学ということではない。誰が最初の近代哲学者だったのか、たとえばデカルトか、ヒュームか、カントか、ということをめぐってなら、意見がまとまるまでに長いあいだ議論することができるだろう。ヘーゲルは、過ぎ去ってしまったと感じられるような時代には属さないという理由で、たんに近代的なわけではない。彼は現代=同時代の人なのだ。つまり彼の哲学は、依然としてわたしたちの世界について語っている。わたしたちに向けて語っている以上に、わたしたちについて語っているのである。わたしたちがこの哲学に同意を表明するのかどうかはまったく別の問題である。ヘーゲルの哲学は、わたしたちについて我慢ならないことを言うかもしれないが、しかしこの哲学がそんなことを言うのは、わたしたちについてなのであって、他の時代や他の世界の人々についてではないのだ。

そのようなわけで、ヘーゲルの哲学は、歴史の結び目と呼んでもよいものをかたちづくっている。この現象をなすのは彼一人だけではない。たとえばアリストテレスについても、同じくらいの理由で同じように言ってよいだろう。これは、歴史における特昼点のことである。すなわち、過去のすべての糸がそのなかで交わり、集められ、取りまとめられ、秩序づけられた後--しばらぐの聞かそれとも永久にか--そこから糸がまた分かれる、そのような地点のことである。このような地点とそこに位置する偉大かまとめ役は、思想の革命と現実の革命の後に登場している--プラトンと古代都市の終焉の後に、カントとフランス革命の後に。あちこちからの水がひとつの巨大な池のなかに集まり、今度はあらゆる方向に分かれる。湖自作が支流の体系を組織しているので地理学者が支流図を描くのはむずかしくないだろう。しかし川の流れは、まだ最後まで流路を掘り切っておらず、流れの道行きか探しているところであり、その終着点はわからない。なので、地理学者がその川の流れを製図するように頼まれたら途方に暮れるだろう。一人だけを帚げるにとどめておくが、アリストテしスに関してはおおよそのところ、その体系から生まれた流れがどのふたりにあったのかがわかっている。しかし、ヘーゲルに対してはわかっていない。わたしたちは、その方向が未だ知られない波に運ばれ、波の流れのままに進んでいるのである。
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アメリカのアジアシフト そこで問われているもの、その影響の大きさ

『PIVOT アメリカのアジアシフト』より ピボットの舞台 興隆するアジア、そこで問われているもの、その影響の大きさ ⇒ アメリカはアジアを狙っているが、日本のスタンスがよく分からない。日本が超国家を考えるとしたら、まずは、極東から抜出すことなのに。

いまや全面的に太平洋の世紀を迎え、世界の勢いとエネルギーは刻一刻と、また、あらゆる物差しで測ってみても、アジアヘと移行しつつある。アジアは今、ほとんどすべての計測基準で世界を主導し始めているが、しばしば、この地域の潜在力と課題が明らかになり、また、時には、驚異と矛盾が浮かび上がる。アジアには温暖化ガスの排出で世界最大級の国々が集まり、その一方でグリーンな技術への最大の投資家たちがいる。この地域の都市人口は世界最大だが、個別の国を見ると、大半は世界で最も都市化比率の低い部類に入る。アジアは世界のどの地域よりも電力を消費するが、人口の5分の1は電力にアクセスできない場所で暮らしている。長くて誇れる文化的な歴史があるにもかかわらず、「洋風」に見える美容整形が流行していて、二重まぶたにする手術は韓国だけで年間3万件に上る。そして飲酒の習慣のない人の多さでインドネシアなどが世界ランキングのトップになる一方で、アルコール消費で上位5ヵ国のうち4ヵ国がアジアの国々である。中国は赤ワインの消費量で世界1位になり、共産主義革命に続く第2の「赤い革命」が進行中だ。蒸留酒(スピリッツ)についていえば、韓国は国民1人当たり消費量が1週間に13・7杯で世界をリードし、伝統的な重量級であるアイルランド、スコットランド、そしてロシアの2倍以上の水準である。

本章で我々は、アジアの驚異的な興隆の背景にある事実と数値を見ていく。この地域が再び浮上するにあたっては中国が最大の役割を果たした。しかし、中国に限らず、この地域のすべての国が人類の歴史で最も素晴らしい成長と開発をめぐる物語に参加したのである。アジアの目もくらむような経済発展の規模と広がりによって、歴史上のどの時期よりも多くの人々が貧困から抜け出し、それは、普段は一番、シニカルな観察者たちにも畏敬の念を抱かせるほどである。

アジアは今日までに並外れたことを成し遂げてきた。将来も明るい。しかし、それは保証されたものでは決してない。政治家や専門家は長年、アジアの潜在能力に感嘆し、巨大な市場とあふれんばかりの人の多さについて息を弾ませて語ってきた。その一方で、アジアは期待を現実に変えるにあたって多くの課題に直面している。本章で取り上げていくように、この地域の大半では、貧困が今もあちこちにあり、公衆衛生分野の整備は遅れ、環境汚染は著しく、インフラは不十分で、エネルギー消費は急増し、人口の高齢化が進み、そして気候変動の脅威が未来へと広がっている。こうした障害があり、中国の経済成長も減速する中では、アジアの奇跡は終わったと書かれることが、かなり一般的になっている。優れたエコノミストたちも、アジアの成長率は歴史的な平均値まで下がると予測している。確かにアジアの興隆は、さまざまな挑戦に直面する段階を迎えた。しかし、これまでの台頭の期間に、アジアはこれらの挑戦に対応できる相当な資源を手にした。世界で最も分厚い中間層があり、世界最大級の経済規模を持つ国々が存在することは言うまでもないだろう。アジアの成長は歴史的にみて、危険なほどの猛スピードから次第に緩やかになっているが、この地域の興隆で問われているのは、そのスピードだけではない。公衆衛生の改善から経済格差の是正、文化的なアイデンティティーの維持から環境保護まで、幅広い分野で質が改善し、恩恵が広く及んでいるのかどうかがより強く問われている。アジアの物語で重要なのは、聞こえのよい話だけではなく、挑戦や逆境を前に、成功し、前進することを求めて苦闘する部分である。

その帰結はアメリカに大きく影響する。アジアが興隆するにつれて、アメリカ国民とアジアの人々を長年、結んでいた絆は、さらに密なものになる。オバマ大統領は初めての訪日の際に次のように述べた。

 「アジアとアメリカはこの偉大な海洋、太平洋によって隔てられているのではない。それによって結びついている。我々は歴史でつながっている。アジアからの移民はアメリカの国づくりに貢献し、アメリカの兵士は何世代にもわたってこの地域の安全と自由のために尽くしてきた。我々は繁栄を分かち合うことで結びついている。貿易と通商は何百万人もの仕事と家族を支えている。我々は、人と人でつながっている。アジア系のアメリカ人はあらゆる分野でアメリカの暮らしに貢献している。この地域のすべての人々の生活は、アメリカと日本の両国のように、織り合わされ、ほどけない関係にある」

このタペストリーのようなアメリカとアジアの関係は、アジアにおける著しい開発と進歩という朗報がアメリカの発展を剌激し、強化するということを示している。目を見張るイノベーションが生まれ、中間層が急増している地域との結びつきをアメリカが拡充することは、2008年の金融危機後の経済の回復ぶりが遅々としていることを考えれば、とりわけ重要である。アメリカの輸出を世界へ、特にアジアに向けて促進、拡大することは、景気回復の維持ならびに質の高い仕事をアメリカで生み出すための中心的な取り組みといえる。アジアの興隆はアメリカ経済の健全性と発展には欠かせない。だが、アジアの世紀に期待される利益は、アメリカが責任を果たして初めてもたらされるものだ。この地域がアメリカの将来にとって大切なように、アジアの未来にはアメリカの関与が重要である。

我々が将来に向けて地政学的な変化と経済のダイナミックな動きに備えるためには、アジアで今、起きている出来事の影響が及ぶ範囲を理解し、そのドラマの内容と規模を知り、そして、まだ現れていない姿について考えをめぐらさなければならない。その目的のために、本章ではアジアの興隆について、その潜在力と課題に注意を払いつつ、幅広く言及していく。都市化やエネルギー消費などの従来型の経済指標、そして健康や衛生など社会の発展に関わる重要な評価基準に焦点を合わせる。続いて、いくつかのグローバルな産業は、アジアの勃興によって決定的に変貌してしまったことを深く分析する。海運、国防、そしてテクノロジー関連の産業など容易に想像される業種のほか、映画、美術品など一般には取り上げられない業種も吟味しながら、この章ではアジアの変容がもたらしている広く見られる特徴と劇的な衝撃について述べていく。まずは、このダイナミズムを計量するところから始めよう。

アジアをめぐる議論の際には膨大な数値を引用する必要がある。各国の経済規模は1兆ドル単位で計測され、人口が10億人を超す国もあり、各国の軍には100万人単位で兵士が配属されている。これらの数値が、どの程度の大きさもなのか、容易には実感できない。進化生物学の研究者らは、人間の脳は繰り返し現れることを最もよく理解する方向に進化してきたと指摘する。我々が日々の暮らしで兆という単位に出くわすことはまれである。大きな数字をより上手に把握するには、具体的な例をいくつか挙げるのにとどめたほうがよいだろう。

我々のほとんどは1ドル札のおよその大きさや厚みを知っている。だから、それがたくさんある状態を想像するところから始めよう。1枚のドル紙幣は普通紙よりも薄いが、100万枚も重ねると、30階建てのビルの高さになる。10億枚ならば70マイル(約113キロメートル)で、大気圏外まで伸ぴる。1兆枚では月までの距離の4分の1に到達する。アジアには名目GDP(国内総生産)が1兆ドルを超す国が5カ国あり、合計では、ざっと20兆ドルになる。1ドル札を積み重ねて月まで届く束にまとめると、それが5束ある計算になる。

こうした数値の大きさを理解する2番目のやり方は時間から考えることだ。もし、あなたが1秒につき、数字をひとつ数えていくとしよう。1000の数字を数えるまでには17分かかる。数字が100万なら昼夜、休みなく続けても12日を要する。10億ならば、32年である。アジアの人口はざっと40億人余りだから、数えるのに140年以上かかかる。そして、アジアでは1秒に16人が生まれているから、この作業は実際には終わらないのである。

もし、以上の頭の体操が何かを証明しているのだとするなら、それは「100万」や「10億」という数値は普段からあちこちで見かける割には、あまりに巨大で簡単には理解できないということである。アジアの規模は本当に分かりにくい。この章で取り上げる統計数字は、すでに目を見張るほど大きく、しかも、例外なく、このまま比較的高い伸び率で膨らんでいくと予想されている。噛みくだいた分析を進めるためには、アジアの驚異的な成長と、めまいがするほどの巨大さに関する、いくつかの事実と数値に、きちんと目を向けなければならない。我々は、まず、この地域の膨大な人ロ--アジアに関する驚愕させられるような統計の大半が次々に湧き出す泉のようなものである--から始めよう。
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アクセス保障とベーシック・インカム

『不平等を考える』より 社会保障の新たな構想 どのような制度によって保障するか?

アクセス保障の構想

 さて、人々の生活条件を具体的にどのような制度によって保障するかについては、大きく分けて、所得保障およびアクセス保障という二つの考えがある。社会保障論の用語で言えば、「現金給付」と「現物給付」(サービス給付)がそれぞれ前者、後者におおむね対応する。所得保障は、所得や資産の保有を保障するものであり、それらをどう用いるかについては各人の判断に委ねられる。他方、アクセス保障は、基本的な諸機能を達成するために必要な財やサービスに無料ないし低コストでアクセスしうる機会を各人に保障することを指す(実際にアクセスするかどうかは成人の場合には各自の選択に委ねられる)。

 言いかえれば、所得保障は所有権(a right to have)を保障し、アクセス保障は利用権(a right to use)を保障する。利用権の保障は、コモンズ(共有地)の用益をコミュニティの成員に認める場合のように、思想史的には長い伝統をもっており(たとえばH・グロティウスやS・プーフェンドルフらの一七世紀の思想に見られる)、アクセス保障の考え方には、基本的な諸機能を達成しうる生活条件の保障をこの伝統に沿って再生しようとする意味合いもある。

アクセス保障の制度

 アクセス保障は、すでにさまざまなかたちで制度化されている。たとえば、民主党政権のもとで義務教育に加え高等学校での教育も無償化されたが、これは(中等)教育機会へのアクセスを保障しようとするものである。また、健康保険や介護保険は、医療サービスや介護サービスヘのアクセスを保障するものである(ただし、そのアクセスは社会保険料をすでに拠出してきた有資格者に限定されており、しかも、近年における自己負担分の引き上げは貧困世帯にとって実際の利用を阻む障害となっている)。

 公共交通機関や水道・電気・ガスなどライフラインヘのアクセス、また情報や通信(公共メディア・インターネッ卜等)へのアクセスもすべての人々にひらかれている必要がある。ケア・サービスや保育サービスの供給が不十分であればキャリアを形成したり、継続することは困難になるし、住居へのアクセスが保障されていないことはとくに若年失業者の就労を阻む原因になっている。利用料金のかかるライフラインに関しては、最低限の利用に関しては無償化することも検討する余地がある。

 いま述べたように、アクセス保障は、さまざまな形で制度化されながらも、アクセスを実質的に阻む諸要因--必要な財やサービスの供給不足をはじめとして、自己負担、相対的に高額の利用料金など--には十分な注意が向けられていない。

アクセス保障のメリット

 もちろん、所得保障をアクセス保障によって代替することはできないし、またそうすべきでもない。代替することができないのは、自己負担や利用料金をともなう公共サーピスヘのアクセスは一定の所得を必要とするからであり、また代替すべきでないのは、自分の意思で用益できる一定の資産(住居や二定の金融資産等)があることは生涯を通じての拠り所--湯浅誠の言葉を使えば「溜め」--となるからである。とはいえ、アクセス保障(利用権の保障)には、所得保障にはない次のようなメリッ卜がある。

 第一に、十分な所得があっても、たとえば過疎地域に見られるように、必要な医療サービスや食料へのアクセスが容易ではないこともあり、所得保障のみによって人々が基本的な諸機能を達成しうる生活条件を保障することはできない。

 第二に、アクセス保障においては、用途および利用の限度が定まっており、所得保障(現金給付)が惹き起こしうる濫用--それが基本的な諸機能を達成するためではない用途に向けられること--を抑制し、それを通じて、受給者に向けられる負の感情を抑制することができる(生活保護の不正受給率は二パーセントにも充たないにもかかわらず、メディアによるバッシングは繰り返されている)。

 第三に、アクセス保障は、対象者を特定しないュニバーサルな性格をもっており、対象者を限定する選別主義的な福祉(生活保護制度など)が招くスティグマ化を回避することができる。アクセス保障を充実させることはすべての利用者にとっての便益ともなるので、人々の間に分断が生じる事態を抑制し、社会保障制度への幅広い政治的支持を得ることができる。

 最後に、アクセス保障は、各種のサービス--『教育、保育、医療・看護、介護等』--を提供する人々に労働や仕事の機会をひらくことができるし、しかもこの種の労働や仕事はそれぞれの地域に定着しうる(余所に移転することが困難な)ものである。

 このように、アクセス保障は、個人に財を分配することではなく、人々が市民として必要とする公共財(公共サービス)へのアクセスを保障することを通じて、すべての市民が特定の他者の意思に依存せずにすむ生活条件を構築しょうとするものである。

 アメリカの経済学者R・ライシュは、交通機関、教育機関、病院、公営住宅、公園などの公共財がはなはだしく劣化し、富裕層が公共の施設やサービスから離脱している現状に警鐘を鳴らしているが、日本の社会もとくに教育機会の保障や住居保障について大きな問題をかかえでいる。GDPに占める公的な教育支出の割合はOECD諸国のなかで下から二番目のレベルにあり、公営住宅の供給や家賃補助心きわめて不十分である。こうした公共財の不足は、人々の生計を圧迫し、学資ローン等の大きな負担を若年者に負わせている。

補完的な所得保障

 いま挙げた理由から、生活条件の保障はアクセス保障をベースとすべきであると考えられるが、それによって所得保障を完全に代替することはできない。社会保障の制度としては、所得保障が労働による所得およびアクセス保障を補完するとともに、あわせて自らが所有するものを自らの判断で用益できる個人の自由を擁護し、それを可能にする制度が望ましい。そうした補完的な所得保障の制度としては、「給付つき税額控除」の仕組みがある。

 これは、働くことへのインセンティブを維持しながら、就労が十分な所得をもたらさない人々に対して、税を徴収せずに所得を補う仕組みであり、そうした給付を行わない現行制度(所得控除および給付を行わない税額控除)に比べ、課税所得をもたない不利な立場にある人々の生活条件を改善することができる。これは所得調査のみで実施できる制度であり生活保護制度のような漏給やスティグマ化を避けることもできる。この制度は、アメリカ、イギリス、フランスなどですでに実施されている。

 ただし、この制度がすでにアメリカにおいて実施されていることからも分かるように、補完的な所得保障(現金給付)は、保育、教育、医療、介護、住居などのアクセス保障(現物給付)がしっかりと整備されていなければ、人々の生活条件を十分性のレベルにまで引き上げることはできない。

ベーシック・インカムについて

 雇用の機会が今後さらに減少していくことが予想されるなかで、労働の有無に関わりなくすべての人々に所得を保障する制度、すなわちベージック・インカムの制度について論じられることが多くなった(これは、所得や資産の多寡とは無関係にすべての市民に対して定期的に一律の現金--たとえば月額七万円ほどの--を給付する制度である)。ベーシック・インカムは、労働による生活保障を主、労働する能力/機会を持たないものに対する生活保障(社会保障)を従とする、これまで長く受け入れられてきた考えを根本から問い直し、この関係を逆転するものである。

 労働する能力/機会をもたない人々を劣位の者として扱う規範を疑問に付し、ともかくも労働することへと駆り立てる強制的な圧力から人々を解放するという点で、たしかに、この制度構想は大きな魅力をそなえている。基礎所得が保障されれば、自らにとってやりがいのある仕事や活動に従事しようという意欲が喚起され、社会はより多様な生き方をする人々から構成されるようになるかもしれない。

 しかし、今日の条件のもとでこの制度を導入することは難しいと思われる。この制度を維持していくためにはかなりの財源が必要であり、その財源は働こうとするインセンティブが多くの人々から失われないかぎりで得られる。とすれば、この制度によって保障される所得は、そうした労働へのインセンティブを損なわない程度に抑制される必要がある。それに加えて、この制度のもとでは、働く人々の抱く不満は、働かない人々へのルサンチマンに転化しやすく、制度への支持はきわめて不安定なものになるだろう。

 ベーシックインカムは、先に引用した見田宗介の文章にある、「就労」(主)と「福祉」(従)の関係を逆転し、生活の保障を労働から切り離すラディカルで魅力ある制度構想である。しかし、この制度は、かなりの好条件がそろわなければ持続可能なものとはならず、そうでない条件のもとでは、むしろ負担をおう者と受益する者との間に分断を生みだしやすい。

 この先も就労機会の減少が避けられないとすれば、P・ヴァン・パリースらが指摘するように、その機会それ自体が貴重な財となり、それをどのように分配するかという課題も緊要なものとなっていく。それに対しては、労働時間を短縮することによって就労の機会をより多くの人々に分配するというワークシェアリングによって対応し、それが所得の減少をともなうとすればそれを補完型の所得保障によってカバーするのが基本的な方向性であるように思われる。
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第四次産業革命ではなく、サファイア革命

この時代に生きているのはなぜ?

 俺みたいな人生、時間の使い方ができるのはこの時代だからでしょう。これもこの時代に生んだ理由の一つですね。モノを作るにしても、物理的なものを作らなくても生きていける感覚そのもの、その役割。例えば、アイドルが存在すると言うこともその一つなんでしょう。

第四次産業革命ではなく、サファイア革命

 第四次産業革命は起こらない。その代わりにおこるのは、サファイア革命であり、共有化革命である。ツールからは革命は起こらない。

 市民の覚醒から起こります。生きている理由から起こります。特徴は産業ではないということ、作ることではない、消費でもない。使うことから起こる。

 電子書籍ならば、一冊ではなく、いくらでも作ることができます。取り合いすることもない。本とか3Dプリンターのように、材料を必要としない。一部のスピード教の連中だけが車に対して幻想を抱くだけです。それと豊田市に多い、「車格」を人格とみなす人間。

 こんな人間が存在するために、どうしたらいいのか。

 人間の方から考えた時に、どうなっていくのか。その考えは簡単なことなのに、産業を持っている人間は自分たちの方からでしか考えられない。それは欲です。

NPOは的外れ

 環境問題にしても,的が外れています。一番はNPOの連中でしょう。NPOは自分たちが生き残る為にやっているだけで、ふつうの市民が残る為にはやっていない。

 持つこと,所有することで格差が生まれる。持たなかったらどうなる。時間だけの問題で、お金の問題がなくなる。

「個人への」影響ではなく、「個人から」影響

 第四次産業革命を標榜している連中が間違ったところは、「個人への影響」という言葉に代表される。これは手順が逆です。

 個人が変わらなければ、個人と社会のフリップ具ラップが起こらなければ、意味を持たない。個人が変わるために社会を変える。

『二十一世紀の若者論』のオタクの扱い

 『二十一世紀の若者論』でオタクという意味が狭く使われている。現実はもっと広いものになっている。アイドルのファンの核はオタクかもしれないが、女性なども巻き込んでいる。

 ネット放送とかソーシャルもオタクが使い込んでやります。コンテンツJをバラすのも広い意味のオタクがやります。ネットで儲けられるようになってきている。YouTuberになりたい人は多い。

 元のコンテンツから、Noを付けるだけで、自分の感性に皆が欲するモノを作れば,金になります。これはオタクしか作ることはできない。オタクの中のシェア社会。

 今までは、TV会社が大掛かりでやっていたことが個人でできるようになっている。それが電子書籍に拡大すれば、さらにコンテンツが増えます。それがオタクというもの,そちらを見て考えている連中。

社会学的なオタク分析の必要性

 社会学者はこれだけの変化の可能性を持っているオタクの分析を試みないのか。以前、AKBを社会学的に分析した人がいた。乃木坂、欅坂、そしてベビメタルを対象としないのか。なぜ、偏見に満ちたカタチで回っているのか。それは恐いからでしょう。それをコミュニティ論とつなげたのが,未唯空間であり、未唯宇宙です。

OCR化した本の感想

 『古代ギリシャのリアル』

  なぜ「中世ギリシャ人」はひとりもいないのか。これはアテネの玲子さんとは話したことがあります。今のギリシャ人の名前にはソクラテスなどの古代ギリシャ人の名前に近いモノが多い。祖父の名前を継承したりしている。ちなみに旦那の名前は「ソホクリス」です。

  ローマへのどうかもあるけど、オスマントルコの元での奴隷生活がかなり、影響している。国教会の宗教だけが心の拠り所だった。

  独立は、ヨーロッパ人の古代ギリシャへのあこがれで作られた歴史を持っている。その際も、国王を他の国から探してきた。与えられた独立が故に、第二次世界大戦終了後も左右陣営での殺し合いが続いた。

 『独裁者たちの最期の日々』

  OCRに選んだのは、スターリン、毛沢東、ティトー、カダフィの最期であった。スターリンと毛沢東の最期は有名です。、ティトーはヨーロッパ(米国)とソ連の間でバランスをとるために、ユーゴスラヴィアを無理やり結びつけていた。亡くなると同時に当然のように分裂した。

  カダフィについては、なぜ、「大差」のままだったのかが書かれていなかった。
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住民・市民が担う公共

『公共経済学を日本を考える』より 日本社会における「共感」と市場経済

地域社会が担った「公共」

 かっての日本社会には都市でも農村でも地域社会が根を下ろしていて、人の繋がりが地域の暮らしと産業を支えてきた。しかしそれらは高度成長の過程で弱体化し、地方によっては崩壊した。高度成長の真只中の1960年代半ば頃、既に中国地方の山間地などでは過疎化が急速に進行しており、農村はやがて社会として機能しなくなるといわれていた。このような状況は意外と早くやってきて、1970年代半ば頃にはそのような集落が、どこの地方でも普通に見られるようになった。実際、1977年に出された政府の第3次全国総合開発計画の中心テーマは、地方の過疎と大都市の過密の解消だった。

 地域の道路や水路の整備・維持管理などの公共的な取り組みは、戦後でも1960年頃までは地域住民が担っていた。日常の暮らしの中のこれらの「公共」は徐々に住民から行政に切り出され、税を徴収して維持管理されるようになった。農山村でそれに拍車をかけたのが農家の兼業である。地域開発で工場などが地方に立地し、道路が整備されて通勤が便利になり兼業が増えると、日常の暮らしの中のこれらの「公共」は徐々に住民から行政に切り出され、行政の手で維持管理されるようになった。地域社会や大家族で支えられていた高齢者の世話や弱者対策等の福祉も、行政が担うようになった。その一方で、過疎が進むにつれて地域コミュニティは弱体化し、集落に残された棚田や里山は、市場価値も低下して荒廃した。

 日本の長い歴史のほとんどの期間において、人びとは、地域社会の中で互いに助け合いながら生きてきた。そうした共助を「公共」と呼ぶならば、公共の活動は日々生きてゆくために迫られた当然の行為だった。行政による福祉が、人びとの暮らしの中に入り込んできたのはそれほど昔のことでない。

 都市圏でも、同じようなことが起こっていた。大都市圏でも、地域社会は各町内で地縁的に存在していた。それが崩壊したきっかけは、多様な住民の流入だった。これらの人たちには、単に仕事があるから都会に出てきただけではなく、田舎の濃密すぎる付き合いに嫌気がさして都会での新しい生活に期待したこともあった。隣近所との付き合いに煩わされないことが都市生活の長所として歓迎され、団地のマンション住まいで隣人の素性も名前も知らないまま日常を送ることが常態化した。

頼り切れない行政

 地方圏でも大都市圏でも、地域社会の役割の多くは行政に切り出され、行政が担うようになったが、それが出来たのは高度成長の成果である。年度当初に行政が予定した税収を超えた収入は自然増収と呼ばれたが、それはほとんど毎年のように期待できた。予想外の税収を投入することで、既存の事業を削ることなく、行政は市民生活のこと細かなことにまで応えることができた。市民も、何か生活で不具合があると行政に持ち込み、行政はそれに応えようとして予算を割り当てた。こうして市民の財政依存が高まり、行政の規模は拡大した。それとともに、市民が自らの生活のことは自らが処理するという共助・自助が後退し、行政依存が高まって人びとの生活における行政の役割が大きくなった。

 大都市圏でも必要な生活環境は、市場経済や行政を通じて提供されており、それは大都市圏での生活の便利さだった。若い世代の特徴として、経済成長が続き所得が伸びている間は、人の繋がりの必要性を日々の生活の中で意識することもなかったかもしれない。年々の着実な所得の成長は、生涯設計を立てやすくし、それ自体が安定感を生む。日本の場合には、近年の中国や他の途上国の発展過程と異なり、高度成長で国民全体のパイが大きくなると同時に、所得分配の平等化がほぼ歩調を合わせて進んだことがあり、高度成長期においても分配の不平等によって社会が不安定化することはなかった。高度成長期には一億総中流といわれており、そこに入ることと、そこから落ちこぼれないことに人びとはそれなりの苦労はしたが、国民は総じて高度成長の恩恵を受けていた。

 しかし経済が低成長に移行し、市場経済がもたらす社会での様々な歪みを目の前にして、行政は市民が満足するほどには、市場を補完できるものではないことも明らかになってきた。

行政依存への反省

 行政への依存体質に反省が出てきたのが1970年代後半である。当時、欧米諸国では「先進国病」が問題になっていた。政府が民間の細かなことまで介入して、人びとは行政に依存するようになり、それが市場経済と民間活力を殺ぐことになるという症状である。

 欧米における政府の民間介入に対する批判は、政府の福祉政策にまで及んだ。福祉政策の整備が、人びとの働く意欲を減殺し、経済の停滞を招いているという批判であり、福祉が必ずしも人びとの幸福に寄与するとはかぎらないという議論も起こった。

 福祉社会の実現は人類共通の夢である。ケインズ主義が追求していることも福祉国家の実現である。「失業して職のない人にも所得を与えよう。そうすれば資本主義社会は大不況から免れうる」というのは、ケインズ的な財政・金融政策を福祉国家の理念と結びつける糸である。戦後の資本主義国家は、それをある程度成し遂げたと思う。しかし人間の器量には限界があり、福祉のような崇高なことには必ず裏表がある。先進国病はその典型だろう。

 我が国でも、欧米の先進国病を受けて、1970年代後半に、行政が民間のいろいろなことに介入するのが経済全体として良いとは限らないという反省が起こった。しかし我が国では、当時は企業の労働者の労働意欲は総じて高く、生産性の上昇も堅調で、先進国病の恐れはなかった。当時の第二次臨時行政調査会での議論は、小さな政府に移行すべきであるという方向性を示したが、これには欧米の後を追って発展してきた我が国が、欧米の轍を踏まないように転ばぬ先の杖をつくという意味があった。しかしこれを契機に、政府の市場介入に反省が広まり、大きな政府から小さな政府への流れが定着して、行政の役割に変化が見え始めた。

社会で満たされないもの

 よく知られているように、「物質的な豊かさが大事か、心の豊かさか」を問う世論調査が、政府によって毎年、実施されている。始められたのは高度成長の後期で、当初は「物資的な豊かさが大事」という回答が「心の豊かさ」を大きく上回っていた。しかし所得が高くなるにつれて両者の指標が接近し、高度成長の終わり頃に逆転した。両者の開きは、時代の特徴を背景にして接近したり離れたりの動きを繰り返しながら次第に大きくなり、現在では、心の豊さへの希求が物資的な豊さを逡かに凌いでいる。

 このような動向は、高度成長期については、我が国でも飢えの心配がなくなっただけでなく、所得の上昇によって生活が豊かになったことを反映していると思う。しかし最近では、新たに認識されるようになった地域社会の弱体化による拠り所のなさも、心の豊かさを希求する背後にあるのではないか。

 NPOや住民活動による人の繋がりの再構築が、「災害に負けない、しなやかに強い地域をつくる」のに大事だということも、特に東日本大震災によって認識されるようになった。被災地では、「絆」ということが言われているし、遠隔地の都市間の交流・連携もNPOや市民団体が行政とともに先頭に立って活発に行われるようになっている。企業の防災・減災のBCP(事業継続計画, business continuity planning)も、企業内の行動から地域の住民と行政、企業が一体となった活動になりつつある。国土の強靭化の議論でも、「地域コミュニティの強化を図ることが重要」だということが共通の理解になっている。

市民による「公」の復活への期待

 地域コミュニティが弱体化したことによって、多くの役割が行政に切り出されたが、しかし地域の人の繋がりではじめて実施できるような役割を行政がすべて担うことはできない。地域の祭りや古くからの行事、伝統の維持・保存、地域での人びとの支え合い等々は、行政では担いきれない。地域社会における行政の役割の限界は、特に人口減少や少子化、高齢化が進行する過程で強く意識されるようになってきた。

 こうした環境変化の過程で、社会の底流では、人の繋がりが大事だという意識が認識されるようになってきていた。実際、時間差はあるが、農村でも都市圏でも新たな公が地縁的組織や機能的組織として活動を開始していた。それは、経済発展による社会の変容によって失われた個人一人ひとりの地域におけるアイデンティティーの復活への期待でもあった。一時は存続の危機に瀕した町の祭りも、地方によっては、地域に居住する人たちだけでなく、大都市に出て行った地域の出身者や、大都市圏で地方での生活に関心を持つ人びとを引きつけはしめた。

 このような活動は行政からの強制ではなく、多くは各地域のやむにやまれぬ社会状況を背景に自然発生的に生まれていて、行政の施策よりも実態が先行していた。それが一気に表面化したのが、阪神・淡路大震災だった。大震災後の復旧・復興における隣近所の協力や人びとのボランティアとしての活動が注目され、その直後の1998年にNPO法が成立したが、活動は、東日本大震災後の地域づくりにも引き継がれている。

 現在では市民による自主的で多様な活動が、行政に替わる「公共」としての役目を担っており、それらがないと地域は動かないまでになっている。一方、市民の側では、多様な取り組みに参加し、それが社会貢献になっていることが生き甲斐になって、心の豊かさにもなりっつあり、家と仕事に続く「第3の居場所」になってきている。

 内閣府が実施した2013年の世論調査では、社会のニーズや課題に対して、市民の自主的な取り組みが大切であると考える人の割合は9割を超えている。このような取り組みは、人の繋がりがあってはじめて可能になるが、同じ調査でNPO法人に期待する役割として、「人の新しいつながりを作ること」と答えた人が4割弱で最も多く、市民の自主的取り組みへの関心と期待は確実に高まっている。
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ティトーの長い夜 ユーゴスラヴィアの崩壊のはじまり

『独裁者たちの最期の日々』より

第二次世界大戦が勃発したとき、ヨシップ・ブロズはオーストリア=ハンガリー軍のクロアチア隊に入り、一九一四年末、歩兵師団を率いてセルビアの中心、ベオグラードヘの攻撃にくわわった。愛国心の強いセルビア人の神経を逆なでしないよう、のちにティトーは公式な履歴書からこの経歴を削除した。一九一五年、ロシア戦線で捕虜となり、強制収容所に送られ、その頃にサンクトペテルブルクで社会主義革命が起きたことを知った。蜂起にくわわることもなく、加入を勧められたものの赤軍に入ることもなく、ヨシップ・ブロズは一六歳の娘ペラギヤと結婚し、解体されたハプスブルク帝国から誕生した国家の一つ、(一九二九年ユーゴスラヴィアと改称することになる)セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国に一九二〇年、新妻をつれて帰った。彼は製粉所で働き、社会民主党に加入したものの党活動にはいっさい参加しなかった。まず、生計を立て家族を養うことが大事だった。ところが一九二三年のある日、かつての戦友で捕虜生活をともにしたステヴォ・サヴィチがやってきて、共産党に入るよう勧めた。サヴィチはレフ・トロツキー率いる栄光の赤軍で戦ってきた。共産党の地方支部の幹部になるならそのほうがいい、とヨシップ・ブロズは思い、もちあげられ感激して承諾し、しだいにのめりこんでいった。彼には何も失うものはなかった。ビェロヴァルの共産主義労働者の葬儀で、ヨシップ・ブロズは皆の胸を打つ弔辞を読んだ。「同志よ、君が身を捧げた思想のため、わたしたちは命あるかぎり闘うことを誓う」。ヨシップ・ブロズはすぐに逮捕され、裁判にかけられ、…無罪となった。ユーゴスラヴィア共産党に、一つの星が生まれた。

ヨシップ・ブロズはまたたくまに活動のアジトプロップ(扇動的宣伝)のプロとなって何度か投獄され、五年の徒刑を宣告され、妻は去っていった--その後また何人か妻をめとることになる。釈放されると、彼は地下活動に入り、髭を生やし、髪を赤褐色に染め、ティトーという偽名を使うようになった。ラテン語のティトゥスの派生語で、彼の故郷ではよくある名前だった。彼の好きなクロアチアの作家クサヴェル・シャンドル・シャルスキの父の名前でもあった。モスクワでは、彼はむしろワルターという名で知られており、ユーゴスラヴィア共産党での彼の効率的な粛清のやり方は評価された。ティトーは徹底的に、「偏向的トロツキスト」のメンバー、すなわちあらゆる古参の共産主義者、ユーゴスラヴィア共産党を創設し成長させたすべての人々を追放した。昨日まで彼らはティトーと同じ陣営だった。だがもはやティトーは容赦なく、過去の貢献を一顧だにせず彼らを排除した。こうしてミラン・ゴルキッチはかつての仲間ティトーによってモスクワで逮捕され、処刑された。ティトーはスターリンよりもスターリン的だった。

一九三七年、ユーゴスラヅィア共産党はもはや一五〇〇人の闘士しかいなかったが、ティトーはその唯一の指導者だった。彼は忠実な部下に囲まれ、パリを拠点に、スペイン内戦へ派遣する義勇兵を徴募しながら機が熟するのを待った。のちにこの義勇兵は、ティトーが指導するパルチザン部隊で中核となって活躍した。第二次世界大戦が勃発したとき、ティトーは独ソ不可侵条約を盾にとって自国の中立性を主張した。ナチ・ドイツと闘いながらイギリスの金権的資本主義につくすなどまっぴらだった。摂政パヴレがユーゴスラヴィアの日独伊三国軍事同盟加盟条約の調印を行なったことに反対し、一九四一年三月二七日にベオグラードでクーデターが起こり、パヴレは失脚した。この事件の後でさえ、ティトーは共産主義者が大衆の対独抵抗運動を支援するのを認めなかった。もっと悪いことに、彼はユーゴスラヴィア(つまりいみ嫌われた国の)軍解体をうながすため、クロアチアとスロヴェニアをあおり立てる分離主義運動を支持した。こうした運動の一つを、のちにクロアチアの総統となるアンテ・パヴェリッチが率いており、そのウスタシャ(民族主義)運動はヒトラーやムッソリーニが軍事・経済面で援助していたが、彼は意に介さなかった一九四一年四月、ドイツがユーゴスラヴィアに侵攻したときもティトーは方針を変えず、正体を隠してベオグラード近郊にひそんでいた。一九四一年六月にソ連が参戦すると、ようやくティトーは対独抵抗運動をよびかけた。「セルビアのドゴール」といわれたドラジャ・ミハイロヴィッチ将軍に遅れること二か月だった。

その後四年間、ティトーはイタリア軍やドイツ軍を攻撃する以上に、連合軍に支援されたミハイロヴィッチの対独抵抗組織チェトニックを敵視して戦った。力の問題だけでなく政治的計算の結果でもあった。戦争が終わればミハイロヴィッチと自分が権力抗争をくりひろげることになるだろう、とティトーは予感していた。事実そのとおりになった。失われる人命をかえりみることなく戦略(ドイツ人将校一名を殺すため市民一〇〇名が銃殺される)を優先し、占領軍に対する徹底抗戦の方針をつらぬき、特殊作戦執行部(SOE)などイギリスの秘密情報機関が多くかかえる共産主義者のスパイを味方につけ、ティトーは自分が占領軍のもっとも手強い敵であることをチャーチルとルーズヴェルトに理解させた。一九四四年、その手にのった連合国はミハイロヴィッチを見すて、ティトーに軍配を上げた。一年後、連合国はみずからの誤りに気づいたが、時すでに遅したった。不正選挙の後、ティトーは第二のユーゴスラヴィア--共産主義と連邦制--首相(のちに大統領)に就任した。政治警察は一年間ミハイロヴィッチを追跡しつづけ、とうとう捕まえ、形式だけの裁判の後、銃殺した。ドゴール将軍をはじめ、チェトニックによってナチの手から救い出されたアメリカ人飛行士にいたるまで、対独抵抗組織側から多くの抗議の声が上がったが、むだだった。

一九四八年にティトーはスターリンと訣別した。ティトー対巨人スターリンの、エゴのこぜりあいといったところか。ティトーはスターリンに逆らって内戦状態のギリシアの共産主義者を支援したり、形成されつつあった東欧ブロックとは相反する計画となる、ブルガリアやアルバニアとの統合を検討したりした。そのようにして過去の庇護者スターリンに独自路線を誇示することで、ティトーは妬みをかい、その結果欧米から好感をもたれた。その後数十年にわたって彼が行なった強圧的政治に、いまやだれが目をつぶるだろうか。(ソ連寄りあるいは改革派の)反主流派共産主義者、連邦内での権利拡大を要求する少数民族、カトリックの聖職者、あるいはクロアチア語の認定を求めたザグレブの学生、一九六八年に西ヨーロッパで起きた学生の反乱に刺激されて立ち上がったベオグラードの学生たちを、ティトーは弾圧しつづけた。

一九八〇年五月四日午後、ティトーが息を引きとったとき、世界の国家元首は長老格の共産主義指導者を盛大に見送ったほうがいいと判断した。四日後、数十人の国家元首が荘厳な葬儀に出席した。これほど多種多様な政治家が一堂に会したことはなかった。ブレジネフ、ヘルムート・シュミット、レイモン・バール、インディラ・ガンジー、中国国家主席、アメリカ副大統領、金日成、マーガレット・サッチャー、クメール・ルージュ指導者キュー・サムファン、シモーヌ・ヴェイユ欧州議会議長など多彩な顔ぶれだった。この日、数百年来の敵同士だった民族を人為的に結びつけた人物の棺の前に、敵同士の指導者たちがやはり人為的に集合していた。

統合の幻想はそれきりだった。ちょうど一〇年後の一九九〇年五月一三日、ザグレブのマクシミールスタジアムで、レッドスター・ベオグラード対ディナモ・ザグレブのサッカー試合が荒れた。両チームのサポーターが数時間、取っ組みあいになり、選手もけんかにくわわった。その後ACミランの主力選手になったクロアチアのズボニミール・ボバンもセルビア人の警官をボコボコに殴った。結果、一三八人の負傷者と二〇〇人近い逮捕者が出た。

だれも気づいていなかったが、セルビアとクロアチアが対立するクロアチア紛争が象徴的な意味ではじまっていたのだ。第一次世界大戦後難産で生まれ、憎悪によって滅びた国ユーゴスラヴィアの崩壊のはじまりだった。ユーゴスラヴィアはたった八○年の寿命だった。ティトーより八年短かった。
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