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近隣コミュニティでの防犯対策 パトロール・拠点監視・近隣監視

『犯罪をどう防ぐか』より エビデンスに基づく防犯--監視、照明、パトロール 日本の近隣コミュニティでの防犯対策

公共空間における監視性を高めるもうひとつの方法が、警察官や防犯ボランティアによるパトロールや拠点監視である。犯罪を止める役割意思を持つ人間が地域をパトロールしたり、拠点で立哨することで、潜在的な犯罪者に防犯対策が実施されていることを認知させ、犯行を抑止するという効果が期待されている。

日本では、警察にパトカー等の車両が約四万二千台整備されており、パトロールの任にあたっているが、近年、警察以外の主体による防犯パトロールが盛んになっている。中でも、自治体や防犯ボランティア団体などの主体が、自動車に青色回転灯を装着して行う青色防犯パトロールが盛んになっている。青色防犯パトロールは二〇〇三年に三重県の住宅地で始まったと言われており、二〇口(年末現在で日本では九七六〇団体の四万五三九六台が青色防犯パトロールを実施している(警察庁二○一七)。

パトロールが犯罪発生に与える影響について欧米での評価研究の歴史は長く、一九七四年にはアメリカ中西部のカンザスシティーで大規模な介入実験が行われた。この実験では、管内一五地区のうち五地区ではパトロールの水準をニー三倍に増加させ、別の五地区では通常のパトロールを実施し、残りの五地区でパトロールを実施しない、という実験をコーカ月間実施したが、介入が管内をくまなく回るランダムパトロールであったため、犯罪水準や市民のパトロールの認知率には有意な影響はみられなかった。その後、犯罪多発場所に集中してパトロールを行う「ホットスポットパトロール」が行われるようになり、評価研究でその有効性が認められるようになった。たとえば、シャーマンとワイスバードは、アメリカーミネアポリスの犯罪多発場所五五ヵ所を、パトロール実施場所と非実施場所とに割り付けて前後比較する実験を行い、実施場所での警察通報が六-一三%減少することを見出した。また、ラトクリフらは、アメリカ・フィラデルフィアの一二○カ所を犯罪発生に応じて、実施群と非実施群に割り付けて、実施場所での路上犯罪が二三%削減されることを示した。そして、最新の系統的レビューでは一九の評価研究が統合され、暴力犯罪、財産犯罪、薬物使用、秩序違反の各種に対して有効な削減効果が見出されている。

また欧米では、パトロール以外に住宅地の監視性を高めるための市民参加として、近隣監視が広く行われている。近隣監視では、住民間で互いに気を配り、不審なことに気付くと警察に通報するように申し合わせる。この取り組みによって、不審な人物に声をかけるといったインフォーマルな社会統制が活性化すると期待される。ペネット(Fョ医ここ呂)は、アメリカとイギリスにおける近隣監視の系統的レビューを行い、近隣監視は犯罪を一六-二六%削減させることを示している(ただし、このレビューでは近隣監視によってなぜ犯罪が減少するのかはわかっておらず、今後の研究成果が期待される)。

日本では、パトロールや拠点監視、近隣監視が犯罪発生に与える影響は十分に検討されていない。東京都は、青色防犯パトロールを実施した市区と、パトロールを実施していない隣接市区での一〇罪種の発生件数の変化を比較したところ、実施地区での犯罪の減少率が高かったという結果を報告している。パトロールの評価研究がほとんど行われていない日本では貴重な結果とはいえるが、パトロールを実施した市区と実施しなかった市区とが均質でない可能性があるため、パトロールが犯罪に与える影響についてはさらなる検討が期待される。

なお、地域コミュニティで実施されるパトロールや拠点監視、近隣監視は、犯罪そのものの削減にとどまらず、市民の犯罪不安や犯罪に対する態度への影響も見込まれる。とりわけ、警察以外の主体によるパトロールは、欧米では市民パトロールとして知られており、①潜在的犯罪者を威嚇し犯行を抑止させる、②市民の安心感の向上、③警察とコミュニティとの関係の向上、④警察活動のカバー率の向上、⑤自警主義の削減、⑥市民参加の促進といった犯罪削減に限らないメリットが挙げられている。市民パトロールは、パトロールに参加した市民に対しては、その犯罪不安を引き下げたり、犯罪対策への市民参加の必要性を認識させるなど好ましい影響を与えている。しかし、パトロールに直接関与しない一般市民に対する影響は分かれている。イギリスの二都市での社会実験では、パトロール実施は、市民の地区に対する満足感やコミュニティ意識を向上させたが、犯罪不安には変化はなかった。また、制服警察官によるパトロールに関して、デンマークやアメリカでの研究では、街頭で警察官を見た頻度と、犯罪不安との間には有意な影響はなかった。

日本では、青色防犯パトロールが住民意識に与える影響が検討されている。年齢、性別、被害見聞といった回答者の背景要因を統制した階層的重回帰分析の結果、青色防犯パトロール車を見たことのある回答者は、防犯パトロールの存在を知らない回答者に比べて、被害リスク認知が有意に高く(被害リスクを高く見積もりやすい)、犯罪不安への有意な影響はみられなかった。この市での青色防犯パトロールは、住民に対して犯罪被害防止を放送で呼びかけていることから、住民の被害リスク認知に影響していることが示唆される。

また、山本と島田(二○一六)は、千葉県でのコンビニエンスストアの駐車場に防犯の詰所を設置して、専従の勤務員が立哨や防犯パトロールのコーディネートを行う地域防犯事業を取り上げ、設置地区の住民の意識の変化を調査した。その結果、設置後の住民の治安評価は統計的に有意に改善したことが示された。また、島田・雨宮らと同様に、地域での防犯対策への接触は、被害リスク認知を高めることが示された。これらの研究からは、日本における地域防犯活動は犯罪発生に対する影響は必ずしも明らかになってはいないものの、住民の治安評価を改善するとともに、犯罪に対する関心を喚起する効果があると考えられる。

2017年08月27日(日) フェイスブック 2005年と1493年の類似点 内的世界のコロンブス交換

『フェイスブック 不屈の未来戦略』より フェイスブックが「勝った」なら?

フェイスブックがオンライン世界の端まで行き渡ったならどうなるか? ポスト・コネクティビティーの時代が来るのだろうか。ザッカーバーグは内的世界におけるコロンブスとなり、フェイスブックはコロンブス交換を引き起こすのだろうか。そして、別々に存在する社会をひとつのパングアとして編み上げることができるのだろうか?

何を言っているのかと眉をひそめるかもしれない。

この意味を伝えるには、もう少し説明が必要だ。1493年に時を巻き戻そう。より正確には、これについて書かれたチャーズ・マン著の『1493--世界を変えた大陸間の「交換」(原題:1493)』の話をしたい。2011年のベストセラーとなったこの本でチャールズ・マンは、コロンブスの航海で、それまで分断されていたヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカがつながり(コロンブスがこれを意図して行ったのではないだろうが)、それは、世界のグローバリゼーションに多大な影響を与えたと説明している。

このグローバリゼーションで重要だったのは、「コロンブス交換」だ。この概念は1972年にアルフレッド・クロスビーが提唱した。コロンブス交換により特定の地域にしかなかった品物、動物、食料、病が別の地域にもわたり、広まった。マンは「イタリアにトマト、アメリカにオレンジ、スイスにチョコレート、タイに唐辛子があるのはコロンブス交換の結果」と説明している。例えば、氷河期以降、北アメリカにはミミズはいなかったが、農業にとって重要なこの生物は、南アメリカより持ち込まれた。ヨーロッパからは馬がやってきた。ヨーロッパ人は南アメリカで、アフリカ人の奴隷に銀の採掘を命じた。その銀はアジアへとわたり、ヨーロッパ人が好む絹や磁器と交換された。ペルーからグアノをもとにした肥料、パプアニューギニアからさとうきび、中東から麦、ブラジルからゴム、カリブからタバコ、アフリカからはコーヒーが貿易により各国を行き来した。それと同時に、疫病が流行るきっかけとなった。アメリカには天然痘、麻疹、腸チフス、コレラ、マラリアが広まり、ョーロッパでは梅毒や、ジャガイモの疫病による飢饉が猛威を振るった。マンによると、このコロンブス交換は産業革命に農業革命、そしてヨーロッパの台頭が起きる基盤となったと説明している。

コロンブス交換は、過去500年間における世界の歴史の中で、今ある世界と人々の生活を形作るのに最も大きな影響を与えたと言うことができるだろう。クロスビーはこの交換の影響について「パングアをつなぎ合わせた」と表現している。1億7500万年前、地球上のすべての陸地が1枚の「パングア大陸」の一部であったことに由来している。

フェイスブックに話を戻すと、ザッカーバーグは彼を筆頭に、30億人のユーザーを抱えるフェイスブックで内的世界のコロンブス交換を起こせるのだろうか(コロンブスに対しては原住民の奴隷支配や直接的あるいは間接的な虐殺、乏しい航海術、狂信者として批判する声もあり、ザッカーバーグにとって良い比較対象ではないかもしれないが)。

フェイスブックとコロンブス交換は、新たなプラットフォームで人々の接点を作るという点で共通している。16世紀初頭、スベイン人はメキシコヘと航海し、その後フィリピンヘと向かった。そこで初めて中国の商人に出会ったように、現代の人々もフェイスブックを使って世界の反対側にいる友人とつながることができる。

しかし、そこには大きな違いもある。フェイスブックでは確かに何億人もの人々がつながっているが、コロンブス交換と比べると「交換」の意味合いは薄い。スペイン人とフィリピンの中国人との間で行われた貿易は「ガレオン貿易」と呼ばれている。フェイスブックのサービス上で、ユーザーはそれぞれの感情やストーリー、アイデアという人々の内的世界の産物をシェアしているが、コロンブス交換がもたらしたような人々の新しい交流はさほど起きていないだろう。私たちはみなグローバルコミュニティーの一員であるが、フェイスブックでグローバルコミュニティーが形成されているとは言えない。私たちは、すでに知っている人々や事柄とこれまで以上に密につながっている。ニュースフィードは私たちが過去に「いいね!」した人や事柄に関連する投稿を多く表示することに最適化している。フェイスブックは、良くも悪くも「交換」ではなく、自分の独自の考えが反響するエコーチャンバーを形成する傾向にあるのだ。ニュースフィードの弱点は、確証バイアスを強化するシステムであることだ。アルゴリズムは各ユーザーの意見や好みを特定し、記録することで、それに似た意見を表示することを優先している。その環境では、ューザーはさらに自分と同じ意見の情報に囲まれることになる。

2017年08月27日(日) 「長州ファイブ」と明治維新

『ユニオンジャックの矢』より

アメリカのペリー艦隊が浦賀に来港し、日本に開国を迫るのはフハ五三年のことであった。日本とアメリカの関係に目を奪われがちだが、そこには日本に迫り来る英国の影があった。ペリーの艦隊はアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークから大西洋を渡り、アフリカ南端・喜望峰を回ってインド洋に抜け、英国の植民地であるセイロン(現スリランカ)、シンガポール、香港、さらには南京条約で開港された上海を経由して、琉球に立ち寄って浦賀にやってきていた。翌一八五四年には日米和親条約が結ばれ、下田と箱館(現在の函館)を開港することになった。このあと一八六七年の大政奉還に至るまで、攘夷かそれとも倒幕かを巡って、日本は動乱期に入っていく。

一八五八年、日米修好通商条約が締結された一か月後には、英国との間でも日英修好通商条約が結ばれた。平戸のイギリス商館閉鎖から実に二三五年後のことである。一八六〇年代に入ると、日英関係はさまざまな意味で密度を深め、複雑な軌跡を見せ始める。

江戸幕府は一八六〇年にアメリカヘ使節を送ったのに続いて、翌一八六一年には欧州へ公式使節団を派遣する。主な目的は修好通商条約で約束した江戸、大坂、兵庫、新潟の開港の延期を欧州各国に要請するためである。一行は三八名で、正使は勘定奉行兼外国奉行の竹内下野守保徳、副使は松平石見守康英、監察使は京極能登守高朗だった。彼らは一八六二年五月、フランスを経てドーバー海峡を渡ってロンドンに到着し、約一か月半の間、ハイドパークに近いブルック街のクラリッジズ・ホテルに宿泊した。当時、第二回ロンドン万国博覧会が開催されており、一行は何度も足を運んでいる。

同じ年の八月、日本では薩摩藩主の行列の間を騎乗したまま通り過ぎようとした英国人が殺傷されるという「生麦事件」が起きている。翌年には、その補償をめぐって鹿児島湾に現れた英国艦隊と薩摩藩の間で薩英戦争が起きた。

この動乱期にあって、英国の影を感じさせる象徴的な出来事は「長州ファイブ」だろう。一八六三年五月に若き長州藩士五名が密航船に乗って上海経由で英国に渡り、ロンドン大学(UCL)で学んだのである。当時、英国の新聞は彼らを「長州ファイブ」と呼んだが、日本と英国の歴史にとって重要なのは、この五人の中にのちに明治政府の初代総理大臣となる二二歳の伊藤博文や、初代外務大臣となる二八歳の井上馨が含まれていたことである。一緒に英国に渡った遠藤謹助、山尾庸三、井上勝も、後述するように、それぞれ明治政府で中心的な役割を果たすのである。

長州藩の若い藩士が英国を目指したのには理由がある。一八五三年のペリー来航は日本の知識人たちの間に、日本は清国のように外国の力に屈して植民地になるのではないかという強烈な危機感を呼び起こしていた。吉田松陰は自ら西欧に渡り、海軍術や国防の基礎を学ぶ必要があると考え、翌年、日米和親条約締結を目指して下田に再度訪れたペリーの艦隊に乗船を試みている。

松陰は討幕運動で幕府に危険視され、五年後には獄死する。松陰の影響を受けていた長州藩の若者たちがその遺志を継ごうと、強大な海軍を持つ英国への渡航を企てたのである。井上馨から山尾庸三、井上勝とともに三名で渡航するという計画を打ち明けられた長州藩主の毛利敬親は一人二〇〇両ずつの資金を密かに与えた。この三名に伊藤博文、遠藤謹助か加わり、英国へと向かったのである。高杉晋作の上海密航の翌年であった。

興味深いのは、この渡航を仲介したのが英国商社のジャーディン・マセソン商会横浜支店だということである。すでに触れたように、ジャーディン・マセソン商会はイギリス東インド会社の流れをくむ商社で香港に本店を持っていた。現在では世界最大の金融機関となったHSBCホールディングスの母体である香港上海銀行は、主に同商会の送金業務を行うために設立された。また、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバーが設立したグラバー商会はジャーディン・マセソン商会の長崎代理店であり、実質的にジャーディン・マセソン商会の配下にあった。グラバーは坂本竜馬の設立した亀山社中に対して武器売却を行うほか、薩摩藩士の英国留学の手助けも行っている。幕末維新史においてジャーディン・マセソン商会が果たした役割はきわめて大きかったのである。

ちなみに、ジャーディン・マセソン商会の社名は共同創設者であるウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンの名前をとったものである。二人ともスコットランド出身のユダヤ人で、トーマス・グラバーも含めて、フリーメーソンのメンバーであったことから、日本の維新もフリーメーソンが影響を与えているという説を唱える論者もいるほどである。

さて、長州ファイブの五人は密航船で上海に着くと、ジャーディン・マセソン商会の上海支店の手配でロンドンヘ向かう英国船に乗せてもらった。それだけでなく、ロンドンでは宿泊先の紹介も受けている。彼らはロンドン大学の教授の世話になりながら、ロンドン大学で主に理工学系の学問を学んだ。

宮地ゆうの『密航留学生「長州ファイブ」を追って』(二〇〇五年、萩ものがたり刊)によると、勉学の合間にはイングランド銀行の当時世界一と言われた造幣技術を見学し、訪問時の名簿も残っているという。井上馨と伊藤博文は、一八六四年に英国、フランス、オランダ、アメリカの連合艦隊が長州藩を攻撃しようとしていることを知ると、留学を半年で切り上げて帰国した。二人は横浜で英国公使のアーネスト・サトウと会うなどして、衝突を回避するための努力をしたが、長州藩の強硬政策を覆すことができず、下関戦争(馬関戦争)が起きてしまう。この戦争で列強の軍事力を見せつけられ敗北した長州藩は、攘夷から倒幕へと転換していくのである。

遠藤謹助は一八六六年まで、山尾庸三、井上勝は明治元年の一八六八年まで英国に留まり、先端の技術を学び続けた。大阪造幣局というと今では「桜の通り抜け」が有名で、花の時期になると桜並木が開放され見物客でごった返すが、この桜の通り抜けを発案したのは遠藤謹助である。

長州ファイブは帰国後、明治政府のさまざまな役職に就くが、造幣局長は五名のうち四名が務めている。井上馨が初代局長を務めた時期に、遠藤謹助は造幣権頭として新貨幣の造幣に当たった。英国政府が香港で二年間使っていた中古の造幣機を、日本政府はグラバー商会を通じて六万両もの高額で購入したのである。当初、技術者はすべて英国人だったが、彼らが帰国したあと、遠藤は造幣局長となり、日本人の技術による貨幣製造を行うのである。結果的に見ると、ジャーディン・マセソン商会は、長州藩の若者たちの英国留学を支援するという投資に対して、十分な元をとったと言えるのである。

山尾庸三、井上勝も日本に英国の最先端の技術を持ち込むことに尽力した。山尾庸三はロンドン大学だけでなく、エンジンで優れた技術を持っていたグラスゴーのネイピア造船所でも学ぶ。明治元年に帰国すると、横須賀製鉄所に船のドックをつくり、工学寮(東京大学工学部の前身)を創設し、エンジニアの育成に力を注いだ。井上勝は鉱山技術・鉄道技術を学び、帰国したあとは鉄道敷設に尽力した。新橋・横浜間の鉄道建設は英国の技術と資金援助によって行われ、建築師長には英国人のエドモンド・モレルが当たり、鉄道頭として日本側を代表した。このことから井上勝はのちに「日本の鉄道の父」と呼ばれるようになった。

長州ファイブとは、明治維新史において英国が果たした微妙な役割を象徴している。幕府はフランスとの関係を強め、軍事顧問の受け入れなど支援を受けていた。万延元年(一八六〇年)の遣米使節でワシントンを訪れた小栗上野介はフランスの借款と技術援助で横須賀に日本初の造船所(のちの横須賀工廠)を建設する事業を進めた。これに対して英国は、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)など、薩摩、長州との軍事衝突を通じて反幕府勢力への影響力を強めていく。長州ファイブの密航はまさにこれらの時期と重なる。長州ファイブを受け入れた英国の深慮遠謀は驚くべきものである。

ただし、幕末維新から明治にかけて英国を訪れた日本人は、産業革命を進めた英国の科学技術と産業力には驚嘆し、敬服したが、王権と議会を共生させ「立憲君主制」に辿り着いた英国の政治史にはあまり学ばなかった。明治期の日本は、欧州の新興勢力たるプロイセン主導のドイツに魅かれていく。政治体制から明治憲法まで、ドイツの影響を受けた天皇制絶対主義、国権主義的体制を確立していく。明治という時代に国費留学生として海外留学した日本人の約六割はドイツに留学した。そして、このドイツ・モデルヘの過剰なまでの傾斜が日本近代史における「戦争の悲劇」に繋がっていったといえる。
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