goo

一九八〇年代の日本のバブル経済

『バブルの歴史』より カミカゼ資本主義--一九八〇年代の日本のバブル経済

日本の株式市場の価値

 一九八〇年代の終わりには、日本の株価は企業収益(財テクからの非持続的な利益を含む)の三倍の速さで上昇した。東京の株式市場にはこれまで類を見ないほど高値を付けた株式がわがもの顔で閑歩していた。繊維セクターの平均のPER(株価収益率)は一〇三倍、サービス業は一一二倍、海運業は一七六倍、漁業・林業はなんとご二九倍という高さだった。民営化過程にあった日本航空のPERは四〇〇倍を超えた。こういった株価が正当化されるはずがないと信じていた欧米投資家は一九八〇年代の中ごろから日本株の保有率を徐々に減らしていった。彼らが日本株から離れていったことで日本市場はもはや割引キャッシュフローや信用分析といったドライな「欧米合理主義」に束縛されることはなくなった。権力によって広められた「現実を処理する方法は人によって異なる」という考え方を受け入れる傾向の強い日本人にとって、株式の高い価値を正当化することに何らの問題もなかった。

 高い株価を説明するのに、日本の会計実務は実質所得を実態よりも低く評価するとか、株式の持ち合いによってPERが上昇したとか、都合の良い話がいろいろと語られた。しかし、日本は「世界の成長の原動力」になりつつあるとか、消費者需要が急増するのは時間の問題だといった主張にも動じないもっと保守的な分析によって、株価のさらなる卜昇を正当化するための「お金の重み」議論が持ち上がった。この議論によれば、金利が低く維持され、円高によって投資家はお金を海外に持ち出さないため、日本人は国内の株式市場への投資を続ける以外に方法はなかった。マル優が一九八八年四月から高齢者などの貯蓄以外は原則として廃止され、三〇〇兆円を超えるお金が新しい投資に向けられたことでこの議論は説得力を増した。日本人の貯蓄の巨大な流れが株式市場へと向かい、株式の持ち合いが徐々に増加したことで、株式不足に陥ったというのが株価の上昇を説明するのに頻繁に引き合いに出されるようになった。

 バブル時代、ファンダメンタルズが無視されたが、これはいろいろな形で現れた。同じセクターの銘柄は収益やビジョンが異なるにもかかわらず同じように動き、市場は収益性の向上よりも市場シェアの増加を重視した。何百万円もするNTT株との関連で手ごろな価格で入手できるというだけで誇大広告される株もあった。安い株はいつかは高くなるとも言われた。株式は新株の発行(既存の株主の持分の価値が希薄化される)で上昇するだけでなく、既存株主への株式の無償交付(単に株式分割するだけであり、会社は真の価値を生みだしてはいない)が発表されると急上昇することもあった。日本の輸出業者の収益性が低下し、製造業の空洞化が進んでいても、株価は上昇し続けた。一九八九年一月に昭和天皇が崩御しても、株価は上昇し、半年後に東京を小地震が襲っても株価は上昇した。

 上昇する株価の背景には異常な不動産ブームがあった。信用供給量がかつてないほどに増加することで不動産価格は上昇した。五年後の一九九〇年三月には銀行融資は総額で九六兆円も増加した。この半分以上は小企業向け融資で、彼らは不動産セクターに多額の投資を行った。規制の緩い消費者金融、いわゆる「ノンバンク」の不動産担保ローンは一九八五年の二二兆円から一九八九年末には八○兆円にまで増加した。時には不動産担保価値の二倍の融資が行われることもあった。不動産価格が上昇するにつれ、大卒のサラリーマンの平均生涯賃金では東京の都心に小さなマンションさえ買えなくなった。家を買う人は数世代にわたる一〇〇年ローンを組まざるを得なかった。

 一九九〇年には、日本の不動産市場は二〇〇〇兆円を上回った。これはアメリカ全体の不動産価値の四倍に相当する。東京の皇居の敷地はカリフォルニア全体(あるいはカナダ)の不動産価値を超えると言われた。低い空室率と外資系金融機関からのオフィススベースに対する需要とによって東京では建築ブームが起こった。ビルの上に立ち並ぶクレーンの数が熱心に数えられたほどだ(アナリストはこれを「クレーン指数」と呼んだ)。NTTが東京の都心にハイテク高層ビルを建造すると、外資系銀行が一平方メートルが三〇〇〇ドルもするオフィスを借り、このNTTビルは「バブルタワー」と呼ばれるようになった。銀座一等地の土地価格は一平方メートルが五〇〇〇万円にも上昇したため、東京に深さ一〇〇メートルの地下都市を作る計画が持ち上がった。

 不動産セクターの上昇は株式市場にもろに影響を与えた。アナリストの間では会社の「含み資産」(所有する土地と株式の持ち合い価値を含む)の調査が流行した。そんな折、東京大学のある経済学者はトービンの「q」(会社の資産の市場価値に対する株価の比率)を復活させた。バランスシート上の「含み資産」は簿価を四三四兆円上回っていたため、この測度で言えば日本の会社は安く評価されているように思えた。

 投機フィーバーではよくあることだが、トレンドが反転すると、ハイテク企業の業績見通しは無視され、バランスシート上の不動産価値が重視されるようになった。証券会社はこれを「ランドプレー」と呼んだ。NTTでさえ最初は電気通信会社としてというよりも土地の価値で評価された。拡大する土地所有に駆り立てられるように、一九八六年、東京電力の市場価値は香港証券取引所の全上場株の価値を上回るまでに上昇した。別の「ランドプレー」である全日空のPERはおよそ一二○○倍に上昇した。企業が所有する土地の四分の三以上は値上がりを期待して保有された。株式の持ち合いと「含み」土地資産を持つ日本の企業は、投資信託と不動産会社を混合したようなものになった。そういった状況の下、通常の事業活動など無意味、最悪の場合、市場価値の足手まといとまで言われるようになった。

日本市場の株価操作

 日本の株式市場が崩壊することについては多くの人が予測していた。最も有名なのはヘッジファンドマネジャーであるジョージ・ソロスが一九八七年一〇月一四日にフィナンシャル・夕イムズ紙に記事を書いたが、その数日後に発生した世界規模の株式市場の大暴落を最もうまく切り抜けたのは東京だった。一〇月の大暴落の翌日、日本の四大証券会社--「ビッグフォー」と呼ばれた野村、大和、山一、日興--の代表が大蔵省に召集された。彼らはNTT株をマーケットメータし、日経平均を二万一〇○○円水準以上に維持するように要請された。この要請を受けて、各証券会社は最大の顧客を再び市場に参入させるために彼らに損失補填を約束した。それから数カ月のうちに日経は元の水準を回復し、新高値を付けた。大蔵省の高官は株式市場の操作は外為を操作するよりも簡単だと密かにほくそえんだ。

 ビッグフォーは東京証券取引所の売買高の半分以上を占めていた。なかでも断トツだったのは野村澄券で、バブル期には日本のなかで最も利益を上げる企業になり、その流動資産は四〇〇〇億ドルを超えていた。野村は五〇〇万人の忠実な国内顧客を擁していた。顧客は主に主婦で、彼らは貯めたお金を毎日せっせと野村の特別貯金箱に入れ、野村のソフトウェアで株式ゲームをプレーし、野村の選んだ銘柄に忠実に従い(野村は「売り」推奨はけっして出さなかった)、何千という野村のセールスマンの一人に毎週お金を手渡した。野村の社員には毎月販売ノルマが課され、推す銘柄を毎朝言い渡された。

 一九八○年代の後半、およそ八○○万人の新しい投資家が市場に参入し、投資家の総数は二二〇〇万人を超えた。彼らの取引が総時価総額(大部分の銘柄が会社の株式持ち合いと関連があった)に占める割合はほんの数%だったが、個人投資家が売買する株は毎年一〇〇〇億株を超えた。証券会社に投機を勧められた個人客は株式の三分の一を信用口座で運用していた。

 中国人はギャンブル好きとよく言われるが、日本人にも似たような国民的特徴がある。ギャンブルは昔から怖いものとされてきたが、特に日本人は株式市場に魅了されやすい傾向がある。それはなぜか。まず第一に、日本人はある活動--仕事でも遊びでも--を追求するとき群れて行動する傾向がある。群れの行動は稲作農業という共同社会で必要だったからと言われている。稲作農業によって「集団帰属意識」というものが生まれた。戦時中、日本は「一億総玉砕」という政府のスローガンの下、戦争に突き進んだ。一〇月の大暴落のあと、ある証券会社の社長は、日本がこの不安定な時期を乗り越えることができたのは、日本が「合意社会」、つまり同じ方向に動くことを好む国だからである、と豪語した。第二に、日本人は気分が変わりやすいという特徴を持つ。高揚していたかと思えば、次の瞬間には絶望の淵に落とされ、絶望していたかと思ったらすぐに元気になる。こうした日本人の弱みにつけこんだのが証券会社だった。証券会社は投資家たちに投機の対象となる株式市場の「テーマ」を次から次へと示した。大衆は目の前にぶらさげられた「ちょうちん」銘柄を何も考えずに買った。

 テーマのなかでもひときわ目立ったのが、会社の不動産の将来性を目玉にした東京湾の再開発だった。これに続いて、リニアモーターカー、超電導、常温核融合、奇跡のガン治療法などこれまで試みられたことのないテクノロジーが誇大広告された。一九八七年初期に神戸の売春婦がエイズで死んだあと、コンドーム株に関心が集まった。日本人成人の四分の三がすでにゴム製のコンドーム(経口避妊薬は禁じられていた)を使っていたという事実にもかかわらず、相模ゴムエ業の株価は四倍に上昇した。また日本(ムが抗エイズ物質を鶏の肝汁から抽出することに成功したという噂が流れると、日本(ムの株価は急騰した。エイズが恐れられているときにポルノ映画会社の株価が上昇したのは、ポルノ映画が安全なセックスの代替として期待されてのことだったのだろう。「テーマ・チェイシング(Thema Chasing:The Engine of the Tokyo Stock Market)」と題するリポートのなかであるアメリカの投資銀行は顧客に次のように助言した--「群本能は流動性が過度の状況下では健全な生存本能である」。

 マスコミの株を大量に保有していたビッグフォーは顧客に与える情報を操作することなど朝飯前だった。週一回行われるミーティングでは、ビッグフォーは推奨銘柄をこっそり結託して選んでいたと言われている。株式市場そのものが噂や耳寄り情報にあふれていたため、証券会社は自分たちの顧客が操作の影響を受けやすいことに気づいていた。ファー・イースタン・エコノミック・レビューの言葉を借りれば、「世界で最もひねくれていて、投機や操作がしやすい市場は東京証券取引所をおいてほかになら」。

 市場は止めようがないくらい上昇しているにもかかわらず、平均的な個人客はほとんど儲からなかった。彼らはアウトサイダーであり、証券会社や彼らのお気に入りの顧客の餌食でしかなかった。「客に回転売買させて手数料を搾取する」のが野村の暗黙の了解だったと言われている。個人客の多くは大手証券会社の系列会社が運営する投資信託にお金を投じた。これらの投資信託は手数料を取るために回転売買が行われ、市場が毎年二〇%以上上昇していたにもかかわらず、一九八〇年代後半の投資信託の平均年次リターンは四%を下回っていた。バブル期にお金を儲ける唯一の方法はインサイダーになることだった。お気に入りの顧客--銀行、官僚、政治家、裕福な個人、そしてヤクザ(暴力団)--には証券会社が推している銘柄が事前に教えられた。証券会社はインサイダーに対しては利益を保証し、損失は補填した。市場で大負けしたお気に入りの顧客には彼らの損失を補うために「アンビュランス銘柄」--確実に上昇する銘柄--が与えられた。証券会社は新株発行が発表される前に株を推奨するのが慣例なので、ある会社が資金繰りに困っている、という情報が入れば儲かってしょうがなかった。インサイダー取引は法律で禁止されていたが、そんなことを気にする人などだれもいなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 地域密着性の... 未唯宇宙9.1.1... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。