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未唯空間第10章の考察

未唯へ

 昼は松屋のごはん軽めのカレーにしました。

10章の考察

 10.3の「LL=GGの世界」は精神的なものにしないといけない。生きていくこと、そのものです。

 現在の項目の内容は「国の形態」でGGの超国家を取り扱っている。「地域主体」は従来の焼き直しです。「複雑性」はローカルからグローバル支配を書きたいけど、中途半端です。「ソーシャル」も焼き直しです。

 複雑性のところは、かなりイメージになりそうです。漂白の世界でローカルの周辺がない世界になっている。それで核の部分が変えられない。周辺の世界から変えて、核とつなげていく。

 ローカルとグローバルが分離して、そして、新しい位相で融合する。ローカルの膨大なものとグローバルの唯一なものが融合する。ローカルな多様なものとグローバルの単一なものが融合する。人間の精神でしか、想像できなもの。それもかなりの経験を積んだ上で可能になることです。

 LL=GGは自分の中の存在と無から出てきた。存在というローカルなものが、無というグローバルが自分の中で一緒になってきた。これは、宇宙と自分が一緒になってきた。これは数学でいうと、唐突なことではない。一つの点と周縁の全ての点が一緒居なるのは、トーラスそのものです。

 ローカルがグローバルが一緒になることで、全体が一つの空間として扱える。その時に問題になるのは、次元です。無限次元のなかに生きている私にハ問題はありません。

存在と無からの発想

 「地域主体」を挙げたのは、国というグローバルと個人のローカルの図式では、あまりにも一方的になるから、腰の部分として、地域を挙げたものです。地域については、これ以前に散々扱っているので、目新しさがない。アプローチを変えないといけない。ここでも、発想は存在と無です。

 重要なのは、存在をどう意識するかです。存在は完全にローカルです。自分の意識がなければ、すべてがない。これは独我論にもつながります。単に独我論でないのは、無があるからです。つまり、グローバルです。

 ローカルから見た時には、グローバルも全て無です。どんな大きく見えても、どんな権力があっても、ナポレオンだろうとヒットラーだろうとも。孤立と孤独も含めて、未唯空間自分編の最初の部分に戻ってきている。それらを再定義する時かもしれない。

 独我論という言葉は好きになれない。存在と無の方がはるかに実感がある。私というもののあり方が分かり易い。

キンドルのカバーは本体の半分

 キンドルのカバーを買いました。その日に持っていく、バージョンを考えましょう。バックを持っていく場合と、カバー付のキンドルだけの場合です。土日のスタバでキンドルだけにしましょう。

 7千円のキンドルに対して、3500円の半分です。だから、これを使っていかないといけない。カバー付ならば、歩きながら、キンドルを見ることができます。このシーンも試します。

超国家と個人の間に地域

 国の形態のところでは、超国家と個人がつながることになります。この社会が理想です。それはソーシャルネットで実現できるかもしれません。国というものは、Local meets Globalで国から色々なものを吸い上げて、力を得た上で、Localに分配することで成り立ってきた。

 Global meets Localになり、GoogleのようなLocalを支援することが可能になった。その究極がLL=GGの世界だということです。LL=GGを想定したのは、次はどうなる。その先はどうなるかという未来予測から始まった。ここから始めている。これらをうまく整理しないといけない。
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