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非本来的時間性によって導かれる道徳的類廃

『リスクの社会心理学』より 本来的な時間性と、非本来的な時間性

まず、(リスクヘの態度という考え方のさらに背後にある)「危機的事象への態度」なるものは、早晩、「死への態度」そのものに抜本的に決定づけられている一方、「死への態度」は、ハイデガーがいうところの「時間性」(将来に対する「気がかり」を行いうる力)を携えた「現存在」であるならば所持可能であるが、時間性をもたない「非・現存在」には所持不能なものである。一方で、そんな「時間性」には個人差があり、いまのことばかりに気をとられてしまう人もいれば、将来のことを「きちんと」考えて、節度をもって自制(セルフ・コントロール)できる人もいる。そして、そういう個人差は、彼らが生きていくうえでのすべての指針になりうる「価値観」そのものを決定づけるものである--これが、ここまでで論じた内容のおおよその概略である。

Zずれにしても、以上の議論が暗示しているのは、危機的事象への態度や価値観、そして、それに支えられる「生きざま」は、すべて濃密に関連している、という1点である

そして事実、ハイデガーもまた、上述の「時間性」を論じた彼の主著『存在と時間』の中で、「死に対する態度」によって人間(現存在)の「種類」が抜本的に二分されるということを、直接的に論じている。以下、その彼の議論の概略を紹介することとしよう。

まず、現存在であるならば時間性をもつのであって、将来に対してさまざまな形で関わり合いをもつこととなる。そして、1人の現存在が慮る事柄の中でもとりわけ重大な意義をもちうる事象は、その現存在の「死」である。

しかし、濃密なる「時間性」をもたない現存在は、そうした「みずからの死」にとりたてて重大な関心を寄せず、みずからは早晩、必ず死ぬという事実に目を背けながら生きていく。その一方で、濃密なる「時間性」をもつ現存在は、先々のことをさまざまに考えていくうちに、否が応でもみずからはそのうち死ぬほかないのだという事実から目を背けたくとも背けられなくなっていく。かくして、希薄な「時間性」のもとで生きる現存在と、濃密な「時間性」のもとで生きる現存在とでは、同じ現存在であったとしても、「みずからの死」に対する態度において、天と地ほどの相違が生じることとなるのである。

ハイデガーは、こうした論考に基づいて、みずからの死を徹底的に先駆的に覚悟しうるほどに濃密なる「時間性」を「本来的時間性」とよぶ。その一方で、そうした時間性からはほど遠い、みずからの死について先駆的に覚悟することなどありえようもないほどに希薄な「時間性」を「非本来的時間性」とよぶ。

そして彼は、この「非本来的時間性」こそが、現代人の「道徳的類廃」の根源因なのだとの論を進める。

ここで、本来的時間性を携えた現存在を「本来的現存在」、非本来的時間性のもとでただただ生きさらばえ続ける現存在たちを「非本来的現存在」とよぶとするなら、彼らにとっての現在、過去、未来は、まったく異なったものとなっていく。

表11-1は、そんな相違を図式的にまとめたものである。「非本来的時間性」しかもたない「非本来的現存在」は、確実に訪れるおのれの死から目を背け、目の前に現れ出る諸現象である「現前」に没頭する。そして、将来は漠然とした「期待」として立ち現れ、既在(過去)はもはやないものとして「忘却」されるほかなくなってしまう。かくして、「非本来的現存在」は、将来や既在よりも「現前」をとりわけ重視せざるをえなくなる。そして、「現前」におけるさまざまな刺激を、享楽的に求める傾向性が強くなる。

こうした状態は、例えば、戸田(1992)のいうところの「いま・ここ原理」(いま、ここのことしか考えず、将来や他者のことを一切気づかわないという行動原理)に支配された状態である。あるいは、社会的ジレンマ研究でいわれるところの一切の協力的傾向をもたない完全なる非協力者(藤井, 2003)だということもできる。さらには、新古典派経済学が想定する合理的経済人(藤井, 2009)と、完全に一致した人間だということもできようし、「生の哲学」を主張したオルテガ・イ・ガセット(Ortega y Gasset, 1929)の用語を借りるなら「大衆」ということもできよう。いずれにしても、非本来的現存在は「時間性」をもつ「現存在」でありながら、その「時間性」は希薄で弱々しいものにしかすぎないものであることから、さながら「下等動物」のように、時間性などなき存在であるかのように、この世界の中をさまよいながら生きさらばえる存在なのである。

それゆえ、このような「非本来的な現存在」が仮に将来を先駆することがあったとしても、己の「死」までを先駆することなどはありえない。将来時点における個人的な利益に配慮することが関の山である。つまり非本来的現存在は、せっかくの時間性を、たんなる「利己的利益の増進」にのみ活用してしまっているのである。

一方で、究極の可能性である死に対する先駆的覚悟に裏打ちされた「本来的時間性」を携えた現存在は、究極的な死をはじめとした、将来における「あらゆる可能性」を「先駆」的に気にかけるのである。彼はそれとともに、既在を「反復」的に繰り返し意味づけ、解釈し続ける。そして、その「先駆」と「反復」によってはじめて開かれる、己の置かれた歴史的状況を「瞬間」的に直視するのである。
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