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希望を失わないために

『<不安な時代>の精神病理』より

日本では、デフレ不況の中で、その中で暮らす人たちのあり方、考え方も変わって行った。 かつて「日本人らしさ」と呼ばれた性質の多くが失われ、かといって、それにかわる新しい日本人像が生まれたわけでもない。個人と個人が何の関係もないまま、誰もが自分のことだけ、今のことだけを考えながら、狭い範囲で生きていかなければならなくなった。

「何のために生きているのかわからない」と焦点の定まらない気持ちの落ち込みを訴える若者、仕事となると憂うつで気力もなくなるのに、ボランティアやレジャーには積極的に参加できる「新型うつ」といわれる新しい病態のうつに陥る人が激増し、従来のうつ病も含めて「うつは国民病」などとも言われた。

いや、これはデフレや不況の結果ではなく、原因なのかもしれない。人が変わったからこそ、それが経済活動に影響を与え、かつて経済大国といわれた日本が今日のようなかげりを見せるようになった可能性もあるのだ。どちらが原因でどちらが結果か、その因果関係を問うことには意味はない。両者は、分かちがたく一体化して、互いに影響を与えつつ、ともに変化を遂げている、ということは、これまでいろいろな角度から説明してきた。

そして、変化は日本でばかり起きているわけではない。本書では、精神医学の世界を例に取りながら、そこで起きているドラスティックな変化についてややくわしく解説を行った。世界を覆い尽くす市場主義経済は、それじたい人の営みである精神医学や精神医療にも大きな影響を与えるのは当然かもしれないが、そこでもやはり、「市場主義経済」と「精神医療」、またそこでの治療の対象となっている「人間」について変化の端緒はどこにあり、どれがどれの原因であり結果なのか、証明するのはむずかしい。おそらくすべての変化は、渾然一体となりながら、同時に始まり、進行したのであろう。

こういったさまざまな問題の背景に共通してあるのは、経済のグローバル化だ。それは、「グローバル」とは言うものの、かつての冷戦時代のような「大きな物語」は生み出さない。インターネットによりフラット化された世界を、企業由来か個人由来なのかもわからないまま、実体のないマネーがかけ巡る。どこが中心でどこが辺縁なのか、どこが密でどこが疎なのか、その構造を語れる人はどこにもいない。

日本経済は、あるいは日本の社会は、デフレ不況の中でバラづフに解体されあるいは縮退し、グローバル経済の波に呑み込まれていくしかないのだろうか。
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