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偶有性とコミュニケーション思想

『よくわかるコミュニケーション学』より

偶有性とは

 偶有性という概念は、「運」を表わす古代ギリシャ語に起源がある。これは、必ずしも幸運だけを意味するのではなく、不運も含む両義的で不確定な状態を示す知識を表わすことばである。まったくどちらに転ぶのかもわからない不安定なモーメントを「運」と言い表わしたのである。

 偶有性は、私たちが扱う知識としては馴染みのないものである。それは、確実で普遍的な知識として定着することを目的とするエピステーメー(知識、科学)とはまったく異なるために、想像しにくい知識なのかもしれない。まず、エピステーメーは、人間の生死に関係なく、朽ちることのない不死身の知識であり、かつ普遍性のあるものとして珍重されてきた。それは、必然性に基づく知識ということも可能である。必然性に基づく知識は、時代が変わっても、場所が移動しても、人類が亡びても、変化することはない。その一方で、偶有性は不安定、不確定であるが故に、変化することが必然的でさえある。必然性に基づく知識であるエピステーメーと、偶有性は対局にある。

偶有性を原則とするコミュニケーション学

 2006年、全米50以上のラジオ局でスペイン語の米国国歌が流れた。その後、サンフランシスコの街角で、移民たちがスベイン語で唄ったことに対して。ブッシュ前米国大統領が国歌は英語で唄うべきだと反論した。国歌を英語で、つまり国語であるかのごとく振る舞っている英語で唄うことの必然性が、スペイン語で唄うことの「運」によって揺らぎ、しかも、スベイン語で唄うことの可能性が露呈した瞬間であった。一旦、スペイン語で唄うことの可能性が露呈されれば、チャイナ・タウンで北京語や広東語で唄うことの可能性もそこに存在し、またテワ(Tewa)などのインディアンのことぱで唄うことの可能性も露呈しはじめる。つまり、米国国歌は他のことばでも唄い得たことがわかってしまったのである。国歌は、国を愛する人びとが、それぞれの母語で唄うという愛着の対象となってもおかしくない。

 米国国歌が,英語で唄うことの必然性があるとき、国歌は「公共」のものとなる。その一方で、国歌をスベイン語で唄うことの可能性が露呈するときも、「公共」のものとなる。ここでは、2つの「公共」をめぐる意味がせめぎ合うことになる。1っ目の「公共」は、「政府の」「国家の」という意味を引き連れ、多数派の声だけを反映させ、もしかしたら「共通の」という「公共」の意味をも内包することになる。2つ目の「公共」は、国歌が多くの人に開かれていることを示す「開かれた」という意味を喚起する。どちらも「公共, public」ではあるが、まったく正反対の意味をもつところが興味深い。

 メキシコなどから国境を越えてくる移民たちがスベイン語で米国国家を唄う時、また、ブッシュ前大統領をはじめとする英語話者である米国人が、「英語」で唄うことを主張する時-どちらの場合も、それぞれの立場から国家に対して、何らかの発話を促されているのである。その発話がいったいどのような「公共」をうたい上げてゆくのかをみてゆく必要がある。保守サイドは、国家において国語を単一言語として配置することを促すなかで、特定の「公共」概念を維持または定着させようとし、移民サイドは、国家ならびに国歌が、多くの母語話者に開かれている可能性をうたい上げようとすることで,別の「公共」概念を作り出そうとしているのである。2つの「公共」を支える意味が,真っ向から対立するのではなく、その内から矛盾を抱え込むことによって、「公共」をめぐる必然的なせめぎ合いを生じさせているのである。

 この状態こそが、「コミュニケーション」が起こる場である。なぜなら、それぞれが、国歌を唄うことばが何語であるべきなのかを発話し、交渉し合うことによって、新たな「公共」概念や国家観を生み出そうとしているのである。この偶有的状況、場を確保することは、コミュニケーション学にかかわる私たちにとって重要である。というのも、コミュニケーションを学ぶ私たちは、コミュニケーションが起こる場を、常に確保しなくてはならないからである。もし、国歌は何語で唄うべきで、国家は誰のためのものかという必然的合意が生じる時、偶有的状況や場は消滅し、コミュニケーションは続かなくなってしまう。さらなるコミュニケーションが可能になる偶有的な場、状態を確保し続けることこそが、コミュニケーション学にとって至上の課題である。
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