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暗い数十年の静かな変位 戦争と経済教訓を学ぶ

『地獄の淵からヨーロッパ史』より 自滅時代のヨーロッパ 暗い数十年の静かな変位

いずれの世界大戦も長期的な経済発展を、比較的短期問ではあれ、破局的に中断させた。大方のヨーロッパ諸国では一九一四~一九四五年の悲惨な時代、平均成長率は第一次世界大戦前あるいは第二次世界大戦後より低かった。

しかも、第一次世界大戦の敗戦諸国の復興には約一〇年を要した。だが、敗戦諸国は現に復興した。そして、戦前より緩やかとはいえ、成長は続いた。仮に一九一四年以前の戦前の成長が減速することなく続いていれば、一九一九年までに到達した世界の生産レベルは、食料では一九二三年までに、工業製品では一九二四年までに、原材料では一九二七年までに、それぞれ達成されたと見積もられている。そうした推定にどんな但し書きが付こうと--例えば、この推定はヨーロッパだけでなく世界の生産に関するものだ--、その推定は長期的な逆転ではなく、戦闘行為の影響で成長に一時的にブレーキがかかったことを示している。

一九一四年以前に到達されたグローバル化のレベルは、戦争と、次いで一九三〇年代の大恐慌期の保護主義と経済ナショナリズムによって妨げられ、中断された。次いでヨーロッパの経済生産は第二次世界大戦期間に再び下落し、そのうえ生産物の多くは、言うまでもなく軍事ハードウェアに向ける必要があった。しかし、今度の回復は速やかだった。第二次世界大戦後の成長は急速で、第一次世界大戦後の時期よりはるかに力強く、おまけにその影響は長続きした。教訓が学ばれたのである。国際協力を受け入れる用意があった。両大戦間期にはこれがひどく欠けていたが、今や復興のためには不可欠と受け止められたのだ。安定を回復し、経済を規制するため新たなレベルの国家介入措置が取られた。決定的な要素は、米国による完全な経済支配と、重大な意味をもつ米国の思想・技術・資本の輸出だ。しかしながら、続く三〇年間の前例のない経済成長の基礎は、ヨーロッパ自身の内部に、それも大陸のもっとも暗い歳月に敷かれたのである。というのは、厳密に経済的な意味では、戦争はたとえ一九一四~一九一八年と一九三九~一九四五年のような規模であっても、マイナス勘定になっただけではない。それは長く続く重要なプラスの結果ももったのである。

戦争の諸条件は、経済成長と技術進歩を著しく刺激した。独裁国家は言うに及ばず、民主諸国も戦争遂行のために大きく拡大された生産を管理するため、経済に大々的に介入せざるを得なかった。このため、例えば第二次世界大戦中の航空機生産に必要なアルミニウムのように、戦争が新たな需要(これはたいてい長続きした)を生み出すにつれ、国家が建設と資本設備、労働訓練に投資することが不可欠になった。すでに第一次世界大戦で、兵器の大量生産のために、より効率的な手法による工場組織と経営管理、そしてより徹底した機械化が必要になっていた。

農場に労働力が枯渇している時にあって、農業生産を最大化するための機械化の促進は、農業を利した。例えば第二次世界大戦の初年、約三〇〇〇台の新しいトラクターが英国農民の使用に供され、あらゆる種類の農業機械が増産された。他方、ドイツでは戦車や大砲、航空機に対する需要が逼迫し、トラクターのための生産余力がほとんどなくなったため、農民は一般に家族の勤労と外国人の強制労働、戦争捕虜で間に合わせるしかなかった。ドイツでは、戦時中に農耕法の近代化がほとんど進まなかった大陸の他の地域と同じく、農業の機械化と生産の増強は、おおむね戦後の再建期を待だなければならない。戦争期間中は、農業労働力の確保が容赦なく長期的に難しくなっていく状況を、反転させるすべはなかったのである。

両大戦、特に第二次世界大戦中の技術と科学の革新は目覚ましく、後々にまで影響した。必ずしも、戦争がまったく新しい発見をもたらしたということではない。だが、平時に突破口が開かれていた場合でも、戦時生産の緊急性がしばしば長足の進歩をもたらしたのだ。将来の戦争では航空戦が決定的になると見られていたため、航空機技術は第一次世界大戦時に飛躍的に進歩し、その技術革新が一九二〇年代と三〇年代に旅客航空の拡大に流れ込んだ。ジェットエンジンは一九四四年にドイツがm262戦闘機向けに初めて大量生産したのだが、一九三〇年代に英空軍技師フランク・ホイットルとドイツ人技師ハンス・フォン・オハインによって、同時に発明・開発されており、第二次世界大戦後に空の旅に革命をもたらすことになる。のちには、ヴェルナー・フォン・ブラウンらドイツ科学者がV2ミサイル発射のために開発したロケット技術を基に、宇宙開発が発展する。

ナチ党員でSS名誉将校であるブラウンの能力はたちまち米国の知るところとなり、彼は米国の新しい環境に移されて、米宇宙計画の発展に大きな役割を果たすことになる。大戦前夜の核分裂の発見は、米国での原爆製造の戦時計画につながり、戦後の核エネルギーの平和利用に道を開く。無線放送、レーダー、合成繊維製造、電子計算機といったさらに多くの戦時の技術革新、あるいは既存技術の急速な進歩が、戦後の時代に途方もない影響を与えることになるのである。こうした技術革新や進歩は、多くが戦前の先駆者たちに依存しており、戦争がなかったとしても実現したことは疑いない。だが、おそらくその開発はもっと遅くなっていたことだろう。

第二次世界大戦は、第一次世界大戦よりはるかに「総力戦」であり、それは独裁支配下の社会だけに限られなかった。諸国の指導者は戦時経済を運営するうえで、前の戦争から重要な教訓を学んでいた。彼らは例えばインフレの抑制で、先任者よりはるかにたけていた。第一次世界大戦期のいくつかの交戦国のように、インフレが破壊的勢いを得ることがあってはならないのだ。英国では租税が第一次世界大戦時よりはるか高率に引き上げられて、短期借入の必要性を減らし、そのことで、政府は比較的低利率で長期借入を続けることができた。ドイツでは、再びハイパーインフレに陥ってはならないという恐怖心が深くしみついており、膨らむ戦費の多くは占領地域によって支払われたため、租税は英国よりはるかに低く抑えておくことができた。

ドイツと英国は、国民への食料供給の国家管理でも両極の立場にあった。生活水準がひどく低下し、食料不足が深刻になるにつれ、とどめようもなく勢いづいた第一次世界大戦時の不満の高まりは、ナチ指導部の政治意識に深く刻み込まれていた。大陸の食料その他の資源を容赦なく収奪することで、第二次世界大戦中はその再発を防いでいた。最初の大幅な配給削減は一九四一~一九四二年の冬の危機を受けて実施され、これはいたって評判が悪かったが、極端な配給削減は戦争の最終局面まで行われなかった。ヨーロッパの多くの被占領諸国がその代償を払い、ウクライナとギリシアでは厳しさを増す食料不足が飢饉並みのレベルに、またオランダでは一九四四~一九四五年の「飢餓の冬」で飢饉寸前に達した。食料価格は公的に管理され、割当量は配給制になっていたけれども、いたる所に闇市がはびこった。英国では、食料価格が農家所得を超えて上昇しないようにするため、国庫補助金と厳格な配給制が使われた。ジャガイモとパンを除くすべての主要食料品の配給制は、必然的に不平を生んだが、それでも国民に広く受け入れられ、社会の調和を維持することに役立った。配給制は実のところ、食事の味気無さと引き換えにではあるが、同時に多くの人びとの健康を改善したのである。

第二次世界大戦中、実業・産業界の指導的人物らが政府の政策策定を支援するため、第一次世界大戦の時以上に動員された。産業家らは戦時生産だけでなく、戦後世界のプランニングにも専心していた。ドイツではナチ政権が(ほかの物事と同様に)経済に対する支配を強め、連合国軍の爆弾が国土の破壊を一段と進めていたのだが、そのドイツでも産業家たちは戦時の熱心な協力を、ひそかな再建計画に結びつけていた。戦争の末期数カ月の死の苦悶の中で、ナチ政権による無益な自殺行為に巻き込まれないよう気遣いながら、彼らは軍需生産相アルベルト・シュペーアと協力し、一九四五年三月にヒトラーが出した「焦土」命令で産業施設が無意味に破壊されるのを防いだ。実は、ドイツにおける産業の破壊は、戦争による一般の荒廃レペルには遠く及ばず、産業家らは自らの利益のために、復興促進対策に緊密にかかわり続けることができたのだ。ほかの経済大国でも、おおむね同じことがいえる。戦争のための動員は巨大な経済力を解き放っていて、それはたいていひどい損害を受けていたが、破壊されてはおらず、その一方で膨大な労働資源が、軍備ではなく戦後復興のために使えた。復興の潜在力が廃墟の中に眠っていたのである。

戦時経済への動員と同様、復興は国家を必要とした。ヨーロッパの物質的破壊の規模そのもののために、国家は経済管理から一歩も引くことができなかった。経済が市場の力によって立ち直れるなどという考えは、両大戦闘期の経済ナショナリズムによって根拠を失っていた。国家だけが、経済再建のための巨大インフラ計画に必要な規模の投資を提供できる。英仏の計画立案者らの考えは、この点て一致していた。ソ連ではもちろん、厳格な国家管理がとうに確立されており、一方、米国の指導者らは自由市場を好みながらも、この形勢にほとんど異議を唱えることができなかった。大型の住宅建設計画を作成しなければならない。食料不足からも、国家管理と割り当ての継続が必要だ。英国では配給制は一九五〇年代までずっと続くのである。

その結果、第二次世界大戦直後の数年、ヨーロッパ経済は一九二〇年代、三〇年代には考えられなかったような規模の、国家による財政支出と管理によって形づくられる。しかし、西ドイツは米国の影響の下で、英国とフランスで採用されたはるかに大々的な経済統制政策のモデルには従わないことになる(もっとも、ソ連支配下の東ドイツでは展開がまったく違っていたことは言うまでもない)。ナチズム一二年間の厳重な国家管理の経験が、自由市場に対する規制の撤廃と、官僚化の徹底的な削減、それに産業カルテルの廃止を促すことになる。実際、当初は高かった国家による介入・管理の度合いは、間もなく大方の国で縮小される。もっとも、それまでに復興はしっかり軌道に乗っていたのである。
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