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資本主義の終焉 国家と私的所有の矛盾

『資本主義の終焉』より 私的所有と国家

個人化された私的所有権レジームは、資本が資本であるためのその基礎に位置している。この法的インフラを欠いては、交換価値も貨幣も現在のような形では機能しえないという意味で、それは必要条件であり必要な構造なのである。しかしこの権利レジームは諸矛盾に覆われている。貨幣の場合のように、その矛盾は単一ではなく複合的である。この理由の一つは、使用価値と交換価値との矛盾、そして貨幣とそれが表象する社会的労働との矛盾が、個人化された私的所有権レジームにまで波及しているからである。

矛盾の第一のそして最も明確な領域は、個人の私的所有権の「自由」とされる行使と、国家の強制的規制権力の集団的行使とのあいだにある。後者によって、個人の私的所有権およびそれを非常に緊密に編みあわせる社会的結びつきは定義され、成文化され、法的形態を付与される。個人の法的定義と、これに由来する個人主義文化は、交換関係の増大、貨幣形態の出現、資本主義国家の発展とともに発生した。しかしながら、最も狂信的なリバタリアンと最も極端なアナーキスト以外は、次のことに同意するだろう。個人化された所有権と法の諸構造を維持するためには、国家権力に似たものが存在していなければならないということである。フリードリヒ・ハイエクのような理論家によると、そのような構造こそが、強制なき個人的自由を最大限保障する。だが、これらの権利は施行される必要がある。そしてまさにここで、強制力と暴力の正統な行使を独占する国家は、私的所有権レジームに対するいかなる侵害も抑圧し取り締まることを求められる。資本主義国家は、獲得した暴力手段の独占を用いて、自由に機能する市場を介して表明される個人化された私的所有権レジームを保護し維持しなければならない。中央集権化された国家権力が、分権的な私的所有体制を保護するために使われる。しかし、強大な企業と機関にまで人格性や法律上の個人という地位が拡張されるなら、民主主義的に分散した所有にもとづいて万人の個人的自由が保障される完壁な世界というブルジョアのユートピア的夢想が堕落するのは明らかである。

市場交換の領域には数多くの問題が存在する。それゆえ国家は、私的所有と個人の諸権利を保護するという単純な「夜警」的役割を大きく越え出ることを余儀なくされる。まず、集合財と公共財(高速道路、港湾、水道、廃棄物処理、教育、公衆衛生など)を供給するという問題が存在する。物的・社会的インフラの分野は広大で必要不可欠であり、国家は、それらの財を直接生産するか、あるいはその供給を義務づけ規制するか、このいずれかで関与せざるをえない。これに加えて、保護すべき機関を管理するだけでなく、その安全を保障するためにも、国家装置そのものが構築されなければならない(したがって、軍事カや治安維持能力をつくりだし、徴税を通じてこれらの活動のための財源が調達されなければならない)。

国家は何よりも、多種多様な住民を、しばしば反抗的で手に負えない住民を統治し管理する方策を見つけださなければならない。多くの資本主義国家にとってそのための手段は、強制と力に訴えるというよりも、民主的な手続きと統治性のメカニズムとによって同意を引きだすことに帰着した。このことから、私見では誤りであるが、民主化と資本蓄積のあいだには本質的な結びつきがあると考える人も現われた。しかしながら、一定のブルジョア民主主義が、資本主義における統治形態としては総じてより効果的で有効なものであったことは否定できない。だがこのことは必ずしも、資本が一社会構成体の経済エンジンという支配的地位に上りつめたことの結果ではない。こうした結果を生んだ原動力になったのは、より広範な政治的諸力の存在であり、集団的な統治形態を見いだそうとする長期にわたる努力のおかげである。その結果、個人の自由と自律を求める民衆と、専横になりがちな国家の専制的権カとのあいだの葛藤が有効に対処されたのである。

次に、市場の失敗にどのように対処すべきかというかなり普遍的な問題が存在している。市場の失敗が生じるのはいわゆる外部効果のせいであり、外部効果は、市場において(何らかの理由で)算入されない実質費用と定義される。外部性が最も顕著な分野は公害である。企業や個人は、自分たちの活動を通じて大気や水や大地の質に有害な影響を与えても、それによって発生する費用を支払わない。外部効果には他の形態(肯定的なものと否定的なものの両方がある)もあって、いずれもそれに対処するには通常、個人的行動よりも集団的行動を必要とする。たとえば、住宅の交換価値というのは外部効果の影響を受げやすい。近隣区域におけるある家屋に対して投資したり、あるいは投資を引き揚げたりした場合、そのことは隣接する周囲の住宅の価値に何らかの(肯定的ないし否定的な)影響を与えるからである。この種の問題に対処しようとする国家介入の一形態か、土地利用規制である。

ほとんどの人は、強力な否定的外部効果を生みだすこのような活動を管理し規制するために、国家やその他の形態の集団的活動が正当であると認めている。これらの事例においてはいずれも不可避的に国家は、個人の自由の行使と私的所有権を侵害せざるをえない。ここでは使用価値と交換価値との矛盾か、分権的な個人の私的所有権の自由な行使と、中央集権化された国家権力との関係にまで波及して、それに深い影響を与えるようになる。唯一の興味深い問題は、国家による侵害はどこまで進むのか、そしてこの侵害かどこまで進めば、同意の構築(不幸にもこの過程はナショナリズムの醸成をともなうが)よりも強制にもとづくようになるのか、ということである。いずれにせよ、このような機能を果たすには、国家は暴力の正統な使用に対する独占権を有していなければならない。

この独占は、次の点でも露わになる。すなわち国家は、その前資本主義的な形態にあっても、資本主義的な形態にあっても、何よりも戦争を遂行するための機関であったのであり、世界を舞台にした地政学的対立関係に巻き込まれ、地経学的な戦略化に従事することを余儀なくされてきた。新たに出現し常に進化しつづけるグローバル国家間体制という枠組みの内部で、資本主義国家は、外交、貿易、経済の優位を求め、同盟関係の追求に関わる。その目的は、所有権保有者の居住領土内に富を集積しつづける力を強化することによって、国家自体の富と権力(あるいはより正確に言えば、その指導者と少なくとも一部住民の、富と地位と権力)を確保することにある。そのさい戦争--古典的には、他の手段による外交と定義される--は、地政学的・地経学的位置を決める決定的手段となる。そこでは、国家という領土的境界内に富や競争力や影響力を集積することが独自な目的になる。
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