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築地市場とベニス、そしてヨルダン

『築地市場』より ⇒ 歴史上、最初の環境問題はベネティア湾埋め立て工事と言われている。有史以来のヨルダン杉を伐採し、杭として埋め込んだ。ヨルダン杉はなくなった。ヨルダンの国旗にはヨルダン杉が描かれている。ローカルの象徴である。

ここはベニスか?

 施工の中心となったのは、大倉土木株式会社(現大成建設)と鴻池組だった。左の写真は、鴻池組に残されていた工事中の記録である。

 この写真の裏の仰天ドラマを、東京都が出した中央卸売市場の集大成『東京都中央卸売市場史』(1958年刊)をもとに紹介しよう。

 左上の写真は、扇形の施設の外周、セリ場の鉄骨を組み立てているところだ。この工事は、扇の両端から同時にスタートし、最後、大きくカーブする中央部分で接合した。常識的に考えても、いっぽうの端から進むほうが容易だ。もしも接合にいたる部分で、ずれが生じていたら………

 リスクの大きい手法を取っ力のには、理由があった。接合部分には魚河岸の冷蔵庫が建ってい穴。新たな冷蔵庫ができるのを待って取り壊すのでは、間に合わない。いねば見切’り発車のスタートとなったのだ。

 さまざまな施設がのる地盤は、埋め立て直後だ。隅田川水面や大池、江戸時代にできた浴恩園の池など計9ヘクタール、東京ドーム2個分の埋め立て完了とともに工事を始めでいる。軟弱な地盤だ。そのために、何千本もの松杭、新方式のペデスタタ鉄筋コンクリート杭を、地下の固い地盤まで打ち込んだ。戦後しばらくまで、「ここはベニスといっしょ」という笑い話があった。干潟に無数の杭を打って誕生した海上都市になぞらえてのことが。

 こうし力大工事のか力わら、敷地には魚河岸の仮設市場があり、いつもどおり、にぎやかに営業していた。海軍技術研究所や軍医学校など、海軍の諸施設応残ってなり、それらの移転と取り壊しも同時進行である。

 超タイトスケジュールになったのは、びとえに復興予算の使用期限が迫っていたからだ。大きな予算は付いカものの、ハラハラドキドキの綱渡り。担当者の心境はいかばかりであったろう。

築地市場接収の目的は巨大ランドリー

 米軍にはランドリー部隊があり、野線の場合でもトレーラーに機材一式を積んで前線まで移動。洗濯物すべての面倒は、ランドリー部隊がみる仕組みになっている。占領下の東京では、当然、大規模なランドリー施設が必要となり、築地市場に白羽の矢が立った。場所は青果部の売場。飛行機の格納庫のょうなスペースのほとんどを洗濯工場にリノベーションンしたのである。

 稼働したのは、1946年の春ごろから。多くの日本人が集められ、洗濯の専門知識を持ったオフィサー(将校)の指導のもとで、作業が始まった。アメリカから運び込まれた最新式の機械、徹底した流れ作業、(ンドタオター枚をたたむのにもマニュアルかおる。日本のランドリーとは比較にならないほど、進んでいた。おまけに報酬は国内の平均賃金の3倍。よくぞこんな国と戦争したものと、だれもが思う豊かさだった。

 しかし、場所を貸した市場側はいい迷惑である。青果の業者は、水産施設に間借りした形で営業したが、入荷量が徐々に増えてくると、狭くてしかたがない。復帰した仲買は、1店舗に3軒もが押し込まれたものだ。さらに大量に水を使うので断水騒ぎも起きカし、洗剤用の強い薬品も問題になった。

 52年、サンフランシスコ平和条約が発効となり、日本の占領時代は終わるが、ランドリーが市場に明け渡されたのは55年3月。半年近くかかった施設復旧の費用は日本側負担で、2000万円ほどかかったという。

 いっぽう、民間に払い下げとなったランドリーの機械や、習得した技術によリ、日本のクリーニング業界は大きな一歩を踏み出した。築地市場は「日本の近代クリーニング業の草分け」となったのだった。

 喪失のかわりに得た新たか一歩。戦争という皮肉ないたずら、ここに極まる、というべきか。

ひとり120グラム、初荷クジラの配給にわく

 戦後のタンパク質の補給源は、なんといってもクジラである。

 1947年2月10日。築地市場に、南氷洋から運搬船第32播州丸が、初荷のクジラを積んで帰港。ただちに都民ひとりにつき120グラムの配給があった。久しぶりの肉であった。

 戦後間もない日本が、なぜいち早く南氷洋へ出漁できたのだろうか。

 戦後の食糧支援は、アメリカに頼るところ大であり、46年、GHQが各国に要請した食糧支援280万トンのうち、70万トンをアメリカが受け持った。さらに対日援助1000万ドルの支出も迫られていた。

 しかし、アメリカにも援助の限度があり、なんらかの対策を必要としでいた。いっぽう日本は捕鯨再開を強く希望していた。両者の意向は一致したが、イギリスやノルウェー、オーストラリアなどの捕鯨大国は反対。敗戦国が1年も満たぬうちに捕鯨船団を持つのはおかしいではないか。戦争の賠償として、その船を要求してきた国すらある。アメリカは、「1000万ドルを肩がわりしてくれるなら禁止してもよい」と、反対国を説きふせたのだった。

 以来、捕鯨船団は毎年出漁。クジラのカツはこのころ生まれたご馳走である。
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