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日本の少子化は女性問題である

『あなたの脳にはクセがある』より 「少子化」は問題なのか 〝貧乏人の子沢山〟の論理

そういう視点から現代日本を見れば、とくに人口が増える理由はない。なにしろ女性が元気で、社会的権利を謳歌している。仕事は男性と建前上は平等だし、かって忙しかった家事は、さまざまな家電の出現ですっかり楽になってしまった。私が子どものころの洗濯といえば盟に洗濯板だったが、そんなものはもはや民芸品であろう。蛇口からお湯が出るなどという破天荒な事態を、子どものころの私は想像すらしたことがない。むしろ大人を手伝って、井戸の水を汲んだものである。

東南アジアを旅行すると、男が昼間からぶらぶらしている風景をよく見かける。たとえばバリ島が典型である。真っ昼間から男どもが屋外や小屋のなかに座って、タバコなどを吹かしながら、おしゃべりをしている。男はお祭りや戦争、特定の時期だけに収穫のある作物や果実の採り入れなどの機会に働くらしい。

女性はつねに働いているように見える。簡単な農作業、食事の世話、子どもの世話、洗濯その他の家事、暇があれば機織りと、仕事に際限がなさそうである。あれを見ていると、日本ではいつから男が働くようになったのか、そのほうが疑問になる。ブータンに至っては長女相続で、男は完全に付録みたいなものである。

なにをいいたいか。日本の少子化は、おそらく女性問題だということである。日本の経済成長は、なかでも女性の生活上の便宜を向上させた。それはケララ州の比ではない。さらに戦後の民法その他によって、女性の社会的地位も向上した。だから貧乏人の子沢山の反対が起こったのであろう。もちろん男も高度成長のおこぼれにあずかったはずである。ただし組織のなかで働く人が増えたので、権力欲を満たすには、まだ女性より不足があるのかもしれない。

組織人つまりサラリーマンの比率は、昭和の年代とほぼ並行するという。三十年代には三〇パーセント台、四十年代には四〇パーセント台、いまでは七〇パーセントを超えるということになる。組織のなかで働けば、地位は安定する。しかしその反面、自由が減る。

私は東京大学という組織を辞めた。はっきり記憶しているのは、正式に辞めた当日から、突然世の中が明るく見えたことである。組織に勤めていると、長いあいだのことだから本人は気がつかないのだが、さまざまなストレスが常時存在している。辞めたとたんにそれが消えるから、外界が明るくなるのであろう。世の中が明るく見えてから、気がついた。女房にとっては、世界ははじめから明るかったのだ、と。女性の平均寿命が長いわけである。

そういうわけで、少子化自体については、私はべつに心配をする理由がないと思っている。子どもの分まで、元気になった女性が引き受けてくれるであろうからである。それよりも将来にかかわる問題は、子どもの教育であろう。そっちのほうが、人数の問題より、はるかに深刻であろう。

いまでは数少ない子どもを、体力にすぐれた栄養のいい女性が、徹底的に面倒をみている。これでは子どもも大変にちがいない。私が子どもだったころは、大人は食物の入手に忙しく、子どもにかまうどころではなかった。私の家では父親がなく、母親が医者だったから、子どもの私はもっばら外で遊んでいた。子どもたち同士で遊ぶ。いまでは少なくなったといわれる、年齢の異なった子どもたちの集団である。

年齢違いの子どもたちが集まって、日がな一日、遊んで暮らす。そのどこがいいか。一歳児を三歳児が、三歳児を五歳児が、五歳児を七歳児がというふうに、順送りに面倒をみる。そうして育つ子どもたちのなかで、年上の連中は、自分がついこのあいだまでそうであった状態を、年下の子どもの面倒をみることによって再確認する。つまり学習でいうなら、復習をするのである。さらに面倒をみてもらう年下の子たちは、少し発育の進んだ子どもと接することになる。これはすなわち予習である。異世代の子どもたちが団子になって遊ぶことの利点は、まさに発育の予習と復習を繰り返すこと、現代風にいうならフィードバックを繰り返しながら育つことである。

子どもたちだけで遊んでいるのは、親がっきっきりで面倒をみるのに比べたら、乱暴な育て方だ。いまではそう思っている母親が多いのではないかと思う。私はそれは逆ではないかと思う。子どもの集団のなかで育つほうが、じつは右に述べたように、ていねいに育っているのかもしれないのである。

こうした子育て、というより子育ちの機会が、現代では失われている。兄弟姉妹の数も減った。親の面倒見がよすぎる。それだけではない。私がまさに餓鬼のころには、いたずらをしては、近所の爺さん、婆さんによく叱られていた。いまの子どもを、他人が叱るのは容易ではない。そんなことをしようものなら、むしろ余計なお世話だと母親から睨まれるのがオチである。つまり、がっては子育ては共同体構成員全員の関心事だったが、いまではほぼ親だけの権利に変わったらしい。

もともとこの国では、子どもは母親の一部という暗黙の了解がある。だから人工妊娠中絶は倫理問題にならない。その了解が生後にまで延長すると、親子心中になる。相変わらず子どもが独立の人格にならないのである。

自分の一部だと思うから、この世に残していかないのであろう。この感覚をさらに延長したのが、最近生じた保険金目当ての子殺しであろう。ちなみにアメリカ社会では、子殺しは重罪である。

ともあれ、こういう社会で子どもが仮に増えても、いったい子育てはどうなるのか、そのほうが心配である。子どもの数のような問題は、自然のなす業である。人間の浅知恵で余計なことをしないほうがいい。それが私の本音である。
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