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「正義」のための暴露

『暴露の世紀』より 「暴露の世紀」とは何か

「つながりの世紀」の負の側面

 自らの電子メール問題で苦しめられたヒラリー・クリントンだが、国務長官を辞した後に出版した回顧録『困難な選択』ではインターネットを高く評価している。特に、長官在任中に起きたアラブの春に注目している。インターネット、わけてもソーシャルメディアのおかげで、市民や地域の組織は従来になかったほど、情報に触れ、声を上げることができるようになった。アラブの春で目にしたように、いまや独裁政権ですら市民の感情には留意しなければならなくなった。

 彼女のスタッフのひとりで、ヒラリー在任時に国務省の政策企画本部長を務めたアンーマリー・スローターは、「つながる者だけが生き残るだろう」と述べている。現代においてパワーを測る尺度は「接続性」に他ならず、その点で米国は明白かつ持続可能な競争力を持つ。戦争、外交、ビジネス、メディア、社会、宗教までもネットワーク化されているからである。しかしながら、本書の冒頭でも述べた通り、トランプ陣営に比してクリントン陣営は「つながり」を使い切れず、大統領選で敗れてしまった。

 つながらなければ生きられないとしたら、つながった世界でより良く生きる方法を考えるべきだろう。「暴露の世紀」は「つながりの世紀」でもある。つながったITはさまざまな情報を交換し、共有し、そしてネットワークの隅々まで情報を届ける能力がある。デジタル化された情報は複製しやすく、保存の場所もとらない。バラバラのパケットにしてネットワークに放り投げれば、到着したところでまた元の姿に戻る。

 この強力なツールを正義のために使う人たちが出てくるのは当然である。無論、正義はいろいろなところにあり、立場によって異なる。自己保身を優先させる人もいれば、組織を守ろうとする人も、国の大義に賭ける人もいるだろう。宗教的な信条に身を捧げる人もいれば家族を最優先にする人もいる。あるいは仕事に生きる人もいるだろう。それぞれの人にとって、その時々の正義は変わる。その正義のためにITが使われ、情報が暴露される。

 相手をおとしめるため、誰かの評判を傷つけるため、不正を暴くため、あるいは、本来の自分を取り戻すために計画的・意図的に情報は暴露される。あるいは、ミスや無意識の操作によって偶発的・事故的に暴露されることもある。あるいは敵のシステムを破壊したり、自分が優位に立ったりするために攻撃的・強奪的に暴露されることもある。いろいろなレペルで、多様なサイバーテロリズムが行われるようになるだろう。

 情報は権力の源泉である。知ることで自らの行動、相手の行動を変えることができる。暴露の脅迫は相手の選択を強制することができるだろう。あるいは、いつか暴露されるかもしれないという恐れは自らを律するということにもつながるかもしれない。

 ITは暴露を容易にしている。匿名で大量のデータを暴露できるようになったことで、我々の社会は変わり始めている。ますます秘密を隠しておくことが難しくなりつつある。それは、いずれは透明性の高い社会の形成へと貢献するかもしれない。しかし、それに至るまでの間にさまざまな暴露が行われる過程が続くことだろう。

 何よりも、人は秘密が好きである。そして、秘密を漏らすことも好きである。多くの人が秘密を守りきれない。噂はあっという間に駆け巡る。

自由と安全のジレンマ

 単なる噂話なら、人々の倫理の問題といえるかもしれない。しかし、国家安全保障の問題となると、ジレンマは深刻になる。

 国家安全保障に関わる問題が何もない世界ならば、プライバシーも自由も最大限尊重されるべきである。ところが、現代の世界はますます不安定で、危険に満ちあふれるようになっている。無論、冷戦時代には一触即発の核戦争の危機があった。その冷戦が終わった後、我々はつかの間の紛争の少ない時間を過ごした。しかし、それは遠い過去になりつつある。各地でテロ、内戦、国際紛争が続いている。東西両陣営が大きく対峙する世界ではなく、終わりの見えない争いが続き、サイバー戦争という新しい次元が加わりつつある。

 まだサイバー攻撃は人を殺していない。しかし、潜在的には可能であり、やり方次第では重要インフラストラクチャを破壊したり、環境を汚染したり、国家間の対立をあおったりすることも可能だろう。

 ますますコミュニケーションがデジタル化され、ネットワークを通るようになるにつれ、安全保障に関わる情報もそれを通るようになっている。テロリストたちはインターネットと携帯電話を駆使している。それが追跡されることを理解しながらも、それなしでは計画し、実行することはできない。

 安全という高価なサービスを提供しなければならない政府は、失敗すれば高い代償を払うことになる。なんとしても被害を出さないようにしようとすれば、必然的にネットワークの中に目と耳を持たなくてはならなくなる。ネットワークを悪用し、他者に危害を加えようとする者だけを簡単に選び出すことができれば良い。しかし、彼らは一般の人々の中に紛れ込んでいる。いつ、どこで姿を現すのか分からない。したがって、政府の目と耳は、結果的に無事の人々にも向けられることになる。

 誰もが目前に危機があれば、プライバシーを求めないだろう。戦場ではひとりで放っておかれるよりも仲間とともにいたいだろう。しかし、一見すると平時に見えるときに、人々がプライバシーや自由を求めることは無理からぬことである。いつ、どこで起きるか分からない危険に我々はどう対処したら良いのだろうか。

 そうした難しい業務に携わるのが各国政府のインテリジェンス機関である。しかし、スノーデンの告発にあるように、どうしてもプライバシーを侵害してしまう側面がある。独裁国家では、国家・国民を守るよりも先に独裁者を守るためにそうした機関が使われてしまう。

 民主主義国家において自由と安全のバランスはどうやってとるべきなのだろうか。「バランスをとる」と言うのは簡単だが、実行するのはきわめて難しい。人命に関わる事態が突発的に起きてしまえば、それがインテリジェンスの失敗なのは明らかだ。しかし、そうした事態がずっと起きないまま平和が維持されているとき、我々はインテリジェンス機関や警察、軍が成功裏に働いていると評価できるだろうか。彼らが我々の通信を覗いていることに耐えられるだろうか。

 人に危害を加えようとする人たちは、ますます自己暴露に慎重になり、姿を隠そうとするだろう。普通の人たちの秘密を守り、普通の人たちの間に隠れる危険な人たちの存在をいかに暴くかが、政府を悩ます情報社会の深刻な課題である。

暴露の世紀を生き抜くために

 かつての冷戦時代のスパイの世界では「ニード・トゥー・ノー」という言葉がよく使われた。知る必要性のある人だけが知っていれば良いという意味で、情報にアクセスする権限がない人はそうしてはいけないという意味にもなった。スパイの世界には秘密がたくさんあり、知る必要性のない人が知って漏れてしまうことを東西両陣営の政府は恐れていた。

 しかし、今は、「ニード・トゥー・シェア」が重要だという指摘が多い。シンガポールのIGCIの中谷総局長もそのひとりである。ニードートゥー・ノーはどうしても縦割りになり、誰が何を知っているのかも外部からは分かりにくい。その結果、必要な情報の共有が行われなくなる。米国の9・Uァロの際にもCIAとFBIとの間で情報共有が行われていないと糾弾された。今ではいかにして必要な時に情報共有ができるかという課題がインテリジェンス・コミュニティでは理解されている。

 ところが、さまざまな暴露で出てきた情報は、「ニード・トゥー・ノー」でも「ニード・トゥー・シェァ」でもない場合が多い。そもそも「ニード」とは関係ないことが多い。むしろ、本来なら知らないほうが幸せだったと思えるような情報も多い。知る必要も、共有する必要もなかった情報が出てきて、さらされてしまう。

 いわば「ライク・トゥー・シェア」とでも呼べる一種の規範がソーシャルメディアを通じて形成されつつある。共有したいから発信する情報が出てきている。これまでなら、今どこに誰といて何を食べているかという情報をリアルタイムで共有する手段がなかった。誰と会って食事をしたかという情報は、口伝てや手紙で伝えられた。しかし、今では、芸能人がレストランに現れると写真がすぐに撮られ、ソーシャルメディアで拡散してしまう。ファンが現場に飛んでくるということにもなりかねない。

 そうした情報には「ニード」はない。それを知らなくてはならない、あるいは共有しなくてはならない必要性はない。しかし、芸能人の写真を撮った人たちはそれを共有したくて仕方がない。自分がその場にいてその芸能人に会ったことをアピールしたい人たちが多い。さらには自分が何を食べ、誰といるかということを毎食ごとにさらさないと気が済まない。

 それはある意味では自分の幸福感のアピールであり、共有に対する欲求でもある。ツイッターでのリツイート(ツイートを転送されること)やファボ(ッイートに「お気に入り」マークが付けられること)は承認欲求を満たしてくれるものでもあり、フェイスブックのライク(「いいね!」というマークを付けてもらうこと)の数を競うことが日常になっている人も少なくない。

 いつの時代もさまざまな形の競争がある。武力を競うことが主だった時代、財力を競うことが主だった時代があった。今は影響力や魅力を競う時代なのかもしれない。かつては、影響力や魅力を測ることが難しかった。今はそれができるようになりつつある。

 いつの時代にもオピニオン・リーダーは存在する。しかし、それはごく少数の人に独占されていた。マスコミはその大部分を握ることができた。インターネットやソーシャルメディアはそのヒエラルキーをゆるやかなものに変えつつある。ブログやツイッターで影響力の大きいアルファブロガーやアルファツイッタラーの影響力は無視できなくなっている。

 しかし、たいていの場合は、ニュースヘのいち早いアクセスや暴露情報を競っている。マスコミがスクープを競っていた構造とそれほど変わらない。暴露情報を求めるのは、どこか人間の本質につながるのかもしれない。退屈な日常のスパイスとなるのがニュースであり、暴露情報である。新聞だろうとテレビだろうと、ツイッターだろうとフェイスブックだろうと、多くの人が毎日の習慣として何らかの情報を求めている。

 大規模かつショッキングな暴露は滅多に起きない。しかし、これからも起きるだろう。きっかけは何だとしても、秘密の暴露は他者を魅了することが多い。小さな暴露は日常的に起きることになるだろう。

 暴露によって傷つく人がいることも忘れてはならない。だからこそEUでは「忘れられる権利」が主張されるようにもなった。インターネットで暴露された情報はいつまでも検索エンジンの中をウロウロし、過去の暴露情報に悩まされる人も多くなっている。ましてそれが真実でなければ、過去にずっと傷つけられることになる。それは人の尊厳を傷つけることになる。

 現代における情報の暴露と拡散は、暴力と同じくらいに他者を傷つけ、精神的に追い込み、財力と同じくらい他者の行動を操作できるという点では、ひとつの権力にもなっている。暴露の脅迫は組織や人の選択を変えてしまうだろう。

 何も隠すことがない、恥じるところのない聖人にとっては何も問題ない。しかし、そうではない凡人は、自分の情報を積極的に管理し、守らなければ、暴露の世紀を生き抜くのは難しくなるだろう。
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