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ニーチエ『道徳の系譜学

『正義論の名著』より

「約束する人間」の誕生

 ニーチエはマルクスと同じように、正義という概念、「正しさ」という概念に背後に潜むイデオロギー的な装いの匂いを嗅ぎつける。そして「正しさ」の概念の系譜学的な考察を始めるのだ。「正しい」とは、そもそも最初はどのようなものだっただろうか。この問題をニーチエは二つの道筋で考える。第一の道筋では、国家における正義の弁証法というまっとうな観点から正義を考察するものである。しかしこの道筋には言わば「裏道」として、キリスト教のルサンチマンによる道が控えているのである。

 そもそも正義という概念が可能となるためには、ニーチエは「約束する人間」が誕生する必要があったと考える。これは約束し、責任をはたし、良心をもち、正義を貴 ぶ人間であるが、この人間は多くの苦労のすえに生まれたのである。

 ニーチエはこの新しい人間が登場した背景にあったのは、契約関係だと考える。特に借金をするための契約では、負債を返済することを確約しなければ金を借りることはできない。その約束が「厳粛で神聖なものであることを相手に保証するために、そして返済することが義務であり、責務であることを自分の良心に刻み込んでおくために、さらに万一返済しなかった場合のために、契約に基づいて債権者に抵当を差しだす」。抵当となるのは、自分の身体、妻、自由、生命のような、借り手にとって責重なものである。

 債務者が返済できなかった場合には、その責重なものは奪われるか、債務者の身体に残酷な責め苦が加えられる。「負い目」「良心」「義務」「義務の神聖さ」などの道徳的な概念は、この債務の法律の世界から生まれてきたのだと、ニーチエは指摘する。そして「この道徳的な概念の世界からは基本的に、血と責め苦の臭気が完全に拭い去られたことはなかった」とつけ加える。

 しかしこの血と責め苦の結果として、「約束を守る人間」が誕生したとニーチエは考える。この人間の暗い「前史」を背景として、もはや身体を抵当にいれなくても、きちんと約束を守り、責任をはたし、正義を遂行する人間が登場するのである。「約束することのできる動物を育成すること、これこそが、自然が人間についてみずからに課した逆説的な課題そのものではないか」。

 この「多くの過酷さと防圧と痴愚が含まれている」育成のプロセスによって、初めて「至高な個人」が、自律的な人間が誕生する。この「自由になり、真実の意味で約束することができるようになった人間、自由な意志の支配者となった人間」は、みずからに強い誇りをもつようになる。

 これは人間が人間として完成したということであり、ここに暴虐が自由をもたらすという逆説がある。「この人間のうちには、すべての筋肉が震えるほどの誇り高き意識がみられるだろう。これは、ついに彼のうちで実現され、自分のものとなったほんらいの意味での力の意識と自由の意識であり、人間そのものが彼のうちで完成されたという意識である」。

ルサンチマンの正義

 この価値の逆転にともなって、新たな正義の概念が生まれることになった。正義はもはや共同体と契約との関係においてではなく、善と悪との関係において考えられるようになる。優越した者がなすことは悪であり、不正である。善き人々がなすことは善であり、公正であると考えられるようになったからである。

 これは共同体の約束に違反する者に処罰を加える現世の権力者が不正であると考えることであり、正義の概念をまったく逆転させることになった。神の正義は彼岸で神の裁きとして示されるものであり、現世の正義とはまったく異質なものとなったのである。「〈みずから復讐することができない〉はくみずから復讐することを望まない〉と言い換えられ、ときには〈赦し〉と呼ばれることもある」ようになったのである。

 この逆転した論理によると、被害をうけた者が、加害者を赦すことで、恩赦を与える神のごとき地位に立つことになる。そしてみずから復讐するのではなく、別の何らかの形で加害者に罰が加えられると、「彼らはそれを報復と呼ばずに〈正義の勝利〉と呼ぶ」のである。これは「復讐を正義という美名で聖なるものと」することである。「正義とは根本では、傷つけられた者の感情を発展させたものにすぎないかのよう」である。
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