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ビジネスに使える「思考法」

『教養としての哲学』より

思考法としての「カテゴリー論」

 通常カテゴリーは「範躊」と訳され、物事を分類する基準という意味で用いられます。人間には、頭の中に入ってくる情報を、瞬時に種類に分け、階層化していく能力が備わっています。そうして本質的な内容を選びとっていくわけです。

 その仕組みを明らかにしたのが、ドイツの哲学者イマヌエル・カントの「認識論的カテゴリー」論です。カントは、人間が対象となるものをきちんと認識できるように、量、質、関係、様相の4つの項目と、それにかかる各々3つのサブカテゴリーを掲げました。これで4掛ける3の合計12個のカテゴリーになります。

 つまり、量については、単一性、数多性、総体性が、質については、実在性、否定性、制限性が、関係については、実体と偶有性、因果性、相互性が、様相については、可能と不可能、現実と非存在、必然と偶然が各々サブカテゴリーとしてぶらさがっています。物事はこの12のカテゴリーのいずれかに位置づけることで、認識が可能になるというのです。

 その大前提となっているのが、時間と空間という概念です。カントによると、時間と空間は、人間が物事を認識する際の物差しのようなものなのです。この物差しがないと、物事を頭の中で整理することなどできないと考えます。その意味で、時間や空間は、すべての物事の認識の前提条件になっているのです。

思考法としての「構造主義」

 フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、未開の民族について研究する中で、交叉イトコ婚の風習に着目しました。交叉イトコというのは、兄弟姉妹関係にある互いの親の性別が異なるイトコ、つまり「母の兄弟の子ども」や「父の姉妹の子ども」を指します。その際、男性とその母方の交叉イトコの女性を結婚させる風習が、未開の部族などに見られ、これを交叉イトコ婚といいます。

 このような風習はいかにも未開な社会ならではのように思われていたのですが、レヴィ=ストロースは、このシステムの全体構造に目をやることで、ある発見をしました。それは、男系家族の男子にとって、母方の叔父の娘は別の家族集団に属している点です。ということは、この関係にある男女が結婚する仕組みにしておけば、常に異なる家族集団間で人の交換が行なわれ、部族の存続を図れるというわけです。

 つまり、未開だと思われた風習は、全体構造を見てみると、意外にも高度なシステムを形成していたのです。こうしたものの見方を構造主義といいます。レヴィ=ストロースは、そんな構造主義の視点から、欧米中心主義批判を展開していきました。

思考法としての「超人思想」

 ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチエは、世の中では永遠に同じことが繰り返されているにすぎないといいます。彼はそれを永遠回帰と呼びます。たとえ生まれ変わったとしても、まったく同じことが永遠に繰り返されるということです。

 それは大変な苦痛なのですが、ニーチエはむしろ、その状態を受け入れることではじめて、強く生きていけると主張します。人生というのは何でもかんでも合理的で理性的に割り切れることばかりではありません。

 不合理なことも含めて受け入れるよりほかないのです。生の全面的な肯定が求められるわけです。だから強く生きていけるかどうかは、先はどの永遠回帰を理解したうえで、それでもなお「よし、もう一度」と思えるかどうかにかかっています。

 ニーチエは、そんなふうに永遠回帰を受け入れることができる存在を「超人」と呼びました。永遠回帰のような苦しみを受け入れることができる存在は、まさに超人なのです。逆に、超人になって苦しみを受け入れさえすれば、苦しみは消えてしまうわけです。

思考法としての「言語ゲーム」

 オーストリア出身の哲学者ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインによると、私たちは日常生活において、言語を交わし、意味を解釈するゲームを行っていることになります。彼はそれを「言語ゲーム」と呼びます。そのゲームのルールは、場所や状況によって決まってきます。言語活動というのは、生活の各場面によって決定されてくるものなのです。逆にいうと、言語に関するルールは決して一つではないということです。

 仲間内だけで通じる言語もあるでしょうし、場合によっては自分だけのルールというのも考えられます。ただ、自分だけのルールにのっとって発言したとしても、それは誰にも理解されることはないのです。ルールとは、あくまでその場の人たちに共有されたものでないとルールたり得ないからです。

 やっかいなのは、そのルールが必ずしも明示されているわけではない点です。だから洞察力が必要なのです。どのような言葉が飛び交い、どんな言葉が求められているのか、それを見つけることです。

思考法としての「他者論」

 エマニュエル・レヴィナスは、リトアニア生まれのユダヤ系の哲学者で、後にフランスに帰化します。ユダヤ系として捕虜収容所で過ごした経験から、彼は人間一人ひとはその個性や尊厳に着目することになります。ただ、レヴィナスは、西洋の哲学に脈々と流れる「私」中心の思想を批判します。

 どうして「私」中心であることがいけないのかというと、他人を同化してしまうからです。私たちは自分中心で考える時、他人も同じ考えをもっているかのようにふるまいます。仮にそうでないと気づいた時には、自分と同じ考えをもつように仕向けるのです。たとえば、説得したり、強要したり。そこが問題なのです。

 人間というのは、一人ひとりが個性をもった、異なる存在です。まさに無限に可能性を秘めた、無限に異なる存在なのです。実は、私たちはそんな無限に異なる他者のおかげで存在しているといってもいいでしょう。だからこの世には他者が必要なのです。
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