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ムハンマドの奇跡

『歴史があとずさりするとき』より

七月一四日、朝。もしもし、スタジオ、聞こえますか? はい、こちらにはそちらの声がよく届いていますよ。OKです。ここはエルサレム、城壁のすぐ外、シオン山からの生中継です。夜明けとともに町への攻撃が始まりました。私の今いるところからほぼ四角形をしている町の城壁を見下ろすことができます。東の方は昔の神殿の平地で、現在は岩のドームがあります。北西にはヘロデの門、北東には、城壁の外ですが、オリーヴ山、南西にはダヴィデの塔が見えます。城壁は頑丈で、それだけでなく、東にセドロン川の谷に面した絶壁があり、西の方もまた他の谷に面しているのです。したがって、キリスト教同盟軍は南西から、または北からしか攻め入ることができません。

今は太陽が上がってきて、木造の巨大な櫓や、城壁に近寄るために大堀を越えようとしているさまざまな種類の投石機や弩砲がよく見えてきました。包囲用の機械がどれだけ決定的意味を持っていたかは、皆さん覚えているでしょう。町はすでに六月七日から包囲されており、二一日に、勝利は間近だと予言した狂信的な隠遁者の言葉を信じて最初の攻撃が試みられましたが、それは大失敗に終わりました。結局、キリスト教徒の軍隊は城壁をよじ登るための十分な設備を持っていないことに気がついたのです。指揮官たちはそのことをよく分かっていたのですが、この戦争にはいろいろな圧力がかかっています。戦争をうまく行うには休戦や敵との妥協や駆け引きも必要であり、そして何にも増して落ち着きが必要だと貴族や騎士たちはよく分かっているのです。しかし今、膨大な数の巡礼者が軍団の後に付いてきています。彼らは、貧乏で恵まれない人たちばかりで、神秘主義にとりつかれていたり、略奪の欲望に駆り立てられています。エルサレムに向かう途上で、ライン川やドナウ川沿いに来たときにュダヤ人のゲットーを襲ったり燃やしたりしていた、まさにその人たちなのです。危険な人たちで、彼らを抑えるのは困難です。

これがおそらく、六月一二日の敗北の主な原因だったと私は思います。その敗北のせいで▽刀月もの飢餓状態が過ぎてしまいました。真の飢餓です! なぜなら、エルサレムを統治しているイフティハール・アル=ダウラが、町の外のすべての井戸に毒薬を投じるように指示していたからです(町の内部には貯水槽のすぐれたネットワークがあります)。その上に、キリスト教徒、とくに重い鎧に押しつぶされそうな兵士は、この季節の地獄的な暑さに耐えられませんでしたし、水、しかも汚れた水を、やっと少しだけしか手に入れることができませんでした。よい飲み水は南の方にしかなく、そこは敵の城壁に近すぎる場所なのですから。また、その間に包囲用の機械をつくるための木材や道具を探し出す必要もありました。しかしこのあたりは不毛な丘ばかりなので、木材を遠くから運ばなければなりませんでした。それから道具なんですが、六月の半ば頃になってやっとヤッフアの港に入港した、ジェノグアからのガレー船二隻とイギリスからの戦闘帆船四隻がロープや釘やボルトなど、戦争用の大工道具を運んできました。おかげで今、高度な技術による一式の武器を使って攻撃することができるようになりました。

たった今、城壁に近づこうとしている三台の四階建ての巨大な櫓が見えてきました。武装した兵士であふれています! それぞれの櫓から跳ね橋を城壁に引っかけることができます。問題は城壁までたどりつく、つまり大堀を埋めることですね。何の防御もなく敵の射撃の的になったまま……。大変な仕事で、数多くの犠牲者が出るでしょう。しかし、それが戦争なのです。

わが軍団は何人ぐらいに上るのでしょうか。あり得ないと思われるかもしれませんが、確定することができませんでした。キリスト教同盟を構成している軍隊はさまざまで、そのおのおのの指揮官も異なっていますし、指揮官同士は名誉ある地位を得ようと互いに争っていますので、結果的にはっきりしたデータを入手することができません。そして巡礼者の群集もいます。全部合わせて五万人ぐらいに上るだろうと言っている人もいますが、これは少々誇張された数宇なのではないかと私自身は思っています。大めに見積もると、歩兵が二万二〇〇〇人と騎馬兵が二三〇〇人、少なめに数えると騎馬兵が一〇〇〇人と歩兵が五〇〇〇人と言われています。ムーア人は、職業軍人に限って言えば、数千人のアラブ人とスーダン人だけですが、町に住んでいる人々もいます。彼らは皆、戦いに備えています。その上に、エルサレムの総督イフティハールはなかなかの名案を生み出し、町からすべてのキリスト教徒を追い出しました。その結果、今これらのキリスト教徒を養わなければならないのはわが軍隊となり、イフティ(ールは扶養する必要のある人間を減らせただけでなく、潜在的にサボタージュを引き起こし得る人間も厄介払いすることができたのです。イフティハールは町の中にユダヤ人を残しましたが--かなりの額の身代金と引き換えにと推測されます--それは、もしユダヤ人を町から追い出したら、キリスト教の巡礼者が彼らを虐殺したに違いないからです。
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