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インド現代史 エピローグ--インドが生き残る理由

『インド現代史』より

もしインドがざっと見て五〇パーセントの民主主義国であったなら、その統一はだいたい八〇パーセン卜というところだろう。カシュミールと東北インドの一部は政治的独立を要求する反乱勢力の支配下にある。一部の中央インドの森林地帯は毛沢東主義の革命家によって握られている。しかし、これらの地域は、それ自体としては広いにしても、インド国家の主張する全領土の四分の一をかなり下まわる。

インドの五分の四以上の領土では、選挙で選ばれた政府が権力と権威の正当性を享受している。この領域内では、インドの市民は生き、学び、仕事をし、ビジネスに投資する自由がある。

インドの経済的な統合は、政治的統合の帰結である。両者は相互補強的な循環の関係にある。インド全域にわたり、物や資本や人間の移動が活発であればあるほど、これにより結局は一つの国であるという意識が強まるだろう。独立後の最初の一〇年は、国営企業がこうした統一感を強化するうえでもっとも貢献した。ビラーイーの大規模な製鉄所のようなプラントでは、アーンドラ出身者がパンジャーブやグジャラートからの出身者と並んで働き、生活し、かれらがみな同じ国民の二鄙だという事実を実感しつつ、他の言語、習慣、料理などへの理解を深めた。人類学者のジョナサンーパリーが論じるように、ネルー的な想像力のなかでは、「ビラーイーとその製鉄プラントは歴史の松明をかかげ、鉄を産み出すだけでなく、新たな種類の社会を産み出すものとしてみなされた」。この試みは失敗ではなかった。ビラーイーで生まれ育った第一世代の労働者の子供たちの間では、州に対する忠誠よりは、より包摂的な愛国主義、「よりコスモポリタンな文化スタイル」が優越していた。

より最近では、これほど強烈ではないにせよ、民間セクターが国民統合のプロセスをうながした。タミル・ナードゥ州に本社のある会社がハリヤーナー州にセメント・プラントを建てる。アッサムで生まれ教育を受けた医師がボンベイで病院を開業する。ハイダラーバードのIT技術者の多くはビハール州からやってくる。移動は専門職種に限られない。ウッタル・プラデーシュ州の床屋が、ラージャスターン州からの大工とともに、バンガロールで働く。しかし、流れが対称的ではないことは指摘する必要がある。「ブーム」の都市や街がよりコスモポリタンになる一方、経済的に置き去りにされた州はますます深く州優先主義にはまり込むのである。

独立インドは、考えようによれば、ヨーロッパの過去であると同時に未来でもある。それは、近代化、工業化そして都市化社会の矛盾を、より強く激しいかたちではあるが、再現しているという点において、ヨーロッパの過去である。しかし同時にそれは、多言語、多宗教、多エスニックな政治経済共同体を創り上げようとするヨーロッパの努力を、この半世紀の間に先取りしたという点で、ヨーロッパの未来でもある。

あるいはインドは、「この惑星の最初の多エスニックな民主主義国」と正当にも讃えられるアメリカと比較できるかもしれない。アメリカの約二世紀のちに生まれたインド共和国は、今日では、最大の多エスニックな民主主義国であると安んじていうことができる。しかし、それぞれを構成するエスニシティ間の関係を規定する(もしくは緩和する)手法は、いくぶんか異なっている。なぜなら、サミュエル・ハンチントンが最近になって論じたように、アメリカ国民は、「キリスト教、プロテスタントの価値と道徳原理、勤労倫理、英語、法と秩序それに政府の権力の限界に関するイギリスの伝統、さらにヨーロッパの美術、文学、哲学そして音楽の遺産」を含む「中心的な要素」からなる「信条的文化」によって一体となっているからである。まさに、「二十世紀において、パキスタンとイスラエルが、その根拠の一部として、それぞれムスリムとユダヤ教徒の社会として創造されたとまったく同様に、アメリカはプロテスタント社会として創造された」のであった。

アメリカはいうまでもなく、移民からなる国民である。この国の歴史のほとんどの時代を通じて、新たな集団が到来しては、支配的な文化と融合した。ハンチントンは、「アメリカ史を通じて、アングローサクソン・プロテスタントでない人々は、アメリカのアングロ・プロテスタント文化と政治的価値とを採用することでアメリカ人となった」と書く。しかし、近年のより新たな移民のグループは、かれらの固有のアイデンティティを維持しようとしている。その最大のものはヒスハニックで、かれら自身の飛び地に住み、自らの食べ物を料理し、自らの音楽を聴き、自らの信仰に従い、さらにもっとも重要なことは、自らの言語を話す。ハンチントンは、もしこれらの集団を早急に同化させなければ、かれらは「アメリカ全体を二言語、二文化社会に変換する」であろうと危惧した。

同化の古いモデルであるアメリカ・モデルは「メルティング・ポット[るつぼ]」と呼ばれてきた。個々の集団は、るつぼにそれぞれの香りを投げ込み、そこから単。の、同じ味のする飲み物を味わう。いまや、アメリカの社会と国民は、それぞれのグループが、その外見においても行動においても、はっきりと目立ち、異なり、区別される「サラダ・ボウル」に類似してきた。

ハンチントンはサラダ・ボウルの理念にはまったく関心がない。かれにとって、アメリカは、かつても今後も、永遠に「単一の深く浸透した国民文化をもつ社会」でなければならない。かれは国民が脅威にさらされたとき、アメリカ人はこの文化に強く同一化すると見ている。戦争は国民の団結だけでなく、文化的統一をもたらすのである。もともとのアメリカの信条は、土着のアメリカ人、イギリスの植民者、そして南部諸州との戦争の結果として創り上げられた。9・H同時多発テロ事件は、またしても愛国主義と国民的団結を前面に押し出した。このエネルギーの散逸を危惧するハンチントンは、かれの考えによれば「わが国の統一と力」の源泉であるこの信条に、徹底的に立ち戻るよう、要請するのであび。

興味深いことに、ハンチントンの見解に共鳴しているのは、オーストラリアの首相ジョン・ハワードの最近の声明である。この国もまた、当初はほとんどがヨーロッパ人であったが、近年ではよりはっきりとアジア的な性格をとる、何次かにわたる移民の波にさらされてきた。ハワードは複数の文化がオーストラリアにおいて共存する可能性を否定する。「あなたがたは支配的な文化をもたねばならない。われわれの文化はアングロ・サクソン文化、一言語、一文学、一制度であび」とハワードは主張した。

ハンチントン・ハワード流の理屈は、もちろん、インド史を学ぶものには、じつになじみ深い。インドでは、そうした考えはM・S・ゴールワルカルのような政治イデオローグや、ジャナ・サンガおよびBJPのような政党によって主張されてきた。かれらは、インドは「支配的文化をもたねばならない」と主張し、この文化は「ヒンドウー」文化であるとする。実際には、こうした見解は、インド国家の創設者たち、インド憲法の起草者たち、さらには独立後の最初の数次の政権を指導した人々によって受け入れられなかった。こうしてインドは、るつぼであるよりはサラダ・ボウルの国民となったのである。

インドはこの歩みを続けてきた。宗教的、言語的多様性、まさにハワードやハンチントンが国民の生存と団結に有害とみなしたところの多様性を維持してきた。イスラエルやパキスタンのように、特定の信仰や特定の言語をもつ市民を有利に扱うことによって、異なるもう一つ道を歩ませようとする圧力に、インドは抵抗を続けてきたのである。
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