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中国における共産主義の勝利

『冷戦史』より

 一九四九年一〇月一日の中華人民共和国の建国宣言は、毛沢東をはじめとする中国共産主義運動の指導者たちにとって、大きな勝利を意味するものであった。というのも彼らは、その二〇年前、蒋介石率いる与党国民党に大敗し、追跡の対象となり、そして消滅寸前まで追い込まれていたからである。しかし中国建国が持った意味はそれだけではなかった。それは、冷戦の性質とその戦場を根本的に変化させ、戦略的にもイデオロギー的にも、また国内政治においても重要な影響を与えたのだ。

 第二次世界大戦中、アメリカのローズヴェルト政権は、巨額の軍事・経済支援を行って蒋介石が率いる中華民国政府を強化しようとしてきた。しかし蒋介石は、より多くの援助を求め、満足する様子を見せなかった。ローズヴェルトには中国軍を効果的な抗日武装勢力にすると同時に、蒋介石政権を、戦後アジア情勢を安定化させ、勢力均衡を維持する役割を担いうる、信頼できるアメリカの同盟国に転換したいと考えていた。こうした目的を果たすべく、ローズヴェルトは一九四三年にエジプトのカイロで蒋介石と会談したのであるが、その前後にイランの首都テヘランで開催された三巨頭会談に蒋介石は招かれてはいなかった。カイロ会談の際にローズヴェルトは、中国は世界大国であると持ち上げ、蒋介石に取り入ろうとした。その後ローズヴェルトは、中国は、アメリカ、ソ連、イギリスと並ぶ「四人の警察官」の一人として、戦後の平和維持に貢献する立場にあると述べてもいる。ローズヴェルトが、このように中国を持ち上げたのは、さまざまな思惑からであった。米中関係の強化を目指していたことに加えて、蒋介石が要求していた更なる物的支援を、アメリカが拒否したことを埋め合わせたり、中国の参戦を維持して、日中間の単独講和締結という悲劇が起こるのを阻止したりすることなどもその目的だった。しかしローズヴェルトが象徴的な外交パフォーマンスを行っても、大戦中に国民政府の首都であった重慶にアメリカが定期的に軍事・外交使節団を派遣しても、蒋介石の軍隊に実効的な軍事的貢献を行わせることはできなかった。

 一九四四年までにアメリカの政策決定者たちは、腐敗と賄賂の蔓延を許す無能な蒋介石政権が長期的に成功する可能性を、見限りつつあった。一方、国民政府の側では、自らの存続に対する主要な脅威は、日本ではなく、中国内の共産主義勢力だと確信するようになっていた。なぜなら、中国がアメリカに対して大規模な支援を行うか否かにかかわらず、同盟国アメリカが日本を打倒することは確実だったからである。一方、日本による占領期間中に毛沢東の優秀なリーダーシップのもと、中国の共産主義勢力は恐るべき軍事的・政治的勢力へと成長し、中国北部および中部の大部分を支配するようになっていた。蒋介石と彼の側近たちは、日本軍による侵略と戦うために人員と物資を割くのではなく、戦後必ず訪れると予想された共産主義勢力との対決に備えて、貴重な資源を節約することを選んだのである。

 一九四五年二月のヤルタ会談でローズヴェルトは、アメリカの対中政策をめぐるジレンマを、異例の手段を用いて解決することを模索した。対日戦に消極的な蒋介石に完全に幻滅していたローズヴェルトは、ヨーロッパでの戦闘が終結してから三ヵ月以内に、ソ連が対日参戦するとの確約を得ることに成功した。スターリンが求めた代償--ソ連による、満洲と外モンゴルにおける帝政ロシア時代の利権の再獲得を支援するというローズヴェルトの約束--はローズヴェルトにとっては納得できるものだった。太平洋戦争の結末はきわめて悲惨な流血の事態になると予想されており、それゆえローズヴェルトは、ソ連参戦によってアメリカ人の死者数を最小限に抑えることを重視していた。八月一四日には中ソ友好同盟条約が締結され、この条約の中で蒋介石は、自らが率いる政府の法的主権をソ連が承認することと引き換えに、ソ連の利権を認めることに同意した。

 このような状況のもとで、中国の共産主義者たちが、彼らが同じイデオロギーを共有する同志と考えていたソ連の共産主義者たちに裏切られた、と感じたのも無理からぬところであった。スターリンが、ソ連の国益に関する打算を、共産主義革命の同志たちが掲げていた大義に対する感情的な思い入れよりも優先したことは明らかだった。実際、スターリンにとっては、統治するのが誰であろうと、強く、統一された中国よりも、弱く、分裂した中国のほうが望ましかった。中国の激しい民族主義勢力が権力を握った場合、すべての中国領に対する主権を主張し、スターリンが切望していた勢力圏を脅かすことになるかもしれない。このような懸念からスターリンは、中国の共産主義者たちがソ連に依存し、従属し続けるような状況を維持したいと考えていた。その一方、リスクを冒すことを嫌がる性格であったスターリンは、アメリカを挑発することも避けたいと考えていた。事実、スターリンは一九四五年八月にソ連軍を中国東北部に進出させて満洲を占領し、満洲その他の国境地帯において新たに獲得した商業上の権益を確保したことで満足していた。スターリンにとって毛沢東は、「マーガリンのような、まがい物」の共産主義者一派を率いる、やっかいで御しがたい新参者に過ぎなかった。それゆえ毛沢東の望みは、ソ連本国の利益よりも後回しにされたのである。

 日本が降伏した後、中国の政治情勢は次第に悪化していった。蒋介石と同じく、毛沢東も、共産党と国民党が真の和平を達成できる公算はきわめて低く、内戦は不可避だ、と読んでいた。八月一一日に出された共産党内部の指令において、毛沢東は、「内戦に備えるべく、力を結集する」よう、党幹部と軍指導部に命じた。一九四五年秋には、共産党軍と国民党軍が中国東北部で衝突し、共産党軍を駆逐するために蒋介石は、アメリカ製の装備と輸送車両を使って激しい攻撃を展開した。こうして、統一された、平和で親米的な中国を実現したいというアメリカの希望は確実にしぼんでいった。中国に駐留していた米軍小隊の司令官であったアルバート・ウェデマイヤー将軍は、蒋介石を徹底的に支援するようアメリカ政府に働きかけた。ウェデマイヤーは次のような見立てを示している。「もし中国がソ連の傀儡国家になるようなことになれば--それが中国共産党の勝利がまさに意味するところであるが--ソ連がヨーロッパ大陸とアジア大陸を実質的に支配することになるだろう」。しかし、アメリカ政府内部には、こうした悲観的な見方に反論する向きもあった。蒋介石が中国共産党を軍事的に敗北させることはできないから、共産党と国民党の交渉で和平を達成するより他には、内戦を回避する方法はない。内戦が発生すれば中国が不安定化することは確実であるから、アメリカの政策目標に重大な損害をもたらす。こうした考えに基づいて、蒋介石は共産党を打倒するのではなく、共産党と妥協する必要があると主張する者もアメリカ政府内部には存在した。そして一九四五年末に卜ルーマン大統領は、当時アメリカで最も尊敬され、かつ優れた軍人であったジョージ・マーシャル将軍を、国民党と共産党の内戦を平和的に解決するための調停役として中国に派遣したのである。

 一九四六年初頭にマーシャルは、一時的な停戦の実現に成功したが、すぐにそれは破綻することになった。蒋介石と毛沢東を互いに妥協させ和解を図るというマーシャルの試みは、究極的には、共産党と国民党の双方が参加する連立政権において、両党が権力を共有することが可能なはずだという幻想に基づくものであった。マーシャルは中立的な立場を維持したが、互いに相手を信頼せず、権力を共有するつもりもない共産党と国民党との間にはどうしようもなく深い溝があったため、彼の試みは失敗に終わった。一九四六年の末までにマーシャルは、この対立を解決する手段は武力しかなく、おそらく蒋介石に勝ち目はないとの結論に至ったが、この見立ては正しかった。トルーマン政権は蒋介石政権に対する支援を続けており、それは日本の降伏から一九五〇年までの間に総額二八億ドルにのぽった。だがそれは、アメリカの支援がなければ、劣勢にある国民党軍が挽回を図ることができないという考えに基づいて行われたものではなかった。むしろ、それは議会とメディアの中国国民党支持者(いわゆる中国ロビー)による攻撃から、トルーマン政権の政治的立場を守るためのものであった。

 一九四八年末までに国民党は敗北し、蒋介石とその側近たちは中国本土から台湾へと逃亡した。一九四九年一〇月に毛沢東は、北京の天安門で中華人民共和国の建国を劇的に宣言したが、このことは単に、多くの専門家たちによって、ずっと以前から予想されていた結末が公式のものとなったことを意味したにすぎなかった。

 中国内戦における共産党の勝利は、基本的には、中国国内のさまざまな潮流が複合的に作用した結果であった。しかし、それは不可避的に、冷戦に対しても大きな影響を与えた。アメリカと蒋介石の関係は不安定で、互いに対する不信感に満ちていたし、ソ連と毛沢東の関係も同様であった。しかし、それでもアメリカが支援する国民政府が、ソ連が支援する共産主義運動の前に敗北を喫したのである。中国での事態の展開に関心を持っていたアジアやヨーロッパ、その他の地域の第三国は、中国内戦の結末は西側にとって大きな敗北であり、反対に、ソ連と世界の共産主義にとって歴史的な勝利だという評価をすぐに下した。またアメリカ国内には、トルーマン政権が、裏切りとは言わないまでも、熟慮の足りない政策によって中国を喪失させたと批判していた勢力がいたが、こうした人々の見方も同様であった。一方、トルーマン政権の政策決定者たちは、中国共産党の勝利は、アメリカにとって大きな鎚鉄ではあったものの、戦略上の大失敗ではないと判断して、その結果をある程度冷静に受け止めていた。第一に、ディーン・アチソン国務長官とその側近たちは、戦争によって破壊され貧困にあえぐ中国を--少なくとも当面の間--世界の勢力均衡において決定的に重要な国だと考えてはいなかった。そのため、中国におけるアメリカの利害は、ヨーロッパや日本はもとより、中東におけるそれと比べてすら、同じような重要性を持つものではなかったのである。第二に彼らは、共産主義体制下の中国が、必ずしも、統一された中ソ・反米ブロック勢力へと変化していくとは限らないと結論づけていた。外交戦略に携わるアメリカ政府高官たちは、スターリンのソ連と毛沢束の中国は、互いに対立する地政学的な野心を持っているから、それが両国間に強い結束が発展する可能性を阻害するとも考えていた。そして最後に、アチソンとその側近たちは、中国は喉から手が出るほど経済支援を必要としているため、そのことがアメリカにとっては、中ソ二つの共産主義勢力の間にくさびを打ち込む好機となると考えていたのである。

 歴史家の中には、この重要な局面でアメリカは、中国と友好的、もしくは少なくとも実務的な関係を築くための好機を逃したと考える者もいる。実際、中国共産党政府の内部には、復興に必要な支援を獲得し、ソ連に対する過剰な依存を避けるため、アメリカと前向きな関係を築いたほうがいいと考える勢力もいた。一方アメリカ側のアチソン国務長官は、国民党の敗北で生じた「混乱が収まれば」、アメリカ政府は北京政府を外交的に承認し、内戦で損なわれたアメリカの利益をいくらかでも救い上げることができると考えていた。しかし近年公開された中国側の証拠資料を見れば、そのような「失われたチャンス」が実際には存在していなかったことが明らかである。毛沢東は、中国を立て直そうという決意--長期にわたって中国を揉鋼してきた欧米の帝国主義勢力に対する激しい怒りがそこに油を注いでいた--に突き動かされていたし、国内では、自身の大きな革命的な野心に対して一般国民の支持を取り付けるため、外敵を必要としていた。それゆえ、毛沢束は自然にソ連陣営へと傾いていったのだ。また毛沢東が、アメリカに対して中国側から和解を申し出るべきであるという部下の提案を、ことごとく拒否したのもそのためである。そのかわりに毛沢東は一九四九年一二月にモスクワを訪問した。そして依然として[中ソ関係の拡大に]慎重な姿勢を崩さなかったスターリンから冷淡な処遇を受けながらも、中ソ友好同盟相互援助条約に関する交渉にこぎつけた。この中ソ条約は、どちらか一方が第三国から攻撃を受けた場合、もう一方が援護に駆けつけることを義務づけるものであった。この条約はおそらく、この時までにはすでにアジアにしっかりと根をはっていた冷戦の存在を、最も不吉な形で象徴するものだったといえるだろう。
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