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ネットワーク社会の政治経済学

『よくわかるメディアスタディーズ』より

グローバルなネットワーク社会の諸層を捉えるために

 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが2000年に呈示した〈帝国〉という概念は、グローバル化する現代世界を理解するのに役立つ案内図の役割を今も果たしている。一言でいえば、〈帝国〉とは--ある中心的な国家の主権とその拡張の論理にもとづく、かっての帝国主義とは異なり--、支配的な国民国家群をもその節点として組み込んでしまうようなネットワーク状のグローバル権力のことである。現在の世界は、「二極化」(冷戦構造)でも「一極化」(アメリカや中国といった超大国をその中心とするようなグローバル帝国主義)でも「多極化」(支配的な国民国家群の支配する世界)でもなく、「無極化」すなわち多種多様な権力がネットワーク状に結びついたグローバル権力(支配的な国民国家群や、IMF・世界銀行・諸種のNGOといった超国家的な政治的・経済的制度、Google・Facebook・Apple・Amazon等のコンピュータ・ネットワークを基盤にした巨大企業やメディア・コングロマリットといった一連の権力のあいだの、不均等ではあるが広範な協力関係にもとづくもの)の構築、つまりは、中心も外部もない〈帝国〉の形成へと向かいつつある。

 ここでは、この〈帝国〉という概念を、今日のグローバルなネットワーク社会を捉える上でいまなお有効な視角として導入しつつ、ウェブ2.0以降のメディア・テクノロジーとデジタル文化が織りなすネットワーク社会のさまざまな層(レイヤー)へとアプローチするための政治経済学的な研究方法とその分析装置について考えてみたい。

ネットワーク社会と制御(コントロール)社会の結びつき

 ネグリとハートが哲学者ジル・ドゥルーズの分析を引き継いで明らかにしたように、帝国主義から〈帝国〉への移行は、規律(ディシプリン)社会からグローバルな制御(コントロール)社会への移行と重なり合うものとしても捉えることができる。その意味で〈帝国〉は、近代の規律社会からポスト近代の制御社会への移行および、制御社会のグローバル化によって特徴づけられる、ネットワーク状の主権形態である、と言えるだろう。

 規律社会が組織体に所属する各成員の個別性を型にはめることへと向かうのに対し、制御社会はそのさまざまなレイヤーにおいて数多くのパラメーターを貰整することを通じ、私たちの主体性やアイデンティティを絶えず分解しつつ再構成することへと向かう。 ドゥルーズは言う、「いま目の前にあるのは、マス(大衆)と個人の対ではない。分割不可能だった個人(individus)は分親によってその性質を変化させる『分人』(dividuels)となり、マスのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか『データバンク』に化けてしまう」、と。制御社会が私たちに指し示しているのは、個々人のアイデンティティが分散型の情報ネットワークヘと流入し、そこに組み込まれてゆくという事態にほかならない。また、そのようにして、今日のグローバル化する制御社会においては、個体化の分散的な様式やネットワークが作動することになる。と同時にそれらの様式やネットワークは、個々人のクレジットカードの使用履歴やブラウジング履歴、信用評価や消費者プロファイル、医療記録や生体認証情報とぃった一連のマイクロなデータの流れや集積に応じて微細かつ無際限に変化しながら、監視され、調整されっづけることになる。制御社会におけるコントコールは、遠隔操作やコントロール・ルームといった言葉が連想させがちな、 管理〉や〈操作(マニピュレイション)〉にかかわるものというよりは、脱中心化された分散的な〈調整(モジュレイション)〉にかかわるものなのである。

コミュニケーション資本主義のメカニズム

 こうしたグローバルな制御社会としての〈帝国〉は、諸国家の領域を横断するグローバル資本とウェブ2.0以降の多種多様なメディア・プラットフォームやアルゴリズムとも連携している。そのようなかたちで〈帝国〉は、情報と情動が結びついたコミュニケーション・ネットワークを通じて、準個体的な「分人」のレヴェルで情動の微細な流れを調整するとともに、超個体的な「データバンク」のレヴェルで集団的なトレンドにかかわるビッグデータを採掘することにより、人々の関心や注目、生きた情報や価値を捕獲するための諸装置(インターネット関連で例をあげるなら、検索エンジンやソーシャル・メディアのプラットフォーム、ゲームサイトや動画サイト、通販サイトやコミュニティ・サイト、またそれらを支えるアプリケーションやアルゴリズムの数々)を整備しているのだ。かつて近代の政治理論家たちが唱えていた、民主化を促進するものとしての能動的な相互作用やコミュニケーションの働きは、今や〈帝国〉の論理によって実質的に包摂されてしまったとも指摘できるだろう。

 この点に関して政治学者のジョディ・ディーンは、ウェブ2.0とりわけソーシャル・メディアの普及と浸透によってますます強化されつつある、コミュニケーション自体を資本主義的生産にとっての支配的形態とする、そのような編成のことを、コミュニケーション資本主義と呼んでいる。ごく大まかにいって、産業資本主義が労働力の搾取をその基盤としていたのと同じように、コミュニケーション資本主義はコミュニケーションの搾取に立脚している。またそれゆえ、コミュニケーション資本主義におけるコミュニケーションは、かつてユルゲン・ハーバーマスが示唆したような、理解に到達することを志向する行為を指すものではない。別の言い方をすれば、ハーバーマスの呈示したコミュニケーション的行為のモデルにおいては、そのような志向性にもとづいたメッセージの使用価値こそが重要であったのに対し、現在のコミュニケーション資本主義においては、情動や情報の流れ・流通=循環・共同利用に寄与すること。つまりはメッセージの交換価値の方がその使用価値よりも重視されるのである。

 ブログやTwitter・YouTube・Facebook 等々を通して間断なく流通し、循環しつづける、さまざまの寄与--言葉やつぶやきや文章、音楽やサウンド、写真や動画、ゲームやビデオ、コードやウィルス、ポットやクローラー等々--は、必ずしも自分か理解されることを必要とはしていない。むしろ、それらがぜひとも必要としているのは、反復され、複製され、転送されるという、サーキュレイションのプロセスそのものなのである。このように、コミュニケーション資本主義における情報と情動のフローは、今や終わりのない、果てしなくつづくループを形づくっている、とみなすべきだろう。

 それと同時に、無数の人々がコネクトしつつ織りなす、そうした情報と情動のフローやコミュニケーションのループが、ソーシャル・メディアのプラットフォームにおいて独占的に私有され、収益化される(広告・マーケティング収入や金融レントをもたらす源泉として)と同時に絶え間なく監視され、制御されている(ビッグデータの採掘やメタデータの抽出を通じて)という点にも留意しなけばならない。

 このように、グローバルなネットワーク社会と制御(コントロール)社会の組み合わさった〈帝国〉は、コミュニケーション資本主義をその原動力の1つとして作動している、と考えることができる。より細かく見れば、グローバルなネットワーク社会を構成する情報コミュニケーション・ネットワークのさまざまな層(レイヤー)自体のなかに、制御と捕獲のテクノロジーと権力がしっかりと埋め込まれているわけである。
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