未唯への手紙
未唯への手紙
沖縄決戦の敗因
『戦後70年』より 昭和天皇独白録(抜粋)第二巻
沖縄決戦の敗因
之は陸海作戦の不一致にあると思ふ、沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初め二ケ師団で充分と思ってゐたが、後で兵力不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思った時には已に輸送の方法が立たぬといふ状況であった。
所謂特攻作戦も行ったが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だったのではないかと思ふ。
特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。
海軍は「レイテ」で艦隊の殆んど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。
陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿くしい戦闘であった、詳〔し〕い事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思った。
沖縄で敗れた後は、海上戦の見込は立たぬ、唯一綾の望みは、「ビルマ」作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を与へ得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬと云って反対した。
当時賀陽宮が陸大の校長だったから、この話をしたら、一時的には出来るかも知れぬが、とにかく研究して見ようと云ふ事であった。然し之はうやむやになって終った。
〈注〉特攻については、昭和十九年十月二十五日のいわゆる〝神風特別攻撃隊〟の第一弾が実行され、その報告を聞いたときの天皇の言葉がすべてをあらわしている。
「号令台に上がって中島中佐はこの電文を読み上げた。『天皇陛下は、神風特別攻撃隊の奮戦を聞し召されて、軍令部総長にたいし次のようなお言葉をたまわった--〝そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった〟--」(『昭和史の天皇』)
結論
開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。
終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまゝその裁断を私に求めたのである。
そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。
今から回顧すると、最初の私の考は正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起った位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「べトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであらうか。
日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈ゝと云ふ時に噺起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段と石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作って之に補給しよーとすれば、日本の産業を殆んど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡〔び〕る、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。
開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であっだのだから、私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になっ〔た〕であらうと思ふ。
沖縄決戦の敗因
之は陸海作戦の不一致にあると思ふ、沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初め二ケ師団で充分と思ってゐたが、後で兵力不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思った時には已に輸送の方法が立たぬといふ状況であった。
所謂特攻作戦も行ったが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だったのではないかと思ふ。
特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があった。
海軍は「レイテ」で艦隊の殆んど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。
陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿くしい戦闘であった、詳〔し〕い事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思った。
沖縄で敗れた後は、海上戦の見込は立たぬ、唯一綾の望みは、「ビルマ」作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を与へ得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬと云って反対した。
当時賀陽宮が陸大の校長だったから、この話をしたら、一時的には出来るかも知れぬが、とにかく研究して見ようと云ふ事であった。然し之はうやむやになって終った。
〈注〉特攻については、昭和十九年十月二十五日のいわゆる〝神風特別攻撃隊〟の第一弾が実行され、その報告を聞いたときの天皇の言葉がすべてをあらわしている。
「号令台に上がって中島中佐はこの電文を読み上げた。『天皇陛下は、神風特別攻撃隊の奮戦を聞し召されて、軍令部総長にたいし次のようなお言葉をたまわった--〝そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった〟--」(『昭和史の天皇』)
結論
開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。
終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまゝその裁断を私に求めたのである。
そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信んずる所に依て、事を裁いたのである。
今から回顧すると、最初の私の考は正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起った位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「べトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであらうか。
日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ち乍ら愈ゝと云ふ時に噺起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段と石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作って之に補給しよーとすれば、日本の産業を殆んど、全部その犠牲とせねばならぬ、それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡〔び〕る、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。
開戦当時に於る日本の将来の見透しは、斯くの如き有様であっだのだから、私が若し開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない、それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行はれ、果ては終戦も出来兼ねる始末となり、日本は亡びる事になっ〔た〕であらうと思ふ。
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