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ベーシックインカム導入で人々は働かなくなるか?

『怠ける権利!』より ベーシックインカム導入で人々は働かなくなるか?

 「フリーライダー」大歓迎--九割の労働が必要なくなる未来
  二〇一〇年ごろのBI論議は、当時表面化していた貧困の問題と深くかかわるものでした。しかし、この当時のBI論議は、具体的な政策論争というよりは、賛否様々な立場からの、思考実験という性格の強いものでした。一部のマスメディアでも取り上げられ、堀江のような有名人の発言が話題を呼んだにせよ、BI論議が繰り広げられた空間は、ネットや、そうでなければ、『POSSE』、『現代思想』等々の、実践家や知識人が読む雑誌に局域化されていたと述べて過言ではありません。
  二〇一〇年代後半になって再び活性化してきたBI論議は、本章の冒頭でもみたように、将棋の名人をも打ち負かすようなAIの急速な発達に促されたものでした。この時代には、AIが発達して、人間の労働が必要とされなくなる未来を見据えてのBI論議が展開されています。メジャーな出版社からBI関連の書物が、次々と出版されています。BIということばは、二〇一〇年をはさむ時期よりも、一層広く人口に膀戻するようになっていきました。二〇一七年のI〇月に行われた衆議院総選挙において、小池百合子率いる希望の党は、「ユリノミクス」の柱のIつとして、BIの実現を選挙公約に掲げています。
  日本銀行の政策審議委員を務めた原田泰は、「ばらまきは正しい経済政策」であると述べています。現在の経済の停滞はお金の不足から生じている。生活保護は必要としているすべての人に行き届かず、公共事業は多くの無駄を伴い、国家に代わって社会福祉の多くの部分を担わされていることが、日本企業にとって大きな足かせとなっている。個々人に無条件でお金を配るBIを実施すれば、社会保障も、公共事業も大幅に削減できるし、企業も福祉の負担から解放されるようになる。所得税を一律三〇パーセントにすることで、BIの財源は、十分確保できると原田は言います。日銀の要職にあった人物が、具体的な財源までをも示して、BIを提唱したことは注目に値します。
  人工知能にも詳しい経済学者の井上智洋は、将棋ソフトのような「特化型BI」だけではなく、人間とほとんど変わらぬ知的活動を担える「汎用型BI」が、二一世紀の前半には実現するという見通しを立てています。「汎用AI」の出現は、①蒸気機関、②内燃機関、③IT技術の出現につぐ「第四の産業革命」をもたらすと井上は言います。従来の経済のあり方を井上は、「機械化経済」と呼びます。「機械化経済」においては、生産過程に人間の労働がかかわっていました。しかし、「汎用型AI」の出現によって、人間が生産過程から完全に排除される、「純粋機械化経済」の時代が到来します。「純粋機械化経済」下において人間の力は、わずかに研究開発の分野で必要とされるに過ぎません。そのため、最大で九割の労働力が不要になる。それらの人たちを養うためにはBIが必要となりますが、「純粋機械化経済」によって飛躍的に生産性が向上し、経済の高い成長率が実現すれば、BIを実施してもなお有り余る税収を得ることができると井上は言い軋対。
  原田と井上の議論で特徴的なことは、働いて税金を納めることなく、BIの制度に寄生する「フリーライダー」が問題とされていないことです。原田にとっては、BIが実施されて働かない人が出ることは、国や企業が人々のために仕事を創り出す義務から解放されますから、むしろ好ましい。井上の予測によれば最終的には九割の労働力が不要になります。人工知能やロボットは消費をしてくれませんから、経済をまわすためには、仕事をしないで消費だけしてくれるフリーライダーの存在が、不可欠だということになります。原田も井上もともに、「怠ける権利」に寛容です。いまの日本には無駄な労働(仕事)が多すぎると原田は考えており、これからの社会において労働はどんどん必要なくなっていると井上は考えているのです。「怠ける権利」への賛同は、筆者にとって心強いものです。しかしながら、「純粋機械化経済」という井上の議論は、夢物語のようにも感じます。そして原田の「怠ける権利」の容認は、雇用と社会保障の大幅な切り捨てと、すなわち大量の「棄民」の創出と、セットになっているという疑念を禁じえないのです。

 ベーシックインカムを可能にする国民的合意とは?

  ダグラスは、ヴェブレンと同時代に活躍したアメリカの経済学者です。約一世紀以前の昔に、ダグラスが提唱した政策が現代にも果たして有効なのかは、疑問符のつくところです。機械による生産が経済を動かしていたダグラスの時代とは異なり、現在は電子情報が経済活動に大きな影響を及ぼしています。また、ダグラスが「社会信用論」を提唱した、二〇世紀の前半には、確たる「国民経済」が存在していました。他方、今日では経済活動はグローバルな規模で営まれています。
  コンピュータ技術の目覚ましい発達は、ビットコインに代表される種々の仮想通貨を生みました。ブロックチェーンと呼ばれる、ウエッブ上の分散型の帳簿に基づいて決済の行われる仮想通貨は、国家(中央銀行)のような管理の主体を持ちません。ユーロ通貨危機によって、国家による信用保証が大きく揺らいだ二〇一〇年代に、仮想通貨の発行量は飛躍的に増大していきました。現在のところ仮想通貨は、主に投機目的で遣われており、特に日本では投機の比率が九九%を超えています。国家の管理の及ばない空間で、投機目的の通貨の発行を可能にするテクノロジーが存在する中で、「信用の社会化」は果たして可能かという疑念を禁じえません。
  グローバル化の結果、資金の流れも経済活動も、ダグラスの時代とは比較にならないほど複雑化しています。コンピュータの能力が、将棋の名人に勝つほど高まっているとはいえ、「安定価格」を実現しうる、公共通貨の供給額を正確に計算することは、果たして可能なのかという疑問も生じてきます。ダグラスの主張に関して筆者が抱く最大の疑問は、次の点にあります。銀行が信用創造の特権を手放すことがあるのだろうかという疑問です。
  格差が拡大していく中で、フランスの経済学者、トマ・ピケティの『二一世紀の資本』が大きな反響を呼びました。ピケティは膨大な経済史的データに基づいて、資本収益率は常に経済成長率を上回るから、総力戦と高度経済成長の特殊な一九三〇年からの四〇年間を例外として、資本家とそれ以外の人たちの経済的格差は広がる傾向があり、格差は相続によって維持・拡大されると述べています。格差解消の処方としてピケティが提示したのが、富裕層に対する国際的な資産課税でした。「信用の社会化」に比べればはるかに穏当なピケティの主張ですが、どこの国でも政治権力を掌握している富裕層が、この提案を受け容れるのかは疑問です。
  BIはかつての「思考実験」の域を脱して、「社会実験」の段階に進んできたと言えそうです。世界的なBIへの関心の高まりは、ポピュリスト的な政治家たちの扇動の結果生まれたものではなく、勤労によって生きるに足る報酬を得ることが困難になりつつあるという、庶民の実感から発したものなのです。財源の問題をはじめ、BIの火現のためには、克服すべき多くの課題が横だわっています。何よりもまず克服されなければならないのは、途方もない富の偏在を許容している「道徳的に病める状況」なのではないでしょうか。
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