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交換の原理を超えるもの--コミューン主義のゆくえ

『マルクス 資本論の哲学』より 交換と贈与--コミューン主義のゆくえ

『経済学・哲学草稿』の「私的所有」批判

 よく知られているとおり、これに対して、スミスをはじめとする古典派経済学の達成をわがものとしはじめたばかりのころ、若きマルクスは資本制と私的所有を超える次元にかんして、抽象的なしかたではありますけれども、それなりに魅力的なかたちで、哲学的にも興味ぶかい論点を織りまぜながら手稿を書きつづっていました。

 たとえばかつて『経済学・哲学草稿』「第三草稿」と呼ばれた手稿群があります。そのなかでマルクスは「私的所有」とは、人間がみずからに対して疎遠なかたちで対象的となった形態であり、私的所有を廃棄することは、人間的な本質とその生命とを感性的に獲得しなおすことであるけれども、そのさいの獲得はたんに「占有する」あるいは{所有する」というだけの意味でとらえられてはならない、といった趣旨のことがらを述べたあとに、つぎのように説いています。岩波文庫(城塚登・田中吉六訳)の訳文によりながら、すこしだけ字句をかえながら引用しておきます。

 人間はかれの全面的な本質を全面的なしかたで、したがって一箇の全体的人間として、じぶんのものとする。世界に対する人間的諸関係のどれもみな、すなわち見る、聞く、嗅ぐ、あじわう、感ずる、思考する、直観する、感受する、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、その形態のうえで直接に共同体的諸器官として存在する器官とおなじように、それらの対象的なかかわりにあっては、あるいは対象に対するそれらのかかわりにおいては、対象の獲得である。人間的な現実性の獲得、対象に対するそれらの諸器官のかかわりは、人間的現実性の確証なのである。すなわち、人間的な活動と人間的な受苦なのであって、それも、受苦とは人間的にとらえられるならば、人間の一箇の自己享受だからなのである。

 手にすること、ひとりのものとし、使用し、また濫用すること、すなわち私的に所有することだけが「じぶんのものとする」ことではない。世界を見、その音を聞き、感じ、しかも他者とともにそうすること、他者とともに世界にはたらきかけて、世界を受苦においても能動的にも享受することもまた、世界をともに持つこと、わかち合うことである、とする所論はたしかにある種の豊かなイメージを喚起するものでしょう。その豊かさをいま感じとることができないとすれば、それは--マルクスがつづけて書いているように--「私的所有が私たちをあまりに愚かにし、一面的にもしてしまった」からかもしれません。

問題の転換--「交換」概念の問題性

 若きマルクスのテクストは、一方でそのイメージの豊饒さでひとびとを引きつけ、他方ではその哲学的な魅力をつうじて、なお私たちに訴えかけるところがあります。それでもわたくしとしてはやはり、『経済学・哲学草稿』に代表される立論はのちにマルクス自身によって乗りこえられていったものと考えます。

 とはいえここで、いわゆる疎外論の自己批判といったことがらについて、あらためて確認したいわけではありません。本書でこれまで辿ってきた論点とのかかわりでいえば、問題はべつのところにあるのです。

 いわゆる『経済学・哲学草稿』「第三草稿」から、もうひとつ引用しておきましょう。以下に引く部分については、編集上の問題がありそうですけれども、そうした点については、いまは措いておきます。岩波文庫版の一八六頁以下のテクストを引照します。

 人間を人間として、また世界に対する人間の関係を人間的関係として前提してみよう。そうすると、きみは愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、その他おなじように交換できるのだ。きみが芸術を楽しみたいと欲するならば、きみは芸術的教養を積んだ人間でなければならない。きみが他の人間に影響を行使したいと欲するなら、きみはじっさいに他の人間を励まし、前進させるような態度でかれらにはたらきかける人間でなければならない。人間に対する--また自然に対する--きみのいっさいのかかわりは、きみの現実的な、個性的な生命のある特定の発現であって、しかもきみの意志の対象に相応している発現でなければならない。もしもきみが相手の愛を生みださなければ、もしもきみが愛しつつある人間としての、きみの生命の発現をつうじて、じぶんを愛されている人間としないなら、そのとききみの愛は無力であり、ひとつの不幸である。

 引用文の末尾の、「そのとききみの愛は無力であり、ひとつの不幸である」という表現は、とりわけある種のひとびとに好まれ、「きみは愛をただ愛とだけ」交換できるという言いまわしとならんで、くりかえし言及されてきました。若きマルクスの思考のうちに、ひろい意味でのロマン主義のとおい残響を聴きとることができる、代表的なテクストだからでしょう。

 問題は、とはいえ、ほかでもない「交換」ということばにあります。『草稿』に代表される立場が、やがてマルクス本人によって否定される必要があったのは、この交換という発想自体に、乗りこえられるべき限界があったからではないでしょうか。

交換の原理を超えるもの--コミューン主義のゆくえ

 ことは、いわゆる第一段階と第二段階との原理的な相違を、どの水準で考えるかにかかわります。もういちど確認しておきましょう。第一段階では、さまざまな控除後に労働量に応じた配分を受けとるというかたちで平等な分配が構想されていました。マルクス自身が確認もしていたように、その段階を支配しているのは理想的な商品交換を規制するのとおなじ原理、交換の原理だったわけです。くわえてまた、その原理の背景にあるものはひとことでいえば、近代市民的な原則、権利の原則でした。その意味でコミューン主義の第一段階には、色こく資本制そのものの母斑がみとめられることになります。

 第一段階にあっても、とはいえ、交換の原理は部分的に超えられています。分配以前の控除を必要とする制約条件のうちに、労働能力の分布そのものの不平等が数えあげられていたからです。平等な権利なるものの前提には、権利の不平等がふくまれていることが指摘され、その点が第一段階から第二段階への移行を原理的な次元では促していたわけです。

 第二段階、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」を掲げる局面にいたると、権利という発想そのものが乗りこえられなければなりません。なぜでしょうか。権利とはかならず排除をふくむ、力に対抗する力にはかならないからです。あるいは、特定の資格を承認された者たちに賦与される、一定ていど排他的な力こそが権利であるからです。ここでは平均以上の労働能力こそ、それに当たることになるでしょう。第二段階、このよhソ高次の局面では権利ではなく、必要もしくは欠落が原則となります。つまりフィクションとしての権利ではなく、ポテンシャルとしての力でもなく、現に存在し、避けがたく存在しつづける必要だけが分配の原則となる。とすれば、それはもはや正確な意味では、あるいは平等が問われるような分配ではありません。原理となるものもまた、交換ではありません。原理として前提されているのはむしろ贈与、他者との関係と他者の存在そのものを無条件的に肯定する贈与です。(ここでは十分には説明できないこの件については、別稿「〈権利〉と〈平等〉をめぐる断章」、野家啓一編『ヒトと人のあいだ』(ヒトの科学6)所収をご一覧ください)。

 あらためて考えなおしてみれば、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」ほど、とりわけその後半の「各人にはその必要に応じて」という宣言ほど正しいこと、あえていえば正義にかなったことがらが、ほかに存在するでしょうか。なぜ正当なのか。その否定を考えてみればわかります。後半の準則を原理的に否認することは、一定の他者たちが欠落すら充たしえない状態を承認するはこびとなるからです。コミューン主義の目ざすところが、この正しさの総体的な実現にあるかぎりでは、その命脈が尽きはてたとは、とうてい考えることができないように思います。この正当性を思考の水準で裏うちしてゆくためには、交換を超える次元、つまり贈与の原理そのものをあらためて考えてゆく必要があるはずです。

 私たちの生そのものが贈与に支えられて可能となっている以上--自然それ自体からの無償の贈与、先行する世代からの無数の贈与、ともに生きている他者たちからの不断の贈与を受けとらずに紡がれてゆく生など、およそありうるでしょうか--、贈与の事実そのものについては、その存在を疑う余地がありません。贈与の原理はたほうまたその困難のゆえに--贈与が純粋な贈与であるかぎりヽその存在すら気づかれてはならないのかもしれません--、現在の思考の課題ともなっているところです。この間の消息をめぐりさらに思考をかさねてゆくことは、本書とはべつの課題をおのずとかたちづくることになるでしょう。
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