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長州藩の幕末の変動

『山口県の歴史』より

第一次長州出兵と高杉晋作の決起

 幕府は、元治元(一八六四)年七月、全国三五藩を動員して、長州藩の征討を命じた。征長軍の参謀には西郷隆盛が任じられたが、西郷は莫大な出費を伴う戦闘には消極的で、長州藩を内部分裂させて政治的決着をはかる方針をとった。一方、長州藩の内部では保守派の勢力が台頭し、幕府への恭順の意をあらわすことにより許しをこおうとし、尊王攘夷派への弾圧が行われていった。そのなかで、禁門の変をおこした三人の家老、福原越後・益田右衛門介・国司信濃が十一月十一・十二日自刃させられ、首が広島の征長軍総督府に送られて、首実検が行われた。さらに藩主毛利敬親父子の謝罪、山口城の破却、三条実美以下の公卿の引渡しなどの降伏条件を承諾した。もともと深追いする気のない征長軍は、降伏条件の実行状況について形式的視察をすませ、これによって責任者の処分はすんだと認め、十二月二十七日撤兵令を発し、翌元治二年一月、広島から撤兵していった。この間、長州藩の内部では、高杉晋作による起死回生の決起が行われた。高杉は保守派の弾圧をのがれて福岡藩にいたが、保守派の圧政にいたたまれず下関に帰り、十二月十六日、下関において決起した。そして奇兵隊を始めとする諸隊の力を結集し、翌元治二年一月の大田・絵堂の戦いにおいて、萩の保守派が派遣した鎮静軍を打ち破った。二月には萩の保守派を追放して、藩権力を奪取した。三月二十三日には武備恭順の藩是をあきらかにし、外に対しては恭順だが、攻撃をうけたときには、武力でたたかうという方針を打ちだした。

 尊王攘夷派は、藩権力をにぎると幕府の再征長にそなえて、藩の行政・軍事の改革を急いだ。行政改革では、木戸孝允が用談役に就任して行政機構を整理・統合し、政治の集中化をはかった。軍事改革では、長州藩出身の蘭医学者で西洋軍制に精通している大村益次郎が抜擢され、西洋軍制への転換が大胆に推し進められた。とりわけ西洋式銃では、ゲベール銃からミニエル銃への転換がはかられた。これらの銃は一見すると似ているが、銃身のなかに施条のほどこしてあるミニエル銃が命中精度と貫通力に格段にすぐれており、このことにつうじている大村は、ミニエル銃への転換を断行した。

幕長戦争と民衆

 一方、長州藩では西洋諸国から武器を調達する必要にせまられていたが、交戦団体には武器を販売しないということで購入の途はとざされていた。このため薩摩藩の名義を借りる必要があり、禁門の変においては敵対した薩摩藩との接近をはかった。この動きは、慶応二年一月二十一日の薩長盟約へと結実し、長州藩は政治的孤立から脱することになった。薩長盟約は秘密同盟であったが、両藩接近の動きは各地に流布しており、民衆の長州藩を支持する意識を高めている。

 また幕長戦争の動きは、全国的に食糧不足や物価騰貴をよびおこし、それを背景にして大坂や江戸における打ちこわしや、各地の大規模な百姓一揆がおこり、民衆の「世直し」への動きが高揚している。

 幕長戦争における長州藩の勝因としては、征長軍の背後をおびやかした全国的な民衆の「世直し」への動きがあげられよう。また開港による経済破壊は民衆の幕府批判を強め、攘夷を表に掲げる長州藩へは、民衆の「長州贔屓」の意識が存在した。これらの差は、征長軍の士気の低下、動員した軍夫の逃亡、それに逆比例するような長州軍の戦意高揚となってあらわれた。この段階での幕府財政は、崩壊しつつあったとはいえ長州藩と薩摩藩を合計したものよりまだ上まわっていたといわれている。したがって民衆の動向が、財政面での不利を逆転させたと評価できよう。さらに薩長盟約にしたがって薩摩藩が出兵を拒否したことも、長州軍の戦闘を有利に展開することを可能にした。

 また、長州軍の軍備は徹底して洋式化がはかられており、散兵戦術の駆使、鉄砲の性能の差は、戦闘場面において歴然たるものがあった。
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この本の意味 (μ)
2013-01-21 22:19:12
民衆が幕府を見放していた。高杉晋作は自然にそれを感じて、奇兵隊を組織した。国民政府の兵隊です。フランスと同様なことが起こった。
 
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