goo

カントの三つの問い

『気象を操作したいと願った人間の歴史』より

哲学者イマヌエル・カントは、著書『純粋理性批判』でこう述べている。「私の理性の関心のすべては……以下の三つの問いに集約される。

 (1) 私は何を知りうるか?

 (2) 私は何をすべきか?

 (3) 私は何を望みうるか?」

こうした普遍的な問いは、理論、実践、道徳において計り知れないほどの重要性を持つ。三つの問いを気象と気候の制御に当てはめて、本書の結びとしたい。

 (1) 私は何を知りうるか?

  気候はつかみどころがなく、複雑で、予測不能であることを、われわれは知っている。気候はあらゆる時間的・空間的規模でつねに変化していることを、われわれは知っている。そして、入り乱れた詳細についてはほとんど知らない。来週どんな天気になるか、近い将来か遠い将来に突然の激しい気候変動があるかどうかは、わからない。人間、とりわけ「奪う者」が農業を通じて、また、化石燃料の燃焼とその他の多くの行為のすべてによって、気候システムに摂動を与えてきたことをわれわれは知っている。それらすべての究極的な帰結はわからないが、よくはないだろうと強く疑っている。気象・気候制御が明暗入り交じる歴史を持つことをわれわれは知っている。傲慢さから生まれ、ペテン師と、誠実だが道を誤った科学者たちを育んできた歴史である。気象・気候制御計画のほとんどが、その時期の差し迫った問題への当てずっぽうの対応で、その時代に流行していた最先端の技術である大砲、化学物質、放電、飛行機、水素爆弾、宇宙探査ロケット、コンピューターなどに依存していたこと、そうした技術の大半は軍に起源があることも知っている。気候システムを最もよく理解する人たちが、その複雑さに対して最も謙虚であり、気候を「修理」する簡単で安全で安価な方法があるとはとうてい言いそうにないことも、われわれは知っている。多くの気象・気候エンジニアが、そうしたことを考えた「第一世代」だと自負し、「前例のない」問題に直面したがゆえに、歴史の前例とは無縁だと思い込んでいることも、われわれは知っている。ところが、彼らにこそ、歴史的前例がどうしても必要なのだ。

 (2) 私は何をすべきか?

  われわれ全員がそう問い、最も合理的で公正で効果的な答えの実現に力を合わせるべきだ。気候研究所の私の同僚たちは、中道的解決策の支持を雄弁に説きながら、責任ある地球工学の研究も擁護し、その一方で、憶測に走る人たちを啓蒙し、やんわりと誤りを正している。地球工学の危険は地球温暖化の危険よりも悪いのかと問うてきた人たちもいる。おそらくそのとおりだと、私は思う。ことに、われわれが歴史上の前例と文化的意義を無視すれば、そうなるだろう。自然の複雑さ(と人間の性質)を前にして、十分な謙虚さと、畏怖さえ培うべきだ。複雑な社会的・経済的問題に対し、単純化しすぎた技術的解決策を提案してはいけない。単純化しすぎた社会的・経済的解決策を提案するのもいけない。検証不能な結果について功績を主張してはいけない。地球の発熱にはヒポクラテス流の処方箋「助けよ、さもなければ、少なくとも害を与えるな」を採用しよう。幅広い気候区分と多くの文化を持つ多元的世界において、緩和と適応を実践しよう。最優先すべき倫理的大原則として、カントの定言命法〔皿誤謬款談〕に従うのがよいのではないだろうか。「あなたの意志が同時に普遍的法則となるような格律のみに基づいて行動しなさい。

 (3) 私は何を望みうるか?

  恐怖と不安はわれわれを凍りつかせ、行動を起こすのを阻んだり度を超した行動をとらせたりする。われわれはそうした恐怖と不安の克服を望むことができる。みなが納得できる、合理的で、実用的で、公平で、効果的な気候の緩和と適応の中道の出現も、望むことができる。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 豊田市図書館... シェアという... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。