未唯への手紙
未唯への手紙
アラブ革命とパレスチナ問題の現状
『世界史の中のパレスチナ問題』より
民主化を求めた「アラブ革命」
二〇一〇年末にチュニジアのベン・アリー政権が崩壊し、続いてエジプトのムバラク政権も倒れました。さらにリビアのカッザーフィー政権も同様の運命をたどりました。北アフリカに位置するアラブ国家の一連の政変はシリアにも波及して、大規模なデモが発生し、それに対してアサド政権がデモを弾圧して内戦状態になっています。イエメンでもサーレフ大統領が二〇一二年二月までの任期をもって次の選挙には出馬しないと表明し、独裁政権は崩壊しました。一連の政権交代をアラブ諸国では「アラブ革命」と呼んでいます。
北アフリカに位置するアルジェリアは今回のアラブ革命の先行事例ともいえる経験を一九九〇年代に経験して内戦になりましたが、それ以来続いていた戒厳令が今回の「アラブの春」を機に解除されました。他方、ヨルダンやバハレーンなどでも二〇一一年初めには大規模なデモが起こりました。しかし、いずれの国も王制は維持されていますが、ヨルダンでは国王が首相を解任することによって危機を乗り切り、島国のバハレーンは橋でつながる隣国サウジアラビアからの支援を受けてデモを鎮圧しました。
この一連の民主化を求めたデモとその結果として起こった政変を欧米や日本のメディアのほとんどが「アラブの春」と呼んでいます。およそ二〇年前に起こった「東欧の春」からの連想なのでしょう。一九八〇年代末には東欧の社会主義体制が崩壊し、最終的にはソ連も解体しました。しかし、その時、アラブ諸国には「東欧の春」は波及しませんでした。米ソ冷戦の終焉はサッダーム・フセインによるクウェート侵攻を引き起こし、アメリカを中心とする多国籍軍による湾岸戦争が勃発したからです。湾岸戦争後のアラブ世界は「春」というにはほど遠い政治状況でした。
「アラブの春」はアラブ世界では「イスラームの春」
しかし、ようやく二〇一〇年末に至ってアラブ世界の独裁政権が崩壊したのです。アラビア語で「革命」は「サウラ」です。この「革命」という表現は日本の主要メディアではほとんど使われることはありませんでした。今は亡きソ連をはじめとする社会主義革命的な時代遅れの左翼の匂いがするからかもしれません。欧米メディアの表現である「アラブの春」が日本でも定着しつつあります。とはいっても、桜が満開になる日本の春とはちがい、「アラブの春」はハムシーン(春の砂嵐)の季節でもあります(小杉泰・京都大学大学院教授による指摘)。
北アフリカでシロッコと呼ばれる春の嵐もあります。宮崎駿のスタジオジブリの「ジブリーとはイタリア語経由ですが、もともとアラビア語リビア方言で「山(ジャバル)」がなまったもので、「山の嵐」です。
アラブ諸国の「アラブの春」は文字通り「春の嵐」を経験しました。政変を経験した国々では民主的な選挙が行われ、議会ではイスラーム主義政党が与党になり、またエジプトではムスリム同胞団系の大統領候補者であるムハンマド・ムルシー氏が当選しました。「アラブの春」はアラブ世界では実は「イスラームの春」なのかもしれません。
しかし、「イスラームの春」といっても決して復古主義あるいは「原理主義」の方向に向かうことはないでしょう。当選したムルシー大統領は南カリフォルニア大学で工学博士の学位を取得してカリフォルニア州立大学で教え、帰国後はデルタ地帯のザガーズィーグ大学で教鞭を執っていた知米派知識人といってもいいからです。もちろん、欧米への留学を経験することで、イスラームに回帰することはしばしばです。ムスリム同胞団の指導者で「革命のジハード論」を唱えて政権転覆を企て絞首刑になったイスラーム主義理論家サイイド・クトゥブなどはその代表でしょう。
長期的にはアラブ革命は「新市民革命」か
ホブズボームが今回のアラブ革命を一八四八年革命にたとえるのは、アラブ革命もまた、あらかじめ「失敗」することが予定されてしまっており、指導者もいない、方向性のない革命だったからでしょう。この見方はいささか悲観的であるようにも思えます。革命を成し遂げた若者たちも自分たちの国に待ち構えている命運に強い不安を覚えていました。しかし、ホブズボームはそんな不安に安堵を与えるかのように次のようにも語ります。「一八四八年革命後の二年間、革命はあたかも失敗してしまったかに見えました。長期的に見れば、それは失敗ではなかったのです。多くの自由主義的な前進がなされました。だからこそ、革命直後は失敗といった状態でしたが、長期的にみれば成功したともいえるものでした。もちろん、革命というかたちをとることはありませんでしたが」と述べるのです。
長期的にはたしかにアラブ革命は板垣雄三氏が命名するように「新市民(ムワーティン)革命」ともいえるのかもしれません。アラブ革命は夜明けの虹のようなものなのですから本格的な変化の前触れなのです。
ファタハとハマースの和解
アラブ革命がパレスチナに与えた影響についても考えてみましょう。アラブ革命は前講で述べたファタハとハマースの分裂にも影響を及ぼしました。二〇〇七年から対立を続けてきたヨルダン川西岸地区を統治するファタハと、ガザ地帯を実効支配するハマースが二○一一年四月二七日、和解することで基本合意したのです。挙国一致内閣をつくり、一年後をめどに選挙を行うというものでした。エジプトの仲介で交渉を行った両派が同日、カイロ市内で会見し、発表しました。
ムバーラク大統領の退陣が、両者の和解に向けた交渉を後押ししたともいえます。ムバーラク大統領は、ハマースのようなイスラーム主義組織が勢力を伸ばすと、自らの政権にとって脅威になると考えていました。というのも、ガザ地帯を実効支配するハマースは、もともとエジプトのムスリム同胞団のパレスチナ支部だったからです。
ムバーラク大統領はガザのハマースとエジプトの同胞団が協力しあう関係に入らないように、イスラエル当局と密接に協力しつつハマースに対しては厳しい姿勢を貫いていました。前政権のイスラーム主義勢力に対する強硬策は「対テロ戦争」を戦うイスラエルやアメリカの方針にも沿うものでした。イスラエルとエジプトの同盟関係を支えていたムバーラク大統領がエジプトの「一・二五革命」で政権の座を追われて失脚したことで、ハマースがエジプトの仲介を受け入れやすくなったのでした。
民主化を求めた「アラブ革命」
二〇一〇年末にチュニジアのベン・アリー政権が崩壊し、続いてエジプトのムバラク政権も倒れました。さらにリビアのカッザーフィー政権も同様の運命をたどりました。北アフリカに位置するアラブ国家の一連の政変はシリアにも波及して、大規模なデモが発生し、それに対してアサド政権がデモを弾圧して内戦状態になっています。イエメンでもサーレフ大統領が二〇一二年二月までの任期をもって次の選挙には出馬しないと表明し、独裁政権は崩壊しました。一連の政権交代をアラブ諸国では「アラブ革命」と呼んでいます。
北アフリカに位置するアルジェリアは今回のアラブ革命の先行事例ともいえる経験を一九九〇年代に経験して内戦になりましたが、それ以来続いていた戒厳令が今回の「アラブの春」を機に解除されました。他方、ヨルダンやバハレーンなどでも二〇一一年初めには大規模なデモが起こりました。しかし、いずれの国も王制は維持されていますが、ヨルダンでは国王が首相を解任することによって危機を乗り切り、島国のバハレーンは橋でつながる隣国サウジアラビアからの支援を受けてデモを鎮圧しました。
この一連の民主化を求めたデモとその結果として起こった政変を欧米や日本のメディアのほとんどが「アラブの春」と呼んでいます。およそ二〇年前に起こった「東欧の春」からの連想なのでしょう。一九八〇年代末には東欧の社会主義体制が崩壊し、最終的にはソ連も解体しました。しかし、その時、アラブ諸国には「東欧の春」は波及しませんでした。米ソ冷戦の終焉はサッダーム・フセインによるクウェート侵攻を引き起こし、アメリカを中心とする多国籍軍による湾岸戦争が勃発したからです。湾岸戦争後のアラブ世界は「春」というにはほど遠い政治状況でした。
「アラブの春」はアラブ世界では「イスラームの春」
しかし、ようやく二〇一〇年末に至ってアラブ世界の独裁政権が崩壊したのです。アラビア語で「革命」は「サウラ」です。この「革命」という表現は日本の主要メディアではほとんど使われることはありませんでした。今は亡きソ連をはじめとする社会主義革命的な時代遅れの左翼の匂いがするからかもしれません。欧米メディアの表現である「アラブの春」が日本でも定着しつつあります。とはいっても、桜が満開になる日本の春とはちがい、「アラブの春」はハムシーン(春の砂嵐)の季節でもあります(小杉泰・京都大学大学院教授による指摘)。
北アフリカでシロッコと呼ばれる春の嵐もあります。宮崎駿のスタジオジブリの「ジブリーとはイタリア語経由ですが、もともとアラビア語リビア方言で「山(ジャバル)」がなまったもので、「山の嵐」です。
アラブ諸国の「アラブの春」は文字通り「春の嵐」を経験しました。政変を経験した国々では民主的な選挙が行われ、議会ではイスラーム主義政党が与党になり、またエジプトではムスリム同胞団系の大統領候補者であるムハンマド・ムルシー氏が当選しました。「アラブの春」はアラブ世界では実は「イスラームの春」なのかもしれません。
しかし、「イスラームの春」といっても決して復古主義あるいは「原理主義」の方向に向かうことはないでしょう。当選したムルシー大統領は南カリフォルニア大学で工学博士の学位を取得してカリフォルニア州立大学で教え、帰国後はデルタ地帯のザガーズィーグ大学で教鞭を執っていた知米派知識人といってもいいからです。もちろん、欧米への留学を経験することで、イスラームに回帰することはしばしばです。ムスリム同胞団の指導者で「革命のジハード論」を唱えて政権転覆を企て絞首刑になったイスラーム主義理論家サイイド・クトゥブなどはその代表でしょう。
長期的にはアラブ革命は「新市民革命」か
ホブズボームが今回のアラブ革命を一八四八年革命にたとえるのは、アラブ革命もまた、あらかじめ「失敗」することが予定されてしまっており、指導者もいない、方向性のない革命だったからでしょう。この見方はいささか悲観的であるようにも思えます。革命を成し遂げた若者たちも自分たちの国に待ち構えている命運に強い不安を覚えていました。しかし、ホブズボームはそんな不安に安堵を与えるかのように次のようにも語ります。「一八四八年革命後の二年間、革命はあたかも失敗してしまったかに見えました。長期的に見れば、それは失敗ではなかったのです。多くの自由主義的な前進がなされました。だからこそ、革命直後は失敗といった状態でしたが、長期的にみれば成功したともいえるものでした。もちろん、革命というかたちをとることはありませんでしたが」と述べるのです。
長期的にはたしかにアラブ革命は板垣雄三氏が命名するように「新市民(ムワーティン)革命」ともいえるのかもしれません。アラブ革命は夜明けの虹のようなものなのですから本格的な変化の前触れなのです。
ファタハとハマースの和解
アラブ革命がパレスチナに与えた影響についても考えてみましょう。アラブ革命は前講で述べたファタハとハマースの分裂にも影響を及ぼしました。二〇〇七年から対立を続けてきたヨルダン川西岸地区を統治するファタハと、ガザ地帯を実効支配するハマースが二○一一年四月二七日、和解することで基本合意したのです。挙国一致内閣をつくり、一年後をめどに選挙を行うというものでした。エジプトの仲介で交渉を行った両派が同日、カイロ市内で会見し、発表しました。
ムバーラク大統領の退陣が、両者の和解に向けた交渉を後押ししたともいえます。ムバーラク大統領は、ハマースのようなイスラーム主義組織が勢力を伸ばすと、自らの政権にとって脅威になると考えていました。というのも、ガザ地帯を実効支配するハマースは、もともとエジプトのムスリム同胞団のパレスチナ支部だったからです。
ムバーラク大統領はガザのハマースとエジプトの同胞団が協力しあう関係に入らないように、イスラエル当局と密接に協力しつつハマースに対しては厳しい姿勢を貫いていました。前政権のイスラーム主義勢力に対する強硬策は「対テロ戦争」を戦うイスラエルやアメリカの方針にも沿うものでした。イスラエルとエジプトの同盟関係を支えていたムバーラク大統領がエジプトの「一・二五革命」で政権の座を追われて失脚したことで、ハマースがエジプトの仲介を受け入れやすくなったのでした。
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