goo

刑法 原因において自由な行為

『刑法総論講義案』より 原因において自由な行為の意義と問題点

原因行為が実行行為であるとする考え方

 かっての通説的見解であった。間接正犯が他人を「道具」として利用する形態であるのに対し、原因において自由な行為は、自己の責任無能力状態を「道具」として利用した形態であると解する。その上で、間接正犯においては利用行為に実行行為性を認めるべきであるとする基本的立場から、原因において自由な行為においても、結果行為ではなく原因行為こそが実行行為であると解すべきであるとする。この考え方によれば、実行行為=原因行為の時点では責任能力に欠けるところがないから、原因において自由な行為においても同時存在の原則は完全に満たされることとなる。

 しかしながら、(a)もともと実行行為が何であるかは構成要件該当性の判断の段階で決定されることがらであり、たまたま結果行為当時責任能力が認められないからといって、責任判断の段階で実行行為を原因行為にさかのぼらせることには理論の筋道として疑問がある上、(b)そもそも、他人を殺害又は傷害するためのものとはいえ飲酒行為自体を殺人や傷害の実行行為と考えるのは常識に反するのではなかろうか。しかもこれを実行行為とすると、犯行決意のうえ飲酒だけして殺傷行為に及ばなかった場合にも、未遂犯が成立してしまうことになる。この説の主張者は、この点を認識して、飲酒行為などは殺人罪・傷害罪の実行行為としての定型性を有しないから、事実上故意犯に関しては原因において自由な行為が成立する余地はないとするのであるが、これでは原因において自由な行為の理論を認める意味がほとんどなくなるであろう。さらに、(c)道具理論を前提とする限り、限定責任能力の状態において犯行を行った場合には、道具状態にあるとはいえないから、原因において自由な行為を認めることができない。しかしながら、責任無能力の状態にまで達していた場合には犯罪が完全に成立すると考えながら、たまたま限定責任能力の状態にとどまった場合には刑の必要的減軽の対象となるというのはいかにも均衡を失するといわざるを得ない。

結果行為が実行行為であるとする考え方

 上記のように間接正犯理論を準用して原因行為を実行行為と考えることには種々の難点が存在するところから、近時は、結果行為が実行行為であると解した上で、同時存在の原則を修正したり、又は端的にその例外を認めたりして、原因行為の時点で責任能力があれば行為者に完全な責任を認め得るとする考え方が有力になりつつある。その基本的な考え方は、十分な責任能力の下にある原因行為時の行為者の意思決定を重視し、責任無能力又は限定責任能力の下にある結果行為を、その意思決定の実現過程として把握しようというものである。

 そして、この立場は上記のように基本的発想を共通にしながらも、その理論構成の違いによって更に下記の各説に分かれる。

  ⅰ 端的に同時存在の原則の例外を認め,自らの意思で責任無能力状態を招いておきながら、犯罪となる結果が発生したときに、その事情を自己の刑事責任を否定する趣旨で有利に援用することは社会的公平の見地から妥当性を欠くから、禁反言の法理にかんがみ、原因行為時に自由に意思決定をなし得た以上、結果行為時に責任無能力であったとしてこれを自己の有利に援用することは許されないとする説

  ⅱ 原因行為から結果行為=実行行為までの一連の過程が1個の意思の実現過程であると認められる場合には、全体を当初の意思決定によって貫かれた一つの「行為」としてとらえることができる。そして、責任非難は違法な行為をなす最終的な意思決定、すなわち原因行為時における意思決定に対して向けられているから、その時点で責任能力があれば結果行為を含む「行為」全体に対して責任を問うことができるとする説にの考え方は、同時存在の原則は「行為」と責任能力との同時存在を要求するものであるから、必ずしも実行行為と責任能力との同時存在は必要でないと解し、これにより原因において自由な行為と同時存在の原則との整合性を維持する。)

  ⅲ 責任能力の存する原因行為時において故意・過失が存在し、かつ原因行為と結果行為との間に相当因果関係が認められる場合には、原因行為における結果発生の危険が結果行為において実現したと認められるから、結果行為時には責任能力を欠いていたとしても完全な責任を問い得るとする説

 基本的には、この(2)の考え方が正当と思われる。実行行為は、法益侵害の現実的危険性を有する行為でなければならないが、原因行為だけでは法益侵害の危険性はいまだ現実的なものとはいえないから、結果行為が実行行為であると解するのが妥当である。このように解すると、表面的には同時存在の原則と抵触することになるが、(2)説の述べるように、結果行為自体が原因行為時になされた意思決定の実現過程と把握されるような性質を有している場合には、実行行為の時に責任能力があった場合とほぼ同視して考えることができるのであり、その行為はもともと有責とみられるべき性質を具備するものと解されるから、これを処罰の対象にしても同時存在の原則の基礎となっている責任主義の考え方には何ら反するものではないと考えられる。そこで次に、この立場を前提として、原因において自由な行為の要件を故意犯の場合と過失犯の場合とに分けて若干検討してみよう。

 ① 故意犯について

  原因において自由な行為の問題は、責任の要件に関する問題であるから、結果行為=実行行為につき故意犯の構成要件該当性及び違法性が認められることが前提となる(結果行為時に、精神障害の程度が進んで行為能力すら欠くに至ったような場合には、そもそも実行行為性を肯定できないから、原因において自由な行為を問題にする余地はないというべきである。)。したがって、故意犯の原因において自由な行為が認められるためには、まず、結果行為の時点においても構成要件的故意が認められなければならない。

  他方、結果行為時に責任能力があった場合と同視して考えられるためには、前述のように、結果行為が責任能力十分な原因行為時になされた意思決定の実現過程と把握される事態であることを要するから、原因行為時においても、結果行為時と同様の故意が存在していることが必要であると解される。

  このように考えると、故意犯の原因において自由な行為を肯定し得るためには、原則として、原因行為から結果行為にかけて故意が連続していることが必要であろう(もとより、意思の実現過程として把握されるためには、原因行為と結果行為及び現実に発生した結果との間に因果関係が存在することを要するのは当然である。)。

  そして、以上のような要件を具備する限り、結果行為の時に、責任無能力の状態まで至らず限定責任能力の状態にあった場合であったとしても、責任能力ある状態での故意が結果行為時に実現される構造は同一であるから、同じく原因において自由な行為の理論を適用することができよう。

 ② 過失犯について

  学説上は、例えば、酒を飲むと病的酪酎の状態に陥り他人に危害を加える性癖のある者が、今回は大丈夫だろうと思って飲酒したところ、案の定、病的酪酎による責任無能力状態になって暴行を働き他人に傷害を負わせたというような事例が、過失犯の原因において自由な行為の例として挙げられる。

  しかし、上記の事例は、真に原因において自由な行為の理論を適用すべき事案なのであろうか。過失犯の成立要件の項で述べたとおり、過失犯が成立するためには、過失犯の実行行為である過失行為の時点で結果予見可能性及び結果回避可能性が存在しなければならない。しかし、結果行為の時に行為者が責任無能力又は限定責任能力の状態にある場合には、結果予見可能性及び結果回避可能性は存在しないか、又は極めて乏しいというべきであろう。したがって、結果行為自体は、故意犯の構成要件該当性を認めることができても、過失犯の構成要件該当性は肯定することができない。上記事例でも暴行を働いた時点では過失犯を肯定することができないのは当然である。

  そうすると、原因行為の時点ではどうか。上記事例の場合、故意を認めることができない(なぜなら、傷害・暴行の認識はあっても認容がない。)から、故意犯の原因において自由な行為は成立しない。他方、過失犯に関しては、責任無能力等の状態に陥って他人に危害を加えることがないよう飲酒を差し控えるべき義務を注意義務(結果回避義務)として構成すれば、結果予見可能性・結果回避可能性はともに認められるし、上記の注意義務に反して飲酒した行為を過失行為として構成することができ、その成立を肯定することができる(同時存在の原則を満たしていることは明らかである。)。しかし、この場合、過失犯が成立するのは、原因において自由な行為の理論によったからではなく、単に原因行為の時点で過失犯の成立要件が満たされていたからにすぎないのである(結果行為は実行行為から結果に向かって進行する因果の一過程として把握される。)。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ケアの実現の... パブリック・... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。