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宗教について 時間と空間

『語る大拙』より

それから、地球の上で物が軽いとか重いとかいうて居るのも、これも地球の上から少し離れて空気の無い所へ行けば、軽いも重いも無くなります。そうすると、力の強い相撲取が大きな石を動かすということも、吾々の手でちょいと動かすのと同じことです。力が強いとか強くないとかいうことは、空気があって地球の引力があるからで、これが無かったら、同じことであります。

また、吾々は、空間というものと時間というものを置いて考えないと、地球の上では何事も考えられません。無限に向うへ延びて居る時間が、こういう風に継続して居る。横には方処を絶し、竪には無始以来というが、時間は竪の関係、空間は横の関係であります。ところが、近頃、色々な人が色々に研究すると、時間だの空間だのというものを別々には考えられない、時間と空間とは二つのものである、これを一つに考えて行かぬと宇宙の説明が出来ないというのです。例えば、今の地球よりもっと速く動いて居る世界へ行くと、地球での同時が向うの世界では継続になるというたと同じように、物が運動して居ると、運動して居る棒なら棒の長さというものは短くなる。普通には三尺と思うて居たのが、或る運動を加えると、その棒が三尺でなくして二尺九寸五分になるという風に、長さが異って来るのです。すると、空間でこれだけのものだと、物が定まって居るのでなくて、空間に時間が加わって来て、そうして始めて、今日見て居るものが、これだけの大きさであるとか、これだけの長さであるとかいうことが出来るので、空間だけで、これは三尺なら三尺、四尺なら四尺というわけにはいきません。空間に時間というものが加わって来て、物の長さなら長さ、重さなら重さ、大きさなら大きさが定まるというのでございます。

こうなると、仏教でよくいうように、吾々が眼で見て居るものは本当のものでない。近い例を申しますと、水の中へ上から棒を入れますと、その棒が曲って見える。また、月が水へ映って居るのを見ると、その月が水の底にあるように見えるので、利口な揃は枝の上から手を伸ばしてその月を取ろうとする。人間もそれと同じようなことを、やはりやって居るのでないかというように思われます。近頃、いわゆるアインシュタインの相対性原理とでも申しますが、この空間ということと時間ということの問題が、空間と時間とこれを一つに考えるようになった。空間が今までは或る面を持って居ったのに対して、それに今度は時間を加えて、その時間の面というものも同時に考えないと、本当の答が出て来ないという、こういうような塩梅になって来て、今まで吾々が色々なことをいうて居った、その空間・時間の話というものは、今度は役に立たぬということになります。

もう一つ因果の法則というもの、これもどうも怪しいものです。仏教でも因果の世界というものを説いてある。因果というものが無かったら、吾々はどんな悪いことをやってもいいということになるが、その仏教の方の話は別として、これは他日お話する機会があろうが、物理の世界で因果というものは怪しい。それは私は余り細かいことは知りませんが、ただ漠然とお話をするわけでありますが、こうしてこうなればこうなるという風にきちんといわれない。段々生命保険の方で統計をとって、大抵このくらいの人はこのくらいで死んで行くから、これだけ金を掛けて置けば、これだけの危険率はあっても、これだけは儲かるという風に、そういうことを概算して、統計の上で生命保険の方ではやるが、それと同じようなわけで、自然の世界でも、きちんと、こうなるからこうなるというのでなく、すべてのものを概算的に見て行かなくてはならぬ、きちんと必然的に見て行くわけにはいかないという風で……これはもっと細かいお話をせぬといけないのでありましょうが、そこはそのくらいに致して置きまして……。そうすると、時間・空間というようなことも、因果ということも、吾々は、今日の物質の世界を支配して居ると見て、それですべての話が埓が明いたように考えて居たのでありますが、昔からそういう考えを持っていたのですが、今度はもっとその考えを改めなければならぬ、全く変えていなければならぬようになった。それでなくては、到底科学の研究は進めて行けないという状態です。何かもっと他の考えを持って来ぬと説明が出来ないということになった。ところが、その他の考えというものは、まだ持合せが無い。それで科学者は世界を研究すればするほど不思議で、どこからどう説いていいのかわからぬ、こういうようなことに今はなって居ります。

しかし、それだけで吾々は到底落著いて居れぬので、何かこれを解決するような時期が出て来るでしょう。或は吾々が宇宙を研究するに当って、その本の態度がいけないのかも知れない。今までのような考えでは研究が出来ないので、何が全く改めた立場から近寄らなければならぬと思う。即ち吾々の出す今日の問題というものが、始めからわからぬようになって居るので、問題の出しようがいけないんである。それならどういう風に問題を出したらいいかというと、それはまだわからぬが、何れにしても今までのように感覚の世界ばかりを問題にして行って、そうしてそれから組み立てたところの考えというものは、これからは通用しないということになる。すると感覚の世界というものは、最後の事実でなくして、この感覚の世界の外に何かかなければならぬ。それは感覚を本にして研究した科学の世界より、また異ったものでなくてはならぬ。今日やって居るところの科学は、感覚の世界で拵え上げたところの考えを本にしたものだから、その科学の研究が幾ら進んだところが、それでは役に立たぬ……役に立たんのでなく、その考えを本にするというと解決がつかない。それで何とかしなければならぬが、まだわからぬので困って居る。まあこういうことなんですが、それだけでももう既に感覚だけには頼られないわけで、五官の世界以外に何か一つの世界を見なくてはならぬということになるだろうと思うのでございます。
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