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自己意識

『はじめてのヘーゲル「精神現象学』より

「意識」は経験を積むことで、はじめに現われていた「対象自体」とそれについての「自分の意識」、つまり「真」と「知」という対立が、じつは錯覚であったことに気づくことになる。

あらゆる対象が、そして「世界」のすべてが、じつは〝自分にとって〟存在しているものだ、という感度が現われてくると、そこで人間は、もはや単なる「意識」ではなく「自己意識」として生きているのだ。

「自己意識」は人間に固有な意識であり、ヘーゲルは人間が世界を経験しつつ、どのような自己と世界との関係意識を形成し展開してゆくかを、独自の範型論として示している。その進み行きは、「自我と欲望」→「主奴論」→「自己意識の自由」とたどる。

注意すべきは、へーゲルがここで、人間の欲望は「自己価値」への欲望であり、これが人間の「自由」への欲望の原型である、という大胆な原理的仮説から出発している点だ。

「自己意識」の章は、人間精神の本質論としての『精神現象学』の出発点をなす場所なので、大きな流れを描いておこう。

まず、ヘーゲルは「生命」の本質からはじめる。へーゲルの哲学体系は、世界は一つの絶対的な「精神」であり、「精神」の本質は、無限に自己を展開する自由な運動である、という出発点をもつ。「生命」は、この「絶対精神」の「無限性」の本質を分け持っているので、その本質は、たえず自分自身を区分し統一しつつ再生産する運動、という点にある(余談だが、福岡伸一氏の生命論『生物と無生物のあいだ』は、この説とよく重なる面がある)。

つぎに「意識」の本質は、たんなる自己統一の運動としての「生命」ではなく、この自己統一を自ら保持しようとする「欲望」の存在である、という点にある。これは見事な本質定義だと言わねばならない。

そしてつぎに「自己意識」。自己意識の「欲望」の本質は、単に自己保存のために他を否定する(摂食=食べる)欲望ではなく、むしろ「他者の承認」を求める欲望だという点にある。なぜなら、人間は例外なく社会生活の中で生きており、そのためにどんな欲望であれ、必ず一定の形での他者の承認なしには可能とならないからである。

こうして、人間の本質は、「他者承認」を求める「自己意識」としての「欲望」である、という規定がつぎの場面の出発点となる。

ここからへーゲルは、有名な「主奴論」へと進む。人間は、互いに自己の承認を他者に求めることで、自己の「自由」(欲望の充足)を確保しようとする存在となる。しかしこの相互の承認要求がうまく調和することはたいへん難しい。そこで、人間関係の基本は、まず一方的に相手の承認を求めてせめぎあう「相克」の関係となる。

「承認をめぐる戦い」の記述は、荒々しい普遍戦争がつづいて、各文明の古代大帝国の成立にいたる紀元前後までの世界史を思い描きながら読むと、まずよく理解できるはずだ。見知らぬ民族どうしの支配全としての承認)をめぐる戦いは、敗者の「死の畏怖」による「奴隷(的)労働」に終わり、そのことで普遍戦争は、必ず巨大な古代帝国という普遍支配の構造に行きつく。ここまでは、オリエント、ペルシャ、ギリシャ、ローマまでのヘーゲルによる大きな歴史理解が流れていると考えてよい。

すでに触れたが、つぎの「自己意識の自由」は、二重の意味をもっている。一つは、ローマ時代における、自由の自覚と現実の支配社会という矛盾の意識から現われる、ストア主義、懐疑主義とそのあとのキリスト教における「不幸の意識」、という歴史の流れ。もう一つは、まだ親の庇護のもとにあって自力では自立できないにもかかわらず、自己の内的「理想」をはげしく求める、青年期の「自意識」の危機を意味しているということだ。

ギリシャ、ローマにおける内的な自由の「自己意識」と、現実と理想のあいだに引き裂かれる「不幸の意識」の範型論が、ここでは、近代人の思春期から青年期の「自己意識」の進み行きに見事に重なっている点に注目すべきである。
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