goo

他者の表象

『よくわかるメディアスタディーズ』より

他者化:はじめから「分割された」実践

 不可避であるが、しかし決して同一化できないもの、それが他者だ。必ずいてくれないと困るけど、私はあなたにはなれないし、あなたは私にはなれない、そういう「あなた」(者? モノ?)を、他者という。いてくれないと困るとはいえ、何もその他者の都合を慮っていっているわけではない。まずもって優先順位は自己にあるからである。他者は自己から見た限りにおいて他者なのだから。ではどのように「自己」は構成されるのか。他者はその構成にとって必要な資源となる一方で、時にはその構成を中断させる破壊分子ともなる。だから「自己」は常にすでに不安定である。[自己]は他者を求めた矢先にまさにその同じ他者を廃しようとする、2つに分割される実践を同時に実行しなければいけないのだから。

 「それ」になりたいかなりたくないかはこの際どうでもいい。他者はただ、それ自体で1つの必然であり、必然である限りフィクションかノンフィクションかは問題ではない。大切なのは、他者が他者としてどのように「ある」のかではなく、あるもの「として」どのように認識されるかである。表象とはこの「として」を可能にする操作のことだ。それは何も特別なことではなく、認識や思考を通じて何かを対象化するときに必ず行われる一連の生産的な作業だと考えてもいい。他者は表象によって初めて可能であり、表象という出来事は他者を対象として可能にする。

常に不完全なる「表象」

 しかし、そもそも他者は表象可能なのだろうか? この場合、表象を事実の反映だとか、モノの記号による完全な代理だと考えてはならない。そうでないと、表現されたイメージには虚飾や歪曲があってはならない、表象は常に「正しく」なければならないということになってしまうからだ。しかしこれはおそらく、不可能である。なぜなら、表象されたものがそれ自身の表象の意味について表現し語ることは往々にして稀なため、表象されたものが正しいか間違っているかということを確かめるのは簡単ではないからである。

 1つのイメージに対して、それは誤った、捏造された、歪曲された、虚の表象であると考えることは結構多いはず。それは反映論や代理論に巻き込まれている証拠である。嘘はもちろんそれほど褒められたものではない。しかし、嘘か真かとは異なる次元にある領域、「ありうる」とか「ありえた」という領域を表象の意味範囲から排除してしまうと、他者像は恐ろしく単純な都合のいい同一化か排除の対象に成り下がるだけだ。すると、おのずと自己もまた恐ろしく単純な同一化と排除だけを実施する主体にならざるをえない。しかし中には不都合な他者もいる/あるはずである。表象されることによって自己に問いかけ、時には苛み、また時には慈しむ他者が。

植民地からメディア空間へ

 18世紀「啓蒙の時代」の遠洋航海者たちはスケッチや紀行日誌で「野蛮」人を「野蛮」として表象した。ロビンソン・クルーソーはある島の「人食い」原住民を銃で撃ち殺しつつ、「彼らに罪はなかった。その残酷な慣習は、いわば彼ら自身の呪われた禍にすぎなかった」と喋いたのである。サイードは『オリエンタリズム』において、「東洋人」を脆弱で庇護を必要とする言葉なき他者として表象してきた近代ヨーロッパの自己形成過程の一端を描いた。フロイトにおいて他者とは取り込まれる(食われる?)と同時にとりっく(食い尽くす?)外部であり、ラカンにおいて他者が最も強力に、つまり完全に近い形で表象されているのは、その不在の状態においてであった。この他者の不在を文字通り「経験的に」不在であることと解釈して立論したスピヴァクにとって、表象とは語ることによって可能なのだが、その他者は語れず、他者以外が語ろうとするとその瞬間に他者であることを休止しなければならないのである。

 このような「他者の表象」の系譜を参照しつつ、メディア実践の領野において、問いかけ、苛み、慈しむ他者の表象について考察しなければならない。他者化とは意味の生産のことなのだから、肯定も否定もあり、友愛も差別もある。思いもかけないイメージを喚起することもあれば、ステレオタイプを補強することもある。メディアの情報に五感を通じて接触している限り、他者の表象に出くわさないことのほうが稀だ。北朝鮮やイランや犯罪者や在日外国人やアフリカ人ランナーばかりが他者ではない。朝青龍が公共の電波に乗って届けられる時は、いつも決まって他者化されているのはなぜだろう? 「少年犯罪」においては10代の若者が、薬害C型肝炎の被害者もまた、テレビに出るたびに他者化される。引きこもりは他者との折衝不全症候群だとして他者化され、ニートは勤労意欲に意味を見出すことすらできない困った他者だと表象される。事態を客観化しようという欲望は、「自分は違う、自分じゃなくてよかった」という安心感や、「自分は違う、すごいな」という賞賛に偶発的に一致する。しからば、他者の表象とは自己の再定位を続けていく作業であるともいえる。もちろん定位できるかどうかの保証はない。だから、表象は終わらない。他者も終わることはない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ネットワーク... 未唯宇宙の構造 »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。