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不毛な戦争 ★イラン・イラク戦争★

『現代イラクを知るための60章』より

イラン・イラク戦争は、1980年9月22日イラク側の攻撃によって始まり、1988年8月20日国際連合安全保障理事会の決議が受け入れられて停戦した。

戦争の直接原因は、イランとイラクの国境を流れるシャットルアラブ河の帰属問題である。この帰属は複雑な歴史的経緯を経ている。1847年に、イランのガージャール朝と当時イラクを支配していたオスマン帝国の間で、河自体がオスマン帝国に属するものと定められ、1913年のオスマン帝国・ペルシア間合意では、シャットルアラブ河をオスマツ帝国の主権の下に置く、つまり今のイラク領とすることが決められた。第一次世界大戦後、この合意は一旦廃棄されたが、イラクを間接統治していた英国人顧問が、サルウェグ原則(川底の最深部を国境とするとの原則)を進言し、1937年のテヘラン条約でこの原則を一部よアバダン、ホラムシャフル)に適用し、この地域のみにおいてシャットルアラブ河はイランーイラク半々となった。

1975年、OPEC首脳会議の時にアルジェリアのブーメディエン革命評議会議長の仲介で、イランのジャーとサダム・フセイン革命指導評議会副議長との間で、「シャットルアラブ河の国境線全体にサルウェグ原則を適用し、国境線を河の中央線とする」ことが決定された。これがアルジェ合意である。しかし1980年9月に、サダム・フセインはこのアルジェ合意の破棄を求めてイランーイラク戦争を開始した。サダム・フセインの要求は国境線をイラン側の岸、つまりシャットルアラブ河をイラクの領土にするというものである。

イラン・イラク戦争は、こうしたシャットルアラブ河をめぐる複雑な歴史的背景とともに、イラン、イラク双方の当時の複雑な内政に起因して勃発した。イランではシャーが1979年1月、国外に脱出し、4月にイスラーム共和国が成立した。イラン革命の中で1979年H月4日、革命を主導していた学生の集団がテヘランの米国大使館を占拠し、これが1981年1月20日まで継続する。米国は1980年4月、救出作戦を試みるが失敗した。この時期、米国国内では、イランの革命政権を倒す軍事作戦の是非が政権内で真剣に論議されていた。

イラクでは1979年7月サダム・フセインが大統領に就任した。この時期、サウジアラビアを中心とする湾岸諸国はイスラーム法学者を国家の指導者としたイラン革命を極度に警戒していた。湾岸諸国や米国を中心とする西側諸国による革命後のイランに対する批判的な空気を背景に、サダムーフセインは1980年9月、イランに対して軍事攻撃を開始した。フセイン大統領は、この戦争でイランの革命政権を倒すことにより、中東の雄になる政治的野心を持っていた。

戦況は一時膠着状況に入った。イランが人海戦術で攻める、これをイラクが戦車で防ぐという均衡があった。双方の国民は戦争の終結を強く望んでいたが、イランとイラクの政府、および諸外国も、真剣に停戦を望んでいなかった。1979年7月に大統領に就任したばかりのサダムーフセインは、まだバアス党を完全に掌握していなかった。だが、イラン・イラク戦争中は、反体制派の抑圧が容易であった。彼は政敵を戦争中のイラク国家を弱体させるものとして厳しく取り締まったのである。イラン側にも同様のことがいえる。1980年4月に成立したイスラーム政権は、イラン・イラク戦争中に反体制派に対する弾圧を強行した。湾岸諸国にかんしては、両国が戦争を継続し、疲弊するのを歓迎した。米、仏、英、露は、戦争を両国に武器を売る好機と位置づけた。したがって、本当に戦争を止めようとする勢力が内外を問わず、ほとんど見えなかったことは特筆してよい。

終結に動いたのは、1986年に軍事バランスが急激に変化し、場合によってはイランが勝利する可能性が出てからである。レーガン政権がイランヘ武器を売り、その売却代金をニカラグアの反共ゲリラ、「コントラ」の援助に流用するという「イランーコントラ事件」が発生した。この武器に対戦車砲、ミサイルが含まれていた。1986年1月から対戦車ミサイルTOW2000基、ホーク地対空ミサイル235基がイランに空輸されたともいわれた。これによって軍事バランスが崩れ、イランの対戦車ミサイルTOWで戦車や装甲車等を破壊し、イラン側が一気にバグダードまで攻め入る可能性が出てきた。イランの革命政権の勢力拡大を懸念する米国はこの事態を懸念し、軍事的にイラク支援を開始する。軍事力で優位にたったイラクは、テヘランヘのミサイル攻撃やイラン南部油田地帯への反撃を開始した。

こうした戦況の激変をうけ、イラン最高指導者ホメイニー師は「毒を飲むよりつらい思い」で決断し、国連安保理による停戦決議を1988年7月18日受諾した。翌8月にはイラン、イラクは国連安保理決議598を受け入れ、イランーイラク戦争を終結させた。この時、両国はすべての懸案を解決するため、国連事務総長と協力し、シャットルアラブ河はアルジエ合意を基礎とすることに合意した。

この戦争における死傷者はイラク側では25万人から50万人、イラン側では100万人とみられている。経済面では双方共、6000億ドル、合計1兆2000億ドルの被害を出したとみられている。 イランーイラク戦争は人類の戦争史の中でも、最も不毛な戦争で、多大な被害を出した戦争と位置づけられよう。
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