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死への意識

『眠れぬ夜のために』より
〈メメント・モリ〉という言葉を訳すと〈死を想え〉ということになる。生きてあるその日のうちに、たえず死を意識せよということだろう。
「死について考えることは、つまり、生について考えることだよ」
我々は、自分たちは有限の存在であり、いつかはこの世を去っていくのだということを、朝な夕なに自分と向き合って対話し続けて行く中で、何十年という長い時間をかけてようやく死への覚悟ができるのです。
だれも死を否定することはできない。しかし、死を否定してやまず、死を悪と考えるところから現在の医療における延命治療なども行われているのだろう。私も何人となく身近な者を亡くしてきた。最後に「もうよい、無理をしなくてもいい。しんどかったなあ。もうよい、もうよい」と、その死を肯定することの難しさは、いやというほど知っている。しかし、死は悪ではなく人間的なものだと思うのが自然ではないだろうか。
死について語るとき、人は極端に雄弁になるか、もしくは寡黙になるかのどちらかです。
「死は、前よりしも来らず」と、古人は言った。
気がついたときは、すでに後ろに迫っている、と。ポンポンと肩を叩かれてふり返ると、そこに死神の笑顔があるのだ。このことばには、妙なリアリティがある。
人間はつねにピンとこない存在なのである。千切の崖っぷちを背にして後ずさりしなも、背後を振り返ることはほとんどない。そして、それだからこそ、この際どい修羅の巷に平然と生きていけるのだ。
いざというときには、かっこよくこの世を去りたいと言っても、それは無理な話です。これまで生きてきたようにしか、できないものです。
人は自然の根源的な力によって「生かされる」べきだろう。少なくともほどはどの期間、この世に生きながらえることができたとすれば、そのことを感謝しつつ、あとは静かに自然の呼び声にしたがったほうがいいのではないか。
僕はいま「置かれた場所で散りなさい」と言ってるんです。
人はいつかは一人になる。最後に一緒に歩いてくれる相手は、たぶんそれが仏というものかもしれない。姿も見えず、かたちもさだかではない仏というもの。
そのまま人はいくべきところへいくのだ。
釈尊はブッダである。
彼は人間として生まれた。人間とはなにか、世界とはなにかを正しく把握し、そのなかでより良く生きるにはどうすればよいかを説いた。そして人間として死んだ。食当たりで倒れたのだ。まことに人間らしい死にようである。
人間の生命は海からはじまった。人が死ぬということは、月並みなたとえだが、海に還る、ということではないのか。生命の海に還り、ふたたびそこから空にのぼっていく。そして雲となり露となり、ふたたび雨となって、また地上への旅がスタートする。それが私の空想する生命の物語だ。
一人一人が自分の死後、つまり後生と言いますが、死のストーリーを自分なりに組み立てるということを、想像力を駆使してやることは、ある意味では、死を前提にした最終期の人間の楽しみというか、喜びの一つだと思います。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば」、つまり、人間の命や世界の現実には、どこかで必ずひと区切りがある。逆に、そのひと区切りがなければ、新しい再生というものはないのだ、という気がする。
親鸞はその日、朝から呼吸がとぎれたり、また大きくあえいだりしながら、すこしずつ静かになり、やがて昼過ぎに口をかすかに開いたまま息絶えた。自然な死だった。
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