goo

池田晶子さんの「存在の謎」

『絶望を生きる哲学』より ⇒ 池田晶子さんの重要なコンセプトが抜か落ちている。それは私(我々?)が「宇宙の旅人」であるということ。そして、「生きることは考えること」「考えることは生きること」

自分は、どこにもない

 「自分」というのは、名前でなければ、身分でもない。体でなければ、心でもない。ないないづくしで、どこにもない。それが「自分」というものだけど、だからといって、自分など「ない」というのでもない。なぜって、自分など「ない」と言っているその自分が、まさにそこに「ある」からだ。ないけれどもある、あるけれどもない、それが「自分」というものの正体、その存在の仕方の不思議さなんだ。何を「自分」と思うかで、その人の自分は決まっているというのも、この意味だ。

自分の命は誰のものか

 普通は人は、自分は自分だ、自分の命は自分のものだと思っている。だから、自分の生きたいように生きてなぜ悪いという理屈になる。

 自分の命は自分のものだ。本当にそうだろうか。誰が自分で命を創ったか。両親ではない。両親の命は誰が創ったか。命は誰が創ったのか。

 よく考えると、命というものは、自分のものではないどころか、誰が創ったのかもわからない、おそろしく不思議なものである。言わば、自分が人生を生きているのではなく、その何かがこの自分を生きているといったものである。ひょっとしたら、自分というのは、単に生まれてから死ぬまでのことではないのかもしれない。

 こういった感覚、この不思議の感覚に気づかせる以外に、子供に善悪を敗えることは不可能である。

なぜ「ない」ものが怖いのか

 生死の不思議とは、実は、「ある」と「ない」の不思議なんだ。人は、「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」ということは、「ない」ということだね。「無」とは、「ない」ということだね。無は、ないから、無なんだね。それなら、死は、「ある」のだろうか。「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。死とはいったい何なのだろうか。

 君は、たぶん、死ぬのを怖いと思っているだろう。死んだら何にもなくなるんじやないかって。でも、何にもなくなるということは「ない」はずだ。なぜって、「ない」ということは、「ない」からだ。じやあ、なぜ、「ない」ものが怖いんだろう。ないものを怖がって生きるなんて、何か変だと思わないか。

当たり前の不思議

 この世には「科学では解明できない」不思議が存在する、目には見えない世界がある、そのことが不思議だと言うのなら、自分というものが目に見えたことがあるでしょうか。自分がそれであるところの精神そのものは、決して目には見えないけれども明らかに存在している。本当に不思議なのは、まさにこの「自分が存在する」という、このことの方なのです。今ここに存在するこの「自分」というもの、これはいったい何なのか。この当たり前の不思議に驚かないから、当たり前でないもの、幽霊だの前世だのに驚くことになるのです。

見たいものしか見えない

 人は誰も自分の見たいものしか見ることができない。科学を好む者は科学により、オカルトを好む者はオカルトにより。その意味で誰も自分の「偏見」により世界を見ている。そのことを自覚するなら、自分の「偏見」もまた自覚されるはずである。自らの偏見を注意深く除去しつつ、したがっていかなる考えをも排除せず、慎重に思索を進めてゆくのは、ただただ「真実」を知りたいためだ。そうでなければ、何のための「知る」という行為であるか。

疑うことと信じること

 疑うことのできる者だけが、信じることができる、もしくはその逆。われわれの常識とは賢いもので、疑うために疑い、信じるために信じるという精神の動き方を認めない。神の存在など信じない、そう息巻く者とて、大地の存在や明日の世界の存続を疑っているわけではない。もしそうなら、彼は一日とて生活できるはずがない。

 疑いの果てに信じたデカルトが、世間に帰還して見たものは、彼のすなわちわれわれの常識が、いかに物事をあるようにあらしめているかということではなかったろうか。

誰でもない我々

 普通には、人は、「その人」というのを、その人の出自のことだと思っている。人は、その人が誰でもないということが、不気味である。裏返し、自分が誰でもないということが、恐ろしい。だから、自分が誰かであることを、その出自や記憶に懸命に求めるように、誰だかわからないその人の出自や記憶を、執拗に求めるのである。そうして出来あがっているのが、すなわち社会である。社会とは、本来は誰でもないところの我々が、誰かであるかのようにして暮らしている場所である。

 ふと思う。どうだろう、人類規模の記憶喪失。我々はどんなに自由であるか。自由を他人に求めることで、我々は誤るのである。人は言う、「自分の自由」。そうではない。本当の自由とは、「自分からの」自由である。自分が誰かであることを、何かに求めるのをやめることだ。

心は人間を超えている

 我々は我々の考え、すなわち「心」の外に出ることはできない。

 通常の我々は、我々の中に心というものがあり、それがイメージを生んでいるのだと思っている。しかし、イメージを支点とし、イメージの側から事象を見るなら、イメージこそ現実であり、心の中に我々が存在しているという存在のからくりに、気づいて驚くはずである。心の方こそが、我々の現実すなわち「我々」を生み出している、あの世も死者も、したがってこの世も生者も、世界としての心が生み出している現実なのだと気づくなら、今や「我々」とは、どのような発語であり得るだろうか。「心」は「人間」を超えているのだ。

死の豊かさ

 すべての人は、自身の死を意識した瞬間に、等しく哲学の可能性に開かれているのだ。「死というこの現象の豊かで錯綜した構造」(ハイデガー)と言う。「死の豊かさ」とは、これを思索する者の実感である。自分自身の死、その不可能性。翻って、いま在るとはどういうことか、広げて、存在するとはどういうことか、立ち止まり、世界は存在している、究極の問い、何が存在しているのか--!

 問いを問いつつ、巻き込むことで巻き込まれ、一点、「死」に気づくことから立ち上がる思索は、死を越え生を包み、生死の区別の向こう、「人間」すら越えて広がるのである。広がりつつ、しかしここにいるのである。謎を思索することで、思索自体が謎と化す。今さら「私」とは誰であり得るのか。

出会えたことの奇跡

 親子、夫婦、友人同士、生まれてくるものは必ず死ぬのだから、出会ったものは必ず別れます。生まれるということは、すなわち死ぬということであり、出会うということは、すなわち別れるということです。

 どうして存在するかわからない宇宙が、どうしてか存在し、そこで我々が生まれたり死んだりしているということは、とんでもないこと、正当に奇跡的なことなのです。人と人とが出会うということは、本当に奇跡的なことなのです。

 存在が存在し、すべては御縁でつながっているのだから、別れることを恐れるより、出会えたことの僥倖を味わいたいと、私は(誰は?)思うものです。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
« アマゾンによ... 統一化と過疎... »
 
コメント
 
 
 
ひふみよは天岩戸の祝詞かな (池田晶子忌に奉納)
2022-01-18 11:35:49
 ≪…世界としての心が生み出している現実なのだと気づくなら、今や「我々」とは、どのような発語であり得るだろうか。「心」は「人間」を超えているのだ。…≫の
[心が生み出している]で数の言葉
       ヒフミヨの数哲句を・・・

  あるないを包み込んでるヒフミヨが
                      無
          (あるないは離散連続一零∞)     

  あるないを関数式が指し示す
          (あるないを方程式が閻魔様)

  あるないはヒフミヨ棲ますながしかく
          (ながしかく□に染める心色)
  
  こころをば何にたとえんながしかく
          (ながしかく黄金矩形ともう一つ)

  もう一つカオス組み込むながしかく
 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。