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満鉄の多彩な弘報活動

『日本の広報・PR100年』より

満鉄社員会の機関誌『協和』150号(35年7月15日)掲載「満鉄業態・26」の「弘報係とは」で金丸精哉は、当初は社業広告の実施と社内各箇所への広告資料の提供だったが、業務が進むにしたがい、次のような大綱が決まったとしている。

文章宣伝とは、文章による宣伝。形影宣伝は映画、写真、絵画、図案等。口受宣伝は講演、ラジオ、レコード等である。

「満鉄会報」に連載された石原巌徹の「大陸弘報物語」では、「弘報という言葉は〝宣伝〟ということの別称である。(中略)しかし日本では〝宣伝〟というと、一種の詐術、ゴマカシの意味にとられがちの傾向が強く感じられ、〝あれは宣伝だ〟と言えば真実とちがうことのように思われるのが普通になっていた。そこで、これは正しい仕事として認識させるために〝弘報〟というシカツメらしい言葉を案出した」と述べたうえで、満鉄の行ったことを紹介している。その骨子だけを要約する。

 ①ポスター・団扇・写真

  著名画家、写真家による色彩豊かなポスターを毎年出して、世界中にばら撒いたという。中川紀元画伯の満州スケッチ、横山隆一、近藤日出造、清水昆らの満州漫画を使った満州団扇も出している。写真の重要性について、早くから着目して弘報係に写真室を設けている。33年からグラフPR誌「満州グラフ」を隔月刊(35年4月からは月刊)で創刊した。これは23年発行の「アサヒグラフ」には遅れたが、36年創刊のアメリカの「LIFE」には先行している。

 ②映画

  1931年の満州事変の際には3本の長編記録映画を作っている。『満州事変と満鉄』によれば「1932年2月、関東軍第四課は、満鉄と自治指導部の人員を二班の宣伝映画班に分けて、東北各地で上映、日本文化の紹介や日本軍の威容を宣伝、満州国建国の機運を盛り上げる。チチハル、ハルピン方面を廻った第一班の観客動員数は、総計4万2150名余、瀋陽・撫順・錦州方面の第二班の方は、4万500名余であったと言われる」という。

 ③中国風物の博覧会への出展

  石原によれば「昭和初年から日華事変へかけての年代は、日本の各地で、景気づけのための博覧会が毎年開催され一種のブームをなした。満鉄に対して……『満蒙館』を勧請して来るのが定石であった、情報課初期の弘報事業は、まことに大らかな、平和的な文化事業という色彩が強く、いま思い出しても胸のひろくなるような快感を覚える」という。

 ④名士招待

  二代目総裁・中村是公が友人の夏目漱石を招待し、それが漱石著『満韓ところどころ』となって画期的宣伝効果を上げた。その後、作家では志賀直哉、菊池寛、直木三十五、横光利一、佐々木茂索、吉屋信子、俳人の河東碧梧桐、高浜虚子、詩人の佐藤惣之助、野口雨情、画家・岡田三郎助、和田三造、石井伯亭、有島生馬、漫画家では、近藤日出造、横山隆一、ジャーナリストの長谷川如是閑などが招待に応じている。

 ⑤刊行物

  先述の「満州グラフ」の他、『満州と満鉄』、『満州と日本』、『満州産業事情』などを、1939年以降には、『満州鉄道発達史』、『満鉄と調査』などの「社業叢書」なども発行している。作家・久米正雄にデータを提供し、鉄道建設のPRを兼ねた小説「白蘭の歌」を「毎日新聞」に連載し、のち東宝で映画化されたこともあった。

  ここに紹介している広報活動は、日本から〝王道楽土〟を目指す「満蒙開拓団」を呼び込み、現地住民には〝五族協和〟を唱えて侵略行動を覆い隠すようなものであったような感じがするが、その満鉄の広報活動は満州事変前後から大きく変化していく。
コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown (μ)
2011-05-12 21:15:32
本当に満州が好きですね。ロマンを感じますね。中国出張の時に、ハルピンに行く理由を探していましたね。ソウルのついでの、大連・北京・上海に行けただけでも、ありがたいと思いなさい。
 
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