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アーレントとハイデガー

『世界戦争の世紀』より アーレントとハイデガー
 あえて言ってしまえば、アーレントそのひとが、ゆらいだ経験、見捨てられた経験を持っていたと言えないであろうか。エルジビェータ・エティンガーの『アーレントとハイデガー』(一九九五年、邦訳一九九六年)は、アーレント研究者やハイデガー研究者から芸能ゴシップなみだとの悪意をもって受けとめられた。だが、この本で初めて公開されたアーレントのハイデガー宛の手紙(その後一九九八年に『アーレント=ハイデガー往復書簡 1925-1975』が公刊)のなかには、明らかに彼女もまた「不安の世代」の一員であったことを物語る記述が見いだせるように思われる。
 十七歳のアーレントは、一九二三年-二四年冬に書かれた「倦怠」と題する詩のなかで、このようにつぶやいている。
  わたしの愛したものを
  わたしは手につかまえておけない、
  わたしのまわりにあるものを
  そのままにして立ち去れない。
  なにもかも沈んでゆく。
  薄闇がたちのぼる
  無がわたしを屈服させる--
  人生とはこういうものか。
 さらに、一九二四年夏の詩(「無題」)では、さらに不安を語る。
  あてどもなく日々を行く。
  重みなしに言葉を語る。
  なにも見えないまま闇に生きる。
  舵なしの生。
  わたしの上を蔽う ただただおそろしいもの
  大きな黒い新種の鳥のような、
  夜の顔。
 アーレントの母方の祖父母は、ロシアから移民したユダヤ人であり、父方の曾祖母もロシアからの移民ユダヤ人だった。彼らは、ドイツ語を用いてドイツ文化に同化する方向性を選択したユダヤ人だった。アーレントの父母は、高い教育を受けて十代の頃から社会主義者であり、宗教的信仰を持たなかった。
 そのため、アーレントは、同化ユダヤ人であるがゆえの帰属意識の不安定さ、幼年期の一九一三年十月に父を失っていたことからくる年長者への依存欲求があった。また同世代の青年たちと同様に、既存の価値観の崩壊した戦後社会の不安のなかに生きており、不安定な自分を導いてくれる指導者への欲求も強かったはずである。
 そしてアーレントは、一九二四年秋、十八歳のとき、初めてハィデガーと知り合っている。マールブルク大学の助教授と新入生の関係だった。一八八九年生まれの戦場体験派のハイデガーは、このとき三十五歳ですでに妻エルフリーデ(一八九三-一九九二)がいた。知り合ってまもなく、一九二五年四月にアーレントぱ、ハイデガーに向けて自己分析とでも読めるような手紙(「影」)を書いている。
  「不安はかつての憧憬とおなじように彼女を捕らえてむしばんだ。こんどもまた、つねに特定されるなにものかへの特定可能な不安ではなく、生存一般への不安だった。多くを知っていた彼女は、この不安も以前から知ってはいた。しかしこんどはその手中に落ちてしまったのだ」。
 しかし、ひそやかに始まった二人の関係は、ハイデガーからの別れの言葉が告げられて一九二八年四月に終わった。アーレントは、一九二八年四月二十二日付けのハイデガーヘの手紙のなかで切々と自分の感情を露わにしている。
  「わたしは最初の日とおなじようにあなたを愛している。あなたはそれをご存知だし、私もいつも知っていました、こんどの再会の前にも。あなたがお示しくださった道は、わたしが思っていた以上に長くて困難です。それは長い人生まるごとを要します。この道の孤独さはみずから選んだもので、わたしに似つかねしい唯一の生の可能性です。けれども見捨てられた寂寥感は、運命がそれを止揚してくれましたが、世界のなかで生きる力をわたしから奪うだけではなく、この道そのものをわたしにたいして閉ざしてしまいかねなかったのです。なにしろそれは遠くて、世界をひと跳びで通り抜けられる道ではないからです」。
 一九二九年九月、アーレントは、ハイデガー門下のギュンター・シュテルン(哲学者・ジャーナリストとしての筆名・ギュンター・アンダース、一九〇二-九二。ヴァルター・ペンヤミンの従弟。父親のウィリアム・シュテルンは、「知能指数(IQ)」概念の考案者で児童心理学者)と結婚する。ハイデガーの弟子だったシュテルンは、ハイデガーの妻のエルフリーデから地元のナチ青年団に加わらないかと誘われたことがある。エルフリーデは、悪名高い反ユダヤ主義者であった。シュテルンが「ぼくはユダヤ人です」と答えると、うんざりしたように顔をそむけた。
 その直後、ハイデガーは、アーレントとその夫のもとを訪れ、談笑したあと、ハイデガーとシュテルンはフライブルクヘ汽車で行くことになった。アーレントは、ひそかに駅まで見送りにゆき、その後ハイデガーに手紙でその行為を告白している。
 彼女は、数秒間ハイデガーの前に立っていたのだが、彼のほうは気がつかなかった。そのとき、アーレントは、自分が目に見えない存在となってしまったという恐怖を感じ、子どものころの記憶が蘇ってきた。母親が読んでくれた、鼻がどんどん大きくなってしまった鼻小人がもう誰からも彼だとはわかってもらえなかった話を思い出したのである。そのとき、母の読み方が真に迫っていたため、まるで自分がそうなってしまったかのようだった。幼かった彼女は、「わたしはお母さんの子よ、わたしはハンナよ」とひたすら叫び続けた。こんどもそれとそっくりだった。
  「そのとき汽車はもうほとんど走りだしていました。そしてことは、私がすぐに思ったとおり、つまり、おそらくは望んでいたとおりになったのです。あなたがたふたりはすぐそこの上にいて、わたしはひとりで、まったく無力なまま、それに向き合っていた。わたしには、いつもそうであるように、出来事を起こるがままにしておく以外、待って、待って、待ちつくす以外には、なにもできなかったのです」。
 取り残された、見捨てられたという感情、自分のかたわらには誰もいないという無力感。アーレントもまたまぎれもなく時代の子であった。ゆえに、彼女が、後年『全体主義の起原』で最後に展開した「フェアラッセンハイト(見捨てられている状態)」論の背後に、彼女自身の青春の記憶がかすかに残っていたと見るのは強引であろうか。

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