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僕の奥様は面白い人である

『本質を見通す100の講義』より

正直に告白しよう。僕の奥様は面白い人である。

 このまえ、デッキに出てコーヒーを飲んでいたら、五十メートルくらい先だが、隣の家の前の道路で、奥様と見られる女性が縄跳びをしているのだ。どうしたのかと不思議に思ったので、そちらへ行ってみた。「何をしてるの?」ときくと、「縄跳び」と答える。それは想定内だ。「どうして、ここで?」と尋ねると、「今日は、○○さんがお留守だから」と答える。○○さんというのは、お隣のことである。

 縄跳びをしている理由は、たぶんダイエットだと思われる。自分の家ですれば良いと思うのだが、おそらくアスファルトがそこにしかなかったから、という理由だろう。お隣がいたら恥ずかしいから、留守のときにしているということである。これだけのことで、文章が九行も書ける。今までにどれほど稼がせてもらったか。ありかたいことだ。

 ちなみに、その縄跳びを見たのは、その一回だけである。ダイエットにしては、熱心さが不足している。それもいつものことで、これまでに二百通りくらいのダイエットを試しているので、僕も驚かない。つまり、やってみて、疲れるようなもの、続きそうにないものはたちまち却下されるのである。それから、縄跳びは通販で求めた品のようだが、必ず新しい道具(しかも専用品)を買うので、いろいろ痕跡が残るのも特徴の一つである。

 受け答えも非常に面白いので、僕はいちいちその言葉を記憶して、小説で使っている。どんなものがあるのか、ここでは詳しく書かないが、たとえば、「パスカルは鼻の周りだけ白いよね」と僕が言いかけると、「黒くしてほしい?」とおっしゃる。「いや、そうじゃなくて、そこが白い理由は何だろう」「私がしたんじゃないよ」「自然にあるものは、何か理由があるから、そうなっているんじゃないかな」「どうしてそういうことを私にきくわけ?」となる。「話をするほど追い込まれる感」がある。

 このまえは、僕が思いついた家の平面図を説明しようと、ノートとペンを持ってきて、彼女の前で図を描こうとしたのだが、「やめて、その音が私駄目」とおっしゃる。どうもペンの摩擦音のことらしい。そこで、別のタイプのペンを取りに行き、戻ってきて図を描こうとすると、「君のそのペンの持ち方が変」とおっしゃる。そこで、箸の持ち方もおかしいという話になり、こちらもつい黙っていられず、「茶碗はこう持つんじゃないか」と別の話をしたところ、「どうして、そういう関係ない話をするの?」とまた怒られた。

 べつにのろけているわけではない。もちろん、愚痴を零しているのでもない。なんだかんだといって、これで二ページも書けてしまう、ということが主旨である。

孤独の話を書いたら、結婚しているのに孤独なのか、と言われた。

 他社だが、『孤独の価値』という新書を昨年上梓した。大変好調に売れている。これは「好評」ということだろう。「気が楽になった」という声が沢山届いた。もちろん、中には反発の声もある。多かったのは、「この作者は結婚をしている。そんな人間が孤独のことを書くのが信じられない」というものだ。

 反論するつもりはない(だから他社の関係ない本で書いているのだが)。しかし、この批判をする人が誤解している二点の固定観念を指摘したい。

 一つは、孤独のことを書いても良いのは孤独の人間だけだ、という思い込みである。癌患者を励ますなら癌になれ、と言っているみたいなものだ。僕は、月面に立った経験は一度もないけれど、そこがどんなふうかだいたい知っている。石を拾って投げれば、どう飛ぶのかも知っている。月面でどうやって遊べば良いか、という本も書く自信がある。そもそも、月面に宇宙船を着陸させたとき、その宇宙船を設計した人間は、誰も月面に立った経験がなかったのだ。人間の想像力というものを、たぶんこの人は知らないのだろう。

 二つめは、結婚すれば孤独ではない、という思い込みである。おそらく、この人は結婚したことがないのだろう。だから、結婚すれば、今の自分の孤独がすっきりと消えてしまうと勝手に期待しているのだ。そういうものが、この人の孤独なのだ。この人の論理でいえば、結婚したことがない者に、どうして結婚後のことがわかるのか、と返せる。

 孤独と一口にいっても、いろいろな孤独がある。人間の数だけあり千差万別だ。それは、結婚だって同じで、いろいろな結婚がある。だから、言葉というもので、抽象化して、だいたいの共通点について、だいたいの傾向を見出し、ぼんやりとした対策を練ったり、ぼんやりとした考え方について議論をするのである。本を読むことも、他者と話をすることも、あらゆるコミュニケーションとは、そういう「歩み寄り」のうえで、少しでも自分に利となりそうなものを見つける行為なのだ。

 「誰も俺の孤独を理解できない」「あいつに俺の気持ちがわかってたまるか」と引き寵っていて何が得られるかを考えればわかると思う。歩み寄らなければ、手は届かない。

 そして、自分を完全に理解してくれる理想の人もけっして現れない。希望を持つのは悪くはないけれど、結局は絶望するだけだろう。

 僕は、引き寵りが悪いと思わないし、理想を持ったまま孤高に生きるのも素晴らしいと考えている。しかし、それには自分を永遠に絶望させないほど強い思想が必要だ。
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