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非本来的時間性によって導かれる道徳的類廃

『リスクの社会心理学』より 本来的な時間性と、非本来的な時間性

(2)本来的現存在と、非本来的な現存在の振る舞い方の相違

現存在(人間)のもつ「時間性」が、死を先駆しうるほどの本来的なものであるのか、そうでないのかによって、彼らの振る舞いはおおいに異なったものとなってくる。

第1に、「本来的な現存在」は、究極的な可能性である「死」を先駆的に覚悟することから、生誕から死に至る自身の生涯全体を見据え、その生涯全体の意味を問う傾向性が、「非本来的な現存在」よりも格段に強くなる。そしてみずからが、この「世界」の中に投げ出されている「被投的存在」であることをありありと了解する。それとともに、将来時点における肯定的な個人的利益の獲得「のみ」を目的に据える傾向性が、「非本来的な現存在」よりも低い水準にとどまることとなる。

このとき、みずからの生全体を、さながらみずからの生の外側から眺める力をもつ「本来的な現存在」は、個人的な利益の獲得とは異なる、例えば「善く生きる」「美しく生きる」というような倫理的、宗教的、美的な目的をもつに至る。その結果、「非本来的な現存在」のように、せせこましい利己的な「損や得」にしがみつくような生きざまではなく、真偽、善悪、美醜、聖邪等にも配慮しながら振る舞うことが可能となっていく。

そして第2に、「非本来的な現存在」は、十分に将来を「先駆」する力をもたないため、「利己的利益の増進」という基準でも、十分に賢明なる予期を行うことができず、彼らのいう「合理的な」行動を選択することもできなくなってしまうが、一方みずからの死をすら先駆する力をもつ「本来的な現存在」は、さまざまな意味で将来を先駆することが可能である。それゆえ、「本来的な現存在」は、「利己的利益の増進をもたらす合理性」という、「非本来的な現存在」が「のどから手が出るほど」に欲しいものを、軽々と手に入れることができることとなる。ただし、繰り返しとなるが、「本来的な現存在」は、そうした「合理性」のみでなく、さまざまな倫理的、宗教的、美的な価値観をもつ以上、合理性のみを基準として振る舞うわけではない。

以上、「本来的な現存在」と「非本来的な現存在」を二分して論じたが、実際には、すべての個人が両者の側面をもつ、と考えることの方が妥当であろう。すなわち、本来的時間性と非本来的時間性の双方を各人が携えており、その両者の程度に個人間の差異があるのが、実態と考えられるだろう。

いずれにしても、こうしたハイデガーの議論は、先に紹介した筆者らの「焦点化仮説」に基づく議論と実証的知見に一致するものである。そもそもハイデガーが「気がかり」とよんだものと、焦点化仮説において「注意」と呼称するものとは同様の事柄を意味するものである。

焦点化仮説から演鐸されるのは、次のような事態である。

将来に対して気がかり=注意ができない人々は、「いま・ここ」のことばかりを考え、利己的で、享楽的な生活に従事するようになる。その一方で、将来に対しても十分に配慮できる人々は、他者のことも、伝統的なる事柄にも配慮できる人物となる。これはつまり、他者との関係性軸・時間軸の平面上で配慮範囲の狭い人間は「非本来的」な現存在である一方、同平面上で広い範囲に配慮可能な人間は「本来的」な現存在となりうる傾向が強くなるのである。

ただし、焦点化仮説に基づく心理学的議論よりも、ハイデガーの哲学的議論がより深い洞察を含んでいる。なぜなら、ハイデガーの議論は、濃密な時間性を携えた人々は、「死」を先駆的に覚悟しうるからである、という1点を含むものだからである。

いずれにしてもこうした経緯を踏まえるに、実証を過剰に重視する現代心理学は、前世紀初頭のハイデガーの哲学的議論の到達点にまで、いまだ至ってはいなかったのだということは認めざるをえないである。もちろん、死生観についての心理学研究はさまざまに進められているが、ハイデガーの議論を凌駕しうる、あるいは、それと類比しうるほどの広がりをもつ心理学研究は、少なくとも筆者が知るところでは、なされていない。そうであればこそ、心理学においては、哲学的議論を仮説形成のための基本的理論と見なすという「実証哲学的展開」は、これからますます重視されて然るべきだということはできるであろう。例えば、筆者はいま、ハイデガーの『存在と時間』の議論に基づいて、「本来的時間性」の程度を測定するために、以下のような項目で構成される尺度を用いた実証研究を進めている。

 ・人はいつ死んでもおかしくないと思う。

 ・自分が死ぬなんてことは、まったく想像できない。

 ・「明日、自分が死ぬこともあるだろう」とあたりまえに感じる。

 ・この世の中、何かあっても全然不思議ではないと思う。

 ・何も努力しなくても、きっと自分の人生はうまくいくと思う。

 ・いまさえよければそれでいいと思う。

 ・昔のことは、だいたい忘れる。

 ・何かやるとき、経験があるかないかで、全然違う。

そして、こうして測定される本来的時間性を用いて、ハイデガーが論じた哲学的議論等から演鐸されるさまざまな実証可能な仮説を検証した結果、例えば、本来的時間性をもつ人々は、ニーチエが論じた「運命愛」(運命を肯定する傾向)が強く、かつそれゆえに、主観的幸福感にも間接的な影響を及ぼしていることが確認されている。
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