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触媒としての朝鮮戦争

『冷戦の起源』より 朝鮮戦争--冷戦の真珠湾

一九四七年以降、トルーマン・ドクトリン、マーシャル・プラン、べルリン空輸、チェコのクーデタ、NATOの形成、西独再軍備等、国民の関心はもっぱらヨーロッパの東西対立に集中されていた。四九年夏以来のアジアヘの関心は、いねば「内なる封じこめ」への関心であって、アジアでのリアルな国際政治への関心とは無縁のものであった。ヨーロッパとを主戦場とするかぎり、大陸中心部であるとその周辺地域であるとを問わず、そこに賭けられている利害関係と戦略的重要性のゆえに、リスクと代価があまりに高く、米ソ陣営双方に慎重と自制が要求され、その対立も冷戦段階に抑制されたと解釈することもできよう。いいかえれば、そこでは、リスクは可測的であった。

しかし、第二次大戦のときと同様。「第二戦線」にすぎなかったアジアの冷戦は、朝鮮戦争からヴェトナム戦争にいたる〝熱戦〟段階への拡大をともなっている。レイモン・アロンのように冷戦の実物過程を重視すれば、「冷戦が軍事的次元にまで拡大し、合衆国が歴史上、初めて平時の膨大な軍事措置を保持するようになったのは、一九五〇年の朝鮮戦争を契機とし、その後のこと」となるであろう。したがって戦後アジアの国際環境を大きく規定した冷戦の特殊アジア的性格を問題の焦点にすえるかぎり、最大の問題は、何故に、アメリカはヨーロッパと異なり、対日単独占領からインドシナ半島への介入、朝鮮戦争からヴェトナム戦争にいたるまで、限定された武力行使であるにせよ、あえて〝熱戦〟を辞さない冒険に出たのか、また、何故に、「多元主義的」(pluralistic)というよりは、むしろ、自ら「覇権国家」(hegemonic power)であるかのように行動したのかという根本的な疑問である。

特に奇異に感じられることには、朝鮮半島に生じた事態に対してトルーマンがとった一連の行動は、すでに述べたように、専門官僚レべルで慎重に計算されたアジアの冷戦戦略--一九四八年から四九年六月にかけての朝鮮半島からの米軍撤兵をふくむ--の青写真とはまったく異なるものであった。事実、トルーマン大統領による米軍出動命令は、当時、マッカーサー元帥や、C・ターナー・ジョイ海軍中将をはじめ、極東の陸海空軍最高首脳部にとっても、「驚き」以外のなにものでもなかった。前章で詳述したように、各種の公文書(特に「国家安全保障会議文書」)や、各関係省庁の資料、記録、覚書等を見るかぎり、一九五〇年一月五日のトルーマン大統領の「台湾不介入」声明や、その一週間後に行なわれたアチソン国務長官の「ナショナル・プレスクラブ」における有名な演説にも示されていたように、アジア地域における「封じこめ線」は、三八度線や、一六度線の「分界線」と異なって、費用対効果比の戦略的視点から冷静に計算されたミニマムな「不後退防衛線」(defensive perimenter)であった。それのみでなく、アジア民族主義の尊重、長期的視点からの中ソ対立の見通しとその利用、アジア人の自助自立精神の強調、アジア内陸部への不介入の原則等の点で、むしろそれから約二十年後のニクソン・ドクトリンから現カーター政権のアジア政策にきわめてちかい性格をもち、以前のロマンティックなアジア政策とは異なって実体に即したものであった。にもかかわらず、朝鮮半島の事件を契機として合衆国は、それまでの「封じこめ」という比較的限定された観念を一挙に放擲し、「封じこめの世界化と軍事化」(globalization and militarization of containment)への道をひらいたのである。

それは何故か。アーネスト・R・メイのするどい指摘を借りれば、「その疑問に対する答えは、アメリカはその政策を変えたのでもなければ、相抵触する二つの政策が併存していた--やや、この方が真実にちかいか--のでもないということである。むしろ、合衆国は、二つの政策-すなわち、〝計算された政策〟(the calculated policy)に対して、〝自明の公理的政策〟(the axiomatic policy)という、二種類の政策をもっている」ということである。五〇年一月のアチソン演説(及び、NSC‐48文書)は、前者の計算された政策であったが、その演説から五ヵ月後のトルーマンのとった行動は、一九五六年のスエズ危機におけるダレス国務長官の予想外の反応と同様に、その種の〝計算された政策〟ではなかった。それは直接には三〇年代のミュンヘンの苦い体験にもとづくものであるが、さらにその根源には、米国の歴史的経験と伝統に深く根ざした自明の公理ともいうべき本能的な反応がある。それはあたかも、危機に直面して、幼少年期にうえつけられた方言が突如とびだしてくるのによく似た現象であり、計算された「合理的政策」が「表層」の政策とすれば、「公理的政策」は、その国民の「基層」から発するものである。その意味でたしかにアーネスト・メイの指摘は、問題の所在を的確に捉えている。だが、問題をよりひろく国内構造の全文脈のなかでとらえるかぎり、すでに、第七章で概観したように、連邦議会、世論、軍部等をふくむ国内諸勢力は、朝鮮戦争前、正確には、「中国の喪失」と「原爆独占の喪失」という二重のショックのゆえに、一九四九年の夏から一九五〇年初めにかけて、急速にそのムードを変化させ、「封じこめの世界化と軍事化」へ向かう国内諸勢力の「はずみ」をすでに十分に熟成させていたと見らるべきだからである。たしかに朝鮮半島における事件は、ひとつの〝触媒〟(catalyzer)として作用したことはいうまでもない。四九年夏から国内に累積する世論の変化によって、外部からの刺激に対する反応の闘は日々下がりつっあったのである。

事実は何にもまして雄弁であり、説得力をもつ。しかし、歴史的事実は、「意味づけ」を離れた単なる事実ではない。問題は、当時の米指導層が朝鮮半島に生じた一連の状況をいかなる文脈でとらえ、いかなる「概念レンズ」を通して状況の規定を行なったが、そして、その状況認識のイメージにもとづいて、いかなる行動反応に出たが、という問題である。特に現代の巨大化した政策決定機構は、その内部に蓄積された膨大な情報量と雑音の過剰負荷のゆえに、ひとたび確立された基本前提(いわゆる〝operating assumptions〟)の修正にともなう「認識の不協和」(cognitive dissonance)の代価をとかく回避したがる基本的傾向を内在させている。そのため、同一世代に属する政策決定エリートの「基層」(深層心理)に共有されている「過去の体験」や「歴史の教訓」が、その偏見(固定観念)や予断とともに、行動決定の理由づけとして、強い説得力をもちやすいことも事実であろう。
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