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ロシアの崩壊と東部戦線の終結

『第一次世界大戦』より ドイツ優位への均衡解消

ドイツが迅速に勝利を収めることができなかったのは、ドイツが常に避けようとしてきた状況に置かれてしまったからである。二正面戦争である。二正面作戦を避けるということはまさに、シュリーフェン・プランの哲学であった。フランスとロシア双方と戦わざるをえなかった故に、フランスとの対決は、ロシアとの対決が実際に始まる時にはほとんど終わっていなければならなかった。東部戦線での戦争への注目が少ないことについては、ロシアの歴史家はつねづね不満を持っている。彼らは、東部戦線こそが重要な出来事の舞台であると見なす傾向がある。出口のないこの論争に深入りせずとも、ドイツ軍が一九一四年と一九一五年に手ひどい敗北を与えたとはいえロシア軍は崩壊しなかったし、ドイツ軍司令部は引き続き二正面の戦闘を強いられていたことは異論の余地がない。その不都合を減らすために、ドイツ軍は一方的に力を注いでいる時には、もう一方では守勢をとるようにしてきた。一九一四年と一九一六年に西部戦線に、一九一五年に東部戦線に力を注いだように。しかし結局、ドイツ軍は、いずれの戦線においても勝利を収めるのに十分な手段を集中することは決してできなかった……。ところが一九一七年は神聖な驚きを--ロシアを戦争から撤退させ一つだけの戦線の戦争に戻れる可能性を--もたらすことになった。

ロシアが一気に瓦解したのであれば、ドイツに大きな優位が与えられたであろうが、実際はそうではなく、ロシアの瓦解はゆっくりと段階的に進行した。そしてドイツは、それに乗じる術を知っておくべきだった。

ロシア革命は、ロシアの能力、戦闘意欲やドイツの姿勢に、どのような影響をあたえたのに。まず排除すべきは、ロシアの崩壊は予測できた、両陣営ともそれに備えておりそれぞれの計画の一部であった、という見方である。歴史家にとっては、ロシアは必然的に崩壊したのであって、その条件がすべて揃っていたことを示すのは容易いが、それは同時代の人々の感覚ではない。(少なくともその見解を知ることのできる一部の)ロシアの住民は一九一八年末からすでに戦争に嫌気がさしていたが、これは、程度は様々ではあるが、他の交戦国の住民についても言えることである。いずれにせよ、ロシアであれ、ロシアの外であれ、革命家たちは、スイスにいたレーニンのように革命的事件が近いとは全く思っていなかった。そもそも彼らは、そんなことをしても直ちに激しく弾圧されるだけだとして、反対していた。一九一七年二月二三日から二七日(三月八日から一二日)にかけてのペトログラードの暴動、後に「二月革命」と呼ばれるが、これはほとんど完全に自然発生的なものであり、とりわけ厳しい冬と乏しい食料状況に苦しんでいた都市の大衆から湧き出たものであった。三月二日の帝政の崩壊、というその結果は大きな驚きであったが、それはデモ隊というより、武器を持たない民間人に発砲することを拒否したペトログラードの守備隊の一部の反乱によるところが大きい。三月三日から自由主義的だが無能なリヴォフ公ゲオルギー指揮の下で設置された臨時政府にとって、そしてとりわけ、中道左派の人物で「民主的立憲的」歴史家の外務大臣パーヴェル・ミリューコフや、「十月党員」つまり中道右派の実業家の陸軍大臣アレクサンドル・グチコフにとって、起きたばかりの革命は、いかなる意味においても戦争からの離脱を意味してはいなかった。目標は依然同じだった。スラブ民族の領土をオーストリア・ハンガリー帝国から「解放」し、オスマン帝国からコンスタンティノープルと海峡を獲得することであった。

連合国、とりわけフランスでは、新聞がロシアで起きたばかりの革命についての満足感を表明していた。とりわけ非民主的だったロシアの同盟国であることは、戦争開始以来、民主主義のための戦いを掲げていた協商国の宣伝にとって具合が悪かったのである。ロシアが民主主義の陣営に入ることは、歓迎されないはずはなかった。その上、革命は愛国的なものとみなされていた。というのも、革命が、ロシア皇帝の側近の中に感じられたドイツの影響力にも終止符を打つたからである。これはまた、フランス史から多くを学んだミリューコフのような人物の感覚でもあり、彼は、フランス革命の時代と同じように、ロシア革命は国民的飛躍を先導すると考えていた。これは、かなり流布していた考えであった。フランスの平和主義者たちでさえ、ロシアにおける自由の勝利は喜びつつも、最初の段階においては、体制の変化がかえって徹底抗戦主義、盲目的愛国主義、ロシアーナショナリズムを助長してしまうのでないかと心配していた……。

中欧諸国の側でも、ほぼ同じことを考えていた。二月革命に直面して、ドイツ人の見解は分かれていた。すべての階層で一種の安堵感が広がったが、非常に曖昧な反応や深刻な緊張もひき起こした。ドイツは今や、「講和」から本当に「獲得」したいと思っていることは何なのかを言うようになった。というのも、ロシアがじきに戦争から離脱することは誰も疑わなかったし、この時点では、すべての一連の予測によって、イギリスが短期間のうちに潜水艦戦によって制圧されるであろうということを、世論が確信していたからである。右翼の側では、併合主義と「賠償」の壮大な計画が著しく台頭し、これは総司令部と、その主導権をにぎった人物ルーデンドルフのとりわけ効果的な政軍両面での積極主義に力強く支えられていた。中道派と左翼、彼らもまた、戦闘停止に達する可能性を信じていたが、次のことをいぶかっていた。ドイツに対する「損害賠償」を含めつつ、ロシア人が受け入れることができる講和を見いだすことできるだろうか。
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