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スティーブを呼び戻せ! アップル

『ありえない決断』より

デルのマイケル・デル、スターバックスコーヒーのハワード・シュルツをはじめとする著名な起業家のなかには、いったん会社を去ってから再び、経営の実権を握った者も多い。たとえばシュルツなどは何度も社長の座に返り咲いている。だが、大企業の創業者が退任後一〇年以上も経ってから呼び戻され、自分が産んだ会社の救世主になった例はこれまでにない。創業者といえば、建物や賞などに名前を残すだけの名誉職に就いて終わりというのが世の常で、現経営陣が事業運営の失敗を認めて創業者を呼び戻すことなどありえなかった。だが、スティーブ・ジョブズの場合は別だ。彼が呼び戻されたことで「生涯最高の傑作」が生まれ、世界で’最も価値のある企業が生まれたのである。最近の取締役会や投資家たちは性急に創業者を放り出し、プロの経営者を招きたがる傾向にある。経営のプロを迎えたことによって得るものはあるのかもしれないが、その代わりに創業者だけがもたらすことができる魔法やエネルギー、事業の推進力を失ってしまうリスクも否定できない。

歴史は、往々にして大いなる決断を見えにくくしてしまう。一九九六年にアップルの取締役会が下した決断もその一例といえる。同社はさかのぼること二〇年前、共同経営者として同社を立ち上げたスティーブ・ジョブズを呼び戻すことにしたのである。ジョブズの復帰後、二〇一一年に彼がこの世を去るまでの一五年間で、アップルは世界で最も価値ある企業となった。彼を呼び戻したのが誰かはさておき、呼び戻したこと自体は経営史上最も意義ある決断だったと言えるだろう。とはいえ、ジョブズの復帰にまつわる事実や経緯を知れば、大きな決断のいくつかが、いやおそらくすべてが、絶妙なタイミングと偶然の組み合わせから生まれたものであることもわかってくる。

創立から二〇年を経て、アップルの事業はそれこそ目も当てられない状態になっていた。輝かしい伝説に彩られた創業の頃とは雲泥の差だ。パーソナル・コンピュータの先駆者アップルは、一九八〇年代から、「マッキントッシュ」コンピュータという強力な製品で一大サクセスストーリーを築き上げていた。「マック」は、業界の標準となった、シンプルでわかりやすいアイコンとマウスを初めて採用した一般向けコンピュータである。その事業部門を率いていたスティーブ・ジョブズは、誰でも使えるコンピュータとしてマックを売り出す、強力なマーケティング態勢を敷いた。新参者アップルが当時のコンピュータ業界を支配していたIBMの帝国を打ち砕くという内容で一世を風寡した「一九八四」広告キャンペーンは、その年のスーパーボウルに合わせて開始され、今でもブランドと企業イメージ管理の輝かしい成功例とされている。アップルは猛烈な勢いで収益をあげて市場シェアを広げ、アメリカの起業家たちの憧れの的になったが、一九八五年、ジョブズは、自身が経営を任せるべく起用したCEOジョン。スカリーによって追われるようにしてアップルを去った。

しかし、その後の数年でアップルの経営は大きくつまずく。事業は、プリンタや、当時としては画期的すぎた手のひらサイズのコンピュータ「ニュートン」にまで広がり、サプライチェーンも巨大倉庫あり町工場ありで大きくなりすぎていた。経営陣も肥大化し、アップル全体が機能不全に陥っていたのである。「アップルの現実はその名声に見合わないものになっていたが、経営陣は名声の上にあぐらをかき、惰性的な経営を続けていた」。ジャーナリストのアランーデウッチマンは、著書『スティーブ・ジョブズの再臨』(毎日コミュニケーションズ刊)のなかでそう語っている。「しかも傲慢なことに、何百というPCメーカーが送り出す製品と比べて、もはや大して優れてもおらず、異色でもなくなっていた製品に対して、割増価格まで求めていたのである」

アップルの経営は弱体化していたが、取締役会も同じようなものだった。一九九三年、取締役会はスカリーの代わりに、ドイツ生まれでヨーロッパ事業部のトップだったマイケル・スピンドラーをCEOに迎える。一九九五年、スピンドラーは業績悪化を目の当たりにしてサン・マイクロシステムズヘのアップル身売りを図るが、交渉は決裂した。同じ頃、スティーブ・ジョブズの親しい友人で、ソフトウェア業界で成功を収めていたラリー・ェリソンは、アップルを買収してジョブズをCEOに据えようと考えていた。しかし結局、その考えが実行に移されることはなかった。一方、一九九六年、スピンドラーヘの不満を募らせていた取締役会は独自にCEOを立てる。チップのメーカー、ナショナル・セミコンダクターのCEOだったギル・アメリオだ。だが、アメリオにアップルのかじ取りを任せようなど、そもそも無理な話だった。他の製造業者への部品販売を手がけてきた彼には、民生機分野での経験がなかったからだ。デウッチマンの言葉を借りれば「究極の人選ミス」である。そうしたアップルの裏をかく形になったのがマイクロソフトだった。マイクロソフトは、アップルを除くパーソナル・コンピュータ全体の標準となる基本ソフトウェアを開発して大成功を収める。その結果ははっきりしていた。アップルはいまや金を産む会社ではなく、金を食うだけの会社になってしまったのである。一九九六年、アップルは九八億ドルの売上に対して八億一六〇〇万ドルの損失を計上し、業績は前年比一一%ダウンと前途多難な状況になった。

この暗い時代のさなか、CEOの人選にすでに二度失敗していたアップル取締役会が、三度目にしてようやく現状打破のチャンスをつかむ。とはいえ、下手をすると今回もしくじりかねない状況だったことはたしかだ。アメリオは、ソフトウェア企業を買収して知的財産と人材を獲得し、もはや時代遅れになっていたアップルのシステム・ソフトウェアを入れ替えるよう取締役会を説得した。取締役会は、かつてアップルの役員だったジャン=ルイ・ガセーが経営するビーという企業にオファーをかける。だが、ガセーは、こういう場合の常で少々背伸びをして見せ、オファーに難色を示した。堕ちた業界リーダーと厚かましい新参企業の交渉はご破算となった。一方この頃、こちらもシリコンバレー企業であるネクスト社の中堅役員、ギャレット・ライスがアップルのトップ役員に接触、アップルによるネクスト買収を持ちかけていた。ネクストの創立者は、誰あろうスティーブ・ジョブズ。彼はアップル退社直後に、教育市場向けコンピュータのメーカーとしてネクスト社を立ち上げていたのだ。だが、ネクストはハードウェア・メーカーとしては振るわず、ソフトウェア分野でも道を誤りつつあった。ギャレットは当初、ジョブズに知られることなくアップルに接触し、アップル側も取締役会の誰にも知られず話し合いを持っていた(面白いことに、ギャレットは一九九七年にネクストを退社、その六年後にアップルに合流し今日なお在籍している)。
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