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国立図書館の本が焼かれた

『ドイツを焼いた戦略爆撃』より

強い南西の風で中央の建物の炎が北東の翼部に移った。六人の係員は力を振り絞り、二つの翼部を結ぶ通路から物を撤去し、北東翼部から来る炎をくい止めようとした。しかしそのためには建物の連結部に置かれていた神学の間と貴重な聖書コレクションが犠牲となるのは避けられなかった。深夜一時に国立劇場から最初の消防車が到着した。職員は迷宮のような階段や通路の中で消防隊に道を教え、今度は蔵書の救出に取りかかった。

深夜二時から国立図書館付近には民間人と軍人がぞくぞくと集まり、朝方には約一〇〇〇人になった。この人々のおかげで手稿、揺藍期本、音楽関連コレクション、目録を運び出すことができた。所蔵品の避難先は隣接するルートヴィヒ教会であった。明け方、火災は収まったように見えた。朝の光はまだ見えない。中庭は管、ポンプ、ホースで溢れ、それらは建物内へと入り、階上に伸ばされていた。その後また炎が上がり、勢いを増して北西翼部に向かい、二階全部を焼き尽くしてしまった。中央の建物ではまだ火がくすぶっており、黒煙が中庭に広がっていた。北西翼部の炎はめらめらと燃えた。ルートヴィヒ通りからは炎上する図書館の炎が暗い空に上がった。南風が強まって火災を煽り、燃え上がる本の残骸を襲い、焼けた紙切れが雪のように空中を舞った。

通りの奥の図書館と聖ルートヴィヒ教会のあいだでは両腕にいっぱい本を抱えた人々が、服に火がつかないよう気をつけながら走り回っていた。朝日を浴びる教会の側翼の壁寵と祭壇には救出された本が山と積まれた。八時頃、再度火は収まったが、またも消防隊は欺かれた。二重床のあいだに見えない火種があったのだ。それが午後に再燃し、北西翼部三階にある二つの広間を襲い、安全だと思われていた非ヨーロッパ地域の地理関係と北アメリカ関係コレクションを飲み込んでしまった。

最後の火災が消えたのは四週間後だった。中庭には三万五〇〇〇立方メートルの瓦裸が二階の高さまで積もっていた。バイエルン国立図書館は三月九日から一〇日にかけての夜、全所蔵品の二三%に当たる五〇万冊の蔵書を失った。古典文献学、考古学、美学、神学、非ヨーロッパ地誌学関連蔵書が被災した。取り返しがっかない損失は、学術施設や各種研究施設の出版物であるアカデミカのコレクション全巻であった。失われた蔵書数は三世紀のアレクサンドリア図書館の火災による損失に匹敵する。そのわずか四ヵ月後にはハンブルク大学図書館で六二万五〇〇〇冊が失われた。人類史上、これはどの書籍が焼かれたことはかつてなかった。

すでに一九三九年八月二八日、ハイデルベルク大学図書館はマネッ写本を、フランケン地方奥地のエアラングンに近い東部に送っていた。そこなら大丈夫とされていたのだが、さらに場所を変える必要に迫られ、ハイデルペルクから送られた写本はエアラングンの地下室を出て、ニュルンペルク城塞下のさらに地下深い天然岩の中に移動した。ペルリンのプロイセン国立図書館は隣接する帝国経済省の金庫室に秘蔵の品を収容していたが、一九四三年までは平常通り業務を行い、その後になって全所蔵品を避難させることにした。一七五万冊の本がヴェラ河畔のカリ坑に隠され、残りはチェコのテプラー修道院とエルベ河畔シェーネペックの塩坑に入れられた。三〇〇トンの書籍が、手当たり次第に梱包されてシュプレー川を航行する小船に乗せられ、南部や西部ドイツに送られた。途中で六回も積み替え作業が行われた。ペルリンの図書館の揺藍期本部門は手痛い損失を蒙った。その蔵書の大部分である二一五〇冊が失われ、東洋関連部門は全部消えてしまった。
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