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社会/公共性の哲学

『哲学10 社会/公共性の哲学』より テクストからの展望

プラトン 『国家』

 最初に取り上げるのは、プラトンの『国家』である。ただし、注意しなければならないのは、ここでいう国家とは近代的な意味でのstateではなく、むしろ人々が良き生を送るために構成された社会の秩序全体を指す言葉「ポリテイア」であり、場合によっては「国制」と訳されるものに他ならないことである。プラトンの『国家』とアリストテレスの『政治学』をその頂点とする古典古代の政治学においては、まさにこのような意味での国家のあり方の探究(政体論)が、最重要の課題とされた。ここには、人々の良き生の実現のためには、その人間の暮らす社会のあり方が最も重要な意味を持つ、という古典古代における政治学の根本的信念を見てとることができる。

 その意味で、『国家』がまず正義をめぐる議論から始まるのは自然である。「正義とは強者の利益である」という考えに対し、プラトンは正義とは人の生き方に関わる問題であり、「魂への配慮」こそが人間にとって最も大切であると主張する。そのように考えるプラトンにとって、政治もまた「魂への配慮」と不可分であった。人間の魂を理知的部分、気概的部分、欲望的部分に分けて考えるプラトンは、この区分に対応したポリスの秩序を構想し、逆に正義を実現したポリスのあり方から、良き魂のあり方を類推していく。

 プラトンによれば、理想のポリスは三つの階層から成る。プラトンはまず、もっぱら生産活動に携わる階層とそれを守護する階層とを分けた後、後者の守護層をさらに主に軍事を担当する補助者と、統治にあたる真の守護者とに区分する。この三つの階層は、人間の欲望的部分、気概的部分、理知的部分に対応するものであり、それぞれに節制、勇気、知恵という徳が対応する。正義とは、ポリスの構成員がそれぞれの任務を果たし、全体としての調和、かとれていることに他ならない。個人の魂の正義もまた同様であり、欲望的部分、気概的部分、理知的部分の調和がとれていることこそが、正義である。

 しかしながら、古典古代の哲学者のなかでもプラトンを突出させているのは、いかにしてこのような理想のポリスを実現するか、という問題意識であった。このことは、彼の師であるソクラテスが「魂の配慮」を課題とする社会変革を目指す途上で、アテナイの民主政との深刻な対立を引き起こし、結果として刑死を選んだことと深く関係している。プラトンの出した結論は、真に理想のポリスを実現するためには、「善のイデア」を把握した哲学者と政治権力とが二体化する「哲人王」が不可欠である、というものであった。ここに哲学と政治権力との関係をめぐる、政治学史上最も強烈な考えが示された。

 「洞窟の比喩」に示されているように、人は現実の世界(洞窟)から自らを解き放ち、洞窟の外で「善のイデア」(太陽の光)を直接目にしなければならない。現実世界とイデアの世界とを峻別する二分法的思考もまた、プラトンが後世に残した大きな遺産である。むしろ現実に存在する諸物のなかに形相(エイドス)を見いだしたアリストテレスの思考とともに、およそ社会について考える人間のモデルとなった思考法である。

ルソー『社会契約論』

 完全に自立した諸個人から一つの政治秩序を樹立するという、ホてフズの掲げた課題に挑戦しながらも、絶対的な主権者への服従という答えを出したホベフズとは異なり、人民主権という結論を導き出しだのがルソーである。しかしながら、本当に人間社会の完全な自律は可能なのだろうか。ホッブズ以来の近代政治思想は、ルソーにおいてその究極の表現と、また究極の苦境に到達する。

 ルソーが『社会契約論』において自らに課したのは、「各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」はいかにして可能か、という問題であった。これに対しルソーが示した答えが社会契約である。すなわち、「各構成員をそのすべての権利とともに、共同体の全体にたいして、全面的に譲渡する」ことであった。各人が自分をすべて与える以上、すべての人にとって条件は等しい。また、社会契約によって成立する公的人格をルソーは共和国と呼ぶが、この共和国において集団としての人民が主権者であり、主権者の命令に従うことは、自分自身の意思に従うことと同じであるとルソーはいう。

 社会契約によって、それまで自己保存しか考えてこなかった個人は、公的人格の共同の自我と一体となる。もし正しく政治体が構成されているならば、各個人は自分がその一部となる新たな全体と同一化し、もはや自らの存在を共同的存在から区別しなくなる。ルソーはこのことを一般意思の概念によって示す。すなわち、一人ひとりの人間の特殊意思の総和である全体意思とは区別される、人民の真の共通利益こそが二般意思である。各個人は自らの特殊意思か二般意思に従わせることで、むしろ自由であることを強制されるのである。このような論理こそが、後世ルソーをして「全体主義の祖」と言わしめた所以である。

 しかしながら、真に重要な問題は、一つの人間社会が完全に自律的であるとはどういうことか、である。すべての個人が等しく法を作る主体となり、等しく法に従う。このことを保障する、いかなる外部の絶対的根拠も存在しない。この場合に、人々ははたして自らの作り出した法に従いうるか。この問題を徹底して考え抜いたのがルソーである。ちなみに、ルソーは、一般意思はつねに誤ることがないとする一方で、主権者である人民はしばしばその判断を誤るとしているが、このギャップを如実に示しているのが「立法者」なる一章である。

 ルソーによれば、「立法者」とは、国家組織の外部にある超人的存在であり、ばらばらな個人か二つの全体にまとめ、自然の人間を道徳的存在にまで高めることをその任務とする。いかなる強制力も持だない「立法者」は、もっぱら説得によって人民を導かなければならない。また本の最後でルソーは「市民宗教」論を展開し、人々が良き市民たり得るための精神的基礎を論じてもいる。このようなルソーの議論にこそ、ルソーが抱え込んだ理論的・実践的課題の困難の大きさが示されていると言えるだろう。
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