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第一次世界大戦とポーランド問題

『隣人が敵国人になる日』より 民族主義者の思惑

ポーランドとウクライナの民族運動と併記したが、第一次世界大戦まで広く国際社会で存在が認められていたのはポーランド問題のみである。一五世紀末から一六世紀を通じてバルト海貿易で潤い、広大な版図を誇ったポーランド・リトアニア国は、一八世紀末、ロシア、プロイセン、オーストリアによる一七七二年、一七九三年、一七九五年の三度にわたる国土分割で姿を消した。しかし、第二次分割の強行に反発してタデウシ・コシチューシコ(一七六四~一八一七)が立ち上がり、大規模な蜂起を指揮して以来、ポーランドは国際社会に国家の復活を訴えてきた。コシチューシコの蜂起は失敗して、一七九五年の第三次ポーランド分割にいたるものの、蜂起参加者の一部は革命フランスに逃れ、ナポレオン指揮下で戦う亡命ポーランド人部隊が編成される。「われら生きるかぎり、ポーランドいまだ滅びず。」このように始まる現在のポーランド国歌は、一七九七年、亡命ポーランド人部隊の軍歌として作詞された。

しかし、ポーランド復活の道のりは険しかった。一八○七年、フランスと口シアおよびプロイセンとのあいだで交わされたティルジットの和約の結果、ワルシャワ公国が設立され、亡命ポーランド人部隊がワルシャワ公国軍隊に生まれ変わったのもつかの間、ナポレオンは失脚する。ナポレオンがかき乱したヨーロッパの秩序を復旧する一八一四/一五年のウィーン会議により、ポーランドの三分割体制もまた復活した。ロシア領ポーランドでは、一八三〇年一一月と一八六三年一月の二度、ロシアに対して大規模蜂起が試みられたが、いずれも失敗する。ポーランドの蜂起軍がつねに味方と仰いできたフランスは、一八七〇/七一年の普仏戦争でプロイセンに敗北し、ドイツでは、念願の統一が実現してドイツ帝国が成立、ロシアはロシアで、アレクサンドル二世による軍制改革で兵力を増強した。一八六三年一月蜂起敗北後、おもにフランスに逃れた亡命者は七〇〇〇人にのぼり、彼らのあいだでポーランド独立闘争への士気はなお盛んであったが、三分割領内では蜂起の可能性はほとんど消滅したかに見え、一九世紀末を迎えるころ、独立回復運動は閉塞状態に陥っていた。

ところが、バルカン支配をめぐってドイツ・オーストリア=ハンガリーと口シアが決裂、ポーランドを支配する三帝国同盟が破綻したことにより、状況は劇的に変化する。一八七九年のドイツ・オーストリア=ハンガリー同盟に対して、一八九四年にロシア・フランス同盟、一九○四年にイギリス・フランス協商、一九○七年にイギリス・ロシア協商が締結されたことにより、ヨーロッパの対立構図は、ドイツ・オーストリア=ハンガリーの中欧同盟対イギリスーフランス・ロシアの三国協商の二極に移行したのだ。ドイツ・オーストリア=ハンガリーとロシアの戦争は、ポーランド再興にとってこの上ない好機と考えられた。
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