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『世界歷史22』

冷戦と脱植民地化二〇世紀後半

イスラエルの建国とパレスチナ問題

はじめに――米ソ冷戦期の中東地域

イスラエル国(TheStateofIsrael;MedinatYisra’el、以下、イスラエル)は、パレスチナにおけるイギリスの委任統治が終了する日である一九四八年五月一四日、独立を宣言した。それに対して、アラブ諸国軍は翌一五日にパレスチナに侵攻した。アラブ諸国軍はエジプトを中心としてレバノン、ヨルダン、そしてイラクから構成されていた。いわゆる第一次「中東戦争」の勃発である。

ここで「中東戦争」と呼ばれている事態は、イスラエルとアラブ諸国との間の四回にわたる戦争を指す。すなわち、⑩一九四八年五月の第一次中東戦争(アラブ側はパレスチナ戦争、イスラエル側は独立戦争あるいは解放戦争と呼ぶ)、②一九五六年一〇月の第二次中東戦争(アラブ側はスエズ戦争、イスラエル側はシナイ戦争)、③一九六七年六月の第三次中東戦争(アラブ側は六月戦争、イスラエル側は六日間戦争)、④一九七三年一〇月の第四次中東戦争(アラブ側はラマダーン戦争あるいは十月戦争、イスラエル側はヨーム・キップール戦争)である。

ただし、「中東戦争」という用語は日本のみで使用される呼称であり、欧米では「アラブ・イスラエル戦争」と呼ばれている。日本においてアラブ・イスラエル戦争が「中東戦争」と呼ばれたのは、イラク・イラン戦争や湾岸戦争などの戦争が勃発する以前の段階で、中東地域を代表する唯一の戦争がアラブ諸国とイスラエルとの間の戦争だったからである。

第二次世界大戦後の一九四八年にイスラエル建国を機に勃発した第一次中東戦争は、東アジアやヨーロッパなどの地域と同じようには、米ソ冷戦の文脈では説明できない。というのも、大英帝国は、「インドへの道」を確保するために中東地域で覇権を依然として維持し続けていたからである。イギリスは一九五六年の第二次中東戦争までは中東での「イギリスの平和」を維持していたのである。したがって、冷戦の状況下であっても米ソの両超大国といえどもこの中東地域の紛争に簡単には介入することができなかった(Heller2016)。

また、第二次世界大戦以前の英仏による東アラブ地域(エジプト、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク)の支配の問題も指摘しておはらない。一九四八年の第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国を概観してみる。すなわち、エジプトは、一九二二年に形式的に独立し、一九三六年のエジプト・イギリス条約でイギリス軍はスエズ運河地帯を除いてエジプト全土から撤退した。とはいえ、第一次中東戦争が終わった時点でもスエズ運河には英仏軍が駐留し、スエズ運河会社は英仏の所有であった。ヨルダンも国名を首長国(英語でEmirate、アラビア語で「イマーラimāra」)から現在のヨルダン・ハーシム王国に変更して、イギリス・ヨルダン条約を一九四八年三月に調印した。とはいうものの、イギリス軍はヨルダンに駐留し続けており、ヨルダンはイギリスの軍事的・財政的な支援がなければ生き延びることができなかった。シリアは一九四六年四月にフランス軍が撤退して実質的な独立を達成し、レバノンは一九四三年一一月にフランスから正式に独立した。イラクは一九三二年にはイラク・ハーシム王国として形式的には独立していたが、イギリス軍は一九五四年まで駐留していた。

さらに指摘しなければならないのは、アメリカが主にソ連の「封じ込め」の観点から中東地域にアプローチしていったことの問題である。第二次世界大戦終結後の一九四七年三月に発表されたトルーマン・ドクトリンは、ソ連の脅威を直接受けるギリシア・トルコ・イラク・イラン・パキスタンなど、中東地域を含む「北層諸国」が対象となっていたが、イラクを除いてアラブ諸国は除外されていた。一方、第二次中東戦争後にイギリスが凋落して、一九五七年一月にアイゼンハワー・ドクトリンが発表されて以降、アメリカはアラブ地域に積極的に関与することになった。

しかし、アメリカの中東政策の原点はソ連が中東地域に影響力を行使することを封じ込める反共政策にあった。したがって、アメリカ当局者の発想は主に共産主義の脅威に対抗するというグローバルな反共路線に基づいており、アラブ諸国に波及しつつあったアラブ・ナショナリズムという特殊な政治状況を考慮せずに米ソ冷戦という視座から中東政策を決定していた(Slater2020:147-172)。

ところが、アラブ諸国からみれば、アラブ・ナショナリズムのイデオロギーという観点からはソ連の脅威よりもイスラエル国家という「敵シオニスト」の脅威の方が大きく、はるかに優先順位の高いものだった。また、アメリカとアラブ諸国との同盟関係を考えても、アラブ諸国の国王や大統領などの元首の個性によって決定され、その関係には濃淡があったといえる。換言すれば、当時のアメリカとアラブ諸国の関係は、必ずしも米ソ冷戦の文脈のみで決定されていたわけではなく、アラブ・イスラエル紛争の文脈で決定される場合も多かった。すなわち、米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争の文脈での利害関係は必ずしも一致しなかったのである。このような米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争に対する現状認識に対するズレが、アメリカの中東政策が有効に機能しなかった原因の一つであったともいえる。

エジプトのナーセル大統領(在職一九五六七〇年)が掲げるアラブ・ナショナリズムが一九五六年の第二次中東戦争以降、バレスチナ問題の展開に大きく影響することになった。というのも、パレスチナ問題の解決は、アラブ諸国が一致団結すればイスラエルを地中海に追い落とすことができるという、アラブ統一をめざすパン・アラブ的な方向で模索されたからである。

以上のような認識を前提としつつ、イスラエル建国からパレスチナ問題の展開を次のように議論していきたい。まず、前史としてイギリスによるパレスチナ委任統治期(一九二二―四八年)を簡単に振り返る。次にイスラエルの建国とアラブ・イスラエル紛争の展開を検討する。そして、一九六七年に勃発した第三次中東戦争前後から展開されるパレスチナ解放運動とは何であったのかを考えてみたい。

  • イギリスによるパレスチナ委任統治

イギリスは第一次世界大戦中、戦争遂行のために「三枚舌外交」ともいえる中東政策を推進した。イギリスはまず一九一五年に、イギリス側に立って参戦することを条件に、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人の独立を約束したフサイン・マクマホン協定を締結した。第二に、戦後、オスマン帝国領の東アラブ地域を英仏間で分割するサイクス・ビコ密約を一九一六年に取り交わした。さらに、イギリスのロスチャイルド卿に対して、アーサー・バルフォア外相がユダヤ人のための「民族的郷土」(nationalhome)をパレスチナに建設することを約束した「バルフォア宣言」を一九一七年に書簡というかたちで送った。

戦後、旧オスマン帝国領をめぐって一九二〇年四月に開催されたサンレモ会議において、東アラブ地域はフランス委任統治領のシリア・レバとイギリス委任統治領のパレスチナ・トランスヨルダン・イラクに分割されることが決定された。その際、パレスチナ委任統治に関してはバルフォア宣言に記された内容、すなわち、ユダヤ人のための「民族的郷土」の建設が、文字通りに実施されることとなった。そのため、イギリスではユダヤ人シオニストとしてサムエル(一八七〇一一九六三年、在職一九二〇一二五年)がパレスチナ委任統治の初代高等弁務官として派遣された。

しかし、イギリスによるパレスチナの委任統治は近隣の委任統治領と違って最初から無理があった。というのも、パレスチナという地域において九割以上の圧倒的多数を占めるアラブ人ではなく、これから移民してくるユダヤ人のために民族的郷土を建設するとされたからであった。実際、イギリス軍が第一次世界大戦中、エジプトからパレスチナに侵攻してきた直後の一九二〇年に起こったナビー・ムーサー祭りの反乱を端緒に、一九二一年、一九二九年、一九三三三三年、一九三六十三九年といったように、バルフォア宣言に基づくイギリスとシオニストの支配に対して、連続的にパレスチナのアラブ人の反乱が起こった。

イギリスはパレスチナのアラブ人の反乱のたびにその原因究明のために調査団を派遣したが、一九三七年に派遣されたビール卿を団長とする王立調査団は、パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、聖地イェルサレムを中心とする国際管理地の三地域に分割する勧告を行ったのである(ピール報告)。しかし、同報告が発表された一九三七年七月という時期は、東アジアでは日中戦争が勃発し、またパレスチナではアラブ人の広範な武装蜂起が展開されており、分割案は事実上、棚上げされることなった。イギリス政府は一九三九年三月にパレスチナのアラブ人とユダヤ人の代表のみならず、エジプト、イラク、シリア、レバノンなどのアラブ諸国の代表をも招聘してロンドン円卓会議(セント・ジェイムス会議)を開催した。さらに、同年五月にはパレスチナ白書を発表し、1ユダヤ人移民の制限、②ユダ人への土地売却禁止、⑧アラブ統一民族政府の樹立を骨子とする新たなパレスチナ政策を発表した(Porath2016)。ヨーロッパではナチスツに対する宥和政策が模索されていたが、パレスチナはすでに予断を許さない状況なっていた。地中海からインド洋に至る地域ではファシスト・イタリアの影響力もあり、イギリスは対枢軸側政策を優先せざるを得なかったのである。一方、パレスチナの現場においてはアラブ大反乱の深刻な状況に対応してイギリストとの軍事的な協力をも厭わなかった。

委任統治期パレスチナのアラブ民族運動の指導者ハーッジ・アミーン・アル・フサイニー(HājjAminMuhammadalHusayni,一八九五?―一九七四年)は、アラブ大反乱の最中、イギリス委任統治政府によって任命された大ムフティーとイスラーム最高評議会議長という二つの宗教行政的公職から追放された。そのため、ハーッジ・アミーンはその反英的姿勢からナチス・ドイツに亡命し、枢軸側に立って戦争協力を行うことになった(Mattar1988)。

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