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多様化の流れは家族制度を変革させる

アリーになぜか親近感

 アリーはフトゥーワの守護者。なぜか アリーに親近感を持ってる。だけど、ムハンマドの甥なんだ。それはアテネのソホクリスのイメージがあるから。

ヘーゲルの時代はハイアラキーの時代

 「主と奴」の比喩はハイアラキーが前提となってる。そこに限界を感じる。

メディアは国民にこびる

 満州事変の勃発を契機に最も劇的に変わったのは、新聞メディアです。それまでの立憲政治の下での軍縮を支持する立場から、軍部が主導する戦争支持へと一転した。なにがあったのか? 国民の雰囲気に従ったのでしょう。

ノーベル平和賞は胡散臭い

 ノーベル賞という存在が絶対の普遍的価値を持つものではなく、欧米的な価値観の押し付けと感じる人々も世界には少なくないことを浮き彫りにしている。「考え方」が変わると、すべての言動に変化が出てきます。

フィンランドのシスの精神は日本の大和魂なんだって

 極北の寒冷地にすぎなかったフィンランドは、スウェーデン、ロシアといった大国に支配された歴史を経て、一世紀前に独立を果たした。北の端の新興国家は紆余曲折しながらも困難な現実に立ち向かい、豊かな社会を築いていった。

ハイアラキーの元では、自由と平等はトレードオフ

 「自由」と「平等」に絶対の価値があるなら、それらはいずれも「絶対的に」守られるべきであるが、このふたつは両立しない。必ず矛盾を生じさせる。そうなると、どちらかの価値を毀損させてでも、片方の価値を守らなければならなくなる。その時点で、価値は絶対でなく相対的なものとなる。

多様化の流れは家族制度を変革させる

 家族が多様化しているといったとき、それ以前には、それほど多様ではなかった、ということを含意しています。

戦争は宇宙で始まり、一瞬で終わる。

 衛星攻撃兵器は、米中戦争が起きた場合に大きく影響しそうな加速要因のひとつだ。宇宙戦争の偉力はクリーンで破壊的。ネットワークが攻撃対象。

あさひなぐを観に行った

 豊田シネマであさひなぐ。観客は3人そんなもんでしょ。映画鑑賞のために、5時間無料 駐車場があるみたいですね。

 映画を豊田市で見えるとなると名古屋へ出かける理由がなくなります。Iさんが確実に居るという保証が欲しい。
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OCR化した10冊

『米中戦争前後』

 戦争にいたる道程

  中国が起こした四つの限定戦争

   朝鮮戦争(1950~53年)

   中ソ国境紛争(1969年)

   台湾海峡危機(1996年)

   東シナ海と南シナ海

   火花は大火事になる危険をはらむ

   サイバースペースに潜む戦争の加速要因

   米中の全面戦争は一気にエスカレートして起こる

   シナリオ1:海上での偶発的な衝突

   シナリオ2:台湾の独立

   シナリオ3:第三者の挑発

   シナリオ4:北朝鮮の崩壊

   シナリオ5:経済戦争から軍事戦争へ

『社会学入門』

 「働くこと」の社会的な位置づけ

  「生活手段」から「生きがい」へ

  「働いて稼ぎを得ていない」人たちがたくさんいる

  働かなくてよいのが「良い社会」?

  「無償」の労働という考え方

  有償労働と無償労働の配分の問題

  ケア労働の配分における国ごとの違い

  「働かざるもの食うべからず」とはかぎらない

  変わる「お金持ち」のイメージ

  職業が人事?

 家族であるとはどのようなことか

  家族の多様化

  家族定義問題

  家族定義問題への対応

  記述のための方法としての「家族」

  家族に期待される規範

  子育て支援と家族規範

  子育て支援のインタビュー調査

  成員カテゴリー化装置

  「家族丿集合と「人生段階」集合

  家族支援としての子育て支援

  子育て支援の実践的解法

  家族概念の用法を分析する意義

 社会において「死」はどのようにみえるか

  「死」をみえるようにする

  死のポルノグラフィ化

  「死と死にゆくこと」の社会学

  グラウンデッド・セオリー・アプローチ

  病院でつくられる死

  死の定義づけ

  死に備える

  人びとの方法論

  告知の社会学的研究

  救急医療における意思決定過程

  死にゆく過程を生きる

  生を継承する

『ひとまず、信じない』

 政治論 覚悟を決めない政治家たち

  「自由」そのものに価値があるわけではない

  「可能性」にがんじがらめにならないために

  政治家にこそ人格を要求しない

  国家の繁栄への投資

  人類にのみ許された問いかけ

  使命のために覚悟を決めるということ

  結局は政治家も優先順位を決めることから逃げている

『物語 フィンランドの歴史』

 二度の対ソ連戦争--第二次世界大戦下、揺れる小国

  大戦前夜--ソ連の危機意識と領土交換要求

   ソ連のドイツ不信とフィンランドヘの提案

   ソ連との交渉

   分かれる意見、交渉決裂

  「冬戦争」の勃発--侵略への抵抗と善戦

   戦争の勃発、挙国一致内閣の成立

   テリヨキ〝傀儡〟政権の樹立

   「冬戦争の驚異」--フィンランド軍の善戦

   冬戦争終結と「シス」の共有

  ヒトラーヘの接近--ナチス・ドイツからの支援

   バルト三国のソ連併合とドイツヘの接近

   「バルバロッサ作戦」への参加要請

  「継続戦争」による侵攻--大フィンランド構想の夢

   旧国境を越える--大フィンランド実現ヘ

   ロシア・カレリアでの「同化」政策

   戦局転換--戦争からの離脱の決断

   戦時下の社会、北欧各国への子どもの疎開

  21世紀、フィンランドという価値

   グローバル化する犯罪の余波

   少子・高齢化と少数移民社会からの変化

   フィンランドという価値

『考える練習帳』

 「考える」と何かいいことがあるか?

  考えることには、多くのメリットがある

  「考え方」が変わると、すべての言動が変化する

 世界が変わって見える

 「先が読める」ようになる

 「自由に」なれる

 AIとうまく共存できス

 仕事や勉強ができるようになり、人生が楽しくなる

 「考える」ことの使用上の注意

『ノーベル賞の舞台裏』

 平和賞--政治への影響とあやふやな理想

  五十年の孤独、情報を求めて

  銃弾が生んだヒロイン

  平和の寵児

  平和賞受賞者の課題

『日本ナショナリズムの歴史』

 軍縮から戦争支持ヘ一転した「新聞」

  日独伊三国同盟で決定づけられた太平洋戦争への道

  若者たちを戦争に向かわせた〝死の宗教〟

  結果は見えていた「無謀な戦争」

『内乱の政治哲学』

 ヘーゲル(一七七〇-一八三一)

  「精神」と「知性」

  「自己意識」と「欲望」

  「必要の体系」

  「主と奴の弁証法」

  ヘーゲルの『魂論』翻訳--同一物の二側面としての「能動/受動」

『フトゥーワ』

 家族、同胞と共に生きること

『資本主義の終焉』

 私的所有と国家

  私的所有の概念

  私的所有権と国家権力

  国家と私的所有の矛盾

  国家と貨幣

  矛盾の現代的深化

  貨幣の民主的管理をめざして

 私的領有と共同の富

 資本主義以後の社会--勝ち取られるべき未来の展望

 政治的実践について
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資本主義の終焉 私的領有と共同の富

『資本主義の終焉』より

社会的労働によって生みだされる共同の富は、無限に多様な使用価値として供給されている。それは、ナイフやフォークから、建設用の更地、都市の全域、われわれが搭乗する飛行機、われわれが運転する自動車、われわれが口にする食料、われわれが住む家屋、そしてわれわれが着用する衣服までと、ありとあらゆるものにわたっている。この共同の富を、あるいはその富に凝固させられた社会的労働を、私的に領有し蓄積することは、二つのまったく違うやり方から生じる。

第一に、今では違法と見なされかねない無数の活動が存在する。たとえば強奪、窃盗、詐欺、汚職、高利貸し、略奪行為、暴力、強制、そして疑わしく怪しげなさまざまな市場慣行(独占、市場操作、買い占め

価格操作、ポンジ・スキームなど)である。第二に、自由に機能する市場において、個々人が強制をこうむることなく取引しあうという条件の下で、法的に認可された交換を行なうことから、富を蓄積する場合もある。

 資本の流通と蓄積を研究する理論家は、このうちの第一の種類の活動を排除するのか通例である。それは、「正常」で正統な資本主義的市場機能から外れた異常な出来事と見なされるからである。彼らは、社会的富の私的領有と蓄積とについては、第二の様式だけが正統で適切だと仮定したうえで、資本の流通・蓄積モデルを組み立てるのである。

 私の考えでは、経済学の教科書で吹聴されているこうした虚構は、教えるには都合がよいが、人を誤った方向へと根本的に導くものなのであり、われわれは、このような仮定をもう覆してかまわない。そして社会的労働とその生産物とを領有するこれら二つの形態には、共生関係があるということを認めた方がよい。私がこう主張するのは、一つには次のような単純な経験的根拠にもとづいている。すなわち、世界貿易のなかでとても重要な役割を果たしている麻薬カルテルや武器密売業者、あるいは、さまざまなマフィアやその他の組織的犯罪集団に向き合わずして、資本の世界を認識しようとするのは馬鹿げているからである。近頃のアメリカにおいて不動産市場が暴落した際には、無数の略奪的慣行を確認するのはきわめてたやすかった(これに加えて、銀行による組織的な違法行為--たとえば銀行ポートフォリオにおける資産評価の偽造--、資金洗浄、ポンジ型資金供与、利率操作なども最近暴露された)のであり、これらの出来事を偶発的な異常事態だとして棚上げするのは不可能である。

 しかし、これらの明白な経験的理由以上に、略奪にもとづく経済が、基本的に資本が資本であるための核心にあると考えられる有力な理論的根拠が存在する。略奪は、私的な「人格」(つまり企業などの法人組織)によって共同の富の大部分が領有され蓄積されるのを促し、しかもこれを持続させる。社会的労働によって生みだされる価値を、生産に際して直接的に略奪することは、このような略奪行為の一種でしかない(ただし主要なものではある)。

 銀行家は原則、たとえば自分の利潤や莫大なボーナスの出所には関心を抱かない。その出所が、借り主を虐げて法外な家賃を搾りとる賃貸住宅管理業者への融資なのか、あるいは取引先から法外な料金をふんだくる商人からなのか、利用者を編すクレジットカード会社や電話会社からなのか、住宅所有者から抵当物件を不当に差し押さえる住宅ローン貸付会社からなのか、あるいは労働者を冷酷に搾取する製造業主からなのか、そうしたことはどうでもよいのである。政治的左派に属している理論家たちは、マルクスの政治経済学についての自分なりの理解からそれぞれインスピレーションを得ているものだが、彼らは通常、これらの領有形態のうち、最後のもの〔製造業主による労働者の搾取〕を、ある意味、他より根本的なものとして重視してきた。だが資本の歴史的発展が示すところによれぱ、資本はこれ以外のありとあらゆる方法によっても共同の富を領有できたのであり、この点で資本には計り知れない柔軟性があるということである。労働者は職場での階級闘争を通じて高い賃金を手にするかもしれない。しかし、この賃金も、賃貸住宅管理業者やクレジットカード会社や商人によって、たちどころに奪還されるかもしれない。ましてや税務署に奪われてしまぅのは言うまでもない。銀行家が、莫大な利益を得る独自の詐欺行為を仕組むことさえある。そしてこの人物が逮捕されたとしても、ほとんどの場合、損害を被るのは銀行(つまりその株主)であって、銀行家自身ではない(銀行家が実際に刑務所に入ったのはアイスランドだけであった)。

私的領有と社会の解体

 共同の富が私的に領有されていくこの過程の核心には、すでに見たような〔一つの〕矛盾した状況がある。貨幣が社会的労働(価値)を表象し象徴するということだ。貨幣は社会的価値を表象するが、これとは逆に、そもそも貨幣を領有できるのは私人なのである。この事実が意味するのは、貨幣は(それが価値の保存手段としても価値の尺度手段としても首尾よく機能すると仮定すれば)私人の手で無限に蓄積できるということである。そして貨幣が社会的権力の貯蔵庫であるかぎりでは、一群の諸個人への貨幣の蓄積と集中ぱ、次の二点に対して重要な意味をもつようになる。一つは、私利私欲が社会的に構築されるという点であり、もう一つは、資本主義的階級権力が、程度に差はあるものの、集団的まとまりをもって形成されるという点である。

 資本主義以前の社会は、社会に対する危険性を認識していたがゆえに、共同の富に対する見境のない私的な領有と活用とを制限する一方で、あらゆるものの商品化と貨幣化にも抵抗しようとした。こうした社会で非常によく理解されていたのは、貨幣化が、共同体を構築するそれ以外の諸手段を解体してしまい、その結果、マルクスが述べたように「貨幣が共同体になる」ということであった。われわれは依然として、こうした移行によるさまざまな結果を耐え忍んでいる。だが、これらの古い社会がこの闘いについに敗北したからといって、われわれは、共同の富の私的領有を抑制するさまざまな手段について検討することを思いとどまるべきではない。というのも、見境のない領有や投資が、環境的・社会的諸帰結を顧みることなく行なわれているという面からすれば、私的領有は巨大な危険性を示しており、資本そのものの再生産のための諸条件を脅かしてさえいるからである。

 このような主張は、あまりにも自明であるかもしれない。しかしながら、貨幣計算の内側では、はるかに不吉なことが起こっている。「略奪による蓄積」の政治力学と諸実践は、資本が資本であることを証明するものだが、貨幣計算は、このような政治力学や諸実践を実際に覆い隠してしまう。われわれは、貨幣の機能を検討した際、価値と価格が区別されることによって一つの乖離がどのように生じるのかを理解した。つまり貨幣は、社会的労働という現実から乖離してしまい、社会的労働による生産物であろうとなかろうと、あらゆるものに対して虚構の値札を貼ることができる。開墾されていない土地であろうと、良心であろうと、貨幣のために売ることはできるのだ! それゆえ価値と価格の乖離は量的であるばかりでなく(たとえば価格は、需要と供給の何らかの不均衡に反応して、即座に上がったり下がったりするかもしれない)、それは質的でもある(たとえば価格は、名誉や忠誠心や忠義といった非物質的な特徴にさえ付けることができるかもしれない)。資本が時とともにその範囲を広げ、その深みを増すにつれて、この乖離の隔たりも深まっている。

 あらゆる著述家のなかでも、この現象の特徴を最もはっきりと理解し、それがもたらす「社会に対する危険」を認識した人物は、おそらくカールーポランニーであろう。彼は、ハンガリーからの亡命者で社会主義的傾向をもった経済史家兼人類学者であり、マ>\カーシズムという苦難の絶頂期にあったアメリカで自分の研究と著述活動を行なうことになった人物である。後世に大きな影響を与えたその著書『大転換』は、一九四四年に出版されたにもかかわらず、今日においても画期的意義のある文献である。ポランニーの指摘によれば、資本を機能させ価値を生産するにあたっては、労働市場や土地市場、そして貨幣市場が必要不可欠である。

 しかし、労働、土地、貨幣は明らかに商品ではない。〈……〉労働は人間活動の別名にほかならず、人間の生活そのものの一部なのである。したがってそれは、販売のために生産されたのではなく、まったく違う理由から生みだされるものなのである。また、その活動を生活の他の部分から切り離したり、蓄積したり、転売したりすることも不可能である。同様に、土地は自然の別名にほかならず、人間によって生産されたものではない。最後に、実際の貨幣は、単に購買力の印にほかならず、一般にげっして生産されたものではなく、銀行メカニズムあるいは国家財政メカニズムによって存在するようになるものである。これらのいずれも、販売のために生産されたものではない。労働、土地、貨幣を商品とするのは、まったくの擬制なのである。

 労働、土地、貨幣を商品にするというのは擬制なのだが、この擬制が大手を振ってまかり通ることができるようになると、ポラソニーの見解では「社会は壊滅することになる」だろう。

 市場システムが人間の労働力を処理するということは、それによって、「人間」という名札に結びつけられたその人自身の身体的、心理的、道徳的特性を、市場システムが処理することを意味しよう。人間は、文化的な諸制度という保護膜を奪われ、社会的にむき出しの存在となることに耐えられず、朽ち果ててしまうだろう。すなわち人間は、悪徳、堕落、犯罪、飢餓による激烈な社会の解体の犠牲となって、死滅するのである。自然は元素にまで分解されてしまい、街や景観は冒涜され、河川は汚染され、軍事的安全性は危地に陥れられ、食料と原料を生産する能力は破壊されるだろう。〈……〉〈そして最後に〉貨幣の不足と過剰は、未開社会における洪水や旱叙のように、事業にとって災厄となることが明らかになる。〈……〉いかなる社会も、そのなかにおける人間と自然という実体や、あるいはその企業組織が、市場システムという悪魔の挽き臼による破壊から守られていなければ、むき出しの擬制によって成立するこのシステムの影響に一瞬たりとも耐えることができないだろう。

 これがポランニーの結論である。さまざまな保護制度が、かつての数十年単位の闘争を通じて、多大な努力とともに創設された。ところがその多くが、この数十年にわたる新自由主義的な政治力学と諸政策によって廃止されるにつれて、今やわれわれは、わが物顔の資本が生みださざるをえない「悪魔の挽き臼」の最悪の特徴にますますさらされることになる。ポランニーの恐れていた崩壊が多数生じているが、この点については数々の証拠が、われわれの周囲に見受けられる。だが、それだけではない。ますます多くの人間が、自ら構築してきた文明の根底にある野蛮さを嫌悪し、それから背を向けるにつれて、強烈な普遍的疎外感も、はるかな脅威として迫ってくる。こうした事態については本書の結論で論じるつもりだが、それは、資本主義と資本の両者の存続を脅かすような、最も危険なーおそらく致命的でさえある--三つの矛盾の一つなのである。

 労働、土地、貨幣の商品化がどのように歴史的に実現してきたかは、それ自体、長きにわたる痛ましい物語である。これを概説したものか、マルクスか『資本論』で簡潔に叙述したいわゆる「本源的蓄積」の歴史である。労働、土地、貨幣を商品に転換することは、暴力、不正行為、強奪、詐欺などにもとづいていた。共有地は囲い込まれ、分割され、私有財産として競売にかけられた。金や銀は、資本の歴史上、最初の貨幣商品になったが、それらは南北アメリカから盗みだされたものである。労働者は自分の土地から強制的に立ち退かせられて、「自由な」賃金労働者という地位に迫いやられた。彼らは、まったくの奴隷や年季奉公人ではなかったが、資本によって自由に搾取されることができた。このような略奪は、資本が創設される際の基盤であった。しかし、はるかに重要なことを言えば、こうした略奪が無くなることはけっしてなかった。それは、植民地主義が呈した卑劣な特徴の核心にあったばかりではない。まさに今日でもなお、土地、水、天然資源のアクセスをめぐる略奪の政治力学と諸政策--その大部分は、企業と国家の癒着した権力によって支配されている--が、世界的な不安の巨大なうねりのなかで、その根底をなしているのである。アフリカ、ラテンアメリカ、そしてアジア各地で起きているいわゆる「土地争奪」(中国で現在進行中の大規模略奪など)は、略奪による蓄積という政治が、ポランニーには想像すらできなかった形で猛威を振るっているという、まさにそのもっとも明白な兆候なのである。アメリカでは、土地収用戦術がとられたのと併せて、住宅に対する差し押さえが残酷なまでに続発した。それは多くの人々から使用価値を奪っただげでなく(何百万人がホームレスになった)、ようやく手にした貯蓄も資産価値も奪い去った。これらが住宅市場に埋め込まれていたからである。年金や医療保障、教育権、福祉手当などが失われたことは言うまでもない。このすべてが指し示しているのは、徹底的な略奪の政治経済学が資本主義世界の中心地においてさえも健在であるということだ。これらの略奪の諸形態は今や、ますます実行されつつあるが、そのご立派な口実となっている緊縮財政政策が、病んでいる資本主義を健常だとされる状態に引き戻すために必要とされるのは、皮肉な成り行きである。
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資本主義の終焉 国家と私的所有の矛盾

『資本主義の終焉』より 私的所有と国家

個人化された私的所有権レジームは、資本が資本であるためのその基礎に位置している。この法的インフラを欠いては、交換価値も貨幣も現在のような形では機能しえないという意味で、それは必要条件であり必要な構造なのである。しかしこの権利レジームは諸矛盾に覆われている。貨幣の場合のように、その矛盾は単一ではなく複合的である。この理由の一つは、使用価値と交換価値との矛盾、そして貨幣とそれが表象する社会的労働との矛盾が、個人化された私的所有権レジームにまで波及しているからである。

矛盾の第一のそして最も明確な領域は、個人の私的所有権の「自由」とされる行使と、国家の強制的規制権力の集団的行使とのあいだにある。後者によって、個人の私的所有権およびそれを非常に緊密に編みあわせる社会的結びつきは定義され、成文化され、法的形態を付与される。個人の法的定義と、これに由来する個人主義文化は、交換関係の増大、貨幣形態の出現、資本主義国家の発展とともに発生した。しかしながら、最も狂信的なリバタリアンと最も極端なアナーキスト以外は、次のことに同意するだろう。個人化された所有権と法の諸構造を維持するためには、国家権力に似たものが存在していなければならないということである。フリードリヒ・ハイエクのような理論家によると、そのような構造こそが、強制なき個人的自由を最大限保障する。だが、これらの権利は施行される必要がある。そしてまさにここで、強制力と暴力の正統な行使を独占する国家は、私的所有権レジームに対するいかなる侵害も抑圧し取り締まることを求められる。資本主義国家は、獲得した暴力手段の独占を用いて、自由に機能する市場を介して表明される個人化された私的所有権レジームを保護し維持しなければならない。中央集権化された国家権力が、分権的な私的所有体制を保護するために使われる。しかし、強大な企業と機関にまで人格性や法律上の個人という地位が拡張されるなら、民主主義的に分散した所有にもとづいて万人の個人的自由が保障される完壁な世界というブルジョアのユートピア的夢想が堕落するのは明らかである。

市場交換の領域には数多くの問題が存在する。それゆえ国家は、私的所有と個人の諸権利を保護するという単純な「夜警」的役割を大きく越え出ることを余儀なくされる。まず、集合財と公共財(高速道路、港湾、水道、廃棄物処理、教育、公衆衛生など)を供給するという問題が存在する。物的・社会的インフラの分野は広大で必要不可欠であり、国家は、それらの財を直接生産するか、あるいはその供給を義務づけ規制するか、このいずれかで関与せざるをえない。これに加えて、保護すべき機関を管理するだけでなく、その安全を保障するためにも、国家装置そのものが構築されなければならない(したがって、軍事カや治安維持能力をつくりだし、徴税を通じてこれらの活動のための財源が調達されなければならない)。

国家は何よりも、多種多様な住民を、しばしば反抗的で手に負えない住民を統治し管理する方策を見つけださなければならない。多くの資本主義国家にとってそのための手段は、強制と力に訴えるというよりも、民主的な手続きと統治性のメカニズムとによって同意を引きだすことに帰着した。このことから、私見では誤りであるが、民主化と資本蓄積のあいだには本質的な結びつきがあると考える人も現われた。しかしながら、一定のブルジョア民主主義が、資本主義における統治形態としては総じてより効果的で有効なものであったことは否定できない。だがこのことは必ずしも、資本が一社会構成体の経済エンジンという支配的地位に上りつめたことの結果ではない。こうした結果を生んだ原動力になったのは、より広範な政治的諸力の存在であり、集団的な統治形態を見いだそうとする長期にわたる努力のおかげである。その結果、個人の自由と自律を求める民衆と、専横になりがちな国家の専制的権カとのあいだの葛藤が有効に対処されたのである。

次に、市場の失敗にどのように対処すべきかというかなり普遍的な問題が存在している。市場の失敗が生じるのはいわゆる外部効果のせいであり、外部効果は、市場において(何らかの理由で)算入されない実質費用と定義される。外部性が最も顕著な分野は公害である。企業や個人は、自分たちの活動を通じて大気や水や大地の質に有害な影響を与えても、それによって発生する費用を支払わない。外部効果には他の形態(肯定的なものと否定的なものの両方がある)もあって、いずれもそれに対処するには通常、個人的行動よりも集団的行動を必要とする。たとえば、住宅の交換価値というのは外部効果の影響を受げやすい。近隣区域におけるある家屋に対して投資したり、あるいは投資を引き揚げたりした場合、そのことは隣接する周囲の住宅の価値に何らかの(肯定的ないし否定的な)影響を与えるからである。この種の問題に対処しようとする国家介入の一形態か、土地利用規制である。

ほとんどの人は、強力な否定的外部効果を生みだすこのような活動を管理し規制するために、国家やその他の形態の集団的活動が正当であると認めている。これらの事例においてはいずれも不可避的に国家は、個人の自由の行使と私的所有権を侵害せざるをえない。ここでは使用価値と交換価値との矛盾か、分権的な個人の私的所有権の自由な行使と、中央集権化された国家権力との関係にまで波及して、それに深い影響を与えるようになる。唯一の興味深い問題は、国家による侵害はどこまで進むのか、そしてこの侵害かどこまで進めば、同意の構築(不幸にもこの過程はナショナリズムの醸成をともなうが)よりも強制にもとづくようになるのか、ということである。いずれにせよ、このような機能を果たすには、国家は暴力の正統な使用に対する独占権を有していなければならない。

この独占は、次の点でも露わになる。すなわち国家は、その前資本主義的な形態にあっても、資本主義的な形態にあっても、何よりも戦争を遂行するための機関であったのであり、世界を舞台にした地政学的対立関係に巻き込まれ、地経学的な戦略化に従事することを余儀なくされてきた。新たに出現し常に進化しつづけるグローバル国家間体制という枠組みの内部で、資本主義国家は、外交、貿易、経済の優位を求め、同盟関係の追求に関わる。その目的は、所有権保有者の居住領土内に富を集積しつづける力を強化することによって、国家自体の富と権力(あるいはより正確に言えば、その指導者と少なくとも一部住民の、富と地位と権力)を確保することにある。そのさい戦争--古典的には、他の手段による外交と定義される--は、地政学的・地経学的位置を決める決定的手段となる。そこでは、国家という領土的境界内に富や競争力や影響力を集積することが独自な目的になる。
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