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アイデアは人類全体のもの

アイデアは人類全体のもの

 ものに対して、所有権。本と電子媒体、それらのコンテンツに対しては所有権はない。著作権になる。著作権は全てに対して書けるわけにはいかない。書いた人のものではない。アイデアそのものは人類全体のものである。シェアになる。

 どうしても本にしたがる理由はそこにある。また、音楽をCDにするのも同じ理由です。つまり、所有権です。それは今や,カタチにもなっていない。物権法の中に所有権があるというのはそういうことです。ものでなければ、所有権はない。不動産も本来同じです。

 所有権は民法の物件の下にある。 ということは物ではなければ所有できない。車は所有できるかもしれんけど移動手段は所有できないということです。本を所有できるかもしれないけど、コンテンツは所有できない
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『地球の歩き方』--日本型海外旅行の精神

『ひとびとの精神史 終焉する昭和』より 『地球の歩き方』創刊メンバー--日本型海外旅行の精神

独立と拡大--若き書き手たちと新タイトルの急増

 市販された『地球の歩き方』が認知度を向上させたのか、DST「自由旅行」のツアー商品は一九八〇年代に入ると、面白いように売り上げを伸ばしていた。このころダイヤモンド・ビッグ社の入口には、「自由旅行」の受付カウンターが設置されていた。そこでは安松たちがツアーの参加希望者に対応していたが、まもなく「自由旅行」から帰国した若者たちが集まるようになった。そうしてカウンターとその近くに置かれたソファのまわりに、旅好きの若者たちが交流する旅行者サロンができていったという。

 やがてサロンからは、安松たちのカウンター業務を手伝い、旅行の相談に答えて自らの体験談を語る者や、旅行説明会を助ける者などが出てきた。そのなかから『地球の歩き方』の制作を手伝う者も現れ、記事を執筆する者や新しいタイトルを立ち上げる者まで生まれた。創刊メンバーの四人組はサロンに集う学生たちと交流し、彼らの意見や情報を求め、そして彼らに書くことを勧めた。

 そのため初期の『地球の歩き方』は、タイトルごとに目次も掲載情報もレイアウトも不揃いであり、素人の書き手が思いの丈をストレートに書き綴った文章が随所に見られた。まるで一冊ごとに違う、表紙だけ似ているが中身は別物のガイドブックのようだった。しかしサロンに集う若者たちの、旅に対する「熱」のようなものは共通していた。

 このころの『地球の歩き方』の奥付を見ると、著作編集は「ダイヤモンド・スチューデント友の会」とある。もともとは七〇年代の初頭に企業視察旅行を販売するための名前だったが、八○年代の前半には受付カウンターとサロンに集う、旅好きの学生たちのコミュニティを意味するようになっていた。そしてその背後には『地球の歩き方』へ投稿する全国の読者=旅行者たちがいた。

 だがそこに、「スチューデント」ではない「自由旅行」の参加希望者がやってきた。『地球の歩き方』が書店で販売されるようになると、しだいに長い休みがとれるフリーのカメラマンやライター、デザイナーなどの「横文字」の職業の人たち(安松は「港区民」と呼んでいた)が旅行説明会や受付カウンターに現れるようになった。さらに学生と同じぐらい長期の休暇がとれる教員などもツアーに参加するようになった。そんな「スチューデント」ではない参加者が『地球の歩き方』へ旅の体験談を投稿するようになり、「ダイヤモンド・スチューデント友の会」では不都合が生じてきたという。

 いつのまにか「自由旅行」は、学生のツアー商品ではなくなっていた。低予算・長期・周遊の海外旅行を求める多様な人々が潜在的に多くいるようだ、しかもその数は今後も増えるかもしれない。しかしこれ以上は増えないかもしれないし、学生旅行の市場をめぐるライバルとの競争から[逃げ巨ことにならないだろうか。安松たち創刊メンバーは話し合いを重ねたという。

 そうして一九八五年、彼らは方針を転換することを決めた。一つは、『地球の歩き方』の著作編集を「ダイヤモンド・スチューデント友の会」から『地球の歩き方』編集室に改め、学生を前提としない「自由旅行」のためのガイドブックとして再定義することとした。もう一つは、DST「自由旅行」のツアー商品と連動しない旅先の新タイトルを増やして、『地球の歩き方』をツアー事業から独立した出版物として制作することである。

 たとえば同年には、東南アジア(タィ)編、北アフリカ(アルジェリア・チュニジア)編、メキシコ・中米編が誕生し、翌八六年には韓国編、トルコ・シリア・ョルダン編、エジプト・イスラエル編などが続々と創刊されていった。二年足らずでタイトルが倍増したことになる。

 いよいよ『地球の歩き方』が独り立ちし、サロンに集う若き書き手たちの手で新タイトルが急増していった八○年代の後半は、ちょうど日本の海外旅行熱が文字通り発火する時期でもあった。たとえば一九八五年に四九四万八〇〇〇人だった海外渡航者数は、五年後の一九九〇年には一〇九九万七〇〇〇人に達し、こちらも倍増している。

 『地球の歩き方』が海外旅行ブームの奔流に乗り、新タイトルだけでなく総発行部数も記録的に伸ばしていったことは、創刊メンバーの先見性がもたらした快挙かも知れず、あるいは偶然の一致かも知れない。そのいずれであっても、結果として『地球の歩き方』シリーズは八〇年代の日本の海外旅行ブームを牽引する、象徴的なガイドブックとして目された。黄色い装丁の『地球の歩き方』がまとめて置かれた「黄色い棚」が全国の書店に現れたのも、このころである。

 それは、日本の海外旅行のかたちを再編し、新たな海外体験の選択肢を創り出すメディアの登場でもあった。DSTの「自由旅行」を祖型とする『地球の歩き方』は、旅行会社が催行する団体旅行ではなく、また高級なホテルに滞在してタクシーや現地案内人を手配してもらう個人旅行でもなく、ガイドブックを片手に海外の各地を歩き回る低予算・長期・周遊の旅を提案した。団体ツアーよりも自由に、個人旅行よりも現地の人々の日常に触れ合い、自分だけの異文化体験を自力で紡ぎ出していくメディアとして、『地球の歩き方』はタイトルを増やしていった。

一九八五年の激流--貧乏旅行のマニュアル

 こうした『地球の歩き方』と海外旅行ブームの密月関係を考えるとき、それを取り巻く八〇年代半ばの社会文脈を無視することはできない。そのうち重要なのは次の三点と考えられる。

 第一に、一九八五年のプラザ合意がある。同年九月、米・英・仏・西独(当時)・日本の蔵相と中央銀行総裁がニューヨークのブラザ・ホテルで会合を持ち、基軸通貨としての米ドルの地位を守る目的で為替市場に協調介入し、ドル安へ誘導することに合意した。その結果、一ドルニ四〇円ほどだった為替レートが翌年には一五〇円台まで高騰し、その後も円高ドル安の流れは続いた。こうした超円高時代の到来は、日本の輸出産業には凶報だったが、個人の海外旅行には吉報となった。いねば勝手に日本円がほぼ二倍の価値を持つようになり、旅行費用も大幅に下がったため、日本人が海外へ旅行して買い物をすれば「何でも半額セール」になったからである。

 第二に、旅行情報誌『AB-ROAD』の創刊二九八四年』がある。これはダイヤモンド・ビッグ社のライバルであるリクルートが創刊した月刊誌であり、「就職ガイド」の手法を応用して旅行各社からツアー広告を集めて羅列しただけのシンプルな雑誌だった。しかしそのインパクトは絶大で、旅行業界の勢力地図を塗り替える結果をもたらした。たとえば『AB-ROAD』はJTBのような大手旅行会社と、知る人ぞ知る中小の旅行会社のツアー広告を区別せず、横並びで掲載した。すると旅行者は各社の商品を容易に比較でき、そして同じ条件でより安値なツアーを見つけられるようになった。そうして旅行商品の価格競争が起こり、HISのような新興の旅行会社が急成長するチャンスが生じた。また『AB-ROAD』はツアーに加えて格安航空券の広告も掲載したため、正規運賃の半値以下の格安航空券を同誌で見つけて、あとは『地球の歩き方』を頼りに海外へ飛び立つ、という新たな個人旅行の方法が全国に広まっていった。

 第三に、沢木耕太郎の小説『深夜特急』がある。これは七〇年代にユーラシア大陸を横断した沢木本人の旅を小説化した作品であり、八四年に産経新聞で連載が開始され、八六年に二冊の単行本にまとめられると、記録的なベストセラーになった。同書は、香港をはじめとするアジアの各地を放浪し、観光名所や免税店などを避けて現地の人々の日常的空間に浸ることで「自分探し」をする、という新しい世代の旅を独特の筆致で描いてみせた。そうした沢木の「自分探し」のアジア放浪は、多くの追随者を生み出した。『深夜特急』の刊行から間もなく、沢木が歩いたルートを後追いし、アジアで「自分探し」をする日本の若者たちの流れができていったのである。

 すでにみたように『深夜特急』の単行本化と前後して、『地球の歩き方』は東南アジア編を皮切りにアジアの新タイトルを拡充しはじめていた。そのため『深夜特急』は貧乏旅行に憧れる若者たちにとってモデルとなり、『地球の歩き方』はその必携のマニュアルとなった。両者は書店で同じ棚に置かれたり、そのまわりに旅行書籍の特集コーナーが作られたりして、まるで一対の中心的存在として流通していった。

 やや戯画的になるが、沢木の『深夜特急』を読み、『AB-ROAD』で格安航空券を見つけ、強い日本円で安いドルのトラベラーズチェックを買い、『地球の歩き方』を片手にアジアヘ向かい、『深夜特急』か『地球の歩き方』か、または両者に出てくる安宿に滞在して「自分探し」をする、あるいは他の日本人旅行者と「今日は一日で一〇〇円も使わずに過ごしたよ」と自慢しあう--そうした貧乏旅行のかたちができつつあった。

 この八○年代に現れた貧乏旅行は、前述した『地球の歩き方』の「自由旅行」とよく似た海外旅行のかたちだが、決定的に違う部分もある。たとえば旅費をできるだけ切り詰め、長期で海外を旅しようとする点は共通しているが、その目的は両者で異なる。貧乏旅行の特徴を突き詰めていえば、それは「自分探し」が主な目的とされる旅であり、いわば「内向き」な旅といえる。これに対し「自由旅行」は、かつて小田実が自らの旅行記の書名につけたように「何でも見てやろう」と歩き回る旅であり、それだけに「外向き」な旅といえる。つまり『深夜特急』で示された「自分探し」の貧乏旅行と『地球の歩き方』の「自由旅行」は、目的が異なる二つの海外旅行のかたちだった。しかし貧乏旅行の奔流に「自由旅行」は吸収され、『地球の歩き方』を熟読して「自分探し」の貧乏旅行へ向かう若者たちが多数を占めていった。

 こうした貧乏旅行を求める日本の若者たちが向かった先は、古くからバックパッカーの聖地と目されてきたインドと、八〇年代に新たな聖地となったタイだった。一方のインドでは、すでに六〇年代の後半にはヒッピー・ムーブメントやビートルズのインド訪問などの影響を受けた欧米の若者たちが、ガンジス川のほとりの聖地ワーラーナシ(ペナレス)などに集まりはじめていた。

 一九七三年にウィーラー夫妻がオーストラリアで自費出版したロンリー・プラネットは、そうしたバックパッカー文化から生まれた新しいガイドブックであり、一九八一年創刊のインド編の成功によって世界中で最も読まれるガイドブック・シリーズヘと成長していった。奇しくも『地球の歩き方』と同じ年、同じインド編で、ロンリー・プラネットがガイドブックとしての評価を確立したことは特筆に値する。

 他方で、インドと並ぶ人気の旅先としてタイが浮上したのは、八〇年代の半ばだった。不安定な軍事・独裁政権が林立する東南アジア諸国のなかで、タイは比較的政情が安定していたため、八○年代に入ると欧米系の航空会社がバンコクのドンムアン国際空港を主要な中継地として重用しはじめた。そうしてアジアのハブ空港を抱えたタイは、同地発着の格安航空券が大量に流通するようになり、また他のアジア地域ヘトランジットすることが容易だったため、世界中から多くのバックパッカーが集まる交差点のようになった。

 まもなく首都バンコクにあるカオサン通りには、一泊あたり数百円ほどの安宿と破格の航空券を手配できる旅行会社が軒を連ね、バックパッカーの新しい聖地と目されるようになった。そこに前述した日本人の若い旅人たちも集結した。あるいは八〇年代後半以降のカオサン通りの隆盛を支え、安宿街の「基礎票」を形成したのが、同時期に急増した日本のバックパッカーたった。なかでも日本の大学が長期休暇に入る八-九月と二-三月になると、カオサン通りは日本の若者で溢れ返った。とくに『地球の歩き方』で紹介された日本人宿(日本人旅行者が集まる安宿)は常に満員状態で、しかも有名な日本人宿に空きができるのを周辺の安宿で待つ旅行者も出るほどだった。

 そうした様子は日本のメディアでもたびたび取り上げられ、ときに良識派の批判を浴びた。たとえば売春や麻薬などに手を染めているのではないか、無駄な放浪で若さを浪費しているのではないか、みっともない姿でトラブルを起こし、海外の人たちに迷惑をかけるなど日本の恥だ、など。

 彼らは新しい存在だけに、目立つ存在でもあった。急増する日本の海外渡航者の総数のなかで、アジアで貧乏旅行をする若者は少数派であり、まだ当時は大手旅行会社の団体ツアーで渡航する旅行者のほうが多数派だった。それにもかかわらず『深夜特急』の道を後追いするバックパッカーは衆目を集め、『地球の歩き方』は貧乏旅行ブームを支えるマニュアルとして批判されるようになった。一九八〇年代の終わりのことである。

 このころ『地球の歩き方』の創刊メンバー、とくに安松清と西川敏晴は、突然沸き起こった時代の潮流を肌で感じつつ、そこに違和感を抱いていたように思われる。彼らは編集室に集う若者たちがアジアでの貧乏旅行を強く意識した文章を書き、また新タイトルを立ち上げていくことを支えたが、他方で『地球の歩き方』が貧乏旅行のマニュアルとして定着していくことに戸惑っていた。自分たちが追い求めてきた「自由旅行」が、貧乏旅行というかたちに収斂していく--ガイドブックの売り上げは面白いほど伸びていくが、そこには面白くない何かがあった。

 シリーズ全体で一〇〇タイトルに到達するほど成長し、書店の棚を占拠して海外旅行ガイドブックの代名詞と目されるほど有名になった『地球の歩き方』は、創刊メンバーの四人がコントロールできる規模を遥かに超えた、巨大なメディアとなっていった。市販化から一〇年を迎えた『地球の歩き方』は、海外旅行ブームの激流に乗って独り歩きしていた。
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カーシェアはビジネスモデルではない

『バカ売れ法則大全』より

都内の中心部でよく見かける「赤い自転車」が、倍々ゲームのように増えている

 ドコモ・バイクシェアという会社と各自治体が共同で実証実験を行っている自転車シェアリング。赤い色をした自転車のサドル後方には、ボタンとICカードをかざせるカードリーダーが設置されていて、利用の際はPCまたはスマートフオンからWebサイトにアクセスして、会員登録を行う(クレジットカードが必要)。

 サイト上で予約をすると、4ケタのパスワードをメータで受信。サドルの後方に設置されているパネルにパスコードを入力すると、自転車のカギが開錠する。返却するときは、手動でカギをかけ、パネルの「ENTER」を押せば終了である。

 料金は、1回30分で150円(超過した場合、30分:100円)、月額会員は月に2000円払うと、乗り始めの30分だけ何度でも無料になる(延長した場合、30分:100円)。利用回数を見ると、2014年は55万回だったが、2015年は100万回、そして2016年は220万回に達した。自転車の台数もポー卜の数も、2014年に比べて、現在はほぼ3倍に増えている。

 レンタサイクルとは異なる機能でメリットを生み出す

  「電動アシスト自転車(以下、自転車)には、どのような人が利用しているのかが分かるようにモジュールのほかに、位置情報を確認するためにGPSを搭載しています。また、自転車を返却するポートにはビーコン(小型無線装置)が備えられていて、ビーコンと自転車側のモジュールが通信することで、返却されたかどうかが分かります」(※取材当時ドコモーバイクシェアの井上佳紀さん)

  こうした機能を搭載することで多くのメリットがある。レンタサイクルなどを見ると、管理する人を配置していたり、専用の機械を設置していたりしているが、そうした必要がなくなる。それだけでなく、基本的に電源がいらないので、設置時の工事や配線も不要。従来タイプと比べて、コストは3割ほど削減することができたという。

  また、大規模工事が不要なので、柔軟に駐輪場を設置することができる。例えば、大きなイペントがあったとき、その周囲にはたくさんの自転車が並んでいることがあるが、そうした際にこの自転車シェアリングを活用することができる。

  自転車を設置するのに大規模な工事が必要ないので、自転車を移動させるだけで、利用することができるからだ。

 利用回数増加、3つの理由

  一般的なレンタサイクルは借りた自転車を元の位置に戻さなければいけないが、この自転車シェアリングの最大の特徴は〝乗り捨て〟ができること。さまざまなところに設置されているポート(自転車置き場)で原則24時間借りることができ(一部を除く)、好きなポー卜に返却することができる。

  「利用回数が増えている理由は3つあるのではないでしょうか。ぴとつめは、相互利用ができるようになったこと。2016年2月から、東京都内4つの区(中央区、千代田区、港区、江東区)で相互利用の実験を始めました。さらに、10月からは新宿区、2017年1月からは文京区も加わりました。それまでは相互利用ができなかったので、千代田区で借りたら千代田区で返す、港区で借りたら港区で返す、といった形でした。しかし、相互利用できるようになって、ものすごい勢いで利用回数が増えました。2つめは自転車台数とポート数が増えたこと。都内のポート数を見ると、2015年末時点で140ポートほどだったのですが、現在は280ポー卜ほど。数が増えているので、使い勝手がよくなっているのではないでしょうか。

  3つめは、時代の流れ。カーシェアリングなどさまざ圭なモノ・サービスをシェアする時代になってきているので、『ちょっと自転車を借りようか』という人が増えてきているのかもしれません」(井上さん)

  目的地へ行くのに駅から10分ほど歩かなければいけないので、「ちょっと赤い自転車を使ってみよう」となって、実際に乗る。一度乗ってみると、便利であることが分かって、その後も利用する人が増えているそうだ。

 鉄道を利用するより安くなるケースも

  「虎ノ門ヒルズで仕事をされて、新橋駅に移動する場合はどうするか。虎ノ門ヒルズから最も近い駅は、銀座線の虎ノ門駅。そこへ行くのに徒歩5分ほどかかります。虎ノ門駅から新橋駅まで2分ほどかかるので、鉄道の待ち時間を考えずに計算しても7分ほどかかってしまう。でも、虎ノ門ヒルズから新橋駅って近いんですよね」(井上さん)

  その距離を自転車で行くと、3~4分くらい。つまり、鉄道を利用するよりも、自転車のほうが速い。

  「虎ノ門ヒルズから六本木ヒルズヘ行くのも、鉄道を使えば時開かかかるんですよね。『どうやって行けばいいのか』と調べなければいけない人もいらっしやると思いますが、自転車だとそれほど時間はかかりません」(井上さん)

  虎ノ門駅から乗って銀座駅で乗り換えて六本木駅までは15分ほど。虎ノ門ヒルズから六本木ヒルズまで直線距離にして1・5キロほどなので、自転車で行くと、10分かからないくらい。目的地によっては鉄道で移動するよりも速く着くことができる。

力ーシェア事業で唯一黒字化できている「パーク24」の戦略

 クルマを所有せず、使いたいときに利用することができるカーシェアリング(以下、カーシェア)。スマホなどから予約して手軽に使えることから、利用者が増えている。現在カーシェア事業に参入しているのは30社前後。しかしその中で黒字化を達成しているのは時間貸し駐車場を運営している「パーク24」のみだ。

 会員を獲得する前にクルマと駐車場という莫大な資金が必要になる典型的な「先行投資型ビジネス」であるために、事業を黒字化するまでに長い年月がかかってしまう。

 黒字の世界に〝一番乗り〟できた

  「カーシェア事業を始めるには『駐車場』『会員』『クルマ』という武器が必要です。中でも最も確保するのが難しい駐車場は持っていました。そして、クルマという武器を手にしたので、他社よりも黒字化のスピードが速かったのではないでしょうか」(※取材当時カーシェア事業「タイムズカープラス」担当の内津基治さん)

  同社のビジネスモデルは、地主から土地を借りて、車室を貸す。大口で借りて、小口で貸すという形だが、いつも「満車」ではない。どこかの駐車場でいくつかの車室が空いているが、それではもったいない。駐車場としてスペースを貸すか、クルマを貸すか、それだけの違いであり、カーシェア事業は空いている土地の有効利用として始めたわけで、新しいビジネスを始めたという意識はないという。

  「当社は駐車場屋なので、駐車場は全国に約1万6000ヵ所持っています。そして、会員は約640万人います(2017年7月末現在)。でも、クルマを持っていませんでした。カーシェア事業に参入する企業が増えているなかで、『どうしたらいいのか』と悶々としていたところ、当時、マツダレンタカーがカーシェアを運営していました。しかし、クルマは多く保有していたものの、私だちと比べて駐車場の数は少なく、会員数も少なかったので、大きく展開することができてい圭せんでした。そこで、2つの会社が〝結婚″すれば、カーシェア事業を大きく展開することができるのではないか。ということで、マツダレンタカーをグループ化することにしました」(内津さん)

 秘密兵器「トニック」のチカラ

  黒字化達成には3つの武器に加え、パーク24にはもうぴとつの武器、駐車場オンライン「トニック(Times Online Network & Information Center)」を手にしている。

  「トニックを使って分かってきたのぱ『稼働状況』です。駐車場の稼働率が高ければ料金を少し上げて、稼働率が低ければ料金を少し下げる。利用されていない駐車場は空気を置いているようなものなのでもったいない。しかし、トニックを使えばリアルタイムで空いている駐車場が分かるので、効率よく運営できるようになりました。例えば、駐車場が満車なのに、そこにカーシェアのクルマを置くと、駐車場の売り上げを食ってしまうことになりますよね。カーシェアのクルマがなければ売り上げが伸びていたのに……といった話。そこでデータを分析して『この駐車場は稼働率が高いので、カーシェアのクルマを置かない』『この駐車場は稼働率が低いので、カーシェアのクルマを置く』といったことを決めています」(内津さん)

  また、このほかにもカーシェアの利用データから、駐車場に置いているクルマの車種を変えたことで売り上げが伸びたケースがある。

  例えば、商業エリアに小型のクルマを置いたところ、稼働率がものすごく低かった。そこでデータを分析すると、大きいクタマが必要なエリアや、小さなクルマが必要なエリアが分かってきた。一般的に商業エリアではビジネスパーソンが利用することが多く、大きな荷物を載せることが多いので大きいクルマが好まれる。

  さらにトニックは、駐車場には使えなくてカーシェアに使えるデータがある。

  「当社は『タイムズクラブ』という会員組織があるので、駐車場を利用するときにそのカードを使っていただければ情報を分析することができるのですが、すべての人が使うわけではありません。どういった人たちが使ったのか、細かい情報をなかなか分析できないのです。一方、カーシェアの場合、会員サービスなので入会するときには必ず個人情報をご登録いただきます。クルマを予約するときに情報が紐づいてくるので、どういった人たちが、いつ、どこへ行ったのかが見えてきました」(内津さん)

 人の移動が分かることでマーケティング活動に使えるように

  これまでカーシエアのターゲットは近隣の人たちだけだったが、利用者は近隣の人だけではないことも明らかになってきた。

  「地方に大手クルマメーカーの工場があるとします。自社の商品が採用されれば売り上げアップにつながるので、たくさんの部品メーカーがその工場を訪問しています。データをみれば、A社だけでなく、B社もC社もといった感じで。そうすると、そのほかの部品メーカーにもクルマを利用していただけるかもしれない。そこで、当社の営業が『カーシェアを利用しませんか?』とピンポイントで交渉することができるようになりました。結果、平日の稼働率がアップしました」(内津さん)

  カーシェア事業を始めて内津さんはちょっとびっくりしたことかあった。それはクルマを借りるものの、移動しない人が意外に多いことだ。どういう使い方をしているのかというと、〝部屋〟のように使っていることが分かってきた。クルマの中でPCを使ったり、スマホで電話をしたり、ホテル替わりに使っている人も。鉄道が何らかの原因で動かなくなったときには、カーシェアを利用する人が増えるそうだ。
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新自由主義時代の労働力商品化の徹底と家族主義

『「子どもの貧困」を問いなおす』より 新自由主義下における日本型生活構造と家族依存の変容

こうした男性労働者の賃金に過度に依存した生活構造は、典型的な年功賃金確保が困難な人々の生活不安を内包していたが、同時に、企業の経済パフォーマンスの低下によって全社会レベルでの生活不安定を惹起するものでもあった。それだけに平成不況期、とりわけ一九九〇年代後半以降、各企業において日本型雇用の見直しが進められ、非正規雇用の増加、正規労働者の処遇の引き下げが行われた一方、社会保障が拡充されることがなかったために、広く貧困を作り出したのである。

日本型雇用の縮小と労働の不安定化

 日本型雇用の縮小は、正規雇用労働者の減少、非正規雇用労働者、失業者の増大という形で、端的に表れることとなった。以下、新自由主義の時代における労働市場の状況を簡単におさえておこう。

 一九九〇年代後半以降の労働市場の特徴の一つが非正規雇用の比重の高まりである。一九九七年には非正規労働者数(比率)が一一五二万人(二三・三%)であったのが、二○一六年には二○○七万人(三七・六%)へと増加している。勤労者の社会標準の基軸となってきた男性労働者についても、一九九七年で三一〇万人(一〇・五%)だった非正規雇用者が、二〇二(年には六四三万人(二二・一%)にまで変化した(「労働力調査」)。完全失業者数、完全失業率については景気動向にともなう変動があるが、一九九七年の二三〇万人/三・四%から二〇〇二年に三五九万人/五・四%となり、その後、若干の改善を経た後に、二〇〇九年には三三六万人/五・一%までふくれあがった。

 さらに影響は非正規雇用だけにとどまらず、正規雇用者にも及んでいる。非正恵雇用者と失業者の拡大は、膨大な低処遇の労働力プールの形成を意味しており、激しい労働者間競争のなかで、正規労働者層を巻き込んだ形での処遇低下をもたらすことになった。二○一二年には男性正規労働者(三〇~五九歳)の中でも年収三〇〇万円未満層が三六五万人(一五%)まで上昇し、家族を扶養する余地の小さい所得水準の労働者が増加している(一九九七年は約一六六万人、九%、「就業構造基本調査」)。非正規化と正規の処遇悪化がワーキングプアの増大をもたらしたのである。

 なお、唐鎌直義によれば、貧困率は不安定就業、および常用労働者でも企業規模が小さくなるほど高くなる傾向にあり、雇用形態と企業規模による賃金格差が貧困に直結していることも指摘されている。

機能しない社会保障による貧困回避

 しかし、労働市場が不安定化したからといって、それがただちに貧困に直結するわけではない。社会保障が機能すれば貧困を回避することは可能だからである。しかし、日本の場合には、周知のとおり、社会保障は必ずしも十全に機能しているとは言いがたい。

 まず、失業時の所得保障の状況についてみておこう。失業時に本来、まず利用するのは雇用保険のいわゆる失業給付であるが、二〇一〇年段階で失業者に対する失業給付のカバー率は二割強にすぎず、しかも、歴史的にみるならば、給付手続きの改変、給付期間の変更等の制度改革が行われた結果、失業給付カバー率は二〇〇〇年代以降、二〇一〇年に至るまで下がり続けている。

 また、失業保険が受給できない場合には、生活保護受給が低収入・無収入当事者の次に取りうる手段となるが、生活保護の捕捉率は周知のとおり、きわめて低い。戸室健作は生活保護の最低生活費(生活扶助、住宅扶助、教育扶助、一時扶助)を貧困基準として、五年ごとに集計されている「就業構造基本調査」により貧困世帯比率とワーキングプァ世帯率を試算している。それによれば、全国的には一九九七年から二〇〇二年、○七年から一二年という二つの時期に貧困世帯が増加しており、貧困率は九七→○二年で一〇・一%→一四・六%、○七年→一二年で一四・四%→一八・三%、ワーキングプァ率は九七年→○二年で四・二%→六・九%、○七年→一二年で六・七%→九・七%となった。他方、捕捉率(貧困世帯に占める生活保護受給世帯の割合)は、一九九七年から二〇〇二年に一三・一%から一一・六%といったん低下した後、二○○七年には一四・三%、一二年には一五・五%と増加したが、なお二割以下という低い水準であると試算している。失業時の生活保障であるはずの失業手当と公的扶助が十全に機能しておらず、失業や低収入がダイレクトに貧困につながっているケースの多さを示唆しているといえよう。

 さらに、失業時生活保障が十全に機能していないだけでなく、就労していても子育て世帯に対する社会保障給付は不十分であり、しかも税や社会保険負担まで含めると、所得再分配は逆進的であるという指摘もある。藤原千沙によれば、社会保障給付が相対的に多い母子世帯がかろうじて再分配後の可処分所得が当初所得を上回るだけで、世帯主が若い、子どものいる世帯は再分配後の可処分所得よりも当初所得の方が多くなっているという。藤原がその要因としてあげているのが、社会保障給付それ自体が小さいこと、税負担の累進性の弱さである。

 いずれにせよ、無所得・低所得世帯にとって、社会保障を利用しての貧困回避は日本にとって必ずしも標準的な手段とはなっていないといえよう。

新しい家族主義と私的努力による生活維持とその困難

 こうしたなかで、生活防衛のための貧困回避手段として講じられてきたのが、家族の多就業化である。特に男性労働者の賃金抑制を背景に、家族役割のために、労働力率が下がるとされてきた世代の女性の就業が二〇〇〇年代以降に進展し、とりわけ低年齢児をもつ家族の働き方にも変化が生じた。近年の待機児童問題が生じる背景である。高度成長期とその後の低成長時代にも妻のパート就労等による、家計補助的多就業化は指摘されてきたところであるが、近年の多就業化は父親以外の家族の労働による所得が家計にとって重要度を増していること、低年齢児をもつ母親の急速な就業化が進んでいることが特徴である。

 この点をいくつかの統計から確認しておこう。図表は、既婚女性の労働力率を、二〇〇〇年以降五年ごとに集計したものである。これまでと同様に若い年齢階級の既婚女性ほど労働力率が低い傾向はあるものの、二〇〇〇年以降、どの年齢階級においても労働力率が上昇し、一五年の労働力率は二〇~二四歳で五二・二%、二五~二九歳で六〇・二%、三〇上二四歳で六四・六%、三五~三九歳で六四・六%となり、それぞれ一五年間で九・五ポイント、一六・一ポイント、一六・四ポイント、九・二ポイントの増加となっている。

 こうした傾向は低年齢児をもつ女性にも及んでいる。図表は、夫婦・子からなる世帯で妻が有業である世帯について、末子年齢別にその数と比率をみたもので、九〇年代の後半から有業率が上昇したのは、特に末子年齢が三歳未満、三~五歳の世帯であることがわかる。一九九七年には末子年齢三歳未満の子をもつ夫婦子からなる世帯では、妻有業が五八万世帯、二五・三%だったのに対して、二○一二年には一〇一・二万世帯、四一・五%になり、妻有業世帯が四三・二万世帯、一六・二ポイントの増加となっている。特に二〇〇七年からの五年間の伸びは大きく、二四万世帯、九・三ポイントと急激な増加となっている。他方、末子三~五歳の妻有業世帯は、一九九七年に六一万世帯、四一・六%だったのが、二〇一二年には八六・二万世帯、五四・六%となり、一五年間で二五・二万世帯、一三ポイントの増加となっている。一九九七年の時点でも一二歳以上の子をもつ世帯の妻の有業率はすでに七割近くとなっていたが、五歳以下の子をもつ世帯の妻の有業率は三割、四割以下にとどまっていた。しかし、その後、まず先に末子三~五歳世帯で妻の有業率が上昇し、続いて末子三歳未満の夫婦子からなる世帯にも及ぶ形で妻の有業率が上昇したのである。

家族の働き方の変化の背景--男性稼ぎ手の賃金抑制

 こうした女性の働き方の変化は、一九九〇年代後半以後の男性労働者の賃金抑制を背景として生じたものである。夫婦・子からなる妻有業世帯全体では、一九九七年から二○一二年にかけて、夫の年間所得四〇〇万円以下の世帯が二三・三%から三三・六%と一〇・三ポイント上昇する一方、夫の年間所得が七〇〇万円以上の世帯は三〇・九%から二一・五%となり九・四ポイント減少している。共働き世帯の中で、夫が低所得である世帯の比率が高まったのである(就業構造基本調査、各年)。

 低年齢児童をもつ共働き世帯においても、ほぼ同様の動きがみられる。同じく共働きで末子五歳以下の世帯について、一九九七年に夫の年所得が四〇〇万円未満の世帯は三九・五万世帯、三三・六%であったが、二〇一二年には八一万世帯、四三・二%と、その割合は増加し、やはり、夫が低所得である比率が増している。

 総じて、一九九〇年代後半以降、夫が低所得である世帯の増加が低年齢児をもつ母親の就業への動きを下支えしていたとみることができよう。これは、子育て中の母親の就業傾向が、男女共同参画、ジェンダー平等といった文脈のみならず、貧困化防止のための、世帯としての生活防衛の側面を色濃くもつものであり、こうしたプレッシャーが低年齢児童をもつ母親の就業にも広く及んだことを示唆するものといえよう。

 勤労者の家計維持にとって、低年齢児をもつ母親の所得はその額の多少を問わず、不可欠のものとなっている。近年、問題となっているブラックバイトなどの過酷な学生バイトの問題も、学生の収入が家計維持にとって不可欠なものとなっているという点では、母親たちと同様、家計維持のための家族の多就業化のなかに位置づけることができる。新自由主義のもとで、男性所得の抑制により、家族が総出で就労することで生計が維持される生活構造が標準化しつつあり、労働市場におけるジェンダー格差(男女差別賃金、女性の非正規雇用比率の高さなど)および家族依存の生活構造が維持されているにもかかわらず、男性片働きから家族の多就業による生計維持へと生活構造が変化してきているのである。これを筆者は、新自由主義下の新しい家族主義と呼んでいる。

 家族の多就業による生計維持が標準化すれば、母子家庭に限らず、単親世帯はより貧困に陥りやすくなる(もちろん母子家庭のリスクは圧倒的に高いが)。加えて、夫婦を維持している世帯であっても、片働きは単身世帯と同じく貧困のリスクを高めるのであり、近年、専業主婦世帯の貧困問題が指摘されているのも、多就業化や単身世帯の貧困と軌を一にした現象である。

 なお、多就業家族の標準化が「主婦」という「最大の非正規雇用」を生み出す源泉となり、労働市場における劣悪な雇用を維持しうる背景となっていることも指摘しておく必要があろう。この問題を考えるうえでは、不十分な最低生活保障しかないときには、劣悪な雇用であっても労働者が就労に向かわざるをえない構造を生み出すとの指摘が参考となる。例えば、後藤道夫は日本の完全失業率はヨーロッパ諸国に比して低いが、失業を「生活可能な職を必要としながら就けずにいる状態」と広く捉えるならば、広義の失業状態には、完全失業のほかに、その仕事では生活困難/就業持続困難で職を変えたいと思っている状態や、求職活動を休んでいるいわゆる「潜在的失業」などの半失業/不完全就労が含まれるのであり、その視点からみれば「日本はすでに……『高失業社会』になっている」という。「失業時保障のカバー率が低いか、あるいはその保障水準が低ければ、完全失業状態でいつづけることは困難となり、意にそわない条件の職であってもつかざるを得ない場合が多くな」るからである。この指摘は、失業時生活保障を念頭になされたものであるが、男性所得の抑制が子育て世帯の社会保障給付によってカバーされないときには、余儀なくされた主婦パートや学生アルバイトが半失業/不完全就労を生み出し、劣悪な雇用の維持に寄与してしまうのである。後藤は、最低生活保障の整備によって、劣悪な雇用でも就労しなければならない層を縮小しなければ、労働市場の健全化は難しいと主張しているが、主婦パートや学生アルバイト等の労働条件を引き上げて、劣悪な雇用をいかに縮小するかも、同じく課題となろう。
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