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中国の法治--人民の民主主義に必要なもの

『中国文化論』より 民主主義--制度的文化の近代化

中国の社会制度が近代文明に向かう発展の過程において、民主主義と法治は分割できず、「民主政治」と「法治国家」は統一の目標である。概して言えば、法治は民主主義の科学的・制度的な形式である。

「法治」の真意は「法の統治」であり、「法律手段を使用して行う統治」ではない。いいかえれば、「法治」とはただ法だけが最高の政治権力および権威を有し、いかなる個人いかなる団体もその上を超越してはならないということを意味する。特に執政者や統治者の管理行為は、いたるところで法律を根拠としなければならず、そうであってこそはじめて合法で有効になりうる。簡単に言えば、法は法に「依って」国を治める「根拠」であって、法で「以て」国を治める「道具」ではない。

「法制」は違う。法制はいかなる社会においても形成できる制度化された法律法規体系を指す。法制は人治システムのもとで形成され、人治システムに属するが、法治システムの中でも形成されて、法治の内容に属することもあり得る。「法制」が「法治」システム内部として一部分を構成しているとき、それは法治が実現しなければならない制度体系そのものであって、「法治」はその全面的な形成、実施および実行である。これは一種の理想的な状況である。歴史的事実によれば往々にして、法制は「法」が実際に至高無上の権威を持つことを意味しているわけでは決してなく、さらに法と民主主義が分割することのできない必然的なつながりをもつことを意味するわけでもない。逆に、それは為政者の手中にある統治の道具でしかないということを意味する場合もある。中国の歴史上で、かつて登場したことのある「法家政治」には、「法制」はあったが「法治」ではなかった。現実生活の中でも、ある人々が「法」の旗印を掲げて一般庶民を「制」する現象が現れたことがあったが、それもこうした状態に属する。これは、「法制」を重視するだけでは、「法律制度」を当局者が無権者を制限する道具とする可能性があり、そのような「法制」は実際「人治」であっても、法治精神とは反対の方向へ向かってしまう、ということを明らかにしている。

中国は「法治」が必要であり「法制」にとどまらない。実質的にいえば、法制の建設が「法治」精神の支配のもとで行われ、法制は法治精神・法治文化を制度上から体現するべきであり、統治者に掌握される道具にとどまらない。つまり、ここで強調されなければならないのは「法治」と「人治」には根本的な違いがあるということである。

改革開放以来、中国の法治文化建設は大きな成績を上げた。たとえば、法律制度がいっそう完備され、法律法規が相次いで公布され、全人民へ法知識を普及させる教育は深くまで展開され、ますます多くの人々が法律という武器で自己の権益を守ることを分かってきた。中国共産党第十八回全国代表大会でも、党と国家の管理職員は法制の思考と法治の方法を身につけなければならない、などと提起された。しかし、中国の法治文化建設はまだ歎難辛苦の局面に直面している。文化的心理と社会的伝統から見ると、中国は歴史上民主主義と法制の伝統に欠けた社会である。人々の思想観念、心理習慣、行動様式のなかには、今なお古い伝統の熔印が押されたものが多く存在し、法制建設の掘り下げを妨げている。たとえば、「礼を重んじ法を軽んずる」封建文化の影響を受けて、人々には多かれ少なかれ、法および法制の機能は犯罪人や悪人を懲罰するだけで、大半は自分の正常な生活とは無関係である、と考える根深い観念があるため、法が自己の正当な権益を保障することはわからない。多くの一般庶民がひとたび法に言及すれば、しばしば思いつくのは犯罪とか、拘禁とか、取り調べとか、投獄とか、「警察に管理教育される」といったことで、何らかの恐怖が生じる。この点と関連するのが、多くの司法部門および職員に多く「お役所」的な態度があり、「サービス」意識に欠けていて、法律を執行する対象に対して態度が簡単でぶっきらぼう、ひいては酷刑を持ち出して自白を引き出し、法律そのものに対しても尊重せず、おのが物のように見なして、法の番人が法を犯す……とした一種の状況が相互にかわるがわる加わって、中国の法制の性質をひどく歪曲し、法律のイメージを損ねてしまった。

伝統的な「人治主義」と「人情主義」の影響を受けているため、「権は法より大きい」「人情は国法より高い」という意識がまだ相当受け入れられている。法を執行する過程において「人を認めて理を認めず、権に服して法に服せず」という現象が深刻である。こうした条件により、行政権力(長官)・経済的利益(金銭)・私人関係(人情)などが次から次へと司法手続きに介入し、「法有れども依らず、法を執れども厳しからず」という現象の大量出現をもたらし、断ち切るのが難しい。これは法治建設に対するきわめて大きな挑戦であり脅威である。これは、長い間、「法律の面前で人間は皆平等であり」、法を公正に執行するという問題を充分に解決し、さらに進んで法律の独立性と尊厳を確立かつ強化することが、中国の法制建設の一つのポイントであろう、ということを明らかに示している。

現在の法治建設の実践から見ても、「法治を人治化する」という現象が存在し、法治を単純に形式化、手段化、部門化するところに現れている。具体的に言うと、以下のとおりである。

--単純に「形式化」することは、法を一つの孤立した対象と見なし、法律の形式が見えるだけで、法律の実質は見えず、ただ形式上から法律体系の特殊性を見るだけで、内容上から法治精神の普遍性を見ることはない、ということである。法治が法律の条文、司法機関、司法手続きおよび法律執行手段の自己完備であるとすれば、法に基づいて法を論じるのであり、その人物や社会の生活全般とつながることができず、その結果、情勢は必ず法治建設を一つの純粋形式化、事務化、技術化の過程と見なすこととなる。例えば、法治の実施と人間本意を対立させることは、その実法治がまさに人民大衆の正当な権益を保障する根本条件であることを理解していない。法による治国を実現することと人民を主人公とし続けることを相互衝突であるとみなすことは、その実、法治の実行を中国が人民民主主義を実現する根本方式であると見なしてはいない。法による治国を党の指導者と対立させることは、その実、執政党の法による執政の堅持が、まさにその先進性と合法性の基礎的所在であるということを理解していないのである。

各種の法治を単純に形式化する観念では、法律と道徳を切り離し、対立させる以上の思考回路はない。その実、法律と道徳はどちらも社会の価値的規範体系に属し、それらはどちらも人間の生存発展が依存し必要とする社会関係や社会秩序に起源する。同一の社会主体に対して、ふさわしい法律と道徳の間に階層性・機能性など形式上の違いが現れるが、本質上はつねに互いに通じ合いかつ一致しているものである。まさにこうであるからこそ、前に述べたように、我々の「法治文化」は道徳を含み、一種の法律と道徳の良性の相互作用であって、融合して一体になった近代文化であるはずであり、なおかつそうでなければならない。人々に法律と道徳の間のある形式上の違いが見えるだけ、あるいは現実を乖離してある種の抽象的な道徳を唯一の道徳モデルと見なすとき、法律と道徳の間に内在する関連を無視し、それらを外部対立の関係と見なしてしまう。だれかが法治は道徳と無関係であると思う、あるいは法治化は普遍的訴訟化であり、日々訴えを起こすことだと考えるために、憂慮を示し、あわせて「徳治」で法治を補わねばならないと指摘するとき、彼らは、これが実際は誤解を前提として法治を否定し、人治に戻してしまうことだということを知らないのである。道徳と徳治は別の話で、「徳治」はこれまでずっと人治のスローガンでしかない。法治のもとで道徳構築を重視することは、決して徳治を実行することと同じではない。中国の伝統文化の背景のもとで、「法治」と「徳治」の理解についてこのような混乱ともつれが何度も出現したが、いつも取り除けない道徳主義的コンプレックスがあって、まさしく法と道徳、法治と徳治の関係をいかに処理するかは、すでに法治建設の重大難題になっていて、深く研究するに値する、ということを明らかにしているのである。

--単純に「手段化」すると、法律を統治の道具あるいは手段と見なすだけで、法治を統治者がこうした手段を運用する一種の方法あるいは策略と理解するばかりで、法の主体性・公共性および権威性の前提や基礎を無視してしまう。法律は当然社会統治の道具あるいは手段の機能を有し、これは争えぬ事実である。しかしそれはいったい誰の道具および手段なのだろうか、少数の管理者のものなのだろうか、それとも人民全体のものなのだろうか。まさにこの点が人治と法治の分岐点の所在となるのである。

法治の単純手段化の実質は、まさしくそれがつねに人民大衆の主体的地位と乖離し、法制を管理者の特権と見なして、広範な人民大衆を統治対象としか見なさない、というところにある。これはいきおい必ず法治の機能を一面化かつ一方通行化し、「治国」「治民」の面のみを強調し、「治政」「治官」というさらに重要な面を無視する。こうした意識のもとで、これでもなお多くの人が「法に依りて国を治める」と「法を以て国を治める」との区別がはっきりしておらず、あるとき言うことが「法に依る」ことであっても、実際にやろうとしているのはやはり単に法律を手段として別の人間を管理することである。地方の幹部には「法治を実行するには、法によってずる賢い民を治めなければならない」とすら考えている者もいる。法治に対する無知の典型的な代表である。そして「法に依って国を治めることを徳によって国を治めることと結合させる」なかで、もしその中の「法に依って」を「法を以て」のレペルに下げて理解をするのでなければ、この提起の仕方は論理的には対応せず、成立の難しい命題となりうる。人治の条件のもとであってはじめて、「法治」(実際は古代の刑による治国)と「徳治」が同時に「帝王の具」、すなわち統治者の頼れる才能になり、自然で合理的な「結合」を達成するのである。そうでなければ、こうした結合は話をしても仕方がない。しかし多くの人々はこの言い方が人情や道理にかなうと思っている、というのも、「法に依って」と「法を以て」の一字の違いが、法はいったい治国の「根拠」なのか、それとも「道具」なのか、つまり法治を貫くのか人治を貫くのかの本質的な違いを意味していることがまだ見えていないからである。人々が「法」と「徳」をどちらも道具であると見なすときにはじめて、両者のこうした「結合」はおのずと道理にかなうのである。しかしこれはちょうど人治の習慣的な思考回路である。

--単純に「部門化」すると、法治の実現をただ司法部門あるいは司法システムの職責と見なすのみで、法治理念をただ司法システムのあるべき理念とみなすだけで、何となく法を制定する、法を執行する、法を知る、法を守るという各段階を機械的に分け、法治が一つの完璧な精神的実質と文化体系として確立することができないようにすることになる。

なるほど、法治の実行は司法工作隊に対してさらなる高い要求を提示してしまうことを意味している。こうした特殊な領域の事業に従事するには、立法および執行の人員が高度な文明的素養、荘厳なる使命感、自覚的に仕事に励みかつ身を捧げるという精神を持つことが必要であり、そうしてようやく法律と人民の利益を代表することに全力を尽くし、ひたすら人類の真理と正義のために手中の権力を行使し、適切に自己の責任を受け持つことができる。しかしこれは決して法治文化のすべてではない。現実の中で、法治は「裁判所政治」あるいは「裁判官統治」とは異なるし、「法治文化」は当然「治安文化」「訴訟文化」「刑罰文化」に帰結することもありえない。単純に法治を部門化することの実質は、やはりその前述の二点と関係がある。その実、法治を単純に形式化かつ手段化すると、法治精神の必然的結果を無視してしまうのである。法治精神は無私で何物も恐れず、現実の中で真理を追求し、科学的で厳格な精神である。普遍的な法治精神が社会生活の各領域や各レペルに貫徹していなければ、せいぜい部門的、低レペルの文化現象を生じうるだけで、なおかつ司法システムの人治化および司法腐敗現象の発生を避けることが難しいであろう。このように社会全体で調和し統一する法治文化を形成するのに不利であるばかりでなく、調和した社会の構築にもさらに不利である。

以上の分析を鑑みると、中国の制度的文化建設の一つの重要な任務は、「法を以て国を治める」から「法に依って国を治める」への転換を完成させ、近代的意義での法治文化を建設することである。
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バングラデシュの都市環境

『バングラデシュを知るための66章』より

都市環境 世界有数のスピードで拡大するダカの光と影

 --「喧騒」「混沌」「無秩序」「道路を埋め尽くすリキシャの波」--、バングラデシュの首都ダカを形容する言葉には、いつも訪れる人々を圧倒する言葉で溢れている。100年前にはわずか人口16万人程度であったダカ首都圏の人口は、今や100倍を超える1800万人に達する勢いである。特に1971年にバングラデシュとして独立した後、社会が安定し始めた1980年代以降の人口の伸び率はすさまじく、30年足らずで1000万人以上も増加するなど世界有数のスピードを誇っている。人口密度も1平方キロメートル当たり5・5万人と大都市の中で世界一であり、日本の東京・横浜圏の10倍を超える。さらに毎年約4%ずつ人口は増加し、国連の予測によれば、2030年にはダカの人口は2700万人にも達するとされており、上海や北京、デリーなど世界の巨大都市(メガシティ)と肩を並べると予測されている。

 2008年にはNHKの特集でダカが「沸騰都市」の一つとして取り上げられた。その後も次々と流入する人々によって都市部に産業が集積し、生産活動が活性化することによって効率的にさらなる次の経済活動が生み出され、その循環によって年6%という経済成長の原動力が生み出され続けている。東南アジアなどの大都市に見られるような欧米資本の有名チェーン店(高級ブランド店や、マクドナルド、スターバックス等)が建ち並ぶ通りなどがまだないことがダカの現在の特徴ともいえるが、国際的な高級ブランドホテルの建設ラッシュは続いており、民間の建物・ビルの高層化や道路の高架化もどんどんと進められ、建物は今、上へ上へと伸びている。それでも土地も道路も足りずにダカは北に東にと急激な拡大を続けており、ダカ首都圏に新たに組み込まれた行政区画や新規に土地区画整備がなされた地域なども含めて、利用されている地域は50年で2倍以上に増加した。今後も膨張する都市に対応できるように、高架による大量局速輸送鉄道機関(MRT)やバス高速輸送機関(BRT)用道路の建設、首都高速道路建設、国際空港の拡張工事など、次々に首都圏での大型建設工事が予定されており、日本もそれを後押しする予定である。

 しかし、未来に向け人々の希望を乗せてダカが急速に成長を続ける一方で、近年それに伴う影の部分がますます大きくなってきている。交通集中による渋滞の慢性化は世界有数であり、大気汚染の悪化(世界保健機関による2016年の大都市大気汚染ランキングでは世界3位)、生活用・産業用地下水の汲み上げすぎによる水位の低下(過去40年で約50メートル下がったとされる)やそれに伴う地盤沈下などが顕著になってきている。さらには違法建築が90%以上ともいわれる民間建物や工場の建設ラッシュ、生活環境を無視した乱開発の進行、毎日150万トン以上排出される工場からの違法排水による河川水質の悪化、不法投棄、水路の不法埋め立て、経済格差による貧困層の拡大やスラム地域の増加など、都市化に伴って生じる問題が山積し、居住環境は悪化の一途を辿っている。英誌エコノミストの調査部門が毎年発表する都市のランキングで、ダカが世界で最も住みにくい都市として他の紛争国と並んで最下位近くの常連となっているのは有名な話だ(2016年はワースト3位)。都市に住む人々の健康や生活の質を担保しながら、首都機能を健全な形でどうやって今後も維持していくのかがこれからの大きな課題といえる。

 加えて、バングラデシュといえば、これまでサイクロンや洪水などの風水害による災害のイメージが大きいが、都市化の急速な進行に伴う被災リスクも増大しており、ダカは、研究機関や国際機関が発表する災害に脆弱な都市としても上位の常連である。1995年に日本で起きた阪神・淡路大震災、2012年にアメリカ・ニューヨークを襲ったハリケーン・サンディなどの巨大災害の被災事例からも明らかなように、都市が大きくなればなるほど、人口が集中し重要な産業が集積していることからハザードに対する脆弱性は増大する。そして災害の人的被害やその経済的影響も比例して大きくなるが、ダカもその例外ではない。

 国連や世界銀行による調査によれば、マグニチュード7・5クラスの地震がダカを襲った場合、経済的な損失は10兆円、建物7万2000棟が全壊し、約7万人以上の死者が出ると予測されている。2016年には『ネイチャー・ジオサイエンス』誌に、バングラデシュにマグニチュード9・Oクラスの地震を引き起こす可能性のある新たな活断層が見つかり、そこでは約400年分のエネルギーが蓄積されているとの研究報告が掲載されるなど、都市部における地震やそれに伴う脆弱性への対応が今大きな注目を集めている。さらに首都圏での地震や洪水等の自然災害だけでなく、近年多発している火災や化学工場の事故、ビルの自重崩壊事故(2013年に縫製工場で働く1100人以上が亡くなったラナ・プラザ・ビルの事故は記憶に新しい)、地盤沈下に伴う建物の沈下・崩壊、乱開発に伴う排水不良による水系伝染病の蔓延等の人災に対する備えや対応体制は、現状ほぼゼロの状態であり、急速に膨張する都市としての脆弱性の克服も都市化の問題と併せて考えるべき大きな課題となっている。

 こうした状況の中、日本も、過去の高度経済成長期に生じたさまざまな経験・知見を活かし、例えばダカにおける廃棄物管理体制の改善を長年にわたり支援してきた。加えて、ダカ首都圏の渋滞緩和に向けて交通モードの多様化を図るために上述した高速鉄道輸送機関(MRT)の建設や、幹線道路における橋梁の建設を通じた交通網の改善、ダカの国際空港の拡張などを支援している。また建物の安全性強化に向けて、日本の耐震技術の導入やバングラデシュに適した耐震技術の研究開発、重要建物の耐震化などといった(ード対策や、都市住民への自助・共助体制強化に向けたソフト対策を行うなど、防災の分野でも手厚い支援を行っている。その一方で、急成長する都市の影で取り残されがちな人々、例えばNGOのエクマットラによるストリートチルドレンの自立に向けた支援や、シャプラニール=市民による国際協力の会による幼い家事使用人への支援などの重要な取り組みも行われている。

 急速な都市化によって、国全体が豊かになる一方で、所得の格差や貧富の差が拡大し、それが過激思想や内向的な思想への広がりを助長するという動きが世界全体に広がっている。バングラデシュにおいても、都市の発展という光だけでなく、影や闇への配慮、特に過大な負荷のかかっている生活環境や、都市の発展に取り残されていく人々に寄り添った地道な取り組みこそが、希望に満ちた活力のある都市となるための鍵を握ることになるだろう。

ゴミ問題と清掃人 植民地支配のひずみ

 私が最初にダカを訪れた1980年代末頃、ダカの道路はゴミで溢れかえっていた印象が非常に強い。大きな道路にはコンクリートの壁で囲っただけの大型のゴミ箱やコンテナが設置されていた。そのため幹線道路の一車線は使用できなかった。渋滞を引き起こす原因にもなっていたのである。最近も相変わらず、ゴミ問題は新聞紙面をにぎわしている。ただし、商店街近くでは飲食物以外の、例えば、その包装材のポイ捨ては見られるものの、住宅地を通る道路はきれいになったのに気づく。1990年代中盤から始まったNGOや地域密着型団体による廃棄物の各戸回収の始まりが一つの原因である。もう一つは、今世紀に入り、JICAが本格的にダカの廃棄物管理のマスタープラン作成を請け負ったことである、どの地域も各戸収集を徹底化させる、集めたゴミはできるだけ早くパッカー車や他の収集車両で埋立地に運びこみ、埋立地も衛生的に管理するといったそれぞれのゴミ処理段階をスムーズに連結させたWBA(Ward Based Approach)アプローチが導入された。その中には、清掃人の労働環境を改善することも指摘されていた。

 市の清掃人の数多くはクリーナー・コロニーと呼ばれるところに住んでいる。ダカにも数多くあり、市が建設した4~5階建てのアパートと自らの費用で建設した一階建ての低層住宅が混在している。2004~06年にグルシャン地区やモ(マドプール地区から計600戸の清掃人家族がガブトリ地区に移転した。そこはもともと違法なゴミの埋立地であった。その場所は覆土され、土中で発酵しているメタンガスをしばらく抜き、簡単な整地がなされた。当初、手押しポンプから出てくる水は少し臭いがあり、薄茶色で、飲み水にはまったく適していなかった。ようやく、ダカ上下水道公社から水道が引かれ、洗濯や水浴びなど水が存分に使用できるようになった。トイレは8世帯に一つの割合で共同利用するといった状態で、他の者が使用しないようにと扉に常に錠がかけられている。各家屋の中には台所がなく、入り口のすぐ隣に土製のかまどを使い調理をしている。ご飯を作り、カレーを作り、ダール(豆スープ)を作りと一つずつ作っていくので、おのずと時間がかかる。コロニー内にはゴミー次管理場所がないので、コロニー内で発生した廃棄物は周辺に無造作に捨てられている。そのため、(エや蚊が大量に発生し、不衛生そのものである。

 2012年、現在の行政区域の広さを理由にダカは南北に分けられた。中産階層や富裕層がたくさん居住する北ダカ市では財政状況が良くなった。近年、ガブトリ地区の清掃人の居住環境を改善することを目的に、現在のスラムのような居住建物を壊し、新たに、居住部屋、コミュニティ・センター、学校などの教育施設、レリエーション施設や高齢者保護施設が入る6階から10階建ての中層建築物の建設予定計画が提示された。生活環境を改善することで清掃人はまずは外面上汚なくないイメージを形作らなければ、日常見られる彼らへの蔑視や差別は消え失せることもない。

 「清掃人」と一口で言うものの、そのエスニシティを見ると非常に複雑である。現在、ダカの南北市役所に雇用されている清掃人の約4分の3は、独立以後農村から出てきたムスリムである。他方、ヒンドゥー教徒も存在する。第二の都市チッタゴンを見ても同様な状況にある。ヒンドゥー教徒はバングラデシュがイギリスの植民地支配に置かれていた時期に、現在の南インドのアーンドラ・プラデーシュ州から、また、北インドのウッタル・プラデーシュ州やビハール州からやってきた(ただし、チッタゴンにはベンガル出身のヒンドウー教徒清掃人がいる)。

 彼らはなぜわざわざ北インドや南インドからやってきたのだろうか? イギリスの植民地支配当時、清掃人は現在のような清掃作業=ゴミ処理という作業内容とは異なり、各家庭からの屎尿回収作業に主に従事していた。各家庭では便器の下に屎尿受け桶が設置された便所が一般的であり(乾式便所)、それを回収する作業が清掃人の主要な作業であった。ただし、当時のベンガル地方にはそれを処理するに適した地域独自のカーストが見つからなかった。したがって、不潔や不浄といった観念が職業上絶えず付きまとい、カースト序列の最下位に位置付けられていたカースト以外、その作業に従事するものはいなかった。バングラデシュは、1947年に東パキスタンとしてイギリスから独立、さらには1971年にパキスタンからの独立を果たし、インドとの国境を画定した。それに伴い、インド出身の低位カースト集団は移動を制限された。

 南インド出身者は自らを「マドラジー(イギリス支配時代のマドラス州出身である)」と名乗っており、テルグ語が母語である。宗教では、元来はヒンドゥー教徒であったが、のちに、キリスト教の宣教師による布教の影響でキリスト教徒に改宗した者もいる。彼らは現在のインドのアーンドラ・プラデーシュ州の故郷とも連絡を取っており、同州から妻を迎えたり、子どもたちの教育を考え、事情が許せばインドで小学校・中学校教育を終えさせる家族もいる。ただし、インドで就職するにはある程度の学歴が必要なため、インドに残って就職・生活する者は少数である。真偽のほどはわからないが、国境を越える際は、「スイーパー」と言えば、容易に通過できるとのことであった。

 北インド出身者は、低位力-スト集団である。自らを「カーンプーリー(カーンプールは現在のウッタル・プラデーシュ州の主要都市)」と呼ぶと同時に、「ジャーティ・スィーパー(生来の清掃人)」とも呼び、清掃労働者としての誇りを持とうとしている。

 独立以降、ダカやチッタゴンといった大都市は急速に人口を増やし、ゴミ処理作業の需要を増やしてきた。農村からの貧しいムスリムが清掃業市場に大量に参入し、現在、インド出身の清掃人としての新たな就職は難しくなってきている。先に紹介したガブトリ地区のコロニーの場合、わずか25世帯であり、コロニーの片隅に住んでいる。したがって、もっと高い教育を身につけ、清掃業以外に就職先を開拓する必要に迫られている。
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樺美智子 国民的悲劇のヒロインヘ

『ひとびとの精神史』より 美智子妃と樺美智子--転換期の女性像

一九六〇年六月一五日の夕刻、国会に突入したデモ隊に何か起きたのか。当時、その場にいた記者たちの描写で、おそらく最も信頼できるのは、後に『誘拐』『私戦』『村が消えた』などのノンフィクションで名を残す本田靖春が、読売新聞社会部記者だった時代に書いた記事である。まだ入社五年目の若手記者だった本田は、流血の現場を警察隊・機動隊のサイドから取材していた。警察がバリケードがわりにおいたトラックを、学生たちがロープとクサリでひきずり出し、突破口を開いたのがちょうど十五日午後七時だった。これより前五時すぎから始まった学生たちの〝攻撃〟に警官隊は終始押され気味だった。ここの警官の配置は道路に面して五方面警察隊、トラックのうしろに四機動と七方面警察隊。学生たちの投石による攻撃は目の前に向かいあっている方警隊ではなく、トラックのかげになってみえない四機動にばかり向けられた。ここが微妙なところ、学生たちはデモのたびに顔を合わせて、〝負い目〟にあっているデモ専門の機動隊に〝親しみを持ってはいるか、臨時に狩り出されてきた混成部隊の〝方警隊〟には敵対感情はあまりない。裏をかえせばそのまま、学生に対する機動隊の憎しみもまた強いということになる。ともかく四機動はひっきりなしに飛んでくる石で負傷者が続出、後退を余儀なくされた。そうしたとき若い隊員が左目にコブシほどの石を受け、バッタリ倒れた。これをみて〝チキショク〟と歯をくいしばる隊員、デモのたびに同じ年ごろの若い学生からあびせかけられる「税金ドロボウ」「ポリ公」などのバ声に憎しみがムクムクと頭をもたげたのだろう。それははっきりわかった。〔中略〕このときだった。四機動の三、四人が「さがるヤツがあるか」「突っこめ、突っこめ」「方警のバカヤロウ」と口々にどなりながら突進した。〔中略〕これがダイナマイトの導火線となった。「わあーっ」と喚声をあげて〝突撃〟に移ったこの数人に、つられたようにほかの隊員が、そして方警隊が続いた。あとは警棒の雨。「やっちまえー」。キチガイじみた、こんな怒声まで飛んで警棒の雨はまたたく間に血の雨となった。(『読売新聞』一九六〇年六月一六日)

樺美智子の死は、こうした機動隊側の「暴発」により起きた。樺は、ひどく興奮した警察官の何人かに撲殺されたと考えられる。死体解剖の結果からも、樺美智子は咽喉を絞めつけられ、同時に下腹部を警棒等で強く殴打されて窒息死したとされている。もともと機動隊は一九四八年、頻発する労働争議鎮圧のために警視庁予備隊として設置された組織で、この二年後には警察予備隊が設置されている。前者は機動隊に、後者は自衛隊に進化するから、両者は同じコインの表裏として発達した組織であった。一九五二年の皇居前広場での血のメーデー事件の後、正式に「機動隊」が設置・強化されることとなり、「六〇年安保」におけるデモ隊との対決を通じ、機動隊組織は飛躍的に発展した。前述の第四機動隊は、そのなかでも砂川闘争で農民・学生と直接対決した精鋭部隊で、「鬼の一機、蛇の三機、泣く子も黙る四機」と恐れられていた。大学進学率がまだ約一七%にすぎなかった時代、ほぼ同世代の機動隊員とデモ隊学生の間には明白な出身階層差があった。本田の描写は、そのような階層的なねじれが機動隊員たちの感情に一定の影を落としていた可能性をうかがわせる。条約成立が迫るなか、血気と焦りで突出した全学連学生たちの冒険的行動は、警察組織のなかの「海兵隊」のような治安暴力の専門家たちに制圧されていったのである。

しかし、樺美智子の死は、その翌日から特別な意味を帯びていく。それどころか、このもう一人の「美智子さん」が戦後日本できわめて大きな存在になっていくのは、その生前ではなく、むしろ死後なのである。彼女の死は、大衆運動のなかで「国民的悲劇」に編み上げられていった。まず、六月一八日には東京大学で「樺美智子さんの死を悼む合同慰霊祭」が行われた。八○○人が参列する大規模なもので、さらに会場に入りきれない学生や教職員約五〇〇〇人が安田講堂前で参列した。八年後の東大・本郷キャンパスとは異なり、この時には東京大学は樺美智子を死に追いやった岸政権を非難することで一丸となっていたのである。慰霊祭の司会は西洋史の堀米庸三、茅誠司総長らの弔辞が次々に読み上げられ、死体解剖に立ち会った坂本昭は、地検当局の発表した死因には疑問があり、掩殺の疑いがあることを発表した。式後、遺影を先頭に約六〇〇〇人が国会に向けて行進した。国会前にはすでに約六万人が詰めかけており、彼らの「真剣な顔、悲しみと憤りをこめて、精一杯に岸内閣打倒を叫んでいる声、--そこには、ほんとうに心の底からこみあげてきた岸内閣に対する憎悪の感情と日本の民主主義を護ろうとする固い決意」がはっきり見てとれたと、美智子の父・樺俊雄は書いている(樺俊雄・前掲書、一八〇頁)。そして二三日には、日比谷公会堂で全学連主催の慰霊祭も行われた。このときにも参列者が膨らんで、多くの学生が会場に入りきれなかった。

さらに六月二四日には、日比谷公会堂で国民葬実行委員会による本葬が行われた。葬儀委員長は西川景文(仏教者平和協議会常任理事)、葬儀委員には、上原専禄兌一橋大学学長)、浅沼稲次郎(社会党委員長)、末川博(立命館大学総長)、青野季吉言本文葛家協会会長)、千田是也(演出言、太田薫(総評議長)などが並び、芥川也寸志が演奏と合奏の指揮をした。樺俊雄は、「この日の葬儀に参列されたのは、私の知人だけではなく、むしろ、全体としてまったく未知の方がその大部分を占めていました。参加された方は何万という数に上り、公会堂の会場に入れなかった人びとは野外音楽堂の第二会場に集っていただいて、そこで別に式をあげていただくほど盛大なものでありました。〔中略〕式が終ってから、全員揃って美智子の遺骨と遺影とを先頭にして、最後の息をひきとった国会の南通用門まで行進しました。その行進の列は、ながくながく続き、先頭が南通用門へついたときにも、後尾はようやく日比谷を出発するというような有様でした」と書き残している(樺俊雄・前掲書、一八四-一八五頁)。そうして国会南通用門の祭壇には美智子の遺骨が安置され、数万という参列者が追悼した。祭壇の脇ではコーラス隊が追悼曲「忘れまい六・一五」を歌いつづけた。さらに午後一時、「人ぴとはIせいに真剣な態度で美智子の死にたいして黙祷を捧げました。しかも、同じ時刻には、全国の各都市、各集会、各団体において、一せいに黙祷が行われた」という。

東大での慰霊祭から「国民葬」までわずか一週間、江刺昭子は、その間に樺美智子についての国民的イメージが構築されていったのを確認している。東大葬で読み上げられたメッセージで、秋田雨雀は美智子を「永遠の処女」と詠い、国民葬をプロデュースした松山善三は美智子のことを「可憐な少女のつぶらなひとみ」と形容した。全学連葬で深尾須磨子が朗読した詩では、美智子は「正義のばら、抵抗のばら」に擬えられた。さらに国民葬で、かの宮崎(柳原)白蓮は美智子のことを日本の「ジャンヌ・ダルク」に擬え、日本女性同盟は美智子が「日本のキリストとなられた」とまで讃えたのである。こうして樺美智子は、「非情な国家に抵抗して、民衆の先頭に立ち、敢然と闘った少女、国の救世主というイメージに仕立てあげられ、限りなく無垢の光を放ちながら増幅」していくことになった。さすがにジャンヌ・ダルクやキリストは大げさだが、その後も「清潔な女学生というイメージは、確実に定着した。その印象ゆえに、安保後の六〇年代に盛んになる市民運動の担い手たちにも好意をもって受けとめられていくことになる。とくに、子を持つ母親たちが、彼女をわが子の姿と重ねあわせて共感を寄せ」ていった。そして美智子の両親も、こうした娘の「聖少女」化を受け入れ、むしろ積極的に促進していた。

他方、マスコミは当初、全学連の突入を非難し、やがて樺美智子に同情する大衆的心情に追随していった。当初、新聞界は「七社共同宣言」に見られるように、全学連に否定的だった。事件翌日の朝日新聞社説は、全学連の行動を「秩序あるデモ隊の行動ではない。モッブというか暴動」に近いとし、彼らは「今日は議会政治の時期ではなく、革命一歩前の情勢と考えて、行動している」ようだが、「きわめて危険な兆候である」と批判した(『朝日新聞』一九六〇年六月一六日)。そして、「暴力は、それが如何なる形であろうと、断固として阻止しなければならぬ。われわれは、全学連学生諸君の理性に訴えて、強くその反省を求める」と断じた。東京新聞も、全学連は世論の「警告を無視して、次第に無秩序な破壊的活動を行なうに至った。世情騒然となれば、これに対抗して右翼が出てくることも、ある程度考えられていた。それにもかかわらず、大衆行動は津波のように抗議デモのワクを越えて、一路破壊へ向かって突っ走った」と、全学連の行動を非難した。新聞紙面に掲載された有識者の発言でも、早稲田大学総長の大漬信泉は、事件は[学生たちが無目的とまで思える暴挙に出なければ、あるいは出るつもりになっていなければ、あり得なかった」とし、慶雁大学教授の池田潔は、「全学連の指導者や活動家たちは、大学のいうことも聞かない。また新聞やテレビ、ラジオの世論の批判にも耳を傾けようとしない。そして、彼らのみの正しいと信じていることを、国民に押しつけようとしている」と手厳しかった(『東京新聞』一九六〇年六月一六旦。

このような状況で、娘・美智子の尊厳を世間に認めさせるには、両親は「全学連活動家」としての美智子ではなく、「聖少女」としての美智子を強調せざるを得なかったのかもしれない。その後、全学連への国民的反発が弱まったわけではないが、「樺美智子」への同情は、新聞紙面でも確実に広がり、毎年六月一五日になると、彼女を追悼する記事が現れるようになっていった。そしてこれが、彼女の死を六〇年代の学生運動のなかでシンボル化もさせていったのである。
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教育の目的

 「スパルタ」教育は 奴隷の反乱を防ぐために生まれた。

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 サウジ主導軍、イエメン国防省を空爆 少なくとも民間人3人負傷

 イエメンではアブドラボ・マンスール・ハディ(Abd-Rabbo Mansur Hadi)政権とフーシ派の内戦が続き、2015年3月からサウジ主導の連合軍がハディ政権支援のため介入している。連合軍は以前にも国防省を標的にした爆撃を行い大きな被害をもたらしたが、今回の空爆は、サウジアラビアと、フーシ派の後ろ盾となっているイランが対立を強めている中で行われた。

「未唯への手紙」の検索

 未唯空間でアリーの本名を探してた 。アリー・バクルだった。アーリーで検索したのが147件あった すごいデータベース です。
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