goo

明日はらじらー!

明日はらじらー!

 よかった。野球の試合がなくなった。明日の放送はまともだ。先週は偉い目に遭った。気が気ではなかった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

数学は社会の問題を、どこまで解決できるか

『科学技術のフロントランナーがいま挑戦していること』より 数学は社会の問題を、どこまで解決できるか 世界で期待される数学の機能 ⇒ 数学の可能性はこんなモンではない。未唯空間第2章「数学編」

世界中で高まる数学への期待

 辻村:まず、米国の重力波望遠鏡LIGOです。時空のさざなみである重力波を初観測して大きなニュースになりました。本当に重力波があるのだろうかと疑問に感じるところですが、世界中の学者が間違いないと思った理由の一つは、データを解析するチームに数学者がいたことでした。数学者は物理のコミュニティでは非常に信頼されています。日本では、まだこういった分野で活躍されている方は、いないのではないかと思います。

 二つめは、ロンドンに建設中のフランシスークリック研究所。ヨーロッパ最大の医学生物学の研究所です。1500人のスタッフが雇われていますが、そのうち1200人は科学者です。さらに、その5分の1は数学と物理と科学など、医学とは異なる分野の人を雇っています。数学を生物や医学の分野で活用することが始まっています。

 三つめは、世界気候研究計画が「グランドチャレンジ」という問題を発表して、研究しようと呼びかけています。気候には難しい問題がありますが、それを5~10年かけて皆で解こうというものです。 たとえば、二酸化炭素の量が倍増したら地球の気温が何度上昇するかについては、1・5~4℃まで予測に幅があります。1℃違うと、その対策には数兆円の差が出るとされており、気温上昇は経済的にも大きな影響があります。

 そこで、グランドチャレンジによって研究を盛んにして、若い人を異なる分野から引っ張ってこようという試みです。「物理や数学を、実社会の問題解決に応用しよう」というモチベーションがある人を誘い込む狙いがあります。

 最後に紹介するのは、パリのバスティーユ広場近くにある視覚研究室の例です。キャンズヴァン国立眼科病院という大きな病院の敷地内にあり、ここに20人ほどの数学者のチームがあります。

 所長は眼科医ですが、もともと数学者になりたかったそうです。数学が役に立つことがわかっているので、数学者を集めたと言っていました。実際、人工網膜システムの開発において、数学者は画像処理などで活躍しているそうです。

 このように、今、世界では分野を超えた研究の動きが進んでいます。日本では数学を使ってどんなことが行われているのか、合原さんと伊藤さんにお話しいただきたいと思います。

宇宙人との会話も可能になる?

 伊藤:統計数理研究所では基幹的研究組織を「モデリング」「データ科学」「数理・推論」に分けています。公募型共同利用では新分野発掘のための萌芽的な研究を支援しています。

 最近の研究についてお話ししますと、公募型共同利用のIつとして2016年度から始めたものに、「学術文献データ分析の新たな統計科学的アプローチ」があります。 これは、研究機関・大学の研究成果分析の手法や研究活動の進展・効果を客観的に評価するための指標や、IRに関する方法論などについて、統計科学の見地から研究するものです。

 トムソン・ロイター(現クラリペイト。アナリティクス)の協力で実現しています。40年間分のデータベースを活用して、スーパーコンピューターやクラウドシステム等の大型計算資源を利用し、学術文献データを分析するものです。大学ベンチマークや戦略立案のための評価・分析に活用していきたいと思っています。

 パンデミック(感染症の世界的・全国的大流行)などの際に、ワクチンの配布戦略を評価する感染症シミュレータを開発しました。それによると、ワクチンは働き盛りの30代ぐらいのサラリーマンに、優先的に与えたほうがいいという結果が出ました。

 次に、辞書や文法を使わずに言語を解析する研究も行っています。少数民族の言語ど、辞書がなくて、文法がわからない言語があります。そのような自然言語のデータを大量に集めて、文字列データのみから、単語とその品詞を同時に推定する技術です。日本語や中国語など自然言語処理の基礎的技術として非常に重要で、人と会話ができる次世代ナビゲーションシステムなどへの応用が期待できます。

 このシステムを使えば、「宇宙人が現れても、しばらくやり取りしていれば会話ができるようになる」と開発者は言っています。

 また、東アジアおよび日本における気候変動の確率地図を初めて作成し、気候変動リスク評価も行っています。さらに、機械学習で薬剤分子を設計するという研究のほか、スパコンの共同利用も行っています。

高まる数学への期待

 辻村:このところ数理科学では、企業や他分野の人たちが自分たちの抱える課題の解決を目指して数学者と協働する「スタディーグループ」など新しい動きが目立つように思います。「数学は使える」という認識が社会に広がっていると感じるのですが、以前はそうでもなかったのでしょうか?

 合原:数理工学科の歴史をお話しすると、第二次世界大戦後、東京大学の航空学科が廃止されました。その後、航空学科にいらした数学の先生方が母体となって、数理工学科ができたのです。それまでは飛行機に数学を使っていたわけですが、もっと広い工学の分野に、現代数学を使っていこうということです。それが戦後間もなくのことですから、70年近い歴史があります。

 さらに、対象を工学にかぎる必要はないということで、南雲仁一先生が数学を使って神経細胞のモデルをつくりました。このあたりから生物も数学の対象になってきて、最近では経済などもその対象になってきています。

 数学は学問としての歴史はありますが、形としては見えません。世の中で数学が使われていても、その背後に数学があるということは、あまり認識されていなかったかもしれません。

 辻村:数学を見えるようにするためのアイデア、統計数理をアピールするアイデアはありますか。

 伊藤:難しいですね。私たちも、「数学協働プログラム」という文部科学省の委託事業(国プロ)や、その中で中学生や高校生を対象にしたイベントなども開催してきましたが、そうした草の根活動では、なかなか追い付きません。

 ただ、ビッグデータや情報通信技術などで状況も変わってきていますし、ビジネス雑誌で「確率と統計」が特集されたりと注目が集まっています。サイエンスは何かと最先端の話になりがちですが、実は数学は身の回りで使われているのだと知らせることも重要だと思います。

 合原:先ほど、二次関数の話をしましたが、たとえば女子高生に「二次関数からドレスができた」という話をすると、興味を示してくれます。教える側の人間が、数学の先にあるものをきちんと説明すると、数学の印象も変わっていくのではないかと思います。高校や大学も含めて数学教育を見直し、変えていく議論が必要だと思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『自動車の社会的費用』の背景

『経済と人間の旅』より

東京車社会--危険・自然破壊に衝撃、『自動車の社会的費用』を出版

一九七四年、私は『自動車の社会的費用』を書き、岩波書店から出版した。当時のベストセラーになった。この本を書いたのは、十数年間の外国暮らしの後日本に帰り、日本の都市と良然があまりにも無残に壊されているのを知って衝撃を受けたことがきっかけだった。

一番ショックだったのは、東京の赤坂見附の近辺だった。かつて赤坂見附から四谷、青山にかけては実にすばらしい場所だった。ゆったりと市電が通り、歩道は広く、桜を中心にした並木がたくさん植えられていた。府立一中(現日比谷高校)に近かったため、学校の帰り道によく歩いたものだった。当時の東京には、同じような街並みがほかにも数多くあった。

ところが、十数年ぶりで見た東京は、子どもたちが危険を覚悟しなければ歩けないような街に変わり、街路樹は見るも無残になっていた。市電はなくなって、代わりに自動車が中心となっていた。自動車は危険なだけでなく、騒音や排ガスをまき散らしながらわがもの顔で走り回る。ショック以外のなにものでもなかった。かつての美しい東京の街をこのように徹底的に壊しだのはだれだろうか。

自動車は社会的、経済的、あるいは文化的にどの程度の影響を及ぼしているのか。運輸省はその経済的費用を七〇年に自動車増加一台分につき限界的社会費用を七万円と計算した。ところがその後、自動車工業会はこれを再計測し一台当たり約七千円と修正した。また、野村総合研究所は別途、公害現象に伴う費用を考慮し、一台当たり十八万円という試算をした。このことから分かるよテに、立場の相違によって差があり、ある意味で恣意的な計算しかできないことを象徴的に表している。

また、自動車事故で失われる命は、逸失利益の算出法の一つであるホフマン方式で計算されているが、もともと人命を経済的尺度で測ることには無理があり、人命の損傷一つをとっても、本人の損失はもちろん家族、友人などの悲しみをどう評価するのかを考えると、実際には不可能に近い。

市民の基本的権利に照らし自動車の社会的費用を考えなければならない。では具体的にどうとらえるか。結論的に言えば、自動車が通行しても社会的費用を発生しない道路ならば市民の基本的権利が侵害されない。現在の欠陥の多い道路を改造して理想道路に変えるとき、どれくらい費用がかかるかを測り、それを一つの尺度にすることが考えられる。東京の場合、自動車の通行が認められている二万キロメートル(当時)の道路について、このような構造を持った道路に変えるために必要な建設費の年々の償却費は、最低限二百万円と計算できた。

アメリカやヨーロッパでは道路の果たす役割について、かなり前から転換が起きている。自動車はかつて効率的に人やモノを移動させる手段と考えられてきた。しかしハイウエー、駐車場などは非人間的なものと考えられるようになり、人間的なものにどうやって戻していくかが問題にされてきている。

例えば七〇年代初め、ロンドン市会の環境開発委員会は道路に沿った空き地に設けてある一時的駐車場八十ヵ所を全廃し、得られた五十エーカー(一エーカーは四十アール強)の土地を緑化し、駐車場の新規建設は原則認めない措置をとった。欧米では歩車道が分離されていない道路は原則として通行が認められていない。日本では現在に至るまで、歩車道分離の原則はほとんど守られていないだけでなく、自動車通行の便だけを考えて道路の新設、拡幅がいたるところで行われている。

例えば、医療を考えてみよう。市民が必要とする保健・医療サービスを需要に応じて無制限に供給することはできない。病院などの医療施設や医師をはじめとする専門家は〝希少資源〟なのである。医療施設・設備をどこにどのようにつくるか、専門家を何人養成し、どこにどのように配置するかは社会的基準に従って配分されなければならない。その基準を決めるのは官僚などではなく、医療にかかわる専門家が職業的規律や倫理に照らし合わせて決めなければならない。そのためには同僚の専門家の評価を受けながら、能力、力量、人格的な資質などが常にチェックされるような制度的条件が整備される必要がある。

このような条件が満たされて初めて、国民医療費が決まる。大事なのは医療を経済に合わせるのではなく、経済を医療に合わせるのが社会的共通資本としての医療を考えるときの基本的な視点なのである。

もっとも経済学者の多くはまだ受け入れてくれない。だから、若い人に勉強をするのをあまり勧められなかった。就職口がなくなるからだが、社会的共通資本が評価され、九七年に文化勲章をいただいたのは大いに勇気づけられた。改めて、昭和天皇にお目にかかったことは大きな転機であったと思う。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ルーズベルトのお気に入り、キンメル太平洋艦隊長官

『黒澤明が描こうとした山本五十六』より 「トラ・トラ・トラ!」の米海軍関係者

米海軍の独裁者ルーズベルト大統領

 一九三三年(昭和八年)三月から、一九四五年(昭和二〇年)四月に死去するまで、米国史上に例のない大統領に連続四期当選したのが、フランクリン・ルーズベルト。米海軍を「マイ・ネービー」と豪語する海軍の大独裁者であったルーズベルトを除いて、米海軍は語れない。

 フランクリン・ルーズベルトについて語るに先立ち、日露戦争時代の大統領セオドア・ルーズベルト等、この一族と米海軍の関係が深かったことを、まず指摘しておきたい。

 ルーズベルト家の始祖は、オランダ・ハーレム地方から一六四九年(徳川家光の時代)に新大陸のハドソン川河口にあるニューアムステルダム(現在のニューヨーク市)に移住したクラエス・M・ローゼンベルト。クラエスはマンハッタン島に四八エーカーの土地を購入して農業を始めた。米国で生れた二代目ニコラスは、ローゼンベルト(バラの野の意味あり)の苗字をアングロサクソン風のルーズベルトと改名した。

 ニコラスには二人の息子がいてルーズベルト家は二つに分れた。①ハドソン川上流に移り住んだハドソン川・ルーズベルト家と、②ニューョーク市に残ったニューヨーク・ルーズベルトル家である。①の始祖から数えて五代目がフランクリン・ルーズベルト、②の始祖から五代目がセオドア・ルーズベルトだ。①は代々民主党、②は代々共和党だった。両者の間を従兄弟と書く日本の本もあるが、間違い。英語では、男の血縁者を cousin と書くので、間違えたのだろう。日本語の従兄弟は英語では 1st cousin と言い、セオドアとフランクリンは 5th cousin であって遠縁だ。

 もっとも、フランクリンの妻エレノアは、セオドアの弟の長女で、二人の結婚式媒酌人は当時現役大統領だったセオドアである。両ルーズベルト家はオランダ人の勤勉な気風を受継ぎ、また貨殖の才に恵まれた者も出て、資産家に発展した。

 セオドアとフランクリンは、ハーバード大学、コロンビア法律学校、ニューヨーク州議員、ニューヨーク州知事、海軍次官、大統領と同じ経歴を歩んでいる。

 セオドアはハーバード大学時代、『一八一三年戦争(第二次英米戦争)の海戦』の名著を書いたくらいで、海軍好き。猟官運動で海軍次官となり、大統領になると、米海軍増強に邁進し、世界五位か六位だった米海軍を英国に次ぐ、世界第二の海軍国に育てた。アナポリスの海軍兵学校の定員を一挙に二倍に増やしたのもセオドアであった。太平洋戦争で米海軍を指揮した、ニミッツ、ハルゼー、スプルーアンスといった人々は、定員が二倍になった直後にアナポリスに入学している。現役海軍士官にも拘わらず、政治色濃厚な論文を次々発表して、海軍上層部から睨まれていた海軍戦略家として知られるマハン大佐の保護者を以て任じ、マハン大佐の執筆を応援したのがセオドアだった。

 フランクリンもグロートン高校時代、海軍力と国運の隆昌との関係を論じた、一八九〇年に出版されたばかりのマハン大佐著『海上権力史論』を読み、マハン信奉者となった。

 同じルーズベルト一族で、経歴も酷似しているが、性格は対照的である。

 セオドアは、男性的な熱血漢。単純明快で熱弁を振う。陽気でフランク。日本頚城で、ワシントンの日独の大使ともよく会った。骨肉の情の人だった。アルコール中毒になって、ルーズベルトの家に迷惑をかけ通しだった弟(その長女がフランクリンの妻エレノア)の面倒を最後まで見た。若きニューヨーク州議員時代、母と最初の妻を流行病で一晩に亡くした。傷心を癒やすため、西部に赴き三〇日間も単独で山野を狩猟したり、牧場を経営したりした。牧場経営時代には保安官補になって、お尋ね者を追ったこともある。

 大統領辞任後はアフリカでライオン狩りをやった。米国少年の夢は、カウボーイ、保安官、大統領、ライオン狩りだ。セオドア・ルーズベルトは少年達の夢を全部叶えたことになる。日露戦争和平斡旋でノーベル平和賞を受賞した。山本五十六は日露戦争の日本海海戦に出陣して負傷したことも付け加えたい。

 フランクリンは、複雑な性格。漁色家でもあった。名門出身、有名大学卒、複雑な性格で、「貴人に情なし」のところがあった。自分の本音を語ることは少なく、仕える者はその内心を知るのに苦労した。複雑な性格で漁色家だった同時代の近衛文麿公爵と共通している点が多い。両者とも名門の出で、名門大学を卒業している。ただ近衛は、政治家として弱志薄行の人で、難事にぶつかると投げ出す、華冑界の人に在りがちの欠点を持っていた。残念ながら、政治家としてはルーズベルトと較べようがない。

 一八八二年に生れたフランクリンは、一人っ子で、祖父母といっていいくらいの年齢の両親から溺愛され、多くの召使からかしずかれて少年時代を過ごした。父には先妻との間にフランクリンよりも一七歳年上の息子(フランクリンの異母兄)がいたが、家を離れていた。自宅のあるハイドパーク村では、村民の大部分がルーズベルト家の小作人で、村の子供達と遊ぶのは禁じられた。父親は鉄道会社の副社長。家族そろってニューヨーク市に出る際には特別列車を仕立てた。毎年、一家は春秋にハイドパーク村で過し、夏は贅沢な欧州旅行。冬はニューヨーク市内のマンションで暮らす生活であった。父がドイツ嫌いなこともあって、ドイツ嫌いとなった。

 支那貿易で巨万の富を築いたデラノ家出身の母は、自身も少女時代に支那大陸で住んだこともあり支那贔屓で、母からの影響をルーズベルトも受けていた。大統領になってからも、ワシントン駐在日独大使に会うことは稀だった。白人と較べて日本人は進化の遅れた、能力の甚だしく劣った人種との激しい人種偏見を持っており、戦時中ハイドパークの自宅で英国公使に語ったルーズベルトの日本人への偏見内容は、公使から英外相に報告されている。

 育ちによる影響からか、人から意見されたり、諌言されるのを何より嫌った。言わないでも、自分の考えを忖度して、これの実現を図るよう行動する者を好んだ。大統領になって後、海軍内で誰もが知るルーズベルト閥(ルーズベルト・サークル)が出来上り、この閥のメンバーでなければ海軍で栄達出来ない、と言われるようになった。閥の代表的人物は、戦時中に大統領の軍事参謀長だったリーヒ統合参謀長会議議長や、海軍作戦部長になるスターク、四六人もの先任者を飛ばして太平洋艦隊長官にルーズベルトから直々に指名されたキンメルである。いずれも、ルーズベルトが次官時代の海軍長官補佐官(リーヒ)や、次官を駆逐艦に乗せて、操舵を委ねて気に入られた艦長(スターク)や、副官だった者(キンメル)だ。

 ルーズベルトは一九一二年から一九二〇年までの八年間(三一歳から三九歳まで)、ウイルソン内閣の海軍次官だった。この間、第一次大戦があった。海軍長官のジョセフス・ダニエルズは、細かい事務処理を嫌って、次官に委ねる態度を取った。長官が出張などで不在時には海軍長官心得として、海軍省内を取り仕切った。第一次大戦期間も含めて、この八年間の海軍ナンバー2としての経験が、ルーズベルトをして米海軍関係には誰よりも通じている、との自信を持たせた。一九三三年に大統領になって以降、米国政治史上、例外的な大統領四選を果たす。大統領になってからも、「海軍士官定年名簿」を常時座右に置いて感想や噂を書き込んでおり、海軍を「我々」と言い、陸軍を「彼等」と呼んだ。米海軍を「マイ・ネービー」と豪語し、海軍主要人事は自分が知っている者で固めた。ルーズベルト閥(ルーズベルト・サークル)である。

ルーズベルトのお気に入り、キンメル太平洋艦隊長官

 ハズバンド・E・キンメルは大尉時代、ルーズベルト次官の副官を務め、気に入られ、ルーズベルト閥の一員となった。一九四〇年五月、米海軍は海軍大演習を太平洋で行った。もちろん、対日戦を睨んでのこと。太平洋艦隊は南カルフォルニアのサンジェゴを母港としていたが、この演習後、ルーズベルトは艦隊を真珠湾にそのまま留めて、ここに常駐するよう命じた。真珠湾は、艦隊の修理施設・補給施設が貧弱で、しかも日本軍からの攻撃が米西海岸のサンジェゴと較べて受けやすい。ジョン・O・リチャードソン太平洋艦隊長官はワシントン出張時、ルーズベルトに疑問を直言した。海軍戦略家として知られるマハン大佐の信奉者だったルーズベルトは、外交の手段として海軍を使用する考えが強い。それは、日露戦争時に大統領だった遠縁のセオドア・ルーズベルトと同じだった。緊張関係が強まる日米関係に対して日本を牽制するため、太平洋艦隊をハワイに進出させたのは明らかである。

 リチャードソンの直言に怒ったルーズベルトは、直ちにリチャードソンを更迭。更迭されて憤態やるかたない硬骨漢のリチャードソンにノックス海軍長官は言った。「リチャードソン。君が去年の一〇月、ワシントンに来た時、君は君の言葉で大統領の感情を損ねたのだよ。このことをよく知るべきだ」。

 日露戦争後、日本人移民問題で日米関係が緊張した時、遠縁のセオドア・ルーズベルト大統領は、米主力艦一六隻を全部集めた白色艦隊を編成し、親善航海の名目で日本に派遣した。日本への恫喝、示威運動であることは、伊藤博文をはじめとする日本指導者には見え見えであった。フランクリン・ルーズベルトも同じことを狙ったのだ。

 富豪の実質的一人息子として溺愛され、多くの召仕えに仕えられて育ったルーズベルトの経歴で、人に仕えたのは、海軍次官時代にダニエルズ長官に仕えただけである。それ以外はニューヨーク州議員、ニューヨーク州知事、大統領で、人に仕える立場ではない。そのせいか、諌言する者はもちろん、直言する者も嫌った。言わなくとも、自分の考えを忖度して、自分の考えを実現してくれる者を好んだ。ルーズベルト閥の連中は皆そうだった。真珠湾が攻撃された時、海軍制服組のトップだったスタークも同じだ。ルーズベルト次官を次官の別荘のある島まで送るよう命じられた時、駆逐艦艦長だったスターク少佐は、巧みな駆逐艦の運航を行い、次官を喜ばせた。後述するように、一説では操舵を次官にやらせて気に入られたとも言う。この時以降、ルーズベルトはスタークを目にかけるようになった。

 海軍作戦部長にルーズベルト大統領から任命されて驚いたのは海軍部内者だけでなく、スターク自身だった。スクークは、よもや自分が海軍作戦部長になるとは、考えたことがなかった。ルーズベルトの鶴の一声であった。

 リチャードソン更迭後、その後任にルーズベルトは、旧知のキンメルを先任者四六人を飛び越えて直々指名した。山本は、キンメルが任命された経緯を知らなかったのであろう。先任者を四六人も飛び越えての任命は、キンメルがよほどの有能な提督だと考えていた節がある。大尉時代、かつてのルーズベルト海軍次官に副官として仕えたというコネが、キンメルの運命を変え、結果として悲劇の主人公たらしめた。

 日本海軍では人事は海軍大臣の専権事項だが、米国では三軍最高指揮官の大統領が思うままに高級人事を独裁する。

 キンメルはケンタッキー州のヘンダーソンで一八八二年に生れた。父はウエストポイント(陸軍士官学校出身者)の陸軍少佐だった。アナポリス(海軍兵学校)は一九〇四年クラスで同期にハルゼーがいた。卒業席次は六二人中一二位。同じ一九〇四年には、山本五十六が江田島(海軍兵学校)を卒業している。アナポリスでは一期下にニミッツがいた。戦艦勤務が経歴の最初で上述の白色艦隊の日本遠洋航海にも加わった。海軍省の砲術演習課、太平洋艦隊の砲術参謀を経てフランクリン・ルーズベルト海軍次官の副官を二年間務めた。これが機縁でルーズベルト閥の一員になったことがキンメルの運命を決めることになった。

 第一次大戦に米国が参戦すると英国に派遣される。その後、戦艦艦長や戦艦艦隊参謀長となり、一九三七年海軍少将に昇進して巡洋艦艦隊司令官となり、リチャードソン太平洋艦隊長官がルーズベルトの逆鱗に触れ更迭された際、四六人の先任者を飛ばして、一九四一年二月一目太平洋艦隊長官になった。中将の経歴なくて少将から大将への進級であった。

 戦艦乗りで、航空や潜水艦の経歴はなく、戦略家としての見識を示したこともないのがキンメルだ。敢えて言えば、平凡な経歴を歩んできた提督である。戦略観、見識、人望、で太平洋艦隊司令官に任命されたのではない。もちろん、全くの凡庸な人物ではなかったであろうが、ルーズベルトとのコネで任命されたのだ。

 前述のリチャードソンが航海局長(人事担当)時代、次期太平洋艦隊司令官として、各艦隊の司令官が一致して推していたのは、戦略観や見識、人望で断然抜きん出ていた卜ーマス・C・ハート提督(日米開戦時のアジア艦隊司令官)だった。リチャードソン航海局長は、海軍内の意向集積である人事案を持ってホワィトハウスに出向いた。人事案を一瞥するや、ルーズベルトは、怒気を含んで「この名前を消せ!」と命じた。これは、リチャードソンの回顧録にある。

 ハートが少佐で魚雷工場長時代、労働組合員票が欲しい当時のルーズベルト海軍次官は、労働組合に甘い対応を取った。工場長としての責任があるハートは、次官のやり方に疑問を持った。これを聞いた猜疑心の強いルーズベルトは、その後も執念深く忘れず、リチャードソンの人事案を見た時に爆発したのだ。ハートは日記に「ルーズベルトは(大統領として)私の上官だが、人間として信頼出来ない。(ルーズベルト・サークルによる海軍人事専横は、寵臣をたがいに競い合わせて)まるで宮廷政治だ」と書いた。

 ハート以外にもルーズベルトの機嫌を損じて栄達の道から外れた提督は何人もいた。

 海軍の大独裁者で強引な人事をやったから、海軍内で毀誉褒既が相半ばしたのは当然とも言えよう。真珠湾奇襲十日後キンメルは、その責任を問われ更迭された。後任には臨時的にW・S・パィ中将が任命され、一九四一年一二月三一日に海軍省航海局長(海軍人事職掌)だったチェスクー・W・ニミッツがルーズベルト大統領の命で太平洋艦隊長官となった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )